破戒(11〜最終章) 島崎藤村

2015/11/26

 
   第拾九章
 
       (一)
 
 この大雪をいて、市村弁護士と蓮太郎の二人が飯山へ乗込んで来る、といふうはさは学校に居る丑松の耳にまで入つた。高柳一味の党派は、の風説に驚かされて、今更のやうに防禦ばうぎよを始めたとやら。有権者の訪問、推薦状の配付、さては秘密の勧誘なぞがしきりに行はれる。壮士の一群ひとむれは高柳派の運動を助ける為に、既に町へ入込んだともいふ。選挙の上の争闘あらそひは次第に近いて来たのである。
 其日は宿直の当番として、丑松銀之助の二人が学校に居残ることに成つた。もつとも銀之助はよんどころない用事が有ると言つて出て行つて、日暮になつても未だ帰つて来なかつたので、日誌と鍵とは丑松が預つて置いた。丑松は絶えず不安の状態ありさま――暇さへあれば宿直室の畳の上に倒れて、独りで考へたりもだえたりしたのである。冬の一日ひとひは斯ういふ苦しい心づかひのうちに過ぎた。入相いりあひを告げる蓮華寺の鐘の音が宿直室の玻璃窓ガラスまどに響いて聞える頃は、ことに烈しい胸騒ぎを覚えて、何となくお志保の身の上も案じられる。もし奥様の決心がお志保の方に解りでもしたら――あるひは、最早もう解つて居るのかも知れない――左様なると、娘の身として其を黙つて視て居ることが出来ようか。と言つて、奈何どうして彼の継母のところなぞへ帰つて行かれよう。
『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。』
 と不図ふと斯ういふことを想ひ着いた時は、言ふに言はれぬ哀傷かなしみが身をおそふやうに感ぜられた。
 待つても、待つても、銀之助は帰つて来なかつた。長い間丑松は机に倚凭よりかゝつて、洋燈ランプもとにお志保のことを思浮べて居た。斯うして種々さま/″\の想像にふけり乍ら、悄然しよんぼりと五分心の火を熟視みつめて居るうちに、何時の間にか疲労つかれが出た。丑松は机に倚凭つたまゝ、思はず知らずそこへしまつたのである。
 其時、お志保が入つて来た。
 
       (二)
 
 こゝは学校では無いか。奈何どうして斯様こんなところへお志保が尋ねて来たらう。と丑松は不思議に考へないでもなかつた。しかし其疑惑うたがひは直にけた。お志保は何か言ひたいことが有つて、わざ/\自分のところへ逢ひに来たのだ、と斯う気が着いた。あの夢見るやうな、柔嫩やはらかな眼――其を眺めると、お志保が言はうと思ふことはあり/\と読まれる。何故、父や弟にばかり親切にして、自分には左様さう疎々よそ/\しいのであらう。何故、同じ屋根の下に住む程の心やすだては有乍ら、優しい言葉の一つも懸けて呉れないのであらう。何故、其口唇くちびるは言ひたいことも言はないで、堅くふさがつて、恐怖おそれ苦痛くるしみとで慄へて居るのであらう。
 斯ういふ楽しい問は、とは言へ、長くつゞかなかつた。何時の間にか文平が入つて来て、用事ありげにお志保をうながした。しまひにははづかしがるお志保の手をつて、無理やりに引立てゝ行かうとする。
『勝野君、まあ待ち給へ。左様さう君のやうに無理なことをなくツても好からう。』
 と言つて、丑松は制止おしとゞめるやうにした。其時、文平も丑松の方を振返つて見た。二人の目は電光いなづまのやうに出逢であつた。
『お志保さん、貴方あなた好事いゝことを教へてあげる。』
 と文平は女の耳の側へ口を寄せて、丑松が隠蔽かくして居る其恐しい秘密を私語さゝやいて聞かせるやうな態度を示した。
『あツ、其様そんなことを聞かせて奈何どうする。』
 と丑松は周章あわてゝ取縋とりすがらうとして――不図ふと、眼が覚めたのである。
 夢であつた。斯う我に帰ると同時に、苦痛くるしみは身を離れた。しかし夢のなかの印象は尚残つて、覚めた後までも恐怖おそれの心が退かない。室内を眺め廻すと、お志保も居なければ、文平も居なかつた。丁度そこへ風呂敷包をかゝへ乍ら、戸を開けて入つて来たのは銀之助であつた。
『や、どうも大変遅くなつた。瀬川君、まだ君は起きて居たのかい――まあ、今夜は寝て話さう。』
 斯う声を掛ける。やがて銀之助はがた/\靴の音をさせながら、洋服の上衣を脱いで折釘へ懸けるやら、カラを取つて机の上に置くやら、または無造作にズボン釣を外すやらして、『あゝ、其内に御別れだ。』と投げるやうに言つた。八畳ばかり畳の敷いてあるは、克く二人の友達が枕を並べて、当番の夜を語り明したところ。今は銀之助も名残惜なごりをしいやうな気に成つて、着た儘の襯衣シャツとズボン下とを寝衣ねまきがはりに、宿直の蒲団の中へ笑ひ乍ら潜り込んだ。
うして君と是部屋に寝るのも、最早もう今夜りだ。』と銀之助は思出したやうに嘆息した。『僕に取つてはこれが最終の宿直だ。』
左様さうかなあ、最早御別れかなあ。』と丑松も枕に就き乍ら言つた。
『何となくう今夜は師範校の寄宿舎にでも居るやうな気がする。妙に僕は昔を懐出おもひだした――ホラ、君と一緒に勉強した彼の時代のことなぞを。あゝ、昔の友達は皆な奈何して居るかなあ。』と言つて、銀之助はすこし気を変へて、『其は左様と、瀬川君、此頃こなひだから僕は君に聞いて見たいと思ふことが有るんだが――』
『僕に?』
『まあ、君のやうに左様黙つて居るといふのも損な性分だ。どうも君の様子を見るのに、何か非常に苦しい事が有つて、独りで考へて独りで煩悶はんもんして居る、としか思はれない。そりやあもう君が言はなくたつて知れるよ。実際、僕は君の為に心配して居るんだからね。だからさ、其様そんなに苦しいことが有るものなら、少許すこし打開けて話したらば奈何どうだい。随分、友達として、力に成るといふことも有らうぢやないか。』
 
       (三)
 
何故なぜ、君は左様さうだらう。』と銀之助は同情おもひやりの深い言葉を続けた。『僕がういふ科学書生で、平素しよつちゆう其方そつちの研究にばかり頭を突込んでるものだから、あるひは僕見たやうなものに話したつて解らない、と君は思ふだらう。しかし、君、僕だつて左様冷い人間ぢや無いよ。ひと手疵てきずを負つて苦んで居るのを、はたで観て嘲笑わらつてるやうな、其様そんな残酷な人間ぢや無いよ。』
『君はまた妙なことを言ふぢやないか、誰も君のことを残酷だと言つたものは無いのに。』と丑松は臥俯うつぶしになつて答へる。
『そんなら僕にだつて話して聞かせて呉れ給へな。』
『話せとは?』
『何も左様君のやうにつゝんで居る必要は有るまいと思ふんだ。言はないから、其で君は余計に苦しいんだ。まあ、僕も、一時は研究々々で、あまり解剖的にばかり物事を見過ぎて居たが、此頃に成つて大に悟つたことが有る。それからずつと君の心情こゝろもちも解るやうに成つた。何故君があの蓮華寺へ引越したか、何故なぜ君が其様に独りで苦んで居るか――僕はもう何もかも察して居る。』
 丑松は答へなかつた。銀之助はなほ言葉をいで、
『校長先生なぞに言はせると、斯ういふことは三文の価値ねうちも無いね。何ぞと言ふと、直に今の青年の病気だ。しかし、君、考へて見給へ。彼先生だつて一度は若い時も有つたらうぢやないか。自分等は鼻唄で通り越して置き乍ら、吾儕われ/\にばかりかみしもを着て歩けなんて――はゝゝゝゝ、まあ君、左様さうぢや無いか。だから僕は言つてつたよ。今日あの先生と郡視学とで僕を呼付けて、「何故なぜ瀬川君は彼様あゝ考へ込んで居るんだらう」と斯う聞くから、「其は貴方等あなたがたも覚えが有るでせう、誰だつて若い時は同じことです」と言つて遣つたよ。』
『フウ、左様かねえ、郡視学が其様なことを聞いたかねえ。』
『見給へ、君があまり沈んでるもんだから、つまらないことを言はれるんだ――だから君は誤解されるんだ。』
『誤解されるとは?』
『まあ、君のことを新平民だらうなんて――実に途方も無いことを言ふ人も有れば有るものだ。』
『はゝゝゝゝ。しかし、君、僕が新平民だとしたところで、一向差支は無いぢやないか。』
 長いこと室の内には声が無かつた。細目に点けて置いた洋燈ランプの光は天井へ射して、円く朦朧もうろうと映つて居る。銀之助は其を熟視みつめ乍ら、種々いろ/\空想を描いて居たが、あまり丑松が黙つて了つて身動きも為ないので、しまひには友達は最早もう眠つたのかとも考へた。
『瀬川君、最早たのかい。』と声を掛けて見る。
『いゝや――だ起きてる。』
 丑松は息を殺して寝床の上にふるへて居たのである。
『妙に今夜は眠られない。』と銀之助は両手を懸蒲団の上に載せて、『まあ、君、もうすこし話さうぢやないか。僕は青年時代の悲哀かなしみといふことを考へると、毎時いつも君の為に泣きたく成る。愛と名――あゝ、有為な青年を活すのも其だし、殺すのも其だ。実際、僕は君の心情を察して居る。君の性分としては左様さうあるべきだとも思つて居る。君の慕つて居る人に就いても、蔭乍かげながら僕は同情を寄せて居る。其だから今夜は斯様こんなことを言出しもしたんだが、まあ、僕に言はせると、あまり君は物をむづしく考へ過ぎて居るやうに思はれるね。其処だよ、僕が君に忠告したいと思ふことは。だつて君、左様ぢや無いか。何も其様に独りで苦んでばかり居なくたつても好からう。友達といふものが有つて見れば、そこはそれ相談の仕様によつて、随分道も開けるといふものさ――「土屋、う為たら奈何どうだらう」とか何とか、君の方から切出して呉れると、及ばず乍ら僕だつて自分の力に出来る丈のことは尽すよ。』
『あゝ、左様さう言つて呉れるのは君ばかりだ。君の志は実に難有ありがたい。』と丑松は深い溜息を吐いた。『まあ、打開けて言へば、君の察して呉れるやうなことが有つた。確かに有つた。しかし――』
『ふむ。』
『君はまだく事情を知らないから、其で左様言つて呉れるんだらうと思ふんだ。実はねえ――其人は最早死んでしまつたんだよ。』
 た二人は無言に帰つた。やゝしばらくして、銀之助は声を懸けて見たが、其時はもう返事が無いのであつた。
 
       (四)
 
 銀之助の送別会は翌日あくるひの午前から午後の二時頃迄へ掛けて開らかれた。昼を中へ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んだは、弁当がはりにすしの折詰を出したからで。教員生徒はかはる/″\立つて別離わかれの言葉を述べた。余興も幾組かあつた。多くの無邪気な男女をとこをんなの少年は、互ひに悲んだり笑つたりして、稚心をさなごゝろにも斯の日を忘れまいとするのであつた。
 ういふ中にも、独り丑松ばかりは気が気で無い。何を見たか、何を聞いたか、ほとんど其が記憶にも留らなかつた。唯頭脳あたまの中に残るものは、教員や生徒の騒しい笑声、余興のある度に起る拍手の音、または斯の混雑の中にも時々意味有げな様子して盗むやうに自分の方を見る人々の眼付――まあ、絶えず誰かに附狙つけねらはれて居るやうな気がして、其方の心配と屈託と恐怖おそれとで、見たり聞いたりすることには何の興味も好奇心も起らないのであつた。どうかすると丑松は自分の身体ですら自分のものゝやうには思はないで、何もかも忘れて、心一つに父の戒を憶出して見ることもあつた。『見給へ、土屋君は必定きつと出世するから。』斯う私語さゝやき合ふ教員同志の声が耳に入るにつけても、丑松は自分の暗い未来に思比べて、すくなくも穢多なぞには生れて来なかつた友達の身の上を羨んだ。
 送別会がむ、直に丑松は学校を出て、急いで蓮華寺を指して帰つて行つた。蔵裏くりの入口の庭のところに立つて、奥座敷の方を眺めると、白衣を着けた一人の尼が出たり入つたりして居る。一昨日の晩頼まれて書いた手紙のことを考へると、彼が奥様の妹といふ人であらうか、とう推測が付く。其時下女の袈裟治が台処の方から駈寄つて、丑松に一枚の名刺を渡した。見れば猪子蓮太郎としてある。袈裟治は言葉を添へて、今朝の客が尋ねて来たこと、宿は上町の扇屋にとつたとのこと、宜敷よろしくと言置いて出て行つたことなぞを話して、まだ外にでつぷり肥つた洋服姿の人も表に立つて居たと話した。『むゝ、必定きつと市村さんだ。』と丑松は独語ひとりごちた。話の様子では確かに其らしいのである。
『直に、これから尋ねて行つて見ようかしら。』とは続いて起つて来た思想かんがへであつた。人目をはゞかるといふことさへなくば、無論尋ねて行きたかつたのである。鳥のやうに飛んで行きたかつたのである。『まあ、待て。』と丑松は自分で自分を制止おしとゞめた。彼の先輩と自分との間には何か深い特別の関係でも有るやうに見られたら、奈何しよう。書いたものを愛読してさへ、既に怪しいと思はれて居るではないか。まして、うつかり尋ねて行つたりなんかして――もしや――あゝ、待て、待て、日の暮れる迄待て。暗くなつてから、人知れず宿屋へ逢ひに行かう。斯う用心深く考へた。
『それは左様と、お志保さんは奈何どうしたらう。』と其人の身の上を気遣きづかひ乍ら、丑松は二階へ上つて行つた。始めて是寺へ引越して来た当時のことは、不図ふと、胸に浮ぶ。見れば何もかも変らずにある。古びた火鉢も、粗末な懸物も、机も、本箱も。其に比べると人の境涯きやうがいの頼み難いことは。丑松はあの鷹匠たかしやう町の下宿から放逐された不幸な大日向を思出した。丁度斯の蓮華寺から帰つて行つた時は、提灯ちやうちんの光に宵闇の道を照し乍ら、一挺の籠がかつがれて出るところであつたことを思出した。附添の大男を思出した。門口で『御機嫌よう』と言つた主婦を思出した。のゝしつたり騒いだりした下宿の人々を思出した。しまひにはあの『ざまあ見やがれ』の一言を思出すと、慄然ぞつとするつめた震動みぶるひ頸窩ぼんのくぼから背骨の髄へかけて流れ下るやうに感ぜられる。今は他事ひとごととも思はれない。あゝ、丁度それは自分の運命だ。何故、新平民ばかり其様そんないやしめられたりはづかしめられたりするのであらう。何故、新平民ばかり普通の人間の仲間入が出来ないのであらう。何故、新平民ばかり斯の社会に生きながらへる権利が無いのであらう――人生は無慈悲な、残酷なものだ。
 斯う考へて、部屋の内を歩いて居ると、唐紙の開く音がした。其時奥様が入つて来た。
 
       (五)
 
 いかにも落胆がつかりしたやうな様子し乍ら、奥様は丑松の前にすわつた。『斯様こんなことになりやしないか、と思つて私も心配して居たんです。』と前置をして、さて奥様は昨宵ゆうべの出来事を丑松に話した。聞いて見ると、お志保は郵便を出すと言つて、日暮頃に門を出たつきり、もう帰つて来ないとのこと。箪笥たんすの上に載せて置いて行つた手紙は奥様へ宛てたもので――それは真心籠めて話をするやうに書いてあつた、ところ/″\涙ににじんで読めない文字すらもあつたとのこと。其中には、自分一人の為に種々さま/″\な迷惑を掛けるやうでは、義理ある両親に申訳が無い。聞けば奥様は離縁の決心とやら、何卒どうか其丈それだけは思ひとまつて呉れるやうに。十三の年から今日迄こんにちまで受けた恩愛は一生忘れまい。何時までも自分は奥様の傍に居て親と呼び子と呼ばれたい心は山々。何事も因縁いんねんづくと思ひあきらめて呉れ、許して呉れ――『母上様へ、志保より』と書いてあつた、とのこと。
『尤も――』と奥様は襦袢じゆばんの袖口で※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたを押拭ひ乍ら言つた。『若いものゝことですから、奈何どんな不量見を起すまいものでもない、と思ひましてね、昨夜一晩中私は眠りませんでしたよ。今朝早く人を見させにりました。まあ、父親おとつさんの方へ帰つて居るらしい、と言ひますから――』う言つて、気を変へて、『長野の妹も直に出掛けて来て呉れましたよ。来て見ると、斯光景ありさまでせう。どんなに妹も吃驚びつくりしましたか知れません。』奥様はもう啜上すゝりあげて、不幸な娘の身の上を憐むのであつた。
 可愛さうに、住慣すみなれたところを捨て、義理ある人々を捨て、雪を踏んで逃げて行く時の其心地こゝろもち奈何どんなであつたらう。丑松は奥様の談話はなしを聞いて、斯の寺を脱けて出ようと決心する迄のお志保の苦痛くるしみ悲哀かなしみを思ひやつた。
『あゝ――和尚さんだつても眼が覚めましたらうよ、今度といふ今度こそは。』と昔気質むかしかたぎな奥様は独語のやうに言つた。
『なむあみだぶ。』と口の中で繰返し乍ら奥様が出て行つた後、やゝしばらく丑松は古壁に倚凭よりかゝつて居た。哀憐あはれみ同情おもひやりとは眼に見ない事実ことがらを深い『生』の絵のやうに活して見せる。幾度か丑松はお志保の有様を――の寺の方を見かへり/\急いで行く其有様を胸に描いて見た。あの釣と昼寝と酒より外には働く気のない老朽な父親、泣く喧嘩けんくわする多くの子供、就中わけても継母――まあ、あの家へ帰つて行つたとしたところで、果してこれから将来さき奈何どうなるだらう。『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。』と不図昨夕と同じやうなことを思ひついた時は、言ふに言はれぬ悲しい心地こゝろもちになつた。
 急に丑松は壁を離れた。帽子を冠り、楼梯はしごだんを下り、蔵裏の廊下を通り抜けて、何か用事ありげに蓮華寺の門を出た。
 
       (六)
 
『自分は一体何処へ行く積りなんだらう。』と丑松は二三町も歩いて来たかと思はれる頃、自分で自分に尋ねて見た。絶望と恐怖とに手を引かれて、目的めあても無しに雪道を彷徨さまよつて行つた時は、半ば夢の心地であつた。往来には町の人々が群り集つて、春迄も消えずにある大雪の仕末で多忙いそがしさう。板葺いたぶきの屋根の上に降積つたのが掻下かきおろされる度に、それがまた恐しい音して、往来の方へ崩れ落ちる。幾度か丑松は其音の為に驚かされた。そればかりでは無い、四五人集つて何か話して居るのを見ると、直に其を自分のことに取つて、疑はず怪まずには居られなかつたのである。
 とある町の角のところ、塩物売る店の横手にあたつて、貼付はりつけてある広告が目についた。大幅な洋紙に墨黒々と書いて、赤い『インキ』で二重に丸なぞが付けてある。其下に立つて物見高く眺めて居る人々もあつた。思はず丑松も立留つた。見ると、市村弁護士の政見を発表する会で、蓮太郎の名前も演題も一緒に書並べてあつた。会場は上町の法福寺、其日午後六時から開会するとある。
 して見ると、丁度演説会は家々の夕飯が済む頃から始まるのだ。
 丑松は其広告を読んだばかりで、軈てまた前と同じ方角を指して歩いて行つた。疑心暗鬼とやら。今は其をあかる日光ひかりの中に経験する。種々いろ/\な恐しい顔、嘲り笑ふ声――およそ人種の憎悪にくしみといふことを表したものは、右からも、左からも、丑松の身を囲繞とりまいた。意地の悪い烏は可厭いや軽蔑けいべつしたやうな声を出して、得たり賢しと頭の上をいて通る。あゝ、鳥ですら斯雪の上に倒れる人を待つのであらう。斯う考へると、浅猿あさましく悲しく成つて、すた/\肴町さかなまちの通りを急いだ。
 何時の間にか丑松は千曲川ちくまがはほとりへ出て来た。そこは『しもの渡し』と言つて、水に添ふ一帯の河原を下瞰みおろすやうな位置にある。渡しとは言ひ乍ら、船橋で、下高井の地方へと交通するところ。一筋暗い色に見える雪の中の道には旅人の群が往つたり来たりして居た。荷を積けたそりも曳かれて通る。遠くつゞく河原かはらは一面の白い大海を見るやうで、蘆荻ろてきも、楊柳も、すべて深く隠れてしまつた。高社、風原、中の沢、其他越後境へ連る多くの山々は言ふも更なり、対岸にある村落ともりこずゑとすら雪に埋没うづもれて、かすかに鶏の鳴きかはす声が聞える。千曲川は寂しく其間を流れるのであつた。
 斯ういふ光景ありさまは今丑松の眼前めのまへひらけた。平素ふだんは其程注意を引かないやうな物まで一々の印象が強くくはしく眼に映つて見えたり、あるときは又、物の輪郭かたちすら朦朧もうろうとして何もかも同じやうにぐら/\動いて見えたりする。『自分はこれから将来さき奈何どうしよう――何処へ行つて、何を為よう――一体自分は何の為に是世このよの中へ生れて来たんだらう。』思ひ乱れるばかりで、何の結末まとまりもつかなかつた。長いこと丑松は千曲川の水を眺め佇立たゝずんで居た。
 
       (七)
 
 一生のことを思ひわづらながら、丑松は船橋の方へ下りて行つた。誰か斯う背後うしろから追ひ迫つて来るやうな心地こゝろもちがして――無論其様そんなことの有るべき筈が無い、と承知して居乍ら――それで矢張安心が出来なかつた。幾度か丑松は背後を振返つて見た。時とすると、妙な眩暈心地めまひごゝちに成つて、ふら/\と雪の中へ倒れ懸りさうになる。『あゝ、馬鹿、馬鹿――もつと毅然しつかりしないか。』とは自分で自分を叱り※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)はげます言葉であつた。河原の砂の上を降り埋めた雪の小山を上つたり下りたりして、やがて船橋の畔へ出ると、白い両岸の光景ありさまが一層広濶ひろ/″\と見渡される。目に入るものは何もかも――そここゝに低く舞ふゑた烏の群、丁度川舟のよそほひに忙しさうな船頭、又は石油のいれものを提げて村を指して帰つて行く農夫の群、いづれ冬期の生活なりはひ苦痛くるしみを感ぜさせるやうな光景ありさまばかり。河の水は暗緑の色に濁つて、あざけりつぶやいて、おぼれて死ねと言はぬばかりの勢を示し乍ら、川上の方から矢のやうに早く流れて来た。
 深く考へれば考へるほど、丑松の心は暗くなるばかりで有つた。この社会から捨てられるといふことは、いかに言つても情ない。あゝ放逐――何といふ一生の恥辱はづかしさであらう。もしも左様なつたら、奈何どうしてこれから将来さき生計くらしが立つ。何を食つて、何を飲まう。自分はまだ青年だ。望もある、願ひもある、野心もある。あゝ、あゝ、捨てられたくない、非人あつかひにはされたくない、何時迄も世間の人と同じやうにして生きたい――斯う考へて、同族の受けた種々さま/″\の悲しい恥、世にある不道理な習慣、『番太』といふ乞食の階級よりも一層もつと劣等な人種のやうにいやしめられた今日迄こんにちまでの穢多の歴史を繰返した。丑松はまた見たり聞いたりした事実を数へて、あるひは追はれたりあるひは自分で隠れたりした人々、父や、叔父や、先輩や、それから彼の下高井の大尽の心地こゝろもちを身に引比べ、しまひには娼婦あそびめとして秘密に売買されるといふ多くの美しい穢多の娘の運命なぞを思ひやつた。
 其時に成つて、丑松は後悔した。何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕ふやうな、其様そん思想かんがへを持つたのだらう。同じ人間だといふことを知らなかつたなら、甘んじて世の軽蔑を受けても居られたらうものを。何故なぜ、自分は人らしいものに斯世の中へ生れて来たのだらう。野山を駆け歩く獣の仲間ででもあつたなら、一生何の苦痛くるしみも知らずに過されたらうものを。
 うれかなしい過去の追憶おもひでは丑松の胸の中に浮んで来た。この飯山へ赴任して以来このかたのことが浮んで来た。師範校時代のことが浮んで来た。故郷ふるさとに居た頃のことが浮んで来た。それはもう悉皆すつかり忘れて居て、何年も思出した先蹤ためしの無いやうなことまで、つい昨日の出来事のやうに、青々と浮んで来た。今は丑松も自分で自分を憐まずには居られなかつたのである。やがて、斯ういふ過去の追憶おもひでがごちや/\胸の中で一緒に成つて、煙のやうに乱れて消えてしまふと、唯二つしか是から将来さきに執るべき道は無いといふ思想かんがへに落ちて行つた。唯二つ――放逐か、死か。到底丑松は放逐されて生きて居る気は無かつた。其よりはむし後者あとの方をえらんだのである。
 短い冬の日は何時の間にか暮れかゝつて来た。もう二度と現世このよで見ることは出来ないかのやうな、悲壮な心地に成つて、橋の上から遠くながめると、西の空すこし南寄りに一帯の冬雲が浮んで、丁度可懐なつかしい故郷の丘を望むやうに思はせる。其は深い焦茶こげちや色で、雲端くもべりばかり黄に光り輝くのであつた。帯のやうな水蒸気の群も幾条いくすぢか其上に懸つた。あゝ、日没だ。蕭条せうでうとした両岸の風物はすべての夕暮の照光ひかりと空気とに包まれて了つた。奈何どんなに丑松は『死』の恐しさを考へ乍ら、動揺する船橋の板縁いたべり近く歩いて行つたらう。
 蓮華寺でく鐘の音は其時丑松の耳に無限の悲しい思を伝へた。次第に千曲川の水も暮れて、空に浮ぶ冬雲の焦茶色が灰がゝつた紫色に変つた頃は、もう日も遠く沈んだのである。高く懸る水蒸気の群は、ぱつと薄赤い反射を見せて、急に掻消かきけすやうに暗く成つて了つた。
 
 

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