ゴリオ爺さん バルザック

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「さあ」ウージェーヌが彼に言った。「また横になった方がいいよ、ゴリオの父さん、僕が彼女達に手紙を書きますからね。ビアンションが戻ってきたら直ぐに、もし彼女達がまだ来てなかったら、僕が出向いて行きます」
「彼女達が来てなければだって?」老人はすすり泣きながら鸚鵡返しに言った。「私が死ぬっていうのに、死ぬんだ怒り狂って、怒り狂って! 怒りがこみ上げて! この瞬間に私の人生がはっきり見えてきた。私は騙され続けた馬鹿だ! 彼女達は私を愛してなんかいない、彼女達は一度だって私を愛したことがなかったんだ! これは明らかだ。彼女達がまだ来てないってことは、彼女達はいつまでたっても来ないってことだ。彼女達は遅れれば遅れるほど、私にささやかな喜びを与えることを決意する気持ちはなくなってゆくだろう。私には分かっている。彼女達は未だかつて私の悲しみを思いやったことなど露ほどもないはずだ、私の苦しみを、私の願いを、私が死んだ後でも彼女達は考えることすらないだろう。彼女達は私の優しさの秘密にすら通じていないだろう。そうさ、私には分かってる、彼女達には、私の心の底を見せてやる習慣が、私がやってやったことの総ての価値を下げる結果になったんだ。彼女達が私の目をくれと言ったとしたら、私は彼女達に言ったことだろう。『私の目をくりぬきなさい!』私は大馬鹿だ。彼女達はどこの父親も自分達の父親と同じようなものだと思い込んでいる。もう役にも立たない父親と分かって彼女達は私を棄てた。だが彼女達の子供が私の仇を討ってくれるだろう。それも彼女達がここへ来なければ、彼女達には復讐の意味すら分からないだろう。だから彼女達に警告してやってくれ、彼女達は自らの断末魔の苦しみを準備していることになるんだとな。彼女達は唯一つの罪を犯すと、彼女達はもうありとあらゆる罪を犯したことになる。だから行って、だからどうしても彼女達に言ってやってくれ、来ないということは、それは親殺しだと! 彼女達はこの罪を加えなくとも、もう罪を犯し過ぎてるんだ。だから、こんな風に大声で言ってやってくれ、『おいナジー! おいデルフィーヌ! お前達のお父さんのところへおいで、彼はお前達にとても優しかった、そして今は苦しんでいる!』無だ、誰も来ない。それじゃ私は犬のように死ぬしかないのか? これが私への報いだ、この見捨てられた状態が、忌まわしい最悪の最期だ。私は彼女達を嫌悪する、私は彼女達を呪う。私は夜になると、彼女達をたびたび呪うために棺から起き出して来るだろう、何故かって、つまり、ねえ、私が間違ってるかね? 彼女達の振る舞いこそひどいじゃないか! どうだね? 私が何か間違ったことを言ったかね? 貴方、もしかしてデルフィーヌがそこにいるからと、私に注意してくれたんじゃないのか? そりゃ彼女は二人のうちではましな方さ。貴方は私の息子だ、ウージェーヌ、貴方は! 父が彼女の方がいいと言ってるんだ、彼女を愛してやってくれ。片方の方は大分性悪だ。そして彼女達の財産だ! ああ、くそっ! 私は死にそうだ、苦しい、ちょっとひどい! 私の頭を切ってくれ、心臓だけにしてくれ」
「クリストフ、ビアンションを探しに行ってくれ」老人のうめき声と叫び声の異常さに驚いてウージェーヌが叫んだ。「それから僕のところに軽二輪馬車を来させてくれ」
「僕は貴方の娘さん達を探しに出かけます、ゴリオの父さん、僕は彼女達を連れて戻って来ます」
「力ずくで、力ずくで! 衛兵隊を呼べ、歩兵隊もだ、皆だ! 皆だ」彼は理性の輝きが見えた最後の眼差しをウージェーヌに投げかけながら言った。「政府に言え、王室の検事にも言え、私のところへ彼女達を連れて来るんだと、お願いだ!」
「しかし、貴方は彼女達を呪っていたのに」
「誰がそんなことを言ったんだ?」老人は仰天して答えた。「貴方はよく知っているじゃないか、私は彼女達を愛している、彼女達に焦がれている! 彼女達に会えば私の病気は治る……行ってくれ、親切なお隣さん、可愛い息子よ、行ってくれ、貴方は優しい、貴方は……貴方には感謝している、だが私には貴方にあげるものが何もない、ただ死にゆく者から祝福を捧げるしかないんだ。ああ! 私は少なくともデルフィーヌに会って言いたいんだ、貴方への借金を綺麗にしてくれとな。もし、あちらが来ないんなら、私をそちらへ連れて行ってくれ。彼女に言ってやる、もし彼女が来られないようなら、貴方はもう彼女を愛さないだろうとな。彼女は貴方をとても愛してるので、彼女は来るだろう。喉が渇く! はらわたが焼けるようだ! 何かで頭を冷やしてくれ。娘達の手、それで私は救われる、そんな気がする……さあ! 私がいなくなったら、誰が娘達の財産を立て直すんだ? 私は娘達のためにオデッサへ行きたい。オデッサでパスタを作るんだ」
「これを飲んで下さい」ウージェーヌは瀕死の老人を左腕に抱えて起こしながら言って、もう一方の手で煎じ薬がいっぱいに入ったコップを引き寄せた。
「貴方はお父さんとお母さんを愛してあげなさいよ、貴方!」老人は衰弱した手でウージェーヌの手を握って言った。「貴方には、私が彼女達、私の娘達に会うこともなく死んでゆこうとしているのが、どういうことか、お分かりですか? いつも喉が渇いていて、それでいて決して飲めない、それなんです、私がこの十年来体験してきたのはそんな具合でした……私の婿二人は私の娘達を殺してしまった。そうです、彼女達が結婚した後は、私にはもう娘がいなくなってしまったんです。父親達よ、行政院に結婚反対の法律を作るように要求しよう! 要するに、貴方が貴方の娘を愛するなら、娘を結婚させるなって言うことです。婿というやつは娘の総てを駄目にしてしまう極悪人です。奴等は何もかも汚してしまう。結婚なんてもう沢山だ! それは、我々に我々の娘を差し出させておきながら、我々が死ぬ時は、もはや我々には決して返してはもらえない、そういうものなんだ。父親の死について法律を作ってもらいたい。それは恐ろしいことになっている、今のところは! 復讐だ! 彼女達がやって来るのを阻んでいる奴等、それはあの婿達だ。奴等を殺せ! 死ねレストー、死ねアルザス野郎、奴等が私の殺人犯だ! 死か、さなくば、私に娘達を! ああ! もう終わりだ、彼女達が来ないうちに私は死ぬ! あの子達! ナジー、フィフィーヌ、さあ、おいでったら! お前達のパパは逝っちまう……」
「ゴリオの父さん、落ち着いて、さあ、静かに、興奮しないで、何も考えないで」
「彼女達に会えない、そんな悲しいこと!」
「もう直ぐ貴方は彼女達に会いに行けます」
「本当かね!」錯乱している老人は叫んだ。「おお! 彼女達と会う! 私は彼女達に会いに行く、彼女達の声を聞きに行く。私は幸せに死ねるだろう、それなら! そうだ、私はもう生きることもない、もうそれにはこだわらない、私の苦しみは増えるばかりだから。だが、彼女達に会う、彼女達のドレスに触れる、ああ! ただ彼女達のドレスだけでいい、実に些細なことだ。しかし、私は彼女達のなにかしらを感じることが出来る! 私に彼女達の髪を触らせてくれ……したい……」
 彼はこん棒で一撃食らったように枕の上に頭から倒れこんだ。彼の手は娘達の髪をつかもうとするかのように掛け布団の上で動き回った。
「私は娘達に神の加護を祈る」彼は懸命に祈った。「神の加護を」
 彼は突然崩れるように倒れた。この瞬間、ビアンションが入ってきた。「僕はクリストフに出会ったんだ」彼が言った。「彼は君のために馬車を呼びに行ってる」次いで彼は病人を見た。病人のまぶたを手でめくりあげた、そして二人の学生は彼の目には熱気も輝きも既に消えているのを見たのだった。「彼はもう復活出来ないだろうな」ビアンションが言った。「信じられないよ」彼は脈をとった、身体を触ってみた、手を爺さんの心臓の上に置いてみた。
「機能はずっと動いている。だけど、彼の状態では、それは不幸なことだ。むしろ死ぬ方がましなんだよ!」
「確かにその通りだな」ラスチニャックが言った。
「どうかしたのか? 君は死人のように青ざめてるぞ」
「ねえ、僕は彼のうめき声や叫び声を聞いてたんだぜ。神様はいるんだろう! ああ! そりゃあな! 神様がいて、そして神は我々により良い世界を作って下さった。でなきゃ、この世はナンセンスだ。もしそれがこれほど悲惨でなければ、かえって僕はさめざめと泣けば気が済むところだった。だけど僕はまだ心も身体も締めつけられるようで、ひどく苦しいんだ」
「ねえ、余分な仕事がいっぱいあるぜ、何処で金を作る?」
 ラスチニャックは自分の腕時計を取り出した。
「ほら、これを直ぐに質に入れてくれ。僕は質屋に寄ってけないんだ、というのは、僕は一分といえども無駄には出来ないんだ。それで今はクリストフを待ってるところだ。僕は今は一文無しだ、ところが帰ってきたら僕は御者に支払いをしなけりゃならない」
 ラスチニャックは階段に飛んでいって、エルデ通のレストー夫人のところへ向かうべく出て行った。道中、彼が目撃した恐ろしい光景に触発された彼の想像力は彼の憤りに益々熱を帯びさせた。彼は控えの間に着いて、レストー夫人に面会を申し込んだが、夫人は見当たらないという返事が返ってきた。
「しかし」彼は召使に言った。「私は夫人のお父様が危篤になっているその場から来たんです」
「お客様、私共は伯爵様から、とても厳しく命令されておりまして……」
「ド・レストーさんがおられるなら、どうぞお伝え下さい。彼の義父がどういうことになっているか、そして、私は彼に大至急お話しなければならないということを」
 ウージェーヌは長い間待った。
「彼はこの瞬間にも死ぬところじゃないか」彼は考えていた。
 召使が彼を大広間に案内した。そこで、ド・レストー氏が立ったままで学生を迎えた。彼は学生を座らせることもなく、暖炉には火もなかった。
「伯爵様」彼に向かってラスチニャックが言った。「貴方の義理の父上が今この瞬間にも、汚いあばら家で、薪を買うお金すらない状態で息を引き取ろうとされています。彼は間違いなく危篤です。そして娘さんに会いたがって……」
「貴方様」ド・レストー伯爵は冷淡に答えた。「貴方は既に認識されておられるはずだが、私はゴリオさんに対しては全くと言ってよいほど優しい感情は持っていないんですよ。彼はあの性格でもってレストー夫人を巻き添えにして評判を落とした。彼は私の人生に不幸をもたらした。私は彼のことを私の心の平和を壊す敵だと思っています。彼が死のうと、彼が生きようと、皆、私には全くどうでもよいことです。これが、彼について私の感情がどういうものであるかをお示ししたものです。世間は私を非難するでしょう。私はそうした意見は気にしません。私は今、私の考えでは馬鹿らしいとか無関心なことに関わるよりも、もっと重要なことでやり遂げねばならないことがあるんです。レストー夫人のことだが、彼女は外出できない状態なんですよ。それに、私は彼女が家を離れるのを好まないんです。彼女の父親には、彼女が私や私の子供に義務を果たすことが出来次第直ぐに、彼に会いに行くとお伝え下さい。それにしたって、彼女が自分の父を愛していれば、彼女も短い時間なら恐らく都合がつくはずなんだが……」
「伯爵様、私は無論貴方のご方針をとやかく言う立場ではございません。しかし、あなたは奥様に対するご主人でいらっしゃいます。ですから、私は貴方の誠意を当てに出来たらと思っております。どうでしょう! どうかこれだけは私にお約束下さい。彼女にお父様が一日も持つまいということ、そして彼は既に自分の枕元すら見えないほど衰えていることをお伝え頂きたいのです!」
「それは彼女に貴方自身の口で言って下さい」ド・レストー氏はウージェーヌの剣幕に彼の憤りの感情がこもっているのに驚いてそう答えた。
 ラスチニャックは伯爵に案内されて、伯爵夫人が普段過ごしている居間に入った。彼はそこに涙にくれた彼女を見つけた。彼女は安楽椅子の中に沈み込んで、まるでもう死んでしまいたいと思っている女のように見えた。彼女の様子は彼に憐れみを催させた。ラスチニャックを見るより先に、彼女は夫のほうにおどおどした眼差しを投げかけたが、それは精神と身体の両面にかけられた横暴によって押しつぶされた彼女の力がすっかり衰え切っていることを物語っていた。伯爵が頷いて見せたので、彼女はようやく話し始めた。
「貴方、私は総て聞いておりました。父に言って頂きたいのです、もし彼が私の置かれております立場を理解してくれるなら、彼は私を許してくれるはずだと。私は今回のひどい苦しみを考えてもいませんでした。それは私の手には全く負えないものですわ、貴方、でも、私は最後まで抵抗する積りです」彼女は夫に向かってそう言った。「私も母親です。父には言って下さい。彼については、私は実は申し分のない娘なんですよ、見た目ではお分かりにならないでしょうけれど」彼女は絶望的な気持ちにかられて学生に向かって叫んだ。
 ウージェーヌは夫婦二人に挨拶した。彼にも夫人の置かれている恐ろしい危機が見えてきて、呆然として引き下がった。ド・レストー氏の話しぶりは彼がこうして奔走していることが無駄であることを彼にはっきり示した。また彼はアナスタジーがもう自由に動けないことも理解した。彼はニュシンゲン夫人のもとへ走った、そして、まだベッドの中にいる彼女を見つけた。
「私具合が悪いのよ、貴方」彼に向かって彼女が言った。「私、舞踏会から帰る時に悪寒がしたの、肺炎じゃないかと心配で、お医者さんを待ってるの……」
「貴女が深刻な病を口にするなら」ウージェーヌは彼女を遮って言った。「貴女を貴女のお父さんの許へ引っ張っていかねばなりません。彼は貴女を呼んでいる! もし貴女に彼の呼ぶ声が少しでも聞こえたら、自分が病人だなんて絶対に思わないはずです」
「ウージェーヌ、父は多分、貴方が言うほどひどい病気じゃないのよ。でも、私が貴方の目に少しでも間違ったことをしているように映るのは堪らないことだわ、だから私は貴方がお望みのようにする積りよ。彼にはね、私は彼を知っているのでこう思うんだけど、彼はもし今私が外出して、そのせいで私の病気が死ぬくらいに悪化すれば、その悲しみのために死んでしまうでしょうね。それでは! 私のお医者さんが来たら直ぐに行くわ、ああ! どうして貴方はもう時計を持ってないの?」彼女は鎖が見えないので、そう言った。ウージェーヌは顔を赤らめた。「ウージェーヌ! ウージェーヌ、もしかして貴方、もうあれを売ってしまったの、失くした……おお! それってひどいわ」
 学生はデルフィーヌのベッドの上にかが見込んで彼女の耳許で言った。「それを知りたいのですか? それじゃあ! 知らせましょう! 貴女のお父さんには経帷子を買うお金がないんです。今晩にも我々はそれを彼に着せることになるんです。貴女の時計は質に入ってます。私には他に何もなかったんです」
 デルフィーヌはいきなりベッドから飛び出し、書き物机に駆け寄り、そこから財布を取り出し、それをラスチニャックに差し出した。彼女は呼び鈴を鳴らし叫んだ。「私行きます、私行きます、ウージェーヌ。服を着ますから、先に行ってて。でも、私って悪魔ね! 行って、私は貴方より先に着くと思うわ! テレーズ」彼女は小間使いを呼んだ。「ムシュー・ド・ニュシンゲンに私とほんのちょっと話すために上がって下さるように言って下さい」
 ウージェーヌは危篤の老人に娘のうちの一人が会いに来ることを告げられるのが嬉しくて、ほとんど陽気といってもいい様子でネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通へ戻ってきた。彼は直ぐに御者に支払いをするため財布の中をくまなく調べた。あの若くて、あんなに金持ちで、あんなに優美な夫人の財布の中には七〇フランがあった。階段の上の階に辿り着いた彼は、ゴリオ爺さんがビアンションに押さえられて、主任医師の目の前で、病院から来た外科医の治療を受けているのを見つけた。外科医は彼の背中にモグサを乗せて燃やしていた。これは医者が最後に仕方なくやる治療で無駄に帰する事が多い治療だった。
「感じますか?」医者が尋ねた。
 ゴリオ爺さんは学生をちらりと見ると、ウージェーヌの方に向かって言った。「彼女は来るんですか?」
「彼は持ちこたえられる、話してるじゃないか」外科医が言った。
「はい、デルフィーヌが僕の後から来ます」ウージェーヌがゴリオに答えた。
「まさか!」ビアンションが言った。「爺さんが娘のことを話してる。火あぶりにされた人は水を求めて叫ぶもんだというが、彼は娘を求めて叫んでいる」
「中止だ」主任医師が外科医に言った。
「もうこれ以上やることはない。我々は彼を救えない」
 ビアンションと外科医は瀕死の老人を彼の粗末なベッドに移して横たえた。
「そうは言っても、彼の寝間着は変えなければならんな」医師が言った。「何らの希望もないとはいえ、彼の本来の人間性を尊重しなければならない。私はまた来るよ、ビアンション」医師は学生に言った。「彼がまた苦しがったら、阿片を横隔膜の上に乗せてやりなさい」
 外科医と主任医師は出て行った。
「さあウージェーヌ、頑張れ我が子よ!」彼等が二人きりになった時、ビアンションがラスチニャックに言った。「彼に洗濯したての下着を着せて、ベッドを取り替えてやらにゃならんな。行ってシルヴィに言ってくれ、シーツを持って上がって、それから我々を助けてくれって」
 ウージェーヌが下へ降りると、ヴォーケ夫人はシルヴィと食器を並べにかかっていた。ラスチニャックが彼女に言った最初の言葉に対して、寡婦はとげとげしく、それでいて親切ぶったような態度を取っているように彼には見えた。いわば疑い深い商人の、金は失いたくなし、かといって客を怒らせたくもなしといった風情だったのだ。
「まあウージェーヌさん」彼女が答えた。「貴方もこのあたし同様よくご存知でしょ、ゴリオ爺さんには、もうびた一文も残ってないのよ。今まさに目を閉じようとしている人にシーツをあげるって、それってまるきりの損よ、彼は埋葬用にどうしたって新しいシーツを一枚使っちまうのよ。ずっとこんなだから、貴方は既にあたしに一四四フランの借りがあるの、あたしにシーツ代として四〇フラン渡して下さい。それから他に細々したのがあるでしょ、ろうそくは後でシルヴィが貴方に渡します。こんなのを全部合わせると少なくとも二〇〇フランはするんですよ。このあたしのような貧しい寡婦にとって、それをただでやっちまうなんてとても無理ですよ。もちろん! 正確に言えば、ウージェーヌさん、あたしはこの災難があたしに降りかかって以来、この五日間は本当に気が動転してしまってね。あたしはこの善良なおじいさんが、貴方が言ってたように死んじゃうんだったら、それに対して一〇エキュあげちゃう積りだったのよ。それが、あたしの下宿人達には面白くなかったのね。一銭にもならないのに、あたしは彼を病院に行かせるところだったわ、でも結局、貴方があたしと交代してくれたってことよ。あたしは自分のことをしっかりすることが第一、大事なのはあたしの人生、あたし自身のこと」
 ウージェーヌは急いでゴリオ爺さんの部屋へ戻った。
「ビアンション、僕の時計で借りた金は?」
「そこだよ、テーブルの上だ。まだ三六〇と何フランかあるよ。僕は買ったものの分は払った。質屋の鑑定額なんて安いもんだよ」
「これ取って下さい、奥さん」階段を駆け下りたラスチニャックは嫌悪感を含んで言った。「私達の未払い分を清算して下さい。ゴリオさんは貴方のところに長くは留まらないでしょう、それに私も……」
「そうね、彼は担架に乗せられて運び出されることになるわ、可哀想なおじいさんね」彼女は二〇〇フランを数えながら言った。彼女の様子は半ば陽気で半ば愁いを帯びていた。
「締めて下さいね」ラスチニャックが言った。
「シルヴィ、シーツをあげてね、それから上の階の人達の手伝いに行ってあげてね」
「貴方、シルヴィのことも忘れないでよ」ヴォーケ夫人がウージェーヌの耳許で言った。「ほら、彼女が徹夜した夜が二日もあったのよ」
 ウージェーヌが背中を向けると直ぐに、老夫人は料理女のところへ駈けていった。「シーツを裏返してみて、七番かい。どういう積りなんだろうね、死人のためなのに、いつも上等過ぎるんだよね」彼女は料理女の耳許で囁いた。
 ウージェーヌは既に階段を数段上っていて、この老家主の言葉は聞こえなかった。
「さあ、彼にシャツを着せよう。彼を真直ぐにしてくれ」ビアンションが彼に言った。
 ウージェーヌはベッドの頭の方にいて、瀕死者の身体を支えた。ビアンションは病人のシャツを脱がせた。そして爺さんは彼の胸の辺りで何かを守るような仕草を見せた。そしてうめくように何かろれつの回らない叫び声をあげた。それは何か大きな悲しみを搾り出そうとしている動物を思わせた。
「おお! おお!」ビアンションが言った。「彼は小さな三つ編み髪とロケットを欲しがってるんだ。僕たちが彼にモグサの治療をするために、いつも取り上げているやつだよ。可哀想に! 彼にあれを返してあげなきゃ、あれは暖炉の上だな」
 ウージェーヌは灰色がかったブロンドの髪を三つ編みにした鎖を取りにいった。それは疑いもなくゴリオ夫人の髪だった。彼はロケットの一方の肖像にアナスタジー、反対側の肖像にデルフィーヌと記銘されているのを読み取った。ゴリオの心の中の偶像はいつも彼の胸の上にあったのだ。肖像の中の巻き毛がとても可愛いので、二人の娘達の少女時代、彼女達はずっとこの髪型を続けていたに違いないと察せられた。ロケットが彼の胸に触ったりすると、老人は「やっ」というような掛け声を引き伸ばして発したので、彼がものすごく満足していることを周囲は知るのだった。それは彼の感覚の最後の反響だった。そしてそれは見知らぬ内なる世界へ退却してゆくように見えながら、なおも彼の感情はそこから出て、外の世界の人々の共感を問いかけているように思われた。彼の顔はある病的な喜びの表情で痙攣した。二人の学生は思考力に続くこの恐るべき感情の力による閃光に打たれた。二人とも呆然として、熱い涙が瀕死の老人の上に落ちるがままにしていた。老人は発作的な喜びの叫び声をあげた。
「ナジー! フィフィーヌ!」
「彼はまだ生きてる」ビアンションが言った。
「それが彼に何の役に立つんですか?」シルヴィが言った。
「苦しむためにさ」ラスチニャックが答えた。
 仲間に自分を真似るように身振りで示して、ビアンションは膝まづくと腕を病人のひかがみの下に差し込んだ。一方、ラスチニャックは同じようにしようと、ベッドの反対側から、手を病人の背中の下に差し入れようとしていた。シルヴィもそこにいて、瀕死者が持ち上げられたら、シーツを彼女が持ってきたものと取り替えようと身構えていた。きっと涙に触れて勘違いしたのであろう、ゴリオが彼の最後の力を振り絞ってベッドの両端に向かって手を伸ばし、その手は学生達の頭に出会った。その手は激しく髪の毛をつかんだ、それから微かな声が聞こえた。「ああ! 私の天使!」短い言葉、微かなつぶやき、それはこの言葉と共に飛び立っていった魂によって人々の心に強く響いた。
「可哀想に、良い人だったのに」近くに来たシルヴィが言った。崇高な感情で澄み切ったゴリオの叫びは、恐ろしいまでに無意識のうちに最後の瞬間に今一度、彼の目の前に美しい幻影が映し出されていることを示していた。
 この老人の臨終は喜びのうちに息を引き取ったというべきだろう。この臨終が彼の人生の総てを表現していた。すなわち彼は最後にもう一度自分を騙したのだった。ゴリオ爺さんは彼の粗末なベッドに恭しく戻された。この時以後、彼の顔には苦痛の色が刻み込まれて定着した。それは生と死の間で身体機関に起こった戦闘を映したものであって、人間生活の表れである喜びや悲しみの感情を司るあの大脳の意識作用は最早介在していなかった。彼の死はもう時間の問題だった。
「彼は何時間かは、こんな調子で持つだろう。そして誰も気付かないうちに死んでしまうんじゃないかな。彼はあえぐことすらしないかもしれない。脳の方はもう完全にいかれてるからな」
 この時、階段の方から息を切らせて来る若い婦人の足音が聞こえてきた。
「彼女の来るのは遅過ぎたな」ラスチニャックが言った。
 それはデルフィーヌではなく、彼女の小間使いのテレーズだった。
「ウージェーヌさん」彼女が言った。「旦那様と奥様の間で喧嘩沙汰、と申しますのは、あの気の毒な奥様がお父様のことでお金が要ると申されたら、そんなことになってしまいましてね。彼女は気を失ってしまって、お医者様は来られましたが、彼女から刺※(「月+各」、第3水準1-90-45)しなければならなかったんです。彼女は『父が死ぬのよ、私パパに会いたい!』と本当に胸が張り裂けそうなほど泣かれました」
「もういいよ、テレーズ、彼女が今来たところで、それはもう無駄なんだ、ゴリオさんは既に意識がないんだ」
「お気の毒な旦那様、あの方はそんなにお悪かったんですか!」テレーズが言った。
「私のすることはもうないですよね。私は夕食にとりかからなくっちゃ、四時半だわ」シルヴィが言った。彼女は階段を上りきったところでレストー夫人とぶつかりそうになった。伯爵夫人の様子は暗くて恐ろしい亡霊のようだった。彼女はたった一本のろうそくで鈍く照らされた死者のベッドを見て、父の顔を見分けると涙を流した。そこには命の最後の振動がなおも鼓動を続けていた。ビアンションは遠慮して出て行った。
「私は遅過ぎたことの責めを免れる積りはありません」伯爵夫人がラスチニャックに言った。
 学生は悲哀に満ちてはいたが、肯定的に頭で頷いて見せた。レストー夫人は父の手を取り、キスをした。
「お父様、許して! 貴方は前におっしゃいましたね、私の声が貴方をお墓から呼び戻すんだと、それならば! 罪を悔いている貴方の娘を祝福するために、ほんの一瞬だけでもこの世に戻って下さい。私の言うことを聞き届けてください。ここにいるのはひどい娘です! 貴方の祝福だけが私がこれからこの世で受けることの出来る唯一の祝福なのです。皆が私を憎むでしょう、貴方だけが私を愛して下さいます。私の子供達ですら私を憎むことでしょう。貴方の手で私を導いて下さい、私は貴方を愛します、私は貴方のお世話をします。彼にはもう聞こえないのに、私は気が違ってるのね」彼女は彼の膝の上に崩れ落ち、錯乱のうちに娘達に叫び続けていたこの老人の残骸をじっと見つめた。「どうしたって私は不幸せになるんだわ」彼女はウージェーヌを見つめながら言った。「ド・トライユ氏は莫大な借金を残して逃げて行った、そして私は彼が私を騙したことを知った。夫は私のことを決して許さないでしょう。そして私は財産を彼の管理に任せたままにしてるの。私は私の抱いていた幻想を全部失ったわ。あーあ! 誰のために私はこの世でたった一つの心を(彼女は彼女の父の方を指し示した)裏切ってしまったんでしょう。その心の中で私は熱愛されていたというのに! 私は彼の価値を見誤ってました。私は彼を遠ざけていました。私は彼に数え切れないほど悪いことをしました。私って何と忌まわしい娘なんでしょう!」
「彼には分かっていましたよ」ラスチニャックが言った。
 この瞬間、ゴリオ爺さんが目を開けたが、それは痙攣的なものだった。この時、伯爵夫人の希望が絶望の淵へ滑り落ちてゆく有様は、今まさに閉じられんとする死者の目を見るような恐ろしい光景だった。
「彼は私の声を聞いたのかしら?」伯爵夫人が叫んだ。「そんなことないわ」彼女は父の横に腰を下ろしながら思った。
 レストー夫人が父の看病をしたいと言ったので、ウージェーヌは少し食べるために階下に降りた。下宿人達は既に再集合していた。
「おや!」彼に画家が言った。「我々は死者のために少しモルトラマ(お弔い)をすることになるのかな、上の階で?」
「シャルル」ウージェーヌが答えた。「僕は今とても悲しいんだ、貴方の駄洒落を聞く気分じゃないんです」
「我々はそれじゃここではもう笑うことも出来ないんですか?」絵描きもやり返した。「一体何が起こってるんだ、ビアンションが爺さんにはもう意識がないとか言って以来さあ?」
「さあそこだよ!」博物館員も口を挟んだ。「彼が生きたように彼は死ぬだろう」
「父が死んだ」伯爵夫人が階上で叫ぶ声がした。この恐ろしい叫び声を聞いて、シルヴィ、ラスチニャック、それにビアンションが駆け上がって、レストー夫人が気絶しているのを見つけた。彼女の意識を取り戻させてから、彼等は彼女が待たせたままにしていた辻馬車に彼女を運び込んだ。ウージェーヌは彼女をテレーズの世話に委ね、テレーズには彼女をニュシンゲン夫人のところへ連れてゆくように命じた。
「おお! 彼は確かに死んでいる」ビアンションが降りて来て言った。
「さあ皆さん、テーブルについて下さい」ヴォーケ夫人が言った。「スープが冷めてしまいますよ」
 二人の学生は隣り合わせに座った。
「今、どうしたらいいんだろう?」ウージェーヌがビアンションに言った。
「そうだな、僕は彼の目を閉じてきた。そして、彼をきちんと寝かせてきた。市の医者が、我々の申告した死亡に間違いないことを確認すると、彼は埋葬用の白布に包まれ、それから埋葬されるわけだ。彼をどうするかで、君は何か望みがあるのかい?」
「彼はもうこんな風にパンの匂いを嗅ぐこともないんだ」下宿人の一人が爺さんのしかめっ面を真似て見せながら言った。
「あーあ! 皆さん」家庭教師が言った。「さあ、もうゴリオ爺さんのことはいいでしょう、もう、それを肴にするのはやめましょう。何故なら、もう一時間も私達は彼をねたにして過ごしてるんですからね。パリのようなよい町に住んでいて、ありがたいことは、誰からも注意を払われずに、そこで生まれ、そこで生き、そこで死ねることです、だから、市民の優遇措置を大いに享受しようじゃありませんか。今日も六十人の死者があるんです。こんなに大量のパリの人間が死んでいることに哀れを誘われませんか? まあ、ゴリオ爺さんは逝ってしまったけれど、彼にとって良かったかも知れません! もし貴方が彼を愛するなら、行って彼を見守ってやってください、そして我々が静かに食事しているのは、そのままにしておいて下さい、私達のことはね」
「おお! そうだよ」寡婦が言った。「彼にとっては、死ぬ方がまだよかったよ! あの気の毒な人は生涯を通じて、色々不愉快な目に会ってきたみたいね」
 これが、ウージェーヌにとっては父親の権化とさえ思われた人に対して与えられた唯一の弔辞らしき言葉だった。十五人の下宿人達はいつものようなおしゃべりを始めた。ウージェーヌとビアンションが食べ終わった時、フォークやスプーンの音、会話から起こる笑い声、食いしん坊や冷淡な人々が発する様々な表現、人々の能天気ぶり、この総てが二人の学生を嫌悪感でぞっとさせた。二人は一晩中死者の傍らで徹夜で祈りを捧げてくれる神父を探すために出て行った。彼等は彼等が出せるわずかばかりの金で、善良な老人のための葬儀を何とか執り行わなければならなかった。夜九時頃、遺体は寝台の上に横たえられ、両側にはろうそくが灯り、部屋の壁はむき出しになっていた。そして神父が一人、彼の傍らに坐っているのが見られた。寝る前にラスチニャックは聖職者に葬儀を執り行う費用や葬列にかかる費用についても情報を得るために質問をしておいた。そしてニュシンゲン男爵とレストー伯爵に短い手紙を書き、埋葬にかかる総ての費用を賄えるように、何人かの人員も派遣して欲しい旨の要請をした。彼はクリストフを彼等の許に遣いに寄越してから、ベッドに入った。そして疲れに押しつぶされるように眠りに落ちた。翌る朝、ビアンションとラスチニャックは彼等自身で死亡申告に行かざるを得なくなった。そしてそれは正午頃に認可された。二時間後も二人の婿はどちらも金を送ってこなかった。彼等の家からは誰一人派遣されず、ラスチニャックは既に神父にかかる費用をやむなく支払っていた。シルヴィも爺さんに屍衣を着せて白布を縫って中に包み込んでやった手間賃として一〇フランを請求していたので、ウージェーヌとビアンションは、死者の親族が全く関わる気がない以上、親族からは葬儀費用はほとんど期待出来ないであろうと計算し始めていた。医学部の学生は彼自身の手で死骸を柩の中に入れることさえ引き受けた。その粗末な柩も彼が病院で安く手に入れたものを運んできたのだった。
「あのひどい親族どもに嫌味をしてやろうぜ」彼がウージェーヌに言った。「ペールラシェーズ墓地に五年契約で土地を一区画買うんだ。そして教会や葬儀屋に第三クラスのサービス[102]を頼むんだ。もし婿や娘達が君に借金の返済を断るようなら、君は墓石にこう彫りこんでやるんだ。〈ムシュー・ゴリオここに眠る、レストー伯爵夫人とニュシンゲン男爵夫人の父、ただし二名の学生の負担金によって埋葬さる〉」
 ウージェーヌはニュシンゲン夫妻の家とレストー夫妻の家を訪れたが遂に成果は得られず、とうとう友人の勧めに従う気持ちになった。彼は屋敷の入り口付近より踏み込んでゆくことさえ出来なかった。どちらの家の門番も厳しい命令を受けていた。
「旦那様も奥様も」彼等は言うのだった。「どなたもお会いになりません。お父上がお亡くなりになって、お二人とも深い悲しみに沈んでおられます」
 
 ウージェーヌはパリ社交界でかなりの経験を積んでいたので、執拗に言い張ることはしなかった。彼は自分がデルフィーヌの傍らに辿り着くことさえ出来ないのを知った時、彼の心は奇妙に縮こまっていた。
〈衣装を一揃い売り払って下さい。そうすれば、お父様は終の棲家へ然るべく導かれることでしょう〉彼は門番部屋で彼女宛に一筆書いた、そして文面を隠して、これを女主人に届くようにテレーズに託してくれるように門番に頼んだ。しかし門番はこれをニュシンゲン男爵に渡したので、男爵はそれを暖炉に投げ込んでしまった。ウージェーヌは自分のやるべきことを総て終えた後、三時頃、下宿に戻ってきたが、ここの雑然とした入り口に黒布でやっと覆われている棺を見ても、もう涙も出なかった。棺は人けのない道に二台の椅子の上に置かれていた。まだ誰も触ったこともなかった安物の灌水器が銀メッキされた銅の皿の中を神聖な水でいっぱいに満たしていた。入り口にはまだ黒幕も張っていなかった。これは何らの豪華さもなく、崇拝者もなく、友もなく、親族もいない、貧者の死なのである。ビアンションは病院の方にのっぴきならない用事が出来たので、ラスチニャック宛にメモを書き残していた。その中で彼は教会との交渉結果を報告していた。医学生がラスチニャックに報告するには、教会でミサを行うと法外な金が要るので、彼等は最小限の晩課だけで我慢しなければならないというのだった。そして彼はクリストフにメモを持たせて葬儀屋には既に連絡に行かせていた。ウージェーヌがビアンションの走り書きのメモを読み終わった時、彼はヴォーケ夫人が手に持っているロケットに目をとめた。それは金で丸く縁取られて、その中に二人の娘の髪の毛が保存されているものだった。
「どうして貴女がそれをお持ちなんですか?」彼が彼女に訊ねた。
「当たり前じゃない! 彼がこれを持ってくべきだとお思い? だって金ですよ」シルヴィが答えた。
「確かにそうだが」ウージェーヌが憤りの気持ちで答えた。「彼はこの品物だけが少なくとも娘二人を象徴してくれるものとして身に付けていたんですよ」
 霊柩車が来ると、ウージェーヌは棺を積み込んで、棺の釘を抜き、爺さんの胸の上に恭しく一枚の肖像画を乗せてやった。その画はデルフィーヌとアナスタジーが若くて、純潔で無垢で、父が死ぬか生きるかの瀬戸際でウージェーヌに対して妙な屁理屈を捏ねた彼女達とは違った過去りし日の二人を思い出させるものだった。ラスチニャックとクリストフ、それに二人の葬儀人夫が付き添い、葬儀車は哀れな老人をサンテチエンヌ・デュ・モンへと運んでいった。ここはネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通から少し離れたところの教会だった。そこへ着くと、遺体は小さな暗い礼拝堂に安置された。学生は遺体を移動させた周辺でゴリオ爺さんの二人の娘、あるいは彼女達の夫の姿を探したが無駄だった。彼はクリストフとたった二人だけになっていた。この少年は幾らかの心づけを彼にはずんでくれた老人に最後の御奉公でお返しをしなければならないと考えていた。二人の牧師、合唱隊の子供達、それに教会の用務員を待ちながら、ラスチニャックはクリストフの手を握り締めた。しかし一言も言うことが出来なかった。
「そうです、ウージェーヌさん」クリストフが言った。「あの方は善良で正直なお方でした。あの方は人より威張ったことなど決して言われませんでした、誰も傷つけず、そして決して人に悪いことはなさいませんでした」
 二人の牧師、子供の合唱隊それに用務員が来て、無料で祈りを捧げるほど宗教が裕福でないこの時代としては、七〇フランに見合うだけの奉仕をしてくれた。聖職者達は詩篇歌から“レ・リベラ”と“レ・デ・プロフンディス”[103]を歌った。お勤めは二十分間続いた。葬儀用の馬車は牧師と聖歌隊の子供一人のための一台しかなかったが、彼等はウージェーヌとクリストフが同乗するのを受け入れてくれた。
「ついてくる馬車はないな」牧師が言った。「私達は早く行けるよ、ぐずぐずしないで済む。今五時半だ」
 しかし遺体が霊柩車に乗せられた時だった、紋章で飾られた二台の馬車、――いずれも空だったが、一台はレストー伯爵のもので、もう一台はニュシンゲン男爵のものだった――その二台の馬車が現れ、葬列をなしてペール・ラシェーズ墓地にまで従ってきた。六時にゴリオ爺さんの遺体は墓穴の中に降ろされた。その周囲には娘達の家の使用人達がいたが、彼等も学生が支払った金額に見合う短い祈りが爺さんに捧げられると直ぐに牧師ともども姿を消してしまった。二人の墓堀人は土くれを何回か棺にかけて覆うと、体を起こし二人ともラスチニャックの方に向き直った。そして彼にチップを要求した。ウージェーヌはポケットの中を探し回ったが、一銭もなかったので、彼は仕方なくクリストフから二〇スーを借りた。そのこと自体は些細なことだったが、ラスチニャックの中で恐ろしいほどの悲しみの発作が突き上げてきたのだった。日が落ちて湿っぽい黄昏が神経をいらいらさせた。彼は日没を眺め、若者としての最後の涙もその場に埋葬したのだった。この涙こそ、純な心の中の神聖な感動によって搾り出された涙だった。この涙の一滴は地上に落ちた後、跳ね上がって天空にまで届いた。彼は腕組みをして、じっと雲を見つめた、そしてそのまま眺め続けていた。クリストフは去っていった。
 ラスチニャックは一人残って、墓地の高みに向かって少し歩いた。それから、セーヌ川の両岸に沿って曲がりくねって横たわるパリを眺めた。そこには明りが灯り始めていた。彼の目はほとんど貪るようにヴァンドーム広場の記念柱と廃兵院の丸天井の間に吸い寄せられた。その場所にこそ、あの華麗な社交界が息づいていて、彼はその中に入り込むことを望んでいたのだ。彼はぶんぶん蜜蜂が飛び回るこの巣の上に、まるで前もって蜜を吸ってしまいかねないような視線を投げかけた。それから、この壮大な言葉が彼の口をついて出た。「さあ今度はお前と一対一の勝負だ!」
 そして彼が社交界へ挑む第一幕として、ラスチニャックは夕食を共にするために、ニュシンゲン夫人宅に向かった。
一八三四年九月 サッシェにて

 
(完)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja)の下で公開されています。
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2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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