ゴリオ爺さん バルザック

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 四 爺さんの死
 
 正午ごろ、ちょうどパンテオン区域に郵便配達が来る時間だったが、ウージェーヌは優美に包装され、ボーセアンの紋で封をされた手紙を受け取った。手紙の中にはニュシンゲン夫妻に宛てた大舞踏会への招待状が入っていた。舞踏会は一ヶ月前から告知されていて、子爵夫人の邸で開かれることになっていた。この招待状にウージェーヌ宛の便りが添えられていた。
〈私は貴方が私の気持ちをニュシンゲン夫人に伝える仲立ちを喜んで引き受けて下さるものと考えました。私は貴方から頼まれていた招待状をお送りします。これが縁でレストー夫人のご姉妹と知り合えたら私も嬉しく思います。ですから、その可愛らしい方をきっと私に紹介して下さいね。そして彼女が貴方の愛を独り占めするようなことのないようにして下さいね。何故って、私が貴方に注いだ愛のお返しに、貴方も私にいっぱいの愛を下さらないとね。
ボーセアン子爵夫人》
「しかし」ウージェーヌはこの手紙を読み返しながら考えていた。「ボーセアン夫人は僕に向かってとてもはっきりと言ったものだ。彼女はニュシンゲン男爵は好まないと」
 彼は直ぐにデルフィーヌのところへ行った。彼女に良い報せをもたらせられることが嬉しく、彼は間違いなくこれで自分の価値を高められるはずだと思った。ニュシンゲン夫人は入浴中だった。ラスチニャックは閨房で待った。彼は愛に燃える若者にとってごく自然な辛抱し切れない気持ちに駆り立てられ、一刻も早く愛人をこの腕の中に抱き締めたい気持ちでいっぱいだった。彼女こそは、この二ヶ月来、彼の欲望の対象だった。総ては若者だけに許された人生で二度と味わえない感動だった。初めての女、現実にそこにいる女、その女を男として愛する幸せ、パリの女がそうありたいと憧れるように、その女は彼に寄り添って美しく輝くことだろう、最早その女以外の誰かを愛することは彼には考えられなかった。パリにおける愛は、他所の愛とは全然違うものだ。男も女も、月並みな言葉で飾られた外観には騙されないで、誰もがいわゆる無私の愛の上に礼儀正しさを並べることになるのだった。この愛の国では女というものは単に心と感情を満足させればよいというのではなく、彼女達が完全に意識しているのは、人生を作り上げている幾千もの虚栄を満足させるという最大の責務を彼女達が負っているということである。そこでは愛は何よりも必然的に自慢の種になり、図々しく浪費癖があり、いかさまじみていて、贅沢でもあるのだ。もしルイ十四世の宮廷の総ての女性が、ラ・ヴァリエール嬢[95]のことを羨んだとしても、あの偉大な王をして、彼が息子のド・ヴェルマンドワ公爵の生誕を助けるためには自分のカフスが何千エキュにも値することを忘れて引き裂かしめたというあの情熱、それを引き込む力がヴァリエール嬢にはあったが、彼女以上の魅惑の人間を他に求めることが果たして出来ただろうか? 若くて金持ちで貴族であっても、貴方が更にもっと恵まれた状況であっても、貴方が偶像の前で焚く香の種を運んでくるだけ、偶像は一層貴方にとって好都合なものになるだろう、ただし貴方の偶像は一つに限られる。愛とは一種の宗教である。そこでの崇拝は他の総ての宗教よりも高くつくべきものである。彼の崇拝は早く過ぎ去る。少年時代は過ぎ去り、この少年は通り過ぎた跡をひどい荒廃の中に残すことを熱望するものなのである。感情のきらめきと屋根裏部屋の詩。こうした豊かさなくして愛は一体どうなるのだろうか? もしパリジャンの規範の過酷な法則に例外があるとすれば、少しも社会の原理に引きずられることがない魂、あるいは今にも尽きそうでいて絶えることのない澄み切った泉の傍らに息づいている魂の中に、そうした人物は孤独に耐えて存在している。このような魂は緑の木陰を離れることなく、森羅万象について、あるいは自身の内面について書かれたものの中に無限という言葉を聞くと幸せになり、俗世的な翼を哀れみながら、自身に相応しい翼を得る日を辛抱強く待っているのである。しかしラスチニャックは大部分の若者と同じように前もって豪奢さの味を知ってしまったので、社交界という闘技場へ完全武装して出場したいと思っていた。彼はそこでの熱狂に溶け込めた。彼は恐らく自分の中に社交界を支配する力があるのだろうと感じた。その方法も野望の目的も未だ分かってはいなかった。人生を満ち足りたものにする純粋で神聖な愛の代わりに、権力への渇望はもう一つの美しい目標たり得るものだ。それには個人的利益をことごとく収奪し、その上で国家の重要人物として自身を派手に売り込めば十分である。しかしこの学生は人が人生の流れを熟視し、それを判断出来る位置には未だ達していなかった。その頃の彼は、田舎で子供が幼い日に育てた木の葉のような清新で甘美な魅力を完全に振り払ったとはいえない状態にあった。彼は絶えずパリジャンとしてルビコン河[96]を越えようかどうしようかと迷っていた。彼には熱心な好奇心があったが、自分がお城に住むという野心は常に心の奥に抱いていた。しかしながら、彼の最後のためらいは前日に消えていた。その時、彼は自分のアパルトマンで自分の姿を見てみたのだった。彼は家柄から長年にわたって道徳的に優れた資質をはぐくんできたが、物質的富を享受するに際して、彼は故郷の人々の皮を剥いできた。そして彼はいかにも優雅な住居を得ることが出来た。そこからは輝かしい未来が見渡せるのだった。それゆえ、デルフィーヌを待ちながら、静かに今や幾らか我が物とさえ思える綺麗な閨房の中に坐っていると、彼には一年前にパリに出てきたばかりのラスチニャックがとても遠いもののように思えた。彼は道徳的観点でかつての自分をじっと見ていて自問するのだった。あの頃の自分は今この瞬間の彼自身に似たところはあるのだろうかと。
「奥様は寝室にいらっしゃいます」彼のところにテレーズか来て言った。彼は身震いした。
 デルフィーヌは暖炉の傍のソファに横たわっていた。瑞々しくて、くつろいでいた。このように波打つモスリンの上に横たわっている彼女を見ると、彼は彼女のことを果実が開いて花になるあの美しいインドの植物に比べずにはおられなかった。
「あー! やっと! 私達はここに来られたのね」彼女は感動して言った。
「貴女に報せたいことがあるんだ、当ててごらん」ウージェーヌは彼女の横に座って、彼女の手にキスするために腕を取った。
 ニュシンゲン夫人は招待状だと察して嬉しそうな身振りをした。彼女はウージェーヌに濡れた瞳を向け、腕を拡げて彼の首に飛びついた。虚栄心を満たされた彼女は有頂天になっていた。
「やっぱり貴方だわ」と叫んだ彼女は、「さすがに貴方ね、だけどテレーズがあたしの化粧室にいるのよ、ちょっと気をつけましょうね!」と彼の耳許で囁いた。それから大声で続けた。「貴方のお陰であたしのこの幸運があるのね? そう、あたしはこれを幸運と呼びたいわ。貴方によって勝ち取られた、これは自尊心の勝利以上のものじゃないかしら? 誰もあたしが社交界に現れるなんて思ってなかったでしょうね。貴方は多分たった今、あたしが唯のパリ女で小いちゃくて、下らない軽い女だと分かったでしょう。だけど、ねえ、考えてみて、あたしは貴方に従って行くためには何だってやるつもりだし、それに、あたしが今までなかったほどフォーブール・サンジェルマンに行きたくてたまらなくなったのは、貴方がそこの人だからよ」
「貴女は考えないのかい」ウージェーヌが言った。「ボーセアン夫人が我々に、彼女は舞踏会でニュシンゲン男爵に会う積りはないと言ってるように見えるんだが?」
「勿論そう思うわ」男爵夫人は彼に手紙を返しながら言った。「ああいう女性は無作法さにかけては天才的だわ。だけど、大したことない。あたしは行くわ。姉は当然そこにいるわね? あたし彼女がとても魅力的に化粧するのを知ってる。ウージェーヌ」彼女は声を落として続けた。「彼女はそこにひどい疑惑を晴らしに行くのよ。貴方は彼女について流されている噂を聞いてない? 今朝ニュシンゲンがあたしのところへ来て言ったんだけど、仲間内で昨日、皆がそのことであけすけに話してたんですって。それがまあ、どうでしょう! 妻と家族の名誉がかかってて! あたしは自分が姉のことで責められて傷つけられているような気がしたわ。確かな人の話では、ド・トライユ氏は総額一〇万フランの為替手形に裏書したそうよ。そのほとんどが期日も迫っていて、彼はこの件で訴えられそうなんですって。この瀬戸際になって、姉はダイヤモンドを例のユダヤ人に売ったらしいの、その美しいダイヤモンドというのが、貴方が彼女に会った時見たもので、ド・レストーの母上から譲られたものなのよ。つまり、この二日間というもの、皆はこの問題で持ちきりなのよ。あたしはまたアナスタジーがドレスに金銀の刺繍をさせて、ボーセアン夫人の舞踏会では皆の目をひきつけたいと思ってることも知ってるの。あそこで彼女の精一杯の輝きをそのダイヤモンドと共に見せびらかしたいということもね。でも、あたしは彼女には負けない積りよ。彼女はいつもあたしに打ち勝とうと一生懸命だったわ。あたしに対して良くしてくれたことなど一度もなかった。あたしの方は彼女にはずいぶん尽くしたわ。彼女にお金がない時はいつもあたしがお金を用立ててあげたの。だけど、人のことは放っておきましょう。今日はあたしはただ幸せになりたいだけ」
 ラスチニャックは午前一時になってもニュシンゲン夫人の家にいた。彼女は恋人にさよならの挨拶を惜しげもなく言わせた。それはあのまた来る喜びでいっぱいのさよならであって、ある種の憂愁を込めて彼女に言われたのだった。「あたしはとても臆病だし迷信を信じるたちなの。だからあたしの幸運は何か途轍もない破滅によって報いを受けるのではないかというあたしの予感に名前をつけて下さらないかしら」
「子供だね」ウージェーヌが言った。
「あー! 今夜のあたし、何と子供っぽいのかしら」彼女は笑いながら言った。
 ウージェーヌは翌日にはそこを離れるという確信を抱いて、メゾン・ヴォーケに戻ってきた。道中で彼は若者が幸運の味を唇の上にのせた時、彼等が皆見る甘美な夢に身を任せていた。
「おや?」ラスチニャックが戸口の前を通り過ぎようとした時、ゴリオ爺さんが言った。
「分かってますよ!」ウージェーヌが答えた。「明日、何もかも話します」
「総て、ですね?」爺さんが叫んだ。「おやすみなさい。我々は明日、我々の幸福な人生を始めるんだ」
 翌朝、ゴリオとラスチニャックはこの素人下宿を去るべく、使いの者が良い報せを持ってくることだけを待っていた。その時、正午頃だったが、メゾン・ヴォーケの戸口の前で停まった馬車の音が、ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通に響き渡った。ニュシンゲン夫人が馬車から降りてきて、彼女の父がまだ下宿にいるかどうかを尋ねた。シルヴィから確認を取った彼女はゆっくりと階段を上がっていった。ウージェーヌが自分の部屋にいることを、その時、隣人は知らずにいた。彼は朝食の時にゴリオ爺さんに彼の衣類などを新居に持って行ってくれるように頼んでいて、その際、四時にはダルトワ通でまた会おうと話していた。しかし、爺さんが運搬人の手配をしていた間に、ウージェーヌは学校からの呼び出しに直ぐさま行くと応じていたが、誰も気付かないうちにまた戻っていた。彼はヴォーケ夫人との決済をする積りだった。それはゴリオに清算を任せておいたら、爺さんのあの狂信的性格でもって間違いなく彼の分まで下宿代を払ってしまうだろうと考えたからだった。が、女家主は外出していた。ウージェーヌは何か忘れ物がないか確かめるため自分の部屋に戻った。そして引き出しの中に彼の署名以外は空白の白地手形があるのを見つけた時には、よくぞ確認したものだと思ったものだった。それはヴォートラン宛の白地手形だったが、彼が借金を返したその日に無造作にそこへ放り込んでいたのだった。火がなかったので、彼はそれを細かく破り捨てようと思ったが、その時、デルフィーヌの声がしたので、彼は音を立てないようにして、じっとして彼女の声を聞こうとした。彼女は彼に対してはどんな秘密もないはずだと彼は考えていた。その時、最初の言葉から、彼は父と娘の間で交わされた会話に恐ろしく引き込まれて聞き入ってしまった。
「ああ! お父様」彼女が言った。「貴方が私の財産について、私に破産なんてさせないように、もっと早くから訊ねてくれる気があればよかったのに! ここで今、話せるかしら?」
「うん、ここには誰もいない」ゴリオ爺さんが上ずった声で答えた。
「それじゃ、何か売れるもの持ってないかしら、お父さん?」ニュシンゲン夫人が尋ねた。
「お前は」と老人が答えた。「私の首を斧ではねにやってきたんだね。神様はお前を許して下さるだろう、我が子よ! お前には私がどんなにお前を愛しているのかが分からないんだ。もしお前がそれを知っていたら、お前がそんなことを簡単に言うはずがない。特に絶望的なことなんてないのに。よりによって私達が揃ってアルトワ通へ行こうって時にだよ、お前がここへ私を訪ねてくるような、そんな緊急の用事って一体何だね?」
「まあ! お父さん、破滅に瀕してまずどう動いたらよいのか、誰だって分からないんじゃない? あたしは馬鹿よ! 貴方の代訴人は私達の破綻を少し早く見つけ過ぎたんだけど、それは間違いなくやがて明らかになるわ。貴方の商人らしい長年の経験が私達に必要になってきたの。だからあたしは溺れそうになった人が一本の木の枝にしがみつくように、貴方を頼ってここへ駆けつけてきたの。デルヴィーユ氏がニュシンゲンに会った時、彼はニュシンゲンにいっぱい三百代言を並べ立てて、手続きの大変さで彼を脅した末に、裁判長の許可は直ぐに取ってあげるとか何とか彼に言ったのよ。ニュシンゲンは今朝あたしのところへ来て、あたしに訊くのよ、あたしが彼や私自身の破産を望むのかって。あたしは答えてやったわ。あたしはこの手のことは何も分かりません、あたしにはあたしの財産があります、あたしがこれから所有しようとしている財産もあります、そしてこうしたことは全部今回の揉め事に関係しているとあたしの代訴人は見ています、そしてあたしは誰よりも無知で、この案件について聞いたところで何も出来ないんですってね。こういう言い方は貴方があたしに教えたんじゃなかった?」
「そうだよ」ゴリオ爺さんが答えた。
「ほーらね!」デルフィーヌが言った。「彼はあたしを自分の領分に巻き込んでるのよ。彼は自分の資本とあたしのをまだほとんど稼動していない事業に注ぎ込んだの、そしてそれ以外にまだ大きな額が必要になったのよ。もしあたしが彼にあたしの持参金をまた提示するように強要したら、彼は破産申し立てをせざるを得なくなるわ。一方で、もしあたしが一年待つことに同意するなら、彼は名誉にかけて、私に私の資本を二倍も三倍にもして返してくれると誓っているの。そして私の資本を最後には私が総ての財産を思い通りに動かせるような領域で運用すると言うのよ。ねえ、彼は誠実だった。彼は私を尻込みさせたくらいよ。彼は自分の行動について私に謝ったわ。彼は私に自由を返した。彼は私が思うままに行動すること、彼をそのまま責任者として置いておきながら、事業は私の名義で運営することも認めた。彼は私に約束した。私に彼の誠意を証明するため、その都度デルヴィーユ氏を立ち会わせることをね。それというのは彼があたしを所有者に設定している善意の証書が適切に作成されているかどうかをあたしが判断しようと思うと、デルヴィーユ氏に見てもらいたいと思うでしょ。要するに彼は手も足も出ない状態であたしの手の内にあるのよ。彼はまだ二年間、会社の経営を任せて欲しいと言ってる。そして、彼の同意なしにあたし自身のための出費を絶対にしないで欲しいと懇願してるの。彼はあたしに証明したわ、彼が外観をそのまま保持できたものの総て、彼が彼の踊り子に贈ったもの、そして彼が何よりも厳しく対処しなければならない、それでいて中味のはっきりしない経済、それは彼の信用を損なわないようにしながら、投機を手仕舞うこと。あたしは彼をじゃけんに扱ってきたわ。あたしは彼を疑って追い詰めて、利益を聞き出そうとしたわ。彼はあたしに帳簿を見せてくれたわ、しまいには彼は泣き出したの。あたしはこれまで、男の人があんなになるのを見たことないわ。彼は我を忘れてしまって、自殺すると言い出したの。彼は精神錯乱になってたわ。あたしは彼のことを哀れに感じたわ」
「それでお前はやつの無駄話を全部信じたというわけだ」ゴリオ爺さんが叫んだ。「やつは偽善者だ! 私は仕事で何人もドイツ人に出会っている。奴等は大体誠実で、とても率直だ。だが、奴等の率直で気立ての良い見かけの陰で、いったん抜け目のないペテン師的一面が出てくると、もう奴等のひどさは人一倍だ。お前の婿さんはお前を濫用してる。彼は追い詰められた気持ちでいるんだろう。彼は死んだふりをしてるんだ。彼は自分の名義では何も出来ないんで、むしろお前の名義で実権を握り続けたいのだ。彼はこの境遇を利用して、彼の商売の確率をより強固なものにしようと思ってるんだろう。彼は不実というよりもむしろ鋭敏だというべきだろう。抜け目のないやつなんだ。いや、いや、私は娘達がまだどこを突いてみても満足のゆく状態でないのを放っておいて、ペールラシェーズ墓地に消え去ってしまうわけにはいかんよ。私はまだ商売の知識を持っている。やつはやつの資金を幾つかの企業に投入したと言っている。そこでだ! 彼の儲けというのは有価証券、借用証書、個人協定の形をとっているんだ! そして彼はお前に夫婦共有財産を見せた上で、財産に関してのそれぞれの権利を決定したというわけだ。私達はもっと良い投機を選ぼうじゃないか、私達は幸運をつかむんだ、そして私達は権利書の名義を我々のデルフィーヌ・ゴリオにして保有するんだ。ニュシンゲン男爵同意による夫婦別居だ。だが彼の方は我々が冗談を言ってると思うかな、あいつは? 彼は私が二日間でもお前を財産もパンもなしで放っておくなんてこと考えてるんだろうか? 私はたとえ一日でも、一晩でも、一時間だってそんな考えを持つことは出来ない! 本当にそんなこと考えてるんだったら、私はそんなものには従わない。全く! 何という! 私は五十年という私の人生でずっと働いてきた。私は肩に粉袋を担いできた、にわか雨にあって苦労もした、私は生涯ずっと、お前のためには、切り詰めた生活をする積りだ。だけどなあ、誰が私にあの仕事をまたやらせてくれる? 荷物を軽くしてくれる? そして今では、私の財産も命さえも煙のように消えてしまった! これでは私は怒りの余り死んでしまう。天にまします聖なる神により、私達は総てをはっきりと照らし出して、帳簿を、金庫を、そして関連企業を精査しようじゃないか! 私は眠らない、ベッドに入らない、食べることもしない、彼がお前の財産はそっくり全部ここにあるということを証明してくれるまではな。幸いにも、お前は財産を分離した。お前はデルヴィユ先生を代訴人にするといいだろう。幸い彼は正直な男だ。何としても! お前は大事な可愛い百万フラン、お前の五万リーヴルの年金をお前の生涯の最後の日まで守り抜くんだぞ、さもないと私はパリに大騒ぎを起こしてやる。あー! あー! しかし私は裁判所に掛け合ってみるぞ、裁判所と言うところは私達を犠牲にするところなのかってな。お前も知ってる通り、お金の傍にいれば、心静かで幸福にしていられる。もちろん、この考えは私の災難を軽くしてくれるし、私の悲しみを静めてくれる。お金、それは人生そのものだ。金があれば何でも出来る。彼は私達に向かって一体何を歌ってくれるんだ、あのアルザスの太った切り株野郎は? デルフィーヌ、あのデブの野郎にはびた一文でも負けてやるな。やつはお前を鎖で縛って不幸にするだけだ。もしお前が必要なら、私達はやつとしっかり戦おう、そしてやつに真っ直ぐに歩かせようじゃないか。うわあ! 私の頭は炎上してしまった。私の頭の中のものが私に火をつける。私のデルフィーヌが貧苦にあえぐなんて! おー!私のフィフィーヌ! お前! 何てこった! 私の手袋は何処だ? さあ! 出掛けよう、私は全部調べに行くぞ、台帳、業務内容、金庫、手紙、直ぐにだ。彼がお前の財産が危険に晒されていないことを証明し、私がこの目でそれを見極めない限り、私は黙っちゃいないぞ」
「お父さん! 品良くお願いするわ。もし貴方が少しでもこのことに関して復讐したいような気持ちを持っていて、そしてもし貴方が強い敵意による意図でも見せるようなことでもあれば、私はもう途方にくれてしまいます。彼は貴方のことをよく知っています。彼は全く当然のことですが、貴方のアドヴァイスで、私が自分の財産について問い合わせたことに気がついています。彼は私の財産を手でつかんでいます。そして持ち続ける積りでいます。彼は資本金を全部持って逃げるタイプの男です。そして私達を放っちらかしてゆくんです、悪党よ! 彼は私が彼を訴えて、自分の名を汚してしまうようなことはしないのを良く心得ているんです。彼は同時に強くもあり弱くもあるんです。私は総てを良く調べました。もし私達が彼を追い詰めたら、私自身が破綻してしまいます」
「だが、やつのやってることは一種のペテンだろ?」
「まあそうね! そうよ、お父さん」彼女はそう言って椅子の上に身を投げ出すようにして涙ぐんだ。「私はそのことを認めたくなかったの。何故なら、あんな性質の男と私を結婚させたことで、貴方を悲しませたくなかったのよ! 内に秘められた習性と明確に意識的な行為、心と身体、総てが彼の中では調和しているの! それは恐ろしいことだわ。私は彼を憎み軽蔑する。そうよ、彼が私に言ったあの後では、この下劣なニュシンゲンをもう尊敬するなんて出来ないわ。彼が私に話してくれた商売の統合に向かって身を投じるのは分かるけど、その男にはこれっぽっちの繊細さもなくて、今の私の心配は彼の魂の中を私が完全に読み切ったことから来てるの。彼は私にはっきりと提案したわ、彼――私の夫――には自由裁量を渡せと、貴方にはこれが何を意味するかお分かり? 苦しい時には私を自由に利用させてくれないかと言うのよ、要するに私に名義人として彼の役に立ってくれないかって言うのよ」
「しかし法律はそういうことのためにあるんだろう! まさに、その手の婿さん共を処刑するためにグレーブ広場[97]があるんだ。だが、処刑人がいないんだったら、私自身がやつを処刑せにゃならん」
「いいえお父さん、彼を処罰する法律はないわ。一言でも彼の言い回しを聞いてみて。遠回しな言い方はしないで、彼は言い立てるのよ。『それじゃ、総て失われて、貴女は一文無しだ。貴女は破産だ。というのは、私は共犯者として貴女以外の誰も選ぶことが出来ないからだ。それが嫌なら、貴女は私の事業の運営を私に任せて欲しい』とてもはっきりしてない? 彼はまだ私に執着してるのよ。私の妻としての誠意を彼に再確認させたわ。彼は私が彼に彼の財産を残していることを知り、私には私の財産については満足させてくれたの。これはある意味で不誠実、悪徳商人の結託でね、私は破産するのを避けるために同意しなければならないのよ。彼は私から私の良心を買ったの、そしてその代償として、私に好きなようにウージェーヌの女として過ごすことを許してくれてるのよ。『わたしはお前が間違いを犯すのを許している。だから私が可哀想な人達を破綻させる罪を犯すのを放っておいてくれ!』この言い方、とても明解だと思わない? 彼が事業をすると言ってることが一体何か、あなた知ってる? 彼は何もない更地を彼の名義で買うの。それから、そこにダミーを使って家を建てるわけ。ダミーは馬鹿でかい建物にかかわる建築業者との一切の取引を完了させ、ダミーは実際に期間の長い手形で支払うの。一方で夫はうんと安い金額を支払ってダミーからこの建物を買い取ってしまうの。それからダミーは故意に破綻することによって手形を不渡りにして、騙された建築業者への支払いは踏み倒してしまうわけ。ニュシンゲン商会という名前は可哀想な建築業者の目をくらますために役立ってきたわ。私はこの騙しの手口はよく理解してるのよ。ニュシンゲンが必要に応じて巨額の支払いを証明するために、相当な金額の有価証券をアムステルダムやロンドンやナポリやヴェニスに送っていたのも知っています。彼が編み出す複雑な資金の流れを追いきれる人が果たしているかしら?」
 ウージェーヌはゴリオ爺さんの膝の重苦しい音を聞いた。爺さんは明らかに部屋の床に倒れたようだった。
「ああ、私はお前に何をやってきたんだ? 私の娘がこんな惨めなことになるなんて、彼は望み次第に何でも彼女に要求する。娘よ、すまない!」老人が叫んだ。
「そうよ、もしあたしが深淵に落ち込んでいるとすれば、多分お父さんの間違いがあるでしょうね」デルフィーヌが言った。「私達が結婚した時、そこにはほとんど正当な理由なんてなかった! 私達は世間のことを知ってたかしら、仕事のこと、人間のこと、人の品性のことを? 父親たるものが私達のために考えてくれたらよかったのに。お父さん、あたしは貴方を責める気は全然ありません、今の言葉ごめんなさい。こんなことになったのは、間違ったのは全部あたしです。いいえ、泣かないで、パパ」彼女は父親の額にキスをしながら言った。
「もう泣くな、私の可愛いデルフィーヌ、目をこちらに向けて、私のキスで涙をぬぐってあげよう、さあ! 私は私の頭を回復するぞ、そして、お前の主人が掻き回して紛糾させた事態を解決してやる」
「いいえ、私のことは放っといて。私は何か方法を考え出せるわ。彼は私を愛してるの。でね! 私は彼への影響力を利用する積りよ。そして私のために早急に何か不動産投資をさせる積りよ。恐らく私は彼にアルザスの土地を、私のニュシンゲン名義で買い戻させることになるわ、あの土地に彼は執着があるの。パパ、明日、彼の帳簿と業務内容を調べるために来てちょうだい。デルヴィユ氏は商売のことになるとちんぷんかんぷんなのよ。でも、明日はやめときましょう。私は余り興奮してばたばたしたくない。ボーセアン夫人の舞踏会は明後日にあるのね。私はあそこで綺麗ではつらつとして、私の大好きなウージェーヌに面目を施させたいの。今からでも見てくれに気をつけなくっちゃ! じゃ、彼の部屋を見に行きましょう」
 そしてこの瞬間、一台の馬車がネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通に停まり、シルヴィに話しかけるレストー夫人の声が聞こえてきた。「私の父はいますかしら?」この状況は幸運にもウージェーヌを救った。彼はベッドに飛び込んで寝たふりをしようと思案していたところだった。
「ああ! お父さん、貴方はアナスタジーのことも皆さんに話してたの?」デルフィーヌが姉の声に気づいて言った。「彼女の家庭にも困ったことがあるようね」
「一体何事だ!」ゴリオ爺さんが言った。「また私に用事なんだろう。私の哀れな頭では、二重の不幸には耐えられんよ」
「こんにちはお父さん」伯爵夫人が入ってきて言った。「あら! あんたもいたの、デルフィーヌ」
レストー夫人は妹に出会って戸惑った様子を見せた。
「こんにちはナジー」男爵夫人が言った。「あなたはあたしがいるのがそんなに不思議なの? あたしはお父さんに毎日会ってるのよ、あたしはね」
「いつから?」
「もしあなたがここへ来てたら、あなたは当然知ってるはずでしょ」
「もったいぶらないでよ、デルフィーヌ」伯爵夫人は悲しそうな声で言った。「私はとても運が悪くて、私は破産してしまった。ねえ、お父さん! ああ! 今度は大変な額の破産よ」
「どうしたんだ、ナジー?」ゴリオ爺さんが叫んだ。「何でも話すんだよ、いいから」彼女は青ざめた。「デルフィーヌ、さあ、何とか助けてやってくれ、お前が彼女にもっと親切にしてやるんなら、私はお前を今までよりももっと愛するぞ、だがな、私が愛してきた以上なんて無理だよ、お前!」
「ねえ私のナジー」ニュシンゲン夫人が姉を坐らせながら言った。「いいこと、あなた分かるでしょ、ここにいる私達二人があなたの言うことなら何でも聞きたいと思っていることくらい、ずっとあなたのことを愛しているってことを。分かってよ、家族の愛情が一番確かなものなのよ」彼女は姉に気つけ薬をかがした。伯爵夫人は妹の方に向き直った。
「私はもう直ぐ死ぬ」ゴリオ爺さんが土くれの火を掻き回しながら言った。「さあ、お前達二人とも火の傍に来なさい。私は寒い。どうしたんだ、ナジー? 早く言ってくれ、お前は私を殺す……」
「まあ何てことを」びっくりして夫人が言った。「夫は何もかも知っています。考えてみてよ、お父さん、大分以前になるけど、貴方はマクシムが振り出したあの為替手形のこと思い出しません? まあいいわ、それは大したことじゃないから、私はもう大分支払っていたんです。一月の初め頃、ド・トライユ氏がとても心配そうな様子だったの。彼は私には何も言ってなかったわ。だけど好きな人の心が何かで悩んでいるのを読み取ることなんてとても簡単だわ。それに虫の報せもあったわ。結局、彼のことが誰よりも大事なの、私がこれまでに会った誰よりも優しいの、それで私は最高に幸せだったわ。可哀想なマクシム! 彼の考えでは、彼は私に別れを告げる積りだったの、そう彼は言ってるわ。彼は頭にピストルを撃ち込む積りだったの。結局、私は彼をひどく苦しめた、いっぱい哀願もした、私は二時間も彼の前に膝まづいていたの。彼は一〇万フラン要ると私に言ったわ! ああ! パパ、一〇万フラン! 私は頭がおかしくなったわ。貴方はそんなの持ってないわよね、私は全部取られた……」
「いいや」ゴリオ爺さんが言った。「私はそんな金は持ってない、少なくとも盗みでもせん限り無理だ。だがお前のことを知っていれば盗みをやってれば良かったくらいだ、ナジー! 何でも言いなさい、やってやろうじゃないか」
 まるで瀕死者のあえぎのように搾り出されたこの悲痛な言葉を聞き、その人がもう手も足も出せなくなった父親の愛の最期を自ら責めるのを聞いて、二人の姉妹は一瞬沈黙した。この絶望的な叫びを聞き、ましてその叫びは深淵に落下する岩石のように淵の深さをまざまざと知らしめた時には、いかなるエゴイズムの持ち主も平静ではいられまい?
「私はそうしたお金を私のものでもないものを勝手に処分しては調達していたことに気がついたんです、お父さん」伯爵夫人は泣き崩れながら言った。
 デルフィーヌは心を動かされ、姉の首に頭をもたせ掛けて涙を流した。
「みんな全くその通りよ」彼女が言った。
 アナスタジーはうなだれた。ニュシンゲン夫人は全身でそれを抱え、優しくキスをした。そして胸の上にそれを支えてやった。「ここでは、あなたはどうのこうのと言われることもなく、いつだって愛されてるのよ」彼女はアナスタジーに言った。
「お前達」ゴリオが弱々しい声で言った。「逆境になって、お前達の団結がどうしても必要なのかね?」
「マクシムの命を救うため、つまり、私の幸せの総てを救うため」伯爵夫人は熱く胸の高鳴るような優しさの証を得たことに力を得て答えた。「私はあなたもご存知のあの高利貸し、地獄から来た男、何事もその心を和らげることはないと言われるあのゴプセックさんのお店に、レストー氏がとても愛着を感じている家族のダイヤモンド、彼自身のや私のものや、その他総てを私は売ってしまった。売ってしまったの! この気持ち分かる? 彼は守られたわ! だけど、私は、私は終わりよ。レストーは何もかも知っているわ」
「誰が知っているんだ? どうして? そいつを殺してやる!」ゴリオ爺さんが叫んだ。
「昨日、彼が私を自分の部屋へ呼んだの。私はそこへ行った……『アナスタジー』彼は私にこんな声で言った……(ああ! 彼の声だけで十分よ、私には何のことか直ぐにわかったわ)、『君のダイヤモンドはどうした?』『私の部屋に』『いや』彼は私を見据えながら言ったわ。『それはあそこだ、私の整理ダンスの上だ』そして彼はハンカチで覆っていた宝石箱を私に見せたの。『貴女はこれが何処にあったか分かるだろう?』彼は私に言った。私は彼の膝の前にくずおれた……私は泣いて、私がどんな死に方をするのを見たいかと彼に尋ねたわ」
「お前はそんなことを言ったのか!」ゴリオ爺さんが叫んだ。「こんちくしょう! 手を変え品を変えお前を苦しめるやつは、私が元気でいる限り、恐らく間違いなく私がじわじわと焼き殺してやる! そうさ、私はやつをばらばらにしてやる、まるで……」
 ゴリオ爺さんは黙った。言葉は彼の喉の中で消えてしまった。
「結局のところ、ねえどうなの、彼は私に何だか死ぬより辛いことを要求したんだわ。神様も私が聞かされたような事はどんな女にも聞かせないようにするはずだわ!」
「私はあの男を殺してやる」ゴリオ爺さんが静かに言った。「だが、彼の命は一つしかない。そして彼は私に対して、二度殺されても仕方のないようなことをした。どうなるんだ?」
 彼はアナスタジーをまじまじと見つめながら言った。
「それでね」伯爵夫人は話の続きに戻って言った。「一呼吸おいて彼は私を見つめた。『アナスタジー』彼が私に言った。『私は沈黙して総てを心に秘めている。我々はこれからも一緒に暮らそう、我々には子供がいるんだ。私はド・トライユ氏を殺しはしない。私は彼を見逃してやっていい。だがその代わり、私が彼を忘れるには、私が人間的公正さを欠くことも許されねばならない。お前と抱き合ってる彼を殺す事は、子供達の名誉を汚すことになる。しかし、お前の子供達、子供達の父親、この私達の誰もが破滅するのを見たくなければ、私はお前に二つの条件をつけたいと思う。答えてくれ。一人でも私の子供はいるのか?』私は答えました、いますと。『どの子だ?』彼は尋ねました。『エルネスト、長男です』『よろしい』彼は言いました。『今この場で、私に誓ってくれ。今後、ある一つのことについて、私の言うことに従うことを』私は誓いました。『お前は私の要求があれば、お前の財産の売却に同意すること』」
「同意してはいかん」ゴリオ爺さんが叫んだ。「そんなものには決して同意するな。あー! あー! ド・レストーさん、貴方は女性を幸せにするということが、どんなことか分かっていない。彼女は貴方がいるその場所に幸せを見つけに行ったんだ。それを貴方は無益で愚かな方法で罰すると言うのか?……私はここにいる、この私が言うんだ、ちょっと待て! 彼は行く手に私が立ちふさがっているのを見るだろう。ナジー、安心しなさい。ああ、彼は自分の跡継ぎのことが気になるんだ! よしよし、私は彼の息子でもって彼の気持ちをつかんでやる、ちょっ! 忌々しいことに、そいつは私の孫なんだな。私はいずれは彼、その子と会えるんだよね? 私はその子を私の故郷の村へ連れてゆく。私は彼がそこで暫くおとなしく暮らせるように面倒を見る。私は彼の父、あの冷酷な人でなしに、こう言って私の言うことに従わせる積りだ。『二人でさしで話そう! もしあんたが息子を返して欲しけりゃ、私の娘に彼女の財産を返してくれ。そして彼女のことは彼女の好きに任せろ』とな」
「父さん!」
「はいよ、お前の父だ! ああ! 私はまさに本当の親父だよ。どういうふざけた貴族野郎が私の娘達を虐めていいって言うんだ。畜生! 私は自分でも何をやらかすか分からんぞ。私は虎のように凶暴だ、私はこいつ等二人の男を食い殺してやりたい。ああ、子供達! お前達の人生はどうなるんだ? 確かなのは、私の死だ。私がもういなくなったら、お前達は一体どうなるんだ? 父親たる者は自分の子供がいる限りは生き延びなければならん。畜生、お前達の世界は何てひどい具合になってるんだ! しかも聞くところによると、お前には悪いことに子供まである。お前は私達がこれ以上子供のことで苦しめられることのないようにすべきなんだ。なあ、お前達、どうしたんだ! 私がお前達と会うのは、いつもお前達の困った時ばかりじゃないか。お前達は私にお前達の涙しか見せてくれない。まあ仕方ない! そうさ、お前達は私を愛してくれる、それは分かってる。おいで、おいで、ここでは何でも言いなさい! 私の心は広い、何だって受けとめてやる。そうさ、お前がそれを刺し貫いたとしても、断片がなおも父親の心として働き続けるんだ。私はお前の苦労を取り上げてやりたい、お前の代わりに苦しみたいんだ。ああ! お前達が幼かった頃、お前達はあんなに幸せだったのに……」
「私達、良かったのはあの頃だけだったわ」デルフィーヌが言った。「私達が穀物業であれだけ高い地位にいたのに、没落したあの瞬間て、いつだったのかしら」
「お父さん! それが総てでもないのよ」アナスタジーがゴリオの耳許で言ったので、彼は飛び上がった。「ダイヤモンドは一〇万フランで売れたんじゃないのよ。マクシムは訴追されたの。私達は一二〇〇〇フランしか支払えなかった。彼は私に二度と賭博はやらないと約束した。社交界で私に残されたものは彼の愛だけだったの、そして私は彼が私に漏らしたように彼が死んでしまわないように、彼にとても高い支払いをしたの。私は彼のために私の財産、名誉、休息、子供を犠牲にしたの。ああ! せめてマクシムに自由と名誉をお与え下さい。そして彼が社交界に留まり、然るべき地位で働くことを叶えてやって下さい。今、彼が私に返さなければならないものは幸福だけです。私達には子供がありますが、彼等には財産がありません。もし彼がサントペラジー[98]の牢獄へ入れられたら、何もかも失われてしまいます」
「私には財産はない、ナジー。もう、もう何も、もう何もない! これで世界は終わりだ。おー! 世界はもう崩壊だ、間違いない。逃げ出すんだ、前もって避難するんだ! ああ! 私はまだ銀のバックルを持っていた、それに食器が六セット、これは私が人生の門出の頃、手に入れたものだ。結論は、私にはもう一二〇〇フランの終身年金しかないということだ……」
「一体貴方は貴方の終身年金をどうなさったの?」
「私はそれを売ってしまった、私には必要な分だけの配当が入るように少しだけ残してあるがね。フィフィーヌのアパルトマンを整えるのに一二〇〇〇フランが要ったんだ」
「あんたのためだったの、デルフィーヌ?」レストー夫人が妹に言った。
「おー、それは何てこともないんだ!」答えたのはゴリオ爺さんだった。「一二〇〇〇フランかかったんでね」
「判ったわ」伯爵夫人が言った。「ド・ラスチニャックさんのためね。あー! ちょっと待って。私がどうなってるか見てよ」
「ねえ、ド・ラスチニャックさんは若者だけど、愛人を破滅させるような人じゃないわ」
「ありがとう、デルフィーヌ、私が今、困り果てているのに、あなたはもう少し優しく接してくれるかと思っていたわ。だけど、あなたはこれまでも決して私を愛してくれてなかったのね」
「勿論彼女はお前を愛してる、ナジー」ゴリオ爺さんが叫んだ。「彼女はいつだって私にそう言っている。私達はお前のことをよく話してるんだ。彼女はお前のことを美しい、そして彼女自身はただ可愛いだけだと言い張るんだ、彼女が!」
「彼女が!」伯爵夫人が繰り返した。「彼女は綺麗で冷たいのよ」
「そうであるにしても」デルフィーヌが顔を赤らめて言った。「あなたがあたしに対して、どうしてそんな風に振舞うの? あなたはあたしを否認した、あなたはあたしが行きたいと思ってた家の戸を全部閉じさせた。つまり、あなたはあたしを苦しめるためならば、どんな小さな機会も逃さなかった。そしてあたしは、あなたの様にこの可哀想な父さんから、千フランあれば千フラン、彼の有り金全部巻き上げにやってきたことがあって? それで彼の財産は今のような状態に減ってしまったんでしょ? ほうら、あなたのせいだわ、姉さん。あたしはね、あたしは出来るだけ多く父さんに会いに来てたわ。あたしは彼を外へ放り出すようなことはしなかったし、あたしが彼を必要とした時だって、彼におべっかを使いにやってきたことなんてないのよ。彼が私のために一二〇〇〇フラン使ってくれたことさえ私は知らないのよ。あたしは律儀なの、あたしは! あなた知ってるじゃない。第一、パパが私に贈り物をした時だって、私が欲しいと言ったことは決してないのよ」
「あなたは私より幸せなの。ド・マルセイさんは金持ちだったけど、あなたは、それを知ってたから彼に擦り寄ったんじゃない。あんたなんて規定重量不足の金[99]のようなみっともない女だったのよ。さようなら、私には妹もないし……」
「黙るんだ、ナジー!」ゴリオ爺さんが叫んだ。
「社交界の誰もが信じられないようなことを繰り返すあなたのような姉は他にいないわ。あなたは恐ろしい人よ」デルフィーヌは姉に向かって言った。
「お前達、お前達よ、黙ってくれ、でないと私はお前達の目の前で死ぬぞ」
「さあナジー、あたしはいいのよ」ニュシンゲン夫人が引き取って言った。「あなたは不幸せなんだもん。確かに、あなたに比べれば、あたしはましだわ。あなたを助けるために、あたしに何か出来そうな時だったら、あたしにこんな揉め事でも話してね。あたしの夫の部屋に相談に行ってもいいわよ。ただし、よそ様のことどころか、あたし自身のことでも、なかなか夫の部屋までは行けないんだけど……まあ、あなたがこの九年間、あたしに対してやってきた過ちの結果なんだから仕方ないのよ」
「お前達、お前達よ、抱き合いなさい!」父が言った。「お前達は二人とも天使だよ」
「いいえ、私を放っといて」伯爵夫人はそう叫んで、彼女の腕を取ったゴリオの抱擁を振り払った。「彼女なんて私の夫くらいの同情すら私に対して持っていないわ。そもそも美徳なんかを話すべきじゃなかったんだわ!」
「あたしはド・トライユ氏があたしに二〇万フラン以上の損害を与えたなどと認めるくらいなら、ド・マルセイ氏にお金を借りてるんだと人に思われる方がまだましだわ」ニュシンゲン夫人が答えた。
「デルフィーヌ!」伯爵夫人は彼女の方に一歩近づいて叫んだ。
「あなたがあたしのことを中傷するから、あたしが本当のことを言ったまでよ」男爵夫人が冷たく言い返した。
「デルフィーヌ! あんたって人は……」
 ゴリオ爺さんは伯爵夫人に飛びつくと彼女を制止した。そして彼女の口を手で覆って、彼女にそれ以上喋らせないようにした。
「ええ? お父さん、今朝は貴方、一体何をしようっていうの?」アナスタジーが彼に言った。
「うーむ! そう、私が間違っていた」哀れな父は手をズボンで拭きながら言った。「だが、お前が来ることを私は知らなかった。私は引越しをするんだ」
 彼は非難を自分の方に引き寄せて喜んでいた。それで娘の怒りを彼に向けさせることが出来たからである。
「ああ!」彼は坐りながら続けた。「お前達は私の心を引き裂いた。私はもう直ぐ死ぬ、お前達よ! 頭に火がついたように、頭の中が煮えてるんだ。だからお願いだ、優しくしておくれ! お前達のお陰で私は死にそうだ。デルフィーヌ、ナジー、しっかりするんだ、二人とも、理屈は合ってるにしろ間違ってるにしろ。どうしたもんかなあ、デデール」彼は男爵夫人に向き直ったが、その目には涙が溢れていた。「彼女には一万二千フランが必要だ、そのことを考えてみよう。そんな目で見ないでくれ」彼はデルフィーヌの前に膝まづいた。
「私を喜ばせるために彼女に謝ってくれないか」彼はデルフィーヌの耳許で言った。「姉さんは一番不幸せな目に会っている、そうだろ?」
「私の可哀想なナジー」デルフィーヌは父の顔の上に刻まれた悲しみからくる野蛮で常軌を逸した表情にぎょっとして言った。「私が間違ってました。私を抱いて……」
「ああ! お前は私の悲しみを慰めてくれる」ゴリオ爺さんが叫んだ。「しかし、何処で一二〇〇〇フランを見つけたもんかのう? 私が軍隊の補欠にでも志願するか?」
「あー! お父さん!」二人の娘は彼を取り囲んで言った。「駄目、駄目」
「神も貴方のその考えにご褒美を下さるでしょうが、我々の生活の足しにはなりません! そうよね、ナジー?」デルフィーヌが言った。
「その上、お父さん、そんなのは雀の涙よ」伯爵夫人が意見を述べた。
「それじゃ、もうどうしたって駄目なのか?」老人は絶望的に打ちひしがれて叫んだ。「私はお前を救ってくれるものなら、何にだって身を捧げるぞ、ナジー! 私はお前のために人一人殺したっていい。私はヴォートランのようにやってやる。そして徒刑場にでも行くさ! 私は……」彼は雷に打たれたように、そこで黙った。「もう何もない!」彼は髪をかきむしりながら言った。「もし泥棒するのにいいところを知ってたらなあ、だが、上手く泥棒出来るところを見つけるのも難しいな。そして銀行強盗となると、こんな難しいことは他にないだろうな。もう私は死ぬべきなんだ。私にはもう死ぬ以外に道はないんだ。そうだ、私がいたって何の役にも立たない、私は最早父親でもない! 彼女が私に頼んでいる、彼女には必要なんだ! それでこの私は、惨めだ、私には何もない。あー! お前は終身年金を持ってたんだが、くそ爺の悪党め、しかもお前には娘達までいる! しかし、お前は一体娘達を愛してるのか? 犬のようにくたばれ、くたばれ、お前から先にな! そうだよ、私は犬以下の存在だ、犬でもこんな馬鹿な生き方はしないよ! おー! 私の頭が! 頭が煮える!」
「だけどパパ」二人の若い女が叫んだ。彼女達は父が壁に頭を打ちつけないように彼を取り囲んでいた。「さあ、まともになって」
 彼は泣きじゃくっていた。ウージェーヌは驚いて、さっき引き出しの中に見つけた手形を取り出した。それはウージェーヌの署名以外は空白の白地手形だったが、その収入印紙は巨額の金に対応していた。彼は金額を一二〇〇〇フランにしてゴリオ振出の正規の為替手形を作った。そして部屋へ入っていった。
「はい、貴女のお金がそっくりありますよ、奥様」彼は手形を差し出して言った。「私は寝ていたんです。貴方達の話し声で目が覚めました。私はゴリオさんに如何に沢山のご負担を頂いているかを知りました。この手形を貴女は譲渡出来ます。支払いは私が責任を持って行います」
「デルフィーヌ」怒り、凶暴、激怒に震え青ざめてアナスタジーが言った。「私はあなたに何だって許してあげる。神かけて本当よ、だけどこれは! どうして、この方があそこにいらしたの、あーた知ってたんでしょ! あんたは私の秘密、私の生活、子供達のこと、私の恥辱、私の名誉が彼に漏らされるのをそのままにして、私に仕返しをするというけちな行為をしたのね! こうなったら、あんたなんか虫けら以下よ、あんたを憎むわ、私あんたにはあらゆる嫌がらせをしてやる、私は……」怒りの余り彼女は言葉を途切らせた。彼女は喉をからしてしまった。
「だがこの人は私の息子だ、私達の子供だ、お前の兄弟だ、お前の救い主だ」ゴリオ爺さんが叫んだ。「さあ彼と抱擁しなさい、ナジー! ほら私は、私は彼と抱擁するぞ」彼はそう言うと、ある種激昂したようにウージェーヌをつかんだ。「おー! 我が子よ! 私は君に対しては父親だけには留まらない、私は君の家族でありたいもんだ。私は神になって、君の足元に世界を置いてみたいもんだ。しかし、彼にキスしたかね、どうなんだナジー? この人は唯の人じゃない、そうじゃなくて天使だ、本当の天使だ」
「そっとしといて、お父さん、今は彼女気違いのようになってるから」デルフィーヌが言った。
「気違い! 気違い! それじゃ、あーた、あーたはどうなの?」レストー夫人が尋ねた。
「お前達、お前達がやめなければ私は死んじまうよ」老人は叫ぶと、まるで鉄砲玉が当たったようにベッドの上に倒れた。「彼女達が私を殺す」彼はそう思った。
 伯爵夫人はウージェーヌを見つめた。彼はじっと動かず、この光景の余りの荒々しさに呆然としていた。「貴方」彼女は尋問するような物腰、声音、眼差しで彼に話しかけた。彼女は父親には注意を払わなかったが、デルフィーヌが素早く父のチョッキを脱がせにかかっていた。
「奥様、私が支払いを致します、そして、私は黙っています」彼は質問を待つことなく答えた。
「あなたが父を殺したのよ、ナジー!」デルフィーヌは気絶した老人を姉に見せながら言った。姉は急いで立ち去った。
「私は彼女のことは許してやるよ」爺さんは目を開けていった。「彼女の立場は実にひどいもんだから、もう少しましな頭でもおかしくしてしまうんだろ。ナジーを慰めてやってくれ。彼女に優しくな、どうかこの哀れな父にそう約束してくれ、私はもう直ぐ死ぬ」彼はデルフィーヌの手を強く自分に押し当てながら言った。

 
 
 
 
(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
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2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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