ゴリオ爺さん バルザック

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「ね、一体どうしたの?」彼女はひどくおびえて言った。
「何でもない、何でもない」父が答えた。「こんなのは直ぐに直るさ。何だか額に圧迫感があるんだ、頭痛だな。可哀想なナジー、将来はどうなるんだ!」
 この瞬間、伯爵夫人が戻ってきた。彼女は父の膝元に身を投げ出した。「許して!」彼女が叫んだ。
「さあ」ゴリオ爺さんが言った。「お前は今のところ、誰よりも心配の種なんだ」
「貴方様」伯爵夫人がラスチニャックに向かって言った。その目は涙に濡れていた。「悩みのため私は正常さを失くしていました。貴方はやがては私の兄弟におなりなんでしょうか?」彼女は彼の方に手を拡げながら言った。
「ナジー」彼女を抑えながらデルフィーヌが言った。「ねえナジー、みんな忘れて」
「いいえ」彼女が答えた。「私は覚えてるわ、絶対に!」
「誰か」ゴリオ爺さんが叫んだ。「目を覆っている布切れを取ってくれないか、お前達を見ると元気が出るんだ。お前達、さあ、もう一度抱き合いなさい。おや! ナジー、この為替手形、これでお前は助かるんじゃないのかね?」
「私も希望を持ってます。じゃ教えて、パパ、そこに貴方のサインをして頂けるかしら?」
「あれ、こりゃあうっかりしてた、私としたことが、それを忘れてたとは! だがな私は自分の状態が悪いと感じるんでな、ナジー、私には期待しないでくれ。私にはお前が危機を脱したという知らせを届けてくれ。いや、私が行こう。やっぱり駄目だ、私は行かない、私はもうお前の夫とは会えない、急に彼を殺さんとも限らん。お前の財産を損なうようなら、私も立ち会おう。早く行きなさい、お前、そしてマクシムが賢明な道を取るのを助けてあげなさい」
 ウージェーヌは呆然としていた。
「あの可哀想なアナスタジーはいつも乱暴なのよ」ニュシンゲン夫人が言った。「だけど気立てはいいのよ」
「彼女は裏書のために戻ってきたんだ」ウージェーヌがデルフィーヌの耳に囁いた。
「貴方そう思う?」
「僕はそう思いたくないんだがね。彼女を信用し過ぎない方がいいよ」彼はそう答えると、上を見上げたが、その目は敢えて言わなかった彼の考えを神に委ねようとするかのようだった。
「そうなの、彼女はいつもちょっと芝居がかってるのよ、でね、可哀想にお父さんたら自分の宝物を持ってゆかれるのを放ってるのよ」
「ご機嫌いかがですか、僕の好きなゴリオのお父さん?」ラスチニャックが老人に声をかけた。
「私は眠りたいよ」彼が答えた。
 ウージェーヌはゴリオが寝るのを手伝ってやった。やがて爺さんが、デルフィーヌの手を取ったまま眠りに落ちると、娘は爺さんの傍を離れた。
「今晩イタリア座でね」彼女はウージェーヌに言った。「そして、彼の具合を私に教えてね、明日、貴方は引っ越すのよ、旦那様。さあ、貴方の寝室ね、おー! 何と恐ろしい!」彼女はそこに入って言った。「本当に貴方の住居って父のところ以上にひどかったのね。ウージェーヌ、貴方って立派に振舞ってたのね。私はもし許されるなら、これまで以上に貴方を愛せると思うわ。だけど、ねえ、もし貴方が財を築きたいんなら、あの一二〇〇〇フランを窓から投げ出すようなことをしちゃあ駄目よ。ド・トライユ伯爵は賭博人よ。姉はその現実を見ようとしない。彼はずっと一二〇〇〇フランを求めてあそこへ通い続けるんだわ、そこなら彼は金貨の山を失くしたり取ったり出来るんだから」
 うめき声がしたので二人はゴリオのところへ戻った。彼は眠っている様子だった。しかし恋人二人が近づいた時、彼等はこんな言葉を聞いた。
「彼女達は幸せでない!」彼は眠っていたにせよ、目覚めていたにせよ、この言葉の響きがひどく生々しく娘の心を打ったので、彼女は父が横たわっている粗末なベッドに近寄って、彼の額にキスをした。彼は目を開けて言った。「デルフィーヌじゃないか!」
「さあさあ! 具合はどうですか?」彼女が尋ねた。
「いいよ」彼が言った。「心配せんでもいい、私は直ぐ外出する。がんばるんだよ、お前達、幸せにな」
 ウージェーヌはデルフィーヌに付き添って彼女を家まで送っていった。しかし、彼が残してきたゴリオの状態が気がかりだったので、彼女との夕食を断って、メゾン・ヴォーケに戻ってきた。彼はゴリオ爺さんが起きていて食卓につこうとしているのを見つけた。ビアンションは製麺業者の様子を仔細に観察し始めていた。老人がパンを手に取り、自分としてはその小麦粉にはぎりぎり我慢が出来るといった判定を下すためにいじっているのを見ると、この医学生は老人の動作の中に行動の意識と普通呼ばれているものの統合性が欠けているのを観察することが出来た。そして彼は不吉な見解を身振りで示した。
「おい僕の横へ来いよ。コシン病院のインターンの先生よ」ウージェーヌが言った。
 ビアンションもまた、そこへ移動したいと思っていたので、あっという間に親しい下宿人の横にやってきた。
「彼はどうなんだ?」ラスチニャックが尋ねた。
「僕が間違ってなければ、彼は炎上してる! 彼の中でとんでもない何かが起こったに違いない。僕には脳出血がいつ起こってもおかしくない症状が出ているように見えるんだ。身体の下半身は極めて平静なんだけど、顔の全体を掌握する特徴が彼の意志に反して額の辺りに引っ張られてるんだ、見ろよ! そして目は漿液が脳に漏れ出していることを示す特殊な状態にあることが読み取れる。僕達は無数の終わり方があることを前に話したことはなかったかな? 明日の朝になれば、僕にはもっと色々分かってくると思う」
「何か治療法はないのか?」
「何もない。恐らく彼の死を遅らせるには、身体の先端部分、足などに対して何らかの反発を引き起こす方法が考えられる。しかし、明日の夜、症状がやまなければ可哀想な爺さんは死んじまうだろうな。君は病気の発症の原因となる何か事件でも知ってるのか? 彼は何かひどく荒々しい衝撃を受けて精神的に押しつぶされたに違いないんだ」
「うん」ラスチニャックは二人の娘が絶え間なく父親の心を痛め続けていたことを思い出して答えた。
「少なくとも」とウージェーヌは思った。「デルフィーヌは父親を愛している。彼女の方は!」
 その夜イタリア座でラスチニャックはニュシンゲン夫人を過度に心配させないように気遣った。
「心配しないでね」ウージェーヌが彼女に対して発した最初の言葉に答えて彼女が言った。「私の父は丈夫なのよ。ただね、今朝は私達、彼をちょっと驚かせたわね。私達の財産は今問題なのよ、貴方、この損害の大きさを測ってみた? 貴方の愛情がなければ、最近経験した耐え難いほどの苦しみを忘れて生きるなんて出来なかったわ。今日この頃はたった一つの心配事しかないの、私にとって唯一の災厄、それは私に生きる喜びを感じさせてくれる愛を失うことなの。この感情を除いては何もかも私には関心がないの、私はもう社交界の何も愛さないわ。貴方が私にとって総てなのよ。私が金持ちで幸せだと感ずるとすれば、それは貴方をもっと喜ばせたいと考えるからなの。私は不名誉なことだけど、人の娘であるよりも、まず愛人なの。何故かって? 分からない。私の命は総て貴方のものよ。父は私に心臓を与えてくれたけれど、貴方はそれをどきどきさせてくれた。社交界は揃って私を非難するでしょう、それは私にはどうでもいいこと! 私は貴方に要求する権利はないんだけど、もしかすると貴方は、私が抗い難い感情によって犯してしまった罪から私を無罪放免にして下さらないかしら? 貴方は私のことを異常な女だとお思いになって? ああ、そんなことないわ、私達の父のような優しい父親を愛さないなんてことはあり得ない。彼に私達のひどく間違った結婚の当然の成り行きを見せないで済ますことは出来ないものかしら? どうして彼はそれを未然に防げなかったのでしょう? 彼が私達のためにそこまで考えるのは無理だったのかしら? 今では私もそれを理解しています。彼は私達と同じように苦しんでいます。でも、それだからと言って私達に何が出来るんですか? 彼を慰める! 私達には何一つ彼を慰めるようなことは出来ません。私達の諦めは、私達の非難や不平が彼に悪い影響を与えるよりもっとひどく彼を悲しませることになります。彼は今、人生において何もかもが苦く感じられる、そういう時期に来ているのです」
 ウージェーヌは真摯な感情から溢れ出たナイーヴな表現に打たれて、甘美な気分に浸って黙って聞いていた。たとえパリの女性がしばしば偽装し虚飾に酔い利己的に偏り媚態を尽くし冷淡に振舞うことがあるにしても、彼女達がひとたび真に誰かを愛すると、彼女達は間違いなく他所の女性以上に、情熱の前では小さな感傷を潔く犠牲にするのである。彼女達は皆、自分の卑小さから背伸びをする、そして崇高さにまで達するのである。至高の愛の前では彼女達から感傷は隔てられ、彼女達は感傷から距離を置いている。ラスチニャックが打たれたのは、デルフィーヌが自分の感傷は極めて自然だと判断する時に見せた深くて公正な知性だった。しかしニュシンゲン夫人はウージェーヌが沈黙を守っていることに気を悪くした。
「貴方、一体何を考えているの?」彼女が尋ねた。
「僕は貴女が僕に言ってくれたことを、まだ心の中で繰り返し聞いてるんだ。僕は今まで、貴女が僕を愛してくれる以上に、僕が貴女を愛していると思っていた」
 彼女は微笑んだ。気持ちはもう彼女が抱いている楽しみの方へ向かっているのだった。会話は礼儀に適っている限り、何処までも自由に解放されているのだ。彼女は若く真摯な愛情が、これほど活き々々と表現されたのをかつて聞いたことがなかった。これ以上もう、どんな言葉も彼女には要らなかった。
「ウージェーヌ」彼女は話題を変えて言った。「ところで貴方は今起こってることを知らないの? パリ中が明日はボーセアン夫人の話で持ちきりよ。ロシュフィード家とダジュダ侯爵は何も言いふらさないように申し合わせてきたのよ。だけど国王が明日、結婚契約に署名するのよ、なのに貴方の気の毒なお従姉さんはまだ何も知らないの。彼女はこれを受け入れざるを得ないでしょう、そして侯爵は彼女の舞踏会には出ないはずよ。皆この意外な出来事のことばかり話してるわ」
「そして社交界は人の不名誉をあざ笑って、そこに浸りきっている! 貴女はまさかボーセアン夫人が死ぬかもしれないとか思ってるんですか?」
「いいえ」デルフィーヌが微笑しながら言った。「貴方はあのタイプのご婦人達のことをご存じないのね。だけど、パリ中の人が彼女のところへ集まってくるわよ。そしてあたしもそこへ行く! そういうこともあるけれど、この幸運は貴方のお陰よ」
「しかし、この馬鹿げた騒ぎというのは、皆がパリ中を走り回って広めたようなもんではありませんか?」
「私達は明日になれば本当のところを知ることになるわよ」
 ウージェーヌはメゾン・ヴォーケには帰らなかった。彼は自分の新しいアパルトマンを楽しむという誘惑を断ち切れなかった。前日は真夜中過ぎの一時にデルフィーヌと別れざるを得なかったが、それが今度は、帰宅するために彼と二時頃に別れて帰って行くのはデルフィーヌの方だった。彼は翌日遅くまで寝ていた。正午頃にはニュシンゲン夫人を待っていた。
 そして彼女は彼と昼食をとるためにやってきた。若者というのは、こうしたささやかな幸せに飢えているものである。彼はゴリオ爺さんのことをほとんど忘れてしまっていた。彼が馴染まなければならなくなったこの優雅な事共のことごとに慣れることそのものも結構長い楽しい祭りのようなものだった。ニュシンゲン夫人がそこにいる事は、あらゆるものに新しい価値を与える事になった。しかしながら、四時頃、二人の恋人はゴリオ爺さんの事を考えた。幸せの中で、彼がこのマンションに住みにくることを当てにしていた事を思い出したのだった。ウージェーヌは爺さんが病気になってしまっただけに、彼を即刻こちらへ連れてくる必要があると言って、デルフィーヌをおいて、メゾン・ヴォーケへ走っていった。ゴリオ爺さんもビアンションも食卓についていなかった。
「おや!」絵描きが彼に言った。「ゴリオ爺さんは足を痛めたんだ。ビアンションが上で彼の傍にいるよ。爺さんは片方の娘と会ったんだ、レストー伯爵夫人の方だ。それから彼は外出したいと言い出して、そして彼の病気が悪化したんだ。ここの仲間はもうすぐ良き友人を一人失うんじゃないか」
 ラスチニャックは階段の方へ飛んでいった。
「まあ! ウージェーヌさん! ウージェーヌさん! 奥さんが貴方をお呼びですよ」シルヴィが叫んだ。
「貴方」寡婦が言った。「ゴリオさんと貴方、貴方達は二月十五日には、ここを出てゆく事になってるんです。ところが十五日を過ぎて三日になります。もう十八日なんですよ。貴方と彼は一か月分を私に払わなければなりません、だけど、もし貴方がゴリオ爺さんの分も保証してくれるんなら、貴方の言葉だけで十分ですよ」
「どういうことですか? 貴女は彼を信用していないんですか?」
「信用! もし爺さんが意識を回復しないで死んでしまったら、彼の娘達はあたしにはびた一文も払いはしないわ、で、彼の古着全部売っても一〇フランにもならないわ。彼は今朝、彼が最後まで持っていた食器セットを持ち去ったわ、あたしにはどうしてだか分からない。彼は若者のようにめかしこんでいたの。思い切って言うと、あたしは彼が頬紅をつけてたと思うの、あたしには彼が若返ったように見えたわ」
「僕は後でみんなご返事します」ウージェーヌはそう言って恐ろしさに震えた、そして破局が近いことを理解した。
 彼はゴリオ爺さんの部屋へ上がっていった。老人はベッドに横たわっていた。そしてビアンションが彼の脇にいた。
「こんにちは、お父さん」ウージェーヌが言った。
 爺さんは彼に優しく微笑んで、彼の方に輝きの消えた目を向けながら答えた。「彼女のご機嫌はどうかね?」
「いいですよ、で、貴方は?」
「悪くない」
「彼を疲れさせないようにな」ビアンションはウージェーヌを部屋の隅に引っ張って行って言った。
「えっそうかい?」
「彼はもう奇跡でも起こらない限り助からない。漿液性の充血があったんだ。芥子泥療法をとってるんだが、上手い具合に彼は反応してるし効き目があるようだ」
「彼を移動させることは出来るか?」
「無理だ。彼はあそこに置いておくしかない。彼にとって肉体的動きや強い感動も総て避けなければならない……」
「おいビアンションよ」ウージェーヌが言った。「僕達が二人の家で彼の看護をしたいんだが」
「僕はもう病院の主任の医者を来させてるんだよ」
「それで、どうなんだ?」
「彼が言うには、明日の夜までだ。彼は日中の仕事が終わったら来ると約束してくれた。悪いことに今朝、このすっかり弱った爺さんが軽率なことをしたんだが、彼は僕に説明したくないらしいんだ。彼はひどく頑固なんだ。僕が彼に話しかけると、彼は聞いてない振りをするんだ、そして僕に返事しないために眠ってしまうんだ。あるいは、彼が目を開けていたとすると、彼はうめき始めるんだ。彼は午前中外へ行ってた。パリのどこかへ歩いて行ったんだが、何処へ行ったのかは誰も知らない。彼は頑張って持ち続けてきたものを全部運び去ったんだ。彼は何かとんでもない努力をしてしまったはずなんだ。そのせいで、彼の力の限界を越えてしまった! 彼の娘の一人が来てたよ」
「伯爵夫人かい?」ウージェーヌが言った。「背が高くて褐色の肌、目はきらきらしてて綺麗に髪をカットしている、脚がすらっとしていて、しなやかなボディの女だったろう?」
「そうだよ」
「僕と彼と暫く二人だけにしてくれないか」ラスチニャックが言った。「僕が彼に白状させる。彼は僕に何でも話すと思う、多分僕にだけは」
「僕はその間に夕食に行ってるよ。ただ、彼にあまり興奮させないように気をつけてくれ。僕達はまだ幾らかの希望は持ってるんだ」
「任せてくれ」
「彼女達は明日が楽しみだね」二人だけになった時、ゴリオ爺さんがウージェーヌに話しかけた。「彼女達が同じ大舞踏会に行くんだ」
「貴方は今朝一体何をなさってたんですか、パパ、そんなに夜になってベッドから動けないほどひどく身体を痛めてしまうなんて?」
「別に何も」
「アナスタジーが来たんですって?」ラスチニャックが尋ねた。
「うむ」ゴリオ爺さんが答えた。
「さあ! 僕には隠し事なしにしましょう。彼女がまた何を貴方に頼んだんですか?」
「ああ!」彼は話すために彼の力を結集して答えた。「彼女はひどく不幸せなんだよ、なあ、そうだろ! ナジーはダイヤモンドの件以来、びた一文持ち合わせもないんだ。彼女は今度の舞踏会用に金刺繍入りのドレスが要るんだ。それは彼女にとって宝石同様に欠かせないものなんだよ。彼女の仕立て屋、とても嫌な女だがね、こいつが彼女に信用売りするのを嫌がってね、で、彼女の小間使いが化粧品代の内金として千フランを支払ったんだ。可哀想なナジー、そんなことになるなんて! 私は胸が張り裂けそうだ。だがこの小間使いは、あのレストーがナジーに対する信用を全部取り下げてしまうのを見て、自分の金を失くすのが心配になって、仕立て屋とぐるになって、もし千フランを返してくれるならドレスの引渡しはしなくてもいいことにしてしまったんだ。舞踏会は明日だ、ドレスも準備出来ている。ナジーはすっかり絶望している。彼女は私から食器一式を借りて担保にしようと思ったんだ。彼女の夫は彼女がその舞踏会に行って、皆が彼女によって売られたと言い張っているダイヤモンドをパリ中の人に見せびらかして欲しいと思ってるんだ。この人でなしに彼女はこんなこと言えるかね。『私は千フラン要るんです、どうぞ私に下さい』なんてことを? いいや、私はそんなこと分かってる、私には。妹のデルフィーヌは素晴らしく着飾って、そこに行くことだろう。アナスタジーとしては妹にひけをとるわけにはいかないんだよ。それで、彼女はすっかり涙にくれているわけだ、私の哀れな娘よ! 私は昨日一二〇〇〇フランを持っていなくて非常に屈辱的な思いをした。そこで、その時、彼女にしてやれなかったことへの償いのために、私の惨めな残りの人生を総て彼女にやったんだ。お分かりでしょう? 私には全部持ってゆくだけの力が残っていた。しかし、私の最終的な金不足が私の心を引き裂いた。おー! おー! 私にはひとつとして出来ることがないんだ。私はとりあえず体に応急処置をして立ち直った。私は食器一式と金の金具を六〇〇フランで売った。それから、期間一年の契約で私の終身年金証書を四〇〇フラン一括払いで質入した、ゴプセックの爺さんの店だ。なあに! パンくらい食ってゆけるだろう! 若い頃はそんなもの何でもなかった、今度も何とかいけるだろう。少なくとも彼女は素敵な夜会に行けるんだ、私のナジー。彼女は粋なもんだろう。私は千フラン札をあそこ、私の枕の下に置いてるんだ。あそこ、頭の下に可哀想なナジーを喜ばせるものを置いてることが、私の心を何とも暖かくしてくれるんだよ。彼女は意地悪な召使いヴィクトワールを追い出すことだって出来るんだ。あいつほど自分達の主婦に対して好き勝手な召使いなんて見たことないよ! 明日になれば私は良くなるだろう。ナジーは十時にここへ来る。私は彼女達に私の病気を知られたくない。彼女達二人とも舞踏会に行かなくなるだろ、彼女達は私のことで気を遣ってしまうだろ。ナジーは明日になれば、私を子供のように抱いてくれるだろう、彼女の愛撫で私は治っちまうさ。しかし、私は薬屋に千フランくらいは払うことになるのかな? 私は金を私の万能薬、ナジーに払ってやりたいんだが。そうしたら私は彼女が惨めな思いをしていても、少しは彼女を慰めることが出来るんだ。それで、私は自分に終身年金を掛け続けて迷惑をかけてはいかんと思って解約したわけだ。彼女は深い淵の底に沈んでいる。それなのに私ときたら、もう彼女をそこから引き上げてやるほどの力はない。あー! 私はまた商売に戻れたらと思うんだが、そして、オデッサに穀物の買い付けに行きたい。小麦がそこではわが国の三分の一の値段しかしないんだ。たとえ穀物の輸入が原産物では禁止されていても、法律を決めるお堅い連中は加工品を禁止することまでは考えてないんだ、しかもこの分野では小麦が主力品なんだよ。ねえ!……私はこれを考えついた、今朝、私の頭に浮かんだ! 澱粉を扱う商売なら上手くいきそうだよ」
「彼は狂ってる」老人を見つめながらウージェーヌは思った。「さあ、休んでた方がいいですよ、もうしゃべらないで……」
 ビアンションが戻ってきたので、ウージェーヌは夕食のため階下へ行った。その後は二人で代わる代わる病人を見守り、合間に一人は持ってきた医学書を読み、片方は母と妹に手紙を書いたり等して夜を過ごした。翌朝、病人に現れる徴候が、ビアンションの言に従えば、好ましい徴候に見えた。しかし容態は引き続き看護を必要としており、それをやるのは二人の学生しかいなかった。その模様は現代風の婉曲的な語り口では間に合わないので、生々しい直接的表現を使わざるを得ない。爺さんの衰えた身体に蛭療法が行われ、続いて湿布剤、足湯、更に二人の若者の力と献身なくしてはなし得ない医学的措置がとられた。レストー夫人は来なかった。彼女は使いを寄越して彼女のお金を取っていった。
「私は彼女自身が来るものと思っていた。だが、かえってこれでよかった。彼女に心配させるところだったよ」父親はそう言って、こうなったことを喜んでいるように見えた。
 晩の七時にテレーズがデルフィーヌの手紙を持ってきた。
〈貴方は一体何をなさってるの? ほとんど愛されることもなく、私はもう飽きられてしまったの? 貴方はこの心から心へ溢れ出した打ち明け話の中で、感情には如何に多くの微妙な違いがあるかを見知った時、いつでも忠実であり続ける人間でいるには余りにも綺麗過ぎるその魂を、まだこの私にお示しくださいませんのね。ちょうど貴方がオペラの中で、モーゼの次のような言葉を聞いた時おっしゃいましたわね。『ある者にとって、それは普通の言葉の響きだが、別の者にとっては、それは音楽の無限そのものだ!』どうぞ、ボーセアン夫人の舞踏会に行きたくて、貴方を待っている私のことを考えてください。ダジュダ氏の誓約書は確かに今朝、裁判所で署名されています。そして気の毒な子爵夫人は二時までそのことを知らなかったのです。パリ中の人が彼女の家へ集まってくるわ、だって民衆は死刑執行があると、ピケを張って大混雑をさせるものでしょ。あの貴婦人が悲しみを隠し通せるのか、彼女は見事な最期を遂げて見せるのか、それを見に行くって恐ろしいことじゃありませんか? 私はきっと行かないと思います、そうよ、もし私が一度でも彼女の邸へ行ったことがあればね。だけど、彼女が今後招待することは絶対になくて、私がこれまでやってきた努力は全て無駄になるというわけ。私の場合は他の人達のそれとは全然違うのです。それとは別に、私は貴方のためにもそこへ行くつもりです。私は貴方をお待ちしています。もし二時間以内に貴方が私の傍へいらっしゃらないなら、私は貴方の裏切りを許せないでしょう〉
 ラスチニャックはペンを執ると次のように返事を書いた。
〈僕は医者から、貴女のお父さんがまだ生きておられるかどうかを聞くために待ってるところです。彼は危篤です。僕は貴女に診断結果を知らせに行きますが、僕はそれが死亡宣告でないことを祈っています。貴女には、貴女が舞踏会に行けるかどうか、お分かりのことと思います〉
 医者が八時半に来て、希望的見解は述べなかったが、死が非常に迫っているとは考えていないと言った。彼は回復と逆戻りが交互に来て、そのうちに爺さんの命と理性が下降してゆくだろうと告げた。
「彼はこのまま亡くなってしまう方が楽でしょうな」医者は最後にこう言った。
 ウージェーヌはビアンションが見守る中でゴリオ爺さんと内密の話をした。それから悲しい報せを持って、ニュシンゲン夫人に知らせるべく下宿を出た。その時の彼の心は家族としての義務感がしみ込んでいたので、この報せで楽しみなどは総て中止されるものと思っていた。
「ねえ、彼女にはいつも通り楽しんでくるように言ってくださいよ」ラスチニャックが出てゆく時、それまでうとうとしているように見えたゴリオ爺さんが起き上がって坐った姿勢で彼に向かって叫んだ。
 若者は悲嘆に暮れた様子でデルフィーヌの家に現れた。彼女は帽子を被り、靴を履き、後は舞踏会のためのドレスを着るばかりになっていた。しかし、画家が絵を仕上げようとする最後の一筆にも似て、最後の支度が絵の基本部分に要した以上の時間を費やさせていた。
「あら何、貴方まだ着替えてないの?」彼女が尋ねた。
「しかし奥さん、貴女のお父様が……」
「また私の父のこと」彼女は彼の話を遮って叫んだ。「だけど貴方はあたしが父に対して何をすべきなのか教えてくれないじゃないの。あたしはずっと長い間、父を知ってるわ。とても一言では言えない、ウージェーヌ。あたしは貴方が身支度を整えるまでは貴方の言うことなんて聞かない。テレーズが貴方の家の方で皆整えてるわ。私の馬車も待ってる。その馬車で行って戻ってくるのよ。私達、舞踏会へ行く道のりで、父のことを話しましょ。私達早めに出なきゃいけないわ。馬車の混雑に巻き込まれたりしたら、私達十一時に辿り着けるかどうかになってしまうわ」
「奥さん!」
「さあ! もう言わないで」彼女はそう言うと首飾りを着けるため閨房に駆け込んでいった。
「さあ、それじゃ行きましょう、ウージェーヌさん、奥さんを怒らせちゃいますよ」テレーズはそう言って、この優美な親殺しに呆然とした若者を押していった。
 彼はとても悲しく意気消沈した思いのまま服装を整えに行った。彼はまるで汚泥の海のような社交界を目の当たりにした。そこに足を踏み入れたとたんに、人は皆そこで首まで浸かってしまうだろう。「卑しい犯罪の他に何があるんだ!」彼は思った。「ヴォートランの方がよほど立派だ」彼はその時、社会に存在する三つの偉大な理念を見て取った。忍従、闘争、そして反逆。それらを具象化したものが家族、社交界、そしてヴォートラン。しかし彼はあえて今、態度を決めようとは思わなかった。忍従は退屈だ、反逆は不可能だ、そして闘争は不確かだ。彼の思いは彼を家族の中に戻していた。彼は誰よりも自分を愛してくれた人達の中で過ぎて行った日々を思い出した。家族の団欒の自然の法則に順応していれば、可愛い子供達はそこで溢れるばかりのいつまでも変わらない幸せを見出し、何の苦悩もなく過ごせる。彼は正しい思考をしたにもかかわらず、デルフィーヌに向かって、純粋な魂の信念をはっきり宣言し、彼女にも愛の名において美徳を求めるという勇気が湧いてこないのだった。既に彼が受け始めた教育は彼に果実をもたらしていた。彼は今はもう利己主義を愛していた。彼の如才なさは、デルフィーヌの心の自然さを認めることを既に自分に許していた。彼は彼女が舞踏会に行くために父の身体を乗り越えることさえはばからないだろうことを察した。その上で、彼は条理を諭す役目を演じる力もなく、彼女に不快な思いをさせる勇気もなく、彼女と別れるだけの美徳もなかった。「彼女はこの状況の中で、彼女に対立する考えを持ったことで、僕を決して許してくれないだろう」彼はそう思った。そして彼は医者が言った言葉に注釈をつけてみた。「医者達はゴリオ爺さんが彼等が考えていたほどには危険な病状でなかったという判断に傾いていたんだ」結局、彼はデルフィーヌを正当化するために人殺しの理屈を積み重ねていたのだ。「彼女は父親がどんな状態であるかを知らないんだ。それに爺さん自身が、もし彼女が彼に会いに来たら、彼女を舞踏会に送り返すだろう」社会の法は公式には斟酌の余地など残していないはずだが、実地では、罪が明白であっても、家族間に存在する性格の違いや関心や立場の多様性を考慮し、無数に変形した理由をつけて、無罪判決を下すことがしばしばあるのだ。ウージェーヌは自分自身を欺きたいと思った。彼は彼の女主人のために自分の良心を犠牲にしたいと思った。この二日間で彼の人生の総てが変わった。この女性は自分のごたごたをこちらへ放り込んできた。お陰であれほど深かった彼の家族への思いやりも薄れ、彼の行為においては総て彼女の利益が優先されることとなってしまった。だがラスチニャックとデルフィーヌはお互いに最も激しく快楽を享受するには絶好の条件下で巡り会ったともいえた。彼等の十分に準備されていた情熱は、多くは情熱を殺してしまうもの、すなわち快楽の所有によって更に大きくなった。この女性を自分のものにして初めて、ウージェーヌはその時に至るまで自分は彼女を欲していただけだったこと、翌朝の幸せに包まれて真に彼女を愛することが出来たことを知った。愛とは多分、喜びを知ることに過ぎない。汚らわしかろうと崇高であろうと、彼はこの女性に火をつけ持参金代わりに彼女の肉体を熱愛した。そして快楽をむさぼれば、その味が更に彼の愛を掻き立てた。同様にデルフィーヌもラスチニャックを愛した。それはちょうどタンタロスが彼の空腹を満たすため、あるいは彼の喉の渇きを癒すためにやってきた天使を愛したのと同じことだった。
「さあ! それで、父の具合はどうですか?」彼が舞踏会用に着替えて戻ってきた時、ニュシンゲン夫人が彼に尋ねた。
「とても危ない状態です」彼が答えた。「もし貴女が貴女の愛のしるしを私に見せたいとお思いなら、私達は彼に会いに行きましょう」
「そうねえ! そうしましょう」彼女は答えた。「だけど舞踏会の後よ。ねえウージェーヌ、あなた優しいんだから、私に道徳を押し付けないで、いらっしゃい」
 彼等は出発した。ウージェーヌはその道中しばらく黙り込んでいた。
「貴方どうなさったの?」
「私には貴女のお父さんのあえぐ声が聞こえるんです」彼は怒りをにじませながら答えた。それから、彼は若者らしい熱のこもった調子で話し始めた。レストー夫人が虚栄心に駆られてやった残忍な行為、父親としての最後の献身が彼を危篤に陥らせたこと、そしてアナスタジーのラメ入り衣装がゴリオに与えた打撃。デルフィーヌは涙を流した。
「私の涙で化粧が落ちてしまいそうだわ」彼女はそう考えた。彼女の涙は直ぐに乾いた。「私は父を助けに行くわ。私は彼の枕元を離れないわ」彼女が言った。
「あー! やっと僕が望んでいたような貴女になったんだね」ラスチニャックが叫んだ。
 五百台の馬車のランプがボーセアン邸の周りを明るく照らしていた。光り輝くそれぞれの入り口には騎馬憲兵が跨った馬が盛んに前脚で地面を蹴っていた。上流社会の人々が驚くほど多数押しかけて、そして誰もがこの大貴婦人の凋落する瞬間を見ようとやたらに急いでいたので、邸の一階を占めていたアパルトマンは、ニュシンゲン夫人とラスチニャックがそこへ姿を現した時には既に人で溢れていた。ルイ十四世がかの有名なモンパンシェ嬢[100]から恋人を奪い去ったときに宮廷人たちが彼女の邸に押し寄せたあの時以来、今回のボーセアン夫人が味わったほど激しい心の痛みが人々の耳目を集めたことはなかった。このような状況で、ブルゴーニュの王族に近い家柄の末娘は彼女に起こった災厄を克服する能力を見せつけて、最後の瞬間まで社交界に君臨し続けた。そこにおいて彼女は見栄を張れば自分の情熱の勝利をアピールするくらいのことは出来たであろうけれど、それを拒否した。パリで指折りの美しい貴婦人達は彼女達の化粧と微笑でサロンを彩っていた。宮廷で殊に際立った存在の男達、大使、閣僚、あらゆるジャンルの秀でた人々が勲章、バッジ、色とりどりのリボンで自分を飾り立てて、子爵夫人の周りにひしめいていた。オーケストラは女王にとって既に空しくなったこの宮殿の豪華な装飾の下で主題曲を鳴り響かせていた。ボーセアン夫人は第一広間の前に立って、彼女のいわゆる友人達を出迎えていた。白いドレスを着て、髪を質素に結っただけで何の髪飾りも付けず、彼女は静かで、悲しみも自尊心も偽りの喜びも見せることはなかった。誰も彼女の心の中を読むことは出来なかった。たとえて言うならば、彼女は大理石のニオベ[101]のようだった。親しい友人に対する彼女の微笑は時には冷やかしの笑みだった。しかしながら、彼女は全く彼女に似つかわしく彼女そのものに見えたし、かつて幸福を独り占めにしているとさえ思われた頃、彼女がそうであったように実に見事に振舞っていたので、かつて若いローマの婦人達が、死の間際でも微笑んで見せた剣闘士に拍手を送ったように、鈍感極まる人ですら今夜の彼女には感嘆していた。社交界は一人の女王に別れを告げる準備を整え終わったように見えた。
「貴方が来ないのじゃないかと、私とっても心配だったの」彼女がラスチニャックに言った。
「奥様」彼はその言葉をある種の非難と捉えて、感情を込めた声音で答えた。「私は最後の一人として残る積りで参りました」
「よかったわ」彼女は彼の手を取りながら言った。「貴方は多分ここで私が当てに出来る唯一人の人だわ。ねえ、貴方はいつまでも愛せる女性一人を愛してね。誰かを棄てるようなことはしないのよ」
 彼女はラスチニャックの腕を取ると、人々がカードに興じている部屋のソファーに連れて行った。
「侯爵の家に行って下さい」彼女が彼に言った。「私共の召使のジャックが貴方をそこまで案内しますわ。ですから、貴方は彼に手紙を渡して頂きたいのです。私は彼に私のこれまでの手紙を返してくれるように要求しています。彼は貴方に私の手紙を総て返してくれることでしょう。私はそう信じています。もし貴方が私の手紙を返してもらったら、戻って私の寝室に上がって下さい。私には誰かが知らせてくれるでしょう」
 彼女はランジェ公爵夫人を迎えるために立ち上がった。彼女の最愛の友がやってきたのだった。ラスチニャックは外に出て、ロシュフィード邸でダジュダ侯爵の所在を尋ねた。侯爵はそこで夜を過ごすために出かけたはずだった。その通りラスチニャックはそこで彼を見つけた。侯爵は学生を自分の家に連れて行った。そして一つの箱を彼に手渡して言った。「この中に総て入っている」彼はウージェーヌに何か話したそうな様子だった。それが舞踏会や子爵夫人のことを彼に訊きたかったのか、それとも彼の結婚の話はやがて明らかになったように、推察するにその時既に絶望的な状態になっていたのを彼に告白したかったのかは分からなかった。いずれにせよ、自負心の輝きが彼の目に宿っていて、彼は自分の一段と高い感情についての内奥を残念なことに隠し通してしまった。「私のことは彼女に何も言わないでくれたまえ、すまないな、ウージェーヌ」彼はラスチニャックの手を情愛深く寂しげな様子で握り締め、別れの挨拶をした。ウージェーヌはボーセアン邸に戻ってきた。そして子爵夫人の寝室に案内されていった。そこに彼が見たものは旅立ちの支度だった。彼は暖炉の前に座ってヒマラヤスギで出来た小箱を眺めていたが、そのうちに深い憂愁に落ち込んでしまった。彼にはボーセアン夫人はイリアドの女神のような大きな存在だったのだ。
「ああ! 戻ってたのね」子爵夫人が入ってきて、ラスチニャックの肩に手を置いて言った。
 彼は従姉が泣いているのを知った。目を上げ、片方の手は震えていたが、もう一方の手を挙げていた。彼女は突然小箱をつかみ暖炉の火の中に入れた。そしてそれが燃えるのを見ていた。
「彼等は踊ってる! 彼等は皆きっちり時間通り来たわ、だけど死は遅れてやって来るのね。しっ! 黙って」彼女はそう言うと、喋りかけたラスチニャックの口の上に指を当てた。「私はこれから先、パリにも社交界にも二度と出ません。朝の五時に、私はノルマンディーの奥の方に隠遁生活をするために出発します。午後の三時からずっと、私はその準備のために手を取られていたの、証書に署名したり、身の回り品を見たりね。私は人をやって問い合わせることなんて出来なかった……」彼女は言いよどんだ。「結局、彼が何処にいるのかは、はっきりしてたんだから……」彼女は悲しみに打ちひしがれて再び言いよどんだ。今は何もかもが苦しくて、確信を持って話せる言葉は何もなかったのだ。「結局」ようやく彼女が言った。「今夜のこの最後の宴では、私はすっかり貴方に頼ってしまったわ。私、貴方には何か私の友情の証を差し上げたいと思うの。私は貴方のことをしばしば考えると思うの。貴方は私には感じが良くて気品のある、若くて率直な人に見えたわ。この社交界にあっては貴方の特質はとても貴重なものよ。私は貴方が時にはこの私のことを思ってくれると信じています。どうぞ」彼女は周囲を見回しながら言った。「ほらこの小箱は私の手袋を入れているのよ。私が舞踏会か観劇に行く前は、私はいつもこれを取り出して、自分のことを綺麗だと思った。だって私は幸せだったから。だから、私がこれに触れたのは何となく優雅な物思いにふける時だけだったの。この中には私の思いがいっぱい入っていて、ボーセアン夫人という今はもういない女の総てがここにあるんです。これをお持ち下さい。私は誰にも増してあなたの家、ダルトワ通の方を気にかけることでしょう。今晩のニュシンゲン夫人はとても素敵だわ。あそこへ行って彼女を愛してあげて。もし私達がこれっきりでお会いすることがないとしても、信じてね、私にこんなに尽くしてくれた貴方のことを私はお祈りしています。それは確かなことよ。さあ下へ行きましょう。私は皆に私が泣いているなんて思われたくないの。私の前には長い時間があって、その間わたしは一人ぼっちなの、だから、私の涙なんて誰も見たくないと思うわ」もう一度この寝室を一目見たくて彼女は立ち止まった。それから一瞬手で目を覆った後、それを拭った。そして綺麗な水で目を洗った。それから学生の腕を取った。「さあ行きましょう!」彼女が言った。ラスチニャックはそれまでに、これほどまでに気高く抑制した悲しみに接したことがなかっただけに、かつてないほどの激しい感動に胸を打たれた。舞踏会に戻ってきて、ウージェーヌはボーセアン夫人と共に会場を一回りした。それはこの優美な貴婦人の最後の粋を極めた心遣いだった。
 やがて彼は二人の姉妹、レストー夫人とニュシンゲン夫人の姿を認めた。伯爵夫人はダイヤモンドで飾り立てて華麗そのものだった。ダイヤは疑いもなく彼女のために燃えるように輝いていた。彼女はこれが最後のダイヤをつけてきたのだった。いかなる力が彼女の自尊心と愛情を保持してきたのだろうか。しかし彼女は彼女の夫の視線には耐えられなかった。この光景はラスチニャックの思いから少しでも悲しみを和らげてくれるようなものではなかった。あたかも彼がイタリア人連隊長を見るとヴォートランに再会したような気がするように、彼は二人の姉妹がつけているダイヤモンドを見ると、ゴリオ爺さんが横たわっていた粗末なベッドを連想してしまうのだった。彼の憂鬱そうな態度の理由は子爵夫人には分からなかった。彼女は彼の腕を引き寄せた。
「さあさあ! 私は貴方から楽しみを奪う気はないのよ」彼女が言った。
 ウージェーヌはやがてデルフィーヌに呼び求められた。彼女は自分が生み出した効果に幸せを感じていたし、彼女が受け入れられるのを期待していた社交界で得ることの出来た賛辞の数々を学生の足元に並べておくことを熱望していたのだった。
「ナジーの様子はどうだった?」彼女が尋ねた。
「彼女は父親が死ぬ前に手形を割引してもらったんだろうね」ラスチニャックが答えた。
 午前四時頃にはサロンの人ごみがまばらになり始めた。やがて音楽の演奏も聞こえなくなった。ランジェ公爵夫人とラスチニャックだけが大広間に残っていた。子爵夫人は学生とだけになりたいと思っていたので、ド・ボーセアン氏にお別れを言った後、そこへやってきた。ボーセアン氏は寝室に向かいながらもこんな言葉を繰り返していた。「貴女はまちがっとるよ、なあ考えてみろ、貴女の歳で田舎に引っ込んでしまうなんて! いいか、私達と一緒にいるんだ」
 公爵夫人の姿を見て、ボーセアン夫人はある種の驚きの声を抑えられなかった。
「私はあなたのことを見抜いていたのよ、クララ」ランジェ夫人が言った。「あなたはもう帰ってこない積りで去ってゆくのね。でもね、あなたは私の言うことを聞かないで、そして私達がお互いに理解することもなしで、去ってゆくことは出来ないのよ」彼女は友達の腕を取って隣の広間へ連れて行った。そしてそこで、目に涙をいっぱいためて友を見つめた。彼女は友を抱き締め、その頬にキスをした。「私はあなたと冷たい別れをするなんて出来ない、ねえそうでしょ、そんなことをすれば、後で耐えられないような重い悔恨となるわ。あなたは自分のことと同じように私のことまで考えられるはずよ。今晩のあなたは立派だった。私は自分はあなたの友人として相応しいと感じたわ、そしてそのことを貴方に証明したいと思ったの。私はあなたに対して間違ったことをしていた、私もいつも正しく振舞っていたわけじゃない、私を許して、お願い。私はあなたを傷つけたようなものは総て否定します。私は私のそういう言葉を買い戻したいくらいなの。同じ一つの悲しみが私達の魂を結びつけるのよ、そして私達のうちの誰が一番不幸せなのかなんてことはもう私には分からない。ド・モンリヴォーさんは今晩ここに来なかったでしょう、お分かりよね? この舞踏会であなたに会った人は誰もあなたのことは忘れないはずよ、クララ。私はね、私は最後の努力をしているところ。もしこれに失敗したら、私は修道女になる積りよ。あなたはどこへ行くの、あなたは?」
「ノルマンディーのクルセルよ、そこで愛して祈るわ、神が私をこの世から呼び寄せて下さるその日まで」
「いらっしゃいラスチニャックさん」子爵夫人はこの若者が待っていることに気がついて、感動のこもった声で呼びかけた。学生は膝を折って従姉の手を取り、そこにキスをした。「アントワネット、さようなら!」ボーセアン夫人は言葉を継いだ。「お幸せに」彼女は今度は学生に向かって言った。「貴方の場合は言うことなしだわ。貴方は若くて、貴方はどんなことだって出来るわ。私はこの社交界を離れたら、幾らか恵まれた余生として、宗教的な真摯な感動に包まれた環境で暮らしたいものだわ!」
 ラスチニャックはボーセアン夫人がベルリン馬車に乗り込んで旅に出るのを見送ってから、五時頃に立ち去った。彼は涙に濡れた最後の別れの言葉を受け取った。その涙は最も高い地位にいる人々といえども、心の規律の埒外にあることは出来ず、また生きてゆくからには悲しみからも逃れられないことを証明していた。それは民衆に迎合する弁舌家が民衆に説く話と奇妙に符合するところがあった。ウージェーヌは歩いてメゾン・ヴォーケの辺りに戻ってきた。ちょうど湿っぽくて冷え冷えとした時刻だった。彼の人生教育は既に完了していた。
「俺達は可哀想だがゴリオ爺さんは救えない」ビアンションが隣人の部屋に入ってきたラスチニャックに言った。
「君」眠っている老人を見てからウージェーヌが彼に答えた。「いつか言ってたな、君は人生の目標を限定したって……その控えめな道を精一杯追求してくれ。僕はね、僕は地獄にいるんだ、そして地獄にい続けなければならないんだ。皆が君に社交界のことを色々言ってくるだろうけれど、その悪いことは全部その通りさ! 金や宝石によって覆われていたローマの恐ろしさを風刺したユウェナリスでもお手上げだろうね」
 あくる日、ラスチニャックは午後二時頃ビアンションに起こされた。ビアンションは外へ行かねばならなかったので、彼にゴリオ爺さんの看病を頼んだ。爺さんの病状は午前中にひどく悪化していた。
「爺さんは長くても二日しか持たない、多分六時間も生きられないだろう」医学部の生徒は言った。「それではあるが、我々は病気との闘いをやめるわけにはいかないんだ。彼には高度の医療をしてあげるべきなんだ。我々は勿論彼の看護人を引き受けるさ、だが、僕には金がないんだ。僕は彼のポケットを探ってみたし、箪笥の中も丹念に調べた。綺麗にゼロだ。彼に意識が戻った瞬間があったので、僕は彼に訊いてみたんだが、彼が僕に言うには、彼は完全に一文無しだというわけさ。どうするね、君?」
「彼は僕に二〇フラン預けてる」ラスチニャックが答えた。「しかし、これを僕は賭けてみる、僕は儲けるぞ」
「もし君が負けたら?」
「僕は彼の婿さんや娘に金を請求するよ」
「それで、彼等が君にそれを出さなかったら?」ビアンションは言葉を継いだ。「まあそれは後だ、何より緊急なのは金を見つけることじゃない。爺さんを足先から腿の中ほどまで熱ーい芥子泥でくるんでやらねばならない。もし彼が泣き叫ぶようなら、また方策はある。君はどんな風にやるか知ってるだろ。まずクリストフが君を手伝ってくれるはずだ。僕の方は……僕は薬剤師のところへ立ち寄る積りだ。彼が我々が要求している薬を全部揃えてくれることになってるんだ。可哀想な爺さんを我々の病院へ運べないのが何とも残念だよ。あそこなら何かにつけてましなんだがな。さて、ここは君に頼んだから、僕が帰ってくるまで彼の傍を離れないでいてくれよ」
 二人の若者は老人が横たわっている寝室に入っていった。ウージェーヌは老人の顔が痙攣し、青白く、ひどく弱々しく変わってしまったのを見て一瞬たじろいだ。
「おやおや! パパ?」そう言いながら彼は粗末なベッドの上にかがみこんだ。
 ゴリオはウージェーヌの方に輝きの失せた目を上げた。それから注意深く彼を見つめたが、はっきりとは認識出来ないようだった。学生はこの光景に耐えられなくなった。涙が彼の目ににじんだ。
「ビアンション、窓にカーテンが要るんじゃないか?」
「いや、周りの環境はもう関係ないんだ。彼が暑いとか寒いとか言えば、まだ幸せなんだよ。とは言っても、薬を煎じたり、その他諸々のために我々に火は要るね。僕が君宛に太い柴を持ってこさせるよ。それでもって我々が薪で用を足す分には使えるだろう。昨日から今日の夜にかけて、僕は君んとこのやこの爺さんのとこの土くれをかき集めて燃やしてたんだ。じめじめしていて、壁から水が滴り落ちていたよ。僕はこの寝室の空気を乾かす事はほとんど出来なかった。クリストフが部屋を掃除してくれたが、ここは本当に馬小屋だよ。僕はネズの実も燃やしたが、あれは実に臭いんだ」
「何てことを! それにしても彼の娘達だ!」ラスチニャックが言った。
「いまさら仕様がないだろ、彼が喉が渇いたと言えば、君がそれを彼にあげるんだ」インターンがラスチニャックに大きな空の瓶を指し示しながら言った。「君は彼がうめいて、腹が熱くてつらいと言うのを聞いたら、クリストフの助けを借りながら、彼に薬を与えてやるんだ……そうだよな。彼がたまたま、すごく興奮したとする、あるいは彼が沢山喋ったとする、あるいは彼がとうとう少々痴呆になったとする、その時は彼のするがままにしとけよ。それは悪い兆候ではないんだ。だけどクリストフだけはコシン病院に連絡に寄越してくれ。我々の担当医、僕の同僚、それかこの僕、我々が彼にモグサを当てるために直ぐ来るよ。我々は今朝、君はまだ寝ていた間に、ガル博士の弟子の一人と、それからパリ市立病院の主任医師それに僕と、この医師が集まって大会議をやってたんだ。僕達は奇妙な兆候を見出したので、病気の進行具合を追跡する積りだ。それで医学的に様々なとても重要な症状を明らかに出来ると思っている。中の一人が主張しているのは、もし血圧がある臓器だけに他の臓器よりも特に強く圧力をかけたとすると、それによって特殊な作用が助長されるのではないかということだ。爺さんが話す時には、彼の話がどういう思考の分野に属しているかを判断出来るように、ともかく彼の言うことに耳を澄ませて聞くようにしたいんだ。つまりそれが、記憶力の結果か、洞察力か、判断力か。あるいは、彼が物質面に関心を持っているのか、それとも感情的なことに対してか。あるいは、彼は計算をしているのか、それとも過去を思い出しているのか。要するに、我々は正確な報告書を作る良い機会に恵まれているということだ。病気が一気に進行して、彼がちょうど現在そうであるように意識を喪失したままで、今この瞬間に死んでしまうということもあり得るわけだ。こうしたことは、このタイプの病気では結構珍しい! もしこの辺りで爆発が起こっても」ビアンションは病人の後頭部を指し示しながら言った。「特異な例だが、あるにはあるんだ。脳がその機能のうちのあるものを回復させて、死が訪れるのが遅れるんだ。漿液の流れが脳から逸れるんだ。そしてどのルートを取るのかは、死後の死体解剖で初めて解るんだ。救済院に収容されている痴呆症の老人の例だが、彼の場合、漿液の溢出は脊柱にまで及んでいる。ひどく苦しんでいるんだが、ともかく彼は生きてるんだ」
「彼女達はとても楽しそうだったかね?」ウージェーヌに気づいたゴリオ爺さんが言った。
「おお! 彼は娘達のことだけ考えてる」ビアンションが言った。「彼は昨晩なんか百回も僕に同じこと言ってたぜ。『彼女達が踊る! 彼女はドレスを着ている』彼は彼女達の名を呼びかけてるんだ。僕は泣いちまったよ、ちくしょうめ! 爺さんの抑揚のついた呼び声にね。『デルフィーヌ! 私の好きなデルフィーヌ! ナジー!』誓って言うけど」医学部の生徒は言った。「その言葉は涙の中に消えてしまうんだ」
「デルフィーヌ」老人が言った。「彼女はそこにいるんじゃないのかい? 私にはよく分かってるんだ」そして彼の目は壁や入り口の方を見るためにある種の熱狂的な活気を取り戻したように見えた。
「僕はシルヴィに芥子泥の準備をするように、下に行って言うよ」ビアンションが叫んだ。「ちょうどいいタイミングだ」
 ラスチニャックは一人老人の傍に残り、ベッドのすそに坐り、その目は見るのが恐ろしく辛いようなあの頭にじっとすえられていた。
「ボーセアン夫人は逃げていった、そしてこの人は死にかけている」彼は思った。「綺麗な心というのはこの世で長くはいられないものなのか。何とか立派な心情がこのけち臭いちっぽけなうわべだけの社会と本当に上手く調和出来るようにならないものかなあ?」
 彼自身がその目で見た宴の光景は彼の思い出の中に出現し、今目の前にある死の床の有様と著しい対照をなしていた。ビアンションが突然戻ってきた。
「おいウージェーヌ、僕は今、俺達の主任医師と会ってきたんだ。そしていつものように走って戻ってきたところだ。もし理性の兆候を示して健在振りを見せていたり、話したりするようなら、彼に長時間の芥子泥療法を施してくれ、やり方は、うなじから臀部までを芥子泥で覆ってしまうんだ。それから我々のところに使いを寄越してくれ」
「ビアンションよ」ウージェーヌが言いかけた。
「おお! それは科学的な療法なんだよ」医学部の学生は新米医師の溢れんばかりの情熱を込めて語を継いだ。
「よし、僕はこうなりゃ、この可哀想な爺さんを愛するが故に、たった一人で面倒みてやろうじゃないか」ウージェーヌが答えた。
「もし君が今朝の僕を見ていたら、君はそうは言わなかっただろうな」ビアンションはその申し出に気を悪くすることもなく言い継いだ。「熟練の医師は大体病気そのものしか見ないんだ。ところが僕はね、僕は病人の面倒まで見てしまうんだ、どうだい」
 彼は立ち去った。ウージェーヌは一人、老人と残された。しかも危機が宣言されるのがもう迫っていることは明らかだった。
「ああ! 貴方でしたか、君だったんだ」ゴリオ爺さんがウージェーヌに気づいて言った。
「気分は良くなりましたか?」学生は彼の手を握って言った。
「うむ、頭ががんじがらめになったような感じだったけれど、今は自由になったよ。貴方は娘達を見かけましたか? 彼女達はもう直ぐやって来るでしょう。彼女達は私が病気だと知ったら直ぐに駆けつけるでしょう。彼女達はジュシエヌ通の頃はずいぶん私の面倒を見てくれた。ああ! 私はこの部屋が彼女達を迎えられるようにちゃんとなってればと思うんだが。若い者が一人いて、私のためにありったけの土くれを燃やしてくれたがな」
「僕、クリストフに尋ねます」ウージェーヌが彼に言った。「その若い者が貴方のために薪を送ってきますので、彼に上に持ってこさせます」
「いいね! しかし、薪代の支払いはどうなるんです? だって、私は一文無しだ。私は全部あげてしまった、全部。私は施しを受ける身になってしまった。ラメ入りのドレスを着た彼女は少なくとも綺麗でしたか?(ああ! 辛いよ!)ありがとうクリストフ。神様がご褒美を下さるだろう、いい子だ。私はね、素寒貧だ」
「僕が君にちゃんと払うからね、君とシルヴィにね」ウージェーヌが少年の耳許でそう言った。
「私の娘達はもう直ぐ来ると君に言わなかったかね、クリストフ? もう一度訊きに行ってくれないか、君に一〇スーあげるよ。彼女達に言ってくれ、私は調子が良くなくて、彼女達と抱擁したがっている、死ぬ前にもう一度だけ会いたがってるとな。こう彼女達に言ってくれ、だが余り驚かさないようにな」
 クリストフはラスチニャックの目配せを見て部屋を出て行った。
「彼女達は来ようとしてるんだろう」老人は語を継いだ。「私はあの娘達を知っている。あの優しいデルフィーヌ、もし私が死んだら、彼女はどんなに悲しむことか! ナジーにしてもそうだ。私は死にたくはない、彼女達を泣かせたくないからな。死ぬってことは、なあウージェーヌ、もう彼女達に会えないってことだ。今立ち去ろうとしているこの世を私は懐かしく思うことだろう。父親にとって地獄とは、それは子供がいない状態なんだ。そして私は娘達が結婚して以来、私としての見習い期間は既に体験してきた。私の天国はジュシエヌ通なんだ。なあ、もし私が天国に行ったら、私は精霊になって地上の彼女達の周りに戻ってくることが出来るんじゃないかなあ。私はそんな話を聞いたことがあるんだ。本当かな? 私は今でもジュシエヌ通にいた頃と変わらぬ彼女達に会えるものと信じているんだ。朝には彼女達が上から降りてきたもんだ。お早うパパ、彼女達が言う。私は二人を膝に乗せる、私は二人にありとあるおべっかをしたり、いたずらをしたりする。彼女達は優しく私を撫ぜてくれる。私達は毎朝一緒に食事をするんだ、私達は夕食もとる、つまり、私は父親だった、そして子供達と遊んだ。彼女達がラ・ジュシエヌ通にいた時は、彼女達は理屈っぽくなかった。彼女達は世間のことは何も知らなかった、彼女達はとても私を愛してくれた。ああ! くそっ! 何故、彼女達はいつまでも小さいままでいてくれなかったんだ?(おお! 気分が悪い、頭がしびれるようだ)ああ! ああ! すまない、我が子よ! ひどく苦しいんだ、そして生憎こういうのが本格的痛みになってしまうんだ。貴方のお陰で私は病気に立ち向かうことが出来るようになったが。ちくちょう! 何とか彼女達の手を私が握り締めることさえ出来たら、私は病気のことなんて平っちゃらなんだが。貴方は彼女達が来ると思いますか? クリストフの大馬鹿野郎め! 私が自分自身で行くべきだった。だが彼でも彼女達に会えるだろう、どうかな。しかし、貴方は昨日、舞踏会に行かれてたんでしたな。彼女達が一体どんな具合だったか、私に話してもらえますか? 彼女達は私の病気のこと全然知らない、そうでしょ? ダンスなんて出来ないと言い出すところだったんだ、可哀想に! ああ! 私はもう病人じゃないと言ってやりたい。彼女達はまだ私なしでは無理だ。彼女達の財産が危うくなっている。そして何というひどい夫共に二人は引き渡されてしまったんだろう! 私を治して! 私を治して下さい!(おお! こんなに苦しいとは! ああ! ああ! ああ!)分かってくれるでしょう、私はどうしても治らにゃならん、というのは、彼女達には金が要る、そして私はどこへ行けば金を稼げるかを知っている。私はでんぷん製品をオデッサの先っぽで商いしに行くんだ。私は目端のきく人間だ、百万だって稼いでみせる。(おお! ひどく苦しい!)」
 ゴリオは暫く沈黙した。その間、彼は苦痛に耐えるための力を集めるために懸命の努力をしているように見えた。
「もし彼女達がそこにいてくれたら、私は何もぶつくさ言いませんよ」彼が言った。「一体どうして私が不平を言うのか?」軽い居眠りがそれに続き、かなり長く続いた。クリストフが戻ってきた。ゴリオ爺さんが眠っているものと思っていたラスチニャックはこの少年がお使いの報告を大声でするのをそのまま聞いていた。
「旦那さん」少年が言った。「私はまず最初に伯爵夫人のところへ行きました。ところが彼女はご主人と大喧嘩の最中で、私はとても彼女に話すことなんて出来ませんでした。私がしつこくお願いしたので、ド・レストー氏自身が出てこられて、私にこうおっしゃったんです。『ゴリオ氏が亡くなる、おやおや、彼としてはそれに越したことはないんじゃないか。私は大事な用件があって、それを片付けるためにレストー夫人にはいてもらわねばならない。総て片付いたら彼女は行く』このご主人は怒ったような様子でした。私が出てゆこうとした時、奥さんが私からは見えない別の戸口から控えの間へ入って来られて私に言われました。『クリストフ、お父様に言っといて下さい。私は夫と議論の最中で、彼を置いて行くことが出来ない。だけど、総て片付いたら直ぐに私は行きます……』と。男爵夫人については、話はまた違うんです! 私は彼女にはてんで会えませんでした。それに彼女の話し声すら聞こえませんでした。ああ! 小間使いが私に言いました。『奥様は舞踏会から五時十五分に戻られて寝ておられます。もし私が昼前に彼女をお起こしすれば、彼女に叱りつけられるでしょう』と……。私は小間使いに、奥様のお父さんは彼女が来て呼び鈴を鳴らす頃にはもっと悪い状態になってるだろうと言ってやりました。もういつ何時、悪い報告を彼女に言うことになってもおかしくないでしょ。私も精一杯お願いしましたよ! ああ、うーむ! 私は男爵様にお話したいと頼みましたが、彼は外出していました」
「彼の娘の誰も来ないんだ!」ラスチニャックが叫んだ。「僕が二人共に手紙を書いてやる」
「誰も」起き上がって坐った姿勢の老人から言葉が出てきた。「彼女達には他の用事がある、彼女達は寝ている、彼女達は来ないだろう。私にはそれが分かった。子供とはこんなものだと悟るには死ぬしかないんだ、ああ! なあ、あんた、結婚なんてするな、子供なんて持つもんじゃない! 貴方は彼等に命をやるのに、彼等は貴方に死をもたらす。貴方は彼等を社交界に出してやる、彼等は貴方をそこから追い出す。駄目だ、彼女達はやってこない! 私にはこんなこと、十年前から分かっていた。私は何度そう思ったか知れない。しかし、私は敢えてそこまでは考えないようにしていた」
 彼の両の目から涙が赤らんだ縁に溢れたが、こぼれはしなかった。
「ああ! 私が金持ちだったら、私が自分の財産を守っていたら、私が彼女達に財産をやってしまってなければ、彼女達は今頃そこにいるだろうに、彼女達はキスするために私の頬をなめまわしていただろうに! 私は今でも屋敷に住んで、綺麗な寝室を持っていて、使用人達がいて、私には情熱もあったはずだ。そして彼女達はいつも泣かされている、彼女達の夫や子供のことでな。私だけがこういう時大きな存在のはずだった。だが、もう何もない。金で何でも得られる、娘達だって同じだ。ああ! 私の金は何処へ行っちまったんだ? もし私が残してやる財産を持っていたら、彼女達は私に包帯をしたり看護したりするんだろうなあ。そしたら私は彼女達の声を聞き、彼女達の顔を見ることも出来たんだ、ああ! ねえ君、たった一人の子供になってしまった、私はこうしてうち棄てられて惨めになってしまって、かえって良かったと思うよ! 少なくとも貧乏人が愛される時代になってみろ、間違いなく私は愛されるんだからな。いいや、私はやっぱり金持ちになりたい、そして彼女達に会いたい。確かに、あり得ないことでもない、だろ? 彼女達は二人揃って、まるで石のような心を持っている。私は彼女達が私に対して愛情を持ってくれると思って、余りにも深い愛情を抱き過ぎたようだ。父親という者はいつも金持ちでなければならない、父親は腹黒い馬を御するように上手く子供達の手綱を引かねばならない。ところが私は彼女達の前で膝をついていたんだ。惨め! 彼女達は十年来、この私をまるで女王様のように堂々と操ってきたんだ。彼女達が結婚して最初の頃、彼女達が私に対してどれほど細かい心遣いを見せてくれたか、貴方が知ったらなあ!(おお、苦しい! 何と残虐な痛さだ!)私は彼女達それぞれに八〇万フランずつ持たしてやっていたんだ、だから彼女達はもちろん彼女達の夫などはなおさら私に対して無礼な態度はとれないはずだったんだ。皆が私を迎えて言ったもんだ。こちらでは、私達の良きお父様いらっしゃい、またあちらでは、私の親愛なお父様いらっしゃい、と、こんな具合にだ。彼女達の家には、私用の食器がいつも揃えてあった。とうとう私は彼女達の夫とも夕食を共にした。彼は敬意を払って私をもてなしてくれたものだ。私にはまだ何かある種の雰囲気があったんだろう。何故そうだったのか? 私は私の商売については一言も話していなかったんだ。自分の娘達に八〇万フラン持たしてやるような男は十分に気を遣うべき男というわけだ。で、皆は何くれとなく面倒をみてくれた、だが、それは私が持ってる金のためだった。世の中は綺麗なもんじゃない。私はそれを見てきた、この目で! 皆が私を馬車に乗せて観劇に連れて行ってくれた。そして私はそこにいて、望めば夜の部まで観ることも出来たんだ。要するに彼女達は私の娘であると彼女達自身そう思っていたし、彼女達は私のことを自分達の父親だと認めていた。私はまだ鋭い感覚を持っていた、ほんとに、だから私は何一つ見逃さなかった。皆がそれぞれの居場所を持っていた、そしてそのことが私の胸を刺し貫いた。私にはそんなものは見せ掛けに過ぎないと分かっていた。しかし、私の不幸を癒す薬はなかった。私は彼女達の家では、庶民階級の食卓での様なくつろぎを感じることが出来なかった。私は一言も喋れなかった。そしてまた、誰かこの社交界の男が私の婿の耳許に質問をしているんだ。『あそこにおられる方はどういうお人なんですか?』『あれはお金で出来た父親です。彼はお金持ちです』ああ、ちくしょう! 誰もが私のことを言ったり見たりするんだが、いつもエキュ金貨への崇拝だけがそこには見えるだけだった。だが、仮に私が彼等に何度か少し気詰まりな思いをさせたにしても、私は自分の欠点を何とか補った積りだ! 第一に一体誰が完全な人間だと言えるんだ?(私の頭はどうにもならんのか!)今まさに死ぬ苦しみはこんなだろうと言うくらいに苦しいんだ、ああウージェーヌさんよ、なーに! これしきのことはアナスタジーが初めてあんな目で私を見た時、私が抱いた悲しみに比べれば何と言うこともないんだ。それは私が彼女を卑しめるような馬鹿を言ってしまったことを私に知らしめる視線だった。彼女の視線は私の中の霊感といったものを目覚めさせた。私は芸術的感興にも馴染みたいと思ったが、自分でよく分かったことは、私という人間が余りにも現実的だということだった。その翌日、私は心の慰めを得たくてデルフィーヌのところへ行った。ところがそこで私は彼女を怒らせてしまうような馬鹿をやってしまったんだ。それで私は気違いのようになってしまった。それから後、自分がどうなってたのか分からないまま、気がついたら八日が過ぎていた。それから私は彼女達に非難されるのが怖くて、彼女達に会いに行く勇気がなくなってしまった。そしてごらんの通り私は娘達の家から追い出されたってわけだ。ああ神よ! あんたは私が忍んでいる惨めさ苦しさを分かっているのに、あんたはこの老いて変わり果てた殺されたような白髪の男が今受けている刃の一刺しを数えているのに、何故あんたは今日もまた私を苦しめるんだ? 私は娘達を愛し過ぎるという罪の報いをもう十分に受けた。娘達は私の愛情に対する仕返しをしている。彼女達はまるで処刑人のように私を責めさいなんでいる。何とまあ! 父親共がこれほど愚かだとは! 私は彼女達を余りにも愛し過ぎたため、賭博人が博打に狂うように愛に狂ってしまった。私の娘達、それは私にとっての悪徳だった。彼女達は私の女王様だった、つまり総てだった! 二人とも何やかやと装い品を欲しがっていた。そして小間使いの女達が私にそれを言ってくるんだ。私は娘達に優しく迎えてもらいたくて、そんな贈り物をしてやった! しかし彼女達は私に社交界での過ごし方に関する何がしかの教訓を与えてくれただけだった。おお! 彼女達は翌日に私が行っても待ってくれてもいないのだ。彼女達も私のことを恥ずかしいものと思い始めていたんだ。これがね、行儀の良い子を育てたのがこういうことなんだ。私の年代ではまだ学校へやってもらうことすら適わなかったものだが。(ものすごく苦しい、くそっ! 医者を! 医者を! いっそ頭を開けてくれ、その方がましだ)娘達、娘達、アナスタジー、デルフィーヌ! あの娘達に会いたい。憲兵隊や軍隊を使って探して、彼女達を連れてきてくれ! 私の言うことが正しい、何もかも私の言う通りだ、当然だ、民法典だ。私は抗議する。もし父親というものが土足で踏みにじられるようなら、祖国は滅びてしまうだろう。こんなことは明らかだ。社会も世間も父権の上で動いているんだ。子供が父親を愛さなくなれば全部が崩れてしまう。おお! 彼女達に会う、彼女達の声を聞く、彼女達が何を言おうとかまわない、私が彼女達の声を聞くことが出来るなら、私の悲しみは静められるのだが、特にデルフィーヌ。だが、彼女達に言ってくれ、彼女達がそこにやって来たら、これまでのように、私を冷たい目で見ないでくれってな。ああ、優しいウージェーヌさん、貴方にはまだ分かるまい、金に見えたものが突然鈍い色の鉛に変わってしまうのが、どういうことなのか。私を見ても娘達がもう目を輝かせることがなくなったその日から、私のここでの生活はずっと冬のように凍りついたままだ。そして私にはもう悲しみ以外に食べるものもなくなってしまった、そしてそれを食っていたんだ! 私は実際にさげすまれ辱められた。私は彼女達をとても愛している、だから私は総ての侮辱を飲み込んだ、その代わりに彼女達は私に哀れな小いちゃな快楽、恥ずべきものだが、それを売ってくれてたんだ。自分の娘達に会う為に父親がこそこそ隠れるんだよ! 私は彼女達に私の人生をやった、彼女達は今日、私のために一時間すら割いてはくれないだろう! 喉が乾いて、腹が減った、胸は焼けるようだ、彼女達が私の激痛を和らげるために来てくれることはないだろう。私は死ぬんだ、だから私にはそれが分かる。だが、彼女達には、自分達の父の死骸を踏んづけることが、どんなことかということすら分かっていない! 天にまします神は、私達、私達父親の意に反して私達を罰する。おお! 彼女達は来る! おいで、私の嬢ちゃん、また私にキスしておくれ、これが最後のキスだよ、お前達のお父さんへの路銀だよ、お父さんはお前達のために神に祈ろう、神にお前達は良い娘達だったと伝えよう、お父さんはお前達のことを擁護するよ! 要するに、お前達に罪はない、彼女達に罪はない、そうでしょ! 皆にそう言ってやって下さい、そしたら、私のことで世間が彼女達にとやかく言わないでしょう。みんな私が悪いんです。私が彼女達に足で踏んづけられても放っておいたんです。私はそれを好んでさえいました、この私は。だがあれで誰にどうこうということはないんです、この世でもあの世でも裁かれるようなことじゃないんです。もし神が私のことで娘達を有罪にするなら、神は正しくない。私は自分を処すすべを知らなかった。私は自分の権利を放棄するような馬鹿をやらかした。私は彼女達に値しなくなってしまった! 仕方がないんだ! どんなに美しい気性で最良の魂であっても、この父親の安逸という堕落の前には抵抗できなかったんだ。私は惨めな人間だ、私は罰を受けて当然なんだ。この私が一人で娘達をかき乱す原因を作った、私が彼女達を甘やかした。彼女達は今日も快楽を求めている、かつて彼女達がボンボンを欲しがってたのと変わらない。私はいつも彼女達が若い娘らしい夢を満足させることを許してきた。十五歳の時には、彼女達は馬車を持った! 彼女等に文句を言う者はいなかった。この私にひたすら責任がある、だが愛ゆえの責任だ。彼女達の声を聞くと私は心を開いてしまう。私に彼女達の声が聞こえる、そして彼女達が来る。おお! そうだ、彼女達は来るだろう。法は誰もが死にゆく父親を見送るためにやって来ることが望ましいとしている。私の言う事は法に適っているんだ。それに、そんなのはひとっ走りするだけのことじゃないか。何なら駄賃を払ったっていいんだ。一筆書いてやって下さい、私には彼女達に残す何百万かがあると! 誓ってもいい、私はイタリアからオデッサにパスタを動かす積りだ。私はそのやり方に関しては知識がある。私の計画なら、百万単位の稼ぎが出来る。誰もまだ思いついてない計画だ。あれは小麦や小麦粉のように輸送中に傷む心配が全くないんだ。えーと、えーと、澱粉だったかな? それでもって百万になるぞ! 貴方に嘘を言わすわけじゃないが、彼女達に百万フランと言ってやれ、そしたら、彼女達は欲にかられて、あっという間にやって来るさ、私はむしろ騙された方が嬉しいよ、私は彼女達に会いたい。私は娘達が欲しい! 私の娘だったんだ! 彼女達は私のものだ!」彼は起き上がって坐り直しながら言った。ウージェーヌには、彼の頭の白髪がさんばらになっているのが見え、そこにありとあらゆる心配事が巣くっているように思われた。

 
 
 
 
(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja)の下で公開されています。
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※翻訳者のメールアドレスは zuq01413@gmail.com になります。最新情報やお問い合わせは、青空文庫ではなく、こちらにお願いします。
2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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