柳田国男 こども風土記

2018/02/15

こども風土記
柳田国男
 
 

 小序
 
 子どもとそのお母さんたちとに、ともどもに読めるものをという、朝日の企てに動かされたのであったが、私にはもうそういう註文ちゅうもんに合うような文章を書くことができなくなっているらしい。「こども風土記」が新聞に連載せられている間、面白く読んでいるよと言って励ましてくれた人は多かったが、それはたいていは年をとった仲間だけであった。近所のまたは親しい少年少女の中には、気をつけていたけれども、読んでいる者ははなはだ少なかった。
 うれしかったのは友人の一人が、うちではいつのまにか朝日が切り抜いてある。子どもが読んでから帳面にるそうだと、告げてくれたことである。九州の或る町からは、お清書せいしょのような字を葉書に書いて、鹿しかつのの遊びを知らせて来た少女がある。母が柳田さんにお知らせするとよいと言いましたからとあるのを見て、これだけは少なくとも予定の読者であったことがわかった。小学生の通信は、この以外には二つ三つしか受取っていないが、それでも東京・大阪の都会へ出て働いている人で、ほんの四、五年前の子どもかと思われる人たちから、あどけない感激の手紙は幾つか来ている。始めて親に離れ故郷に別れて、人中ひとなかの生活をする者の胸のうちには、或いはもう一度「子ども」の感じがよみがえって来るのではあるまいか。もしそうだとすると、いて現在の子どもと母ばかりを追うてあるくにも及ぶまいかと思う。一つの新しい経験は、横浜近くに住む或る一人の女性から、こういう意味のことを私へ言って来られた。自分は亡夫が外国にいた留守るすの間、二児を連れて伊予いよ松山まつやまに住んでいたが、鹿々何本の遊びは毎日のように子どもが窓の外へ来て遊んだのでよく知っている。ただそれがどういう所作しょさを伴うかは出ても見なかったので言うことができない。当時最も熱心にこの遊戯に参与した二人の子どもに問えばすぐにわかるのだが、一人は中支にあり、一人は九州の或る職場に働いているので、今は尋ねてみる方法もないという。すなわちここにもまた二十年前の子どもとお母様とが、再びその感慨を新たにしているのである。母といた日の悦楽は、老いたる私にさえも蘇ってくる。つまりはこの文章は人のために書いたのではなかった。
「こども風土記」が本の形になって世にのこるといて、改めてまた私は考えて見た。現在の少年少女が老い尽し、彼らの孫曾孫ひまご嬉々ききとしてひざの前に遊びたわむるるを見る時代には、この一巻の文章は果してどうなっているであろうか。人間に永遠の児童があり、不朽ふきゅうの母性があることを認めつつも、それを未出の同胞国民とともに、かたりかわすべき用意は整っていると言えるであろうか。わずか百年を隔てた祖先の文章は、もう註釈ちゅうしゃくがなくては我々には読めない。今日の文章はさらに一段と時代の制約を受けている。是がいわゆる現代語訳のお世話になり、味もにおいもすり切れてしまってから、ただ義理だけに敬われるようなことのないように、時の古今にわたった国語の統一ということが、もう考えられてもよかったのではないか。無始むしの昔から無限の末の世まで、続いて絶えない母と子との問題であるが故に、ことにその感を深くするものである。読者をただ眼前の人のみに求めた私たちの態度にも懺悔ざんげすべきものが至って多い。もう間に合わぬかも知れぬけれども、是を機縁として改めて文章の書きかたを学びたいと思う。
昭和十六年十二月十四日
伊豆古奈の温泉において
著者しるす

 
         
〔つづく〕
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