ゴリオ爺さん バルザック

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 彼はとうとうエルデ通に着いた。そしてレストー伯爵夫人の家を訪ねた。いつかは必ず勝者となることを確信している男の冷たい怒りを心に秘めながら、彼は人々の意地悪い視線を受け止めていた。彼等は彼が徒歩で庭を横切って来るのを見ていたし、戸口に馬車が近づいて来る音も聞いていなかった。ここの庭に足を踏み入れたとき痛感させられた自分への劣等感は今浴びせられる視線によって益々強烈に感じられた。ここでは豪奢で粋な二輪馬車につながれた美しい馬が前足で地面を蹴る姿が見られ、そこには遊蕩の存在の華麗さが誇示され、パリの女達の喜び溢れる習慣が仄めかされているのだった。彼は一人で勝手に機嫌を悪くしていた。彼の頭の中の引き出しが開き、彼はそこに一杯詰まった機知を見出せると当てにしていたが、それは勝手に閉じてしまったので、彼は馬鹿になってしまった。召使が訪問者の名前を伝えに伯爵夫人のところへ向かったが、彼女の返事を待ちながら、ウージェーヌは片足を支えにするようにして控えの間のガラス窓の前に立ち、肘をイスパニア錠の上にのせ、何を考えるでもなく庭の方を見ていた。彼には時間が長く感じられた。もし彼が南フランス人独特の粘り強さに恵まれていなければ、彼はさっさと何処かへ行ってしまったことだろう。彼の粘りは図に当たって奇跡を起こした。
「ムッシュー」召使が言った。「奥様は化粧室にいますが、とても忙しくて、私にも返事をくれませんでした。しかし、ムッシューが広間にお越しになるのでしたら、既に一人、来客がおられます。」
 一言でもって、自分の主人を非難したり、裁いたりするこの男の恐ろしい能力に驚嘆しながら、ラスチニャックはこの召使がそこから出て行ったその扉を決然として開いた。それはこの傲慢な召使に彼がこの家の住人の知り合いであることを間違いなく知らしむるためだった。しかし彼は全く思いもかけず小さな部屋に出てしまった。そこにはランプが灯っていて、食器棚が並び、入浴用タオルを暖める機器が置いてあって、その部屋は薄暗い廊下と忍び階段に通じていた。彼は控えの間から聞こえてくる抑えたような笑い声を聞いているうちに心の混乱が頂点に達するのを感じた。
「ムッシュー、広間はこちらでございます」召使がこれ以上ないような嘲笑に似たうわべだけの恭しさで彼に告げた。
 ウージェーヌは大急ぎで、そちらへ向きを変えたので浴槽にぶつかってしまった。しかし彼は非常に上手く帽子を掴んで、すんでのところで浴槽の中にそれを落とさずに済んだ。この時、小さなランプに照らされた長い廊下の奥にある戸が開いた。ラスチニャックは今度はレストー夫人の声とゴリオ爺さんの声、それにキスをする音を聞いた。彼は食堂へ戻り、そこを通り抜け、召使に続いて最初の広間に戻り、窓際に落ち着いた。その時、彼は窓から庭を見渡せることに気がついた。彼は今ここにいるゴリオ爺さんが、本当に彼の知っているゴリオ爺さんであるのか確かめたく思っていた。彼の心臓は異常なまでに高鳴り、彼はヴォートランが言っていた恐ろしい考察を思い起こしていた。召使は広間の戸口のところでウージェーヌを待っていたが、突然、優雅な身なりをした若い男が現れ苛々した様子で言った。
「私は帰るよ、モーリス。伯爵夫人には、私が半時間以上も彼女を待っていたと言ってくれ」
 この傲慢な態度は間違いなく彼に許されているもののようで、彼はイタリアの円舞曲を口ずさみながら、ラスチニャックが佇んでいる窓際の方に向かって歩いてきた。彼は庭を眺める積りだったが、そこで学生風の人物に出会ったのだった。
「しかし伯爵様、もう少し待って頂けたらと思うのでございます。奥様は今、用事を済まされました」モーリスは控え室に戻ってきて、そう言った。
 この時だった、小階段を降りて出てきたゴリオ爺さんが馬車の出入り口となる両開きの大門の前に突然現れた。爺さんは傘を取り出し、それを広げようとしていた。彼は気がつかなかったが、大門は一人の着飾った若者が二輪馬車に乗ってきたのを通すために開いていた。ゴリオ爺さんは轢かれてぺしゃんこにされそうだったが、辛うじて後ろへ飛び下がって難を免れた。傘の布地が馬を驚かして、馬は正面階段の方へ軽く避けながら突き進んだ。この若者は怒りを含んだ様子で目を脇に向けゴリオ爺さんを見ると、彼が出てゆく前に挨拶をした。その挨拶は、例えば人が必要に迫られたとき金貸しに対してするような、あるいは酷く欠陥のある男に対する尊敬を強く要求されてやるような、そうした強制された配慮といった印象の強い挨拶だった。このような挨拶は後で思い返すと、人はそれを恥ずかしく感じるものなのだ。ゴリオ爺さんは人の好さをいっぱいに表し、親しげな様子で軽く挨拶を返した。この出来事はまるで電光のような速さで通り抜けていった。その光景に気を取られて、自分一人だけでいるのではないことをすっかり忘れていたが、ウージェーヌは突然伯爵夫人の声を聞いた。
「あー! マクシム、貴方は行ってしまうのね」彼女が少し口惜しさの混じった非難がましい声音で言った。
 伯爵夫人は二輪馬車が入ってきたことを気にも留めなかった。ラスチニャックが急いで振り向くと、白いカシミアの化粧着を色っぽくまとった伯爵夫人が見えた。結び目が薔薇色でしどけなく髪を結った様子はいかにも朝方のパリ女の姿だった。彼女は香気を漂わせ、彼女は間違いなくたった今入浴したはずで、彼女の美貌は明け透けに言ってしまえば、最も扇情的なものと思われた。彼女の目は濡れていた。我等の主人公の若者の目は全てを読み取る力を持っていた。ちょうど植木が適度の成分を含んだ空気を吸い込むように、この女性が発する光線を受けて彼の精神が彼女に向かって見事に焦点を絞っていた。ウージェーヌは彼女の腕にあえて触れてみるまでもなく、伸びやかなみずみずしさを感じた。彼はカシミアを通して彼女の薔薇色の胴体を見たが、それは軽く半開きになった化粧着が、時としてむき出しのまま放置しているので、彼の視線はおのずからそちらへ向けられるのだった。コルセットの類は伯爵夫人にとって役にも立たないし、帯は彼女の胴体の柔軟さを強調するだけだった。彼女の首は愛へと人を招き、彼女の足は上履きの中でとても綺麗だった。マクシムが彼女の腕を取ってキスしようとした時、ウージェーヌはやっとマクシムの存在に気がつき、伯爵夫人もウージェーヌに気がついた。
「あー! 貴方だったの、ラスチニャックさん、貴方に会うと何だか楽しいわ」機知に富んだ男には敏感に反応出来る様子で彼女が言った。
 マクシムは闖入者を早く立ち退かせたい気持ちを露骨に表しながら、ウージェーヌと伯爵夫人を交互に見やった。『さあさあ! ねえ、この小生意気なやつを戸口まで送って行きたいんだけど、いいんだろ!』このセリフは伯爵夫人アナスタジーがマクシムと呼んだその若い男が無礼にも投げつけた高慢そのもののあからさまで分かりやすい眼差しを翻訳したものである。そして彼女は全く疑うことなく従順な気持ちで女の全ての秘密をこの男に話し、この男の顔色をうかがっているのである。ラスチニャックは烈しい憎しみをこの若い男に対して抱いた。第一にマクシムの美しい金髪と綺麗なカールは彼自身の髪が実にみっともないことを彼に自覚させた。更にマクシムの長靴は精妙かつ清潔だったが、逆に彼のものはといえば、歩く時は気をつけているのだが、いつの間にか薄い泥の痕が付いているのだった。とどめはマクシムが着ていたフロックコートが彼の体に優美に合っていて彼を美しい婦人に相応しい男にしていたのに対してウージェーヌは昼の二時半だというのに黒い夜会服を着込んでいた。このシャラント県出身の機知に富んだ少年は、美神がこのすらりとした長身で明るい瞳を持ち青白い顔色の美男子に優位性を与えるであろうことを察知した。この男は哀れな孤児を破滅に追い込むことだって出来る、そういう人間だった。ウージェーヌの返事を待たずに、レストー夫人はまるで羽ばたきするようにして別の部屋に立ち去ってしまった。彼女の化粧着の裾が閉じたり開いたりして空中にたなびくその様は彼女が蝶になったような印象を与えた。そして、マクシムが彼女についていった。ウージェーヌは怒り狂って、マクシムと伯爵夫人を追った。この三人の人間は大広間の真ん中の暖炉のところで、また向かい合って立っていた。学生は自分がこの不愉快なマクシムの邪魔をしてやろうとしていることを良く心得ていた。しかし、レストー夫人の機嫌を損ねるのではという危険を冒してでも、この二枚目を困らしてやりたいと思った。突然この美男子をボーセアン夫人の舞踏会で見たことを思い出した時、彼はマクシムとレストー夫人の関係を見抜いてしまった。そしてとんでもない愚行をやらせてしまうか、あるいは大成功を収めさせてしまうかする、あの若者特有の大胆さをもって、彼はつぶやくのだった。
「こいつは俺のライバルだ。俺はこいつに勝ちたい。この女たらしめ!」
 彼はマクシム・ド・トライユ伯爵が調子に乗った相手に侮辱されるに任せておいて決闘になると最初の一発でこの男を仕留めたことがあるのを知らなかった。ウージェーヌは器用な狩人ではあったが、射的で二二体中二〇体の人形を射抜いたことは一度もなかった。若い伯爵は暖炉の隅にあるソファーにどっかと坐ると、火箸を手にとって暖炉の火を起こしにかかった。しかしその動きが激しくて不細工だったので、アナスタジーの美しい顔にたちまち困惑の色が広がった。若夫人はウージェーヌの方を向くと、冷たく問い質すような視線を投げかけた。それはまるでこう言いたげだったのだ。『どうして貴方は立ち去らないでいるの? 立派な教育を受けた人なら、直ぐにきっかけを見つけて、お暇の言葉を言ってくれるものなのよ』
 ウージェーヌは心地良げな様子で言った。「奥様、私は早く貴方に会いたくて……」彼はそれだけで言うのをやめた。扉が一つ開いた。二輪馬車で乗りつけた男が突然姿を現した。彼は帽子を被ってなくて、伯爵夫人には挨拶をしないで、ウージェーヌの方を気遣わしげに見た後、マクシムに手を差し出して言った。「こんにちは」それが親密さを感じさせる調子で言われたので、ウージェーヌは酷く驚かされた。田舎から出てきた若者は、社交界の人々にとって三角関係がいかに甘美なものであるかを知らない。
「夫のド・レストーです」伯爵夫人は学生に夫を紹介して言った。
 ウージェーヌは深々と頭を下げた。
「この方は」彼女は続けて、ウージェーヌをレストー伯爵に示しながら言った。「ボーセアン子爵夫人とは、マルシャックの家系の親戚筋に当たられます。そして、この前、彼女が催した舞踏会で、私は彼に出会って楽しませて頂きましたわ」
 マルシャックの家系でボーセアン子爵夫人の親戚! この言葉、それは伯爵夫人が誇張して発したとさえ言えるのだが、邸を取り仕切る女主人としては、自分のもとに選りすぐりの人間しか入れないということを証明してみせたいというある種の自尊心に導かれたものであったが、魔術的な効果をもたらし、伯爵は冷淡で儀式ばった態度を改め、学生に向かって挨拶をしてくれた。
「初めまして」彼が言った。「貴方にお会い出来て嬉しいです」
 マクシム・ド・トライユ伯爵はと言えば、ウージェーヌに不審げな目を向けていたが、急に傲慢な態度を取り下げた。この魔法の杖、名前が持つ絶大な効果のおかげで、南仏人の脳の中の三十もの金庫の蓋が開き、彼はあらかじめ準備していた機知を取り戻した。突然射した明かりが、彼にとってどんよりと曇っていたパリの上流社会の空気の中で彼にはっきりと行く手を示してくれた。メゾン・ヴォーケ、ゴリオ爺さんは今や彼の思考から遠く離れた存在だった。
「私はマルシャックの家系は廃絶されたのかと思ってたんですが、違ってましたか?」レストー伯爵がウージェーヌに言った。
「はい、伯爵」彼は答えた。「私の大叔父、シュヴァリエ・ド・ラスチニャックはマルシャック家の跡取り娘と結婚したんです。彼にはたった一人だけ娘が生まれました。彼女はクラランボール元帥と結婚しました。その元帥がボーセアン夫人の母方の祖父なのです。我々は末子の家系です。私の大叔父、海軍少将でしたが、王家のための軍役で全てを失ってしまったので、我々の家系は益々貧しくなってしまいました。革命政府はインド会社を清算しながら、我々の債権を認めようとしなかったんです」
「貴方の大叔父様はもしや一七八九年以前にル・ヴァンジェール号の指揮をされてましたか?」
「その通りです」
「それなら、彼は私の祖父をご存知のはずです。祖父はル・ワルウィック号の指揮を執っていました。」
 マクシムはレストー夫人の方を見ながら軽く肩を上げ、彼女にこんな風に言いたげだった。『ねえ、彼等があっちで海軍の話に盛り上がるんだったら、我々は消えようぜ』アナスタジーはド・トライユ氏の目配せを読み取った。女性特有のこの驚くべき能力をもって、彼女は微笑の中に言葉を込めて答えた。『いらっしゃい、マクシム。私、貴方にお願いしたいことがありますのよ。こちらのお二人様、どうぞご自由にル・ワルウィックやル・ヴァンジェールの両方で航海を楽しんで下さいな』彼女は立ち上がると、あちらの二人の会話を冷笑する気持ちを込めた合図をマクシムに送り、彼は彼女と共に閨房へ向かった。モノグラナティックという綺麗なドイツ語に厳密に対応するフランス語はないが、敢えて言えば、不義の関係にあるこのカップルが戸口近くまで行った時、伯爵はウージェーヌとの会話を中断した。
「アナスタジー! まあ、ちょっと待ちなさい」彼は冗談っぽい調子で叫んだ。「貴女も知ってるように……」
「私、戻ってきます、戻ってきます」彼女は彼を遮って言った。「ほんの少しの間でいいんです。マクシムに頼むことは直ぐに済みます!」
 彼女は直ぐに戻ってきた。自分の空想の世界に遊ぶことが出来るように、夫の性格を観察するように強いられた妻が全てそうであるように、大事な夫の信頼を失うことのないようにするには、自分はどこまで進んでゆけるのかを見定めるすべを彼女は知っていた。そうした妻達はまた人生におけるつまらない事で夫を刺激するようなことも決してやらない。伯爵夫人は夫の声の調子の変化に気づき、閨房に留まることには何の安全もないことを知ったのだった。この思いがけない不都合はウージェーヌのせいだった。伯爵夫人もまた悔しさをいっぱいににじませ、素振りで学生の方をマクシムに示すのだった。マクシムは思いっきり皮肉をこめて伯爵、その夫人、そしてウージェーヌに向かって言った。「すいません、皆さんお忙しそうなので、私はお邪魔したくありません。失礼します」彼は立ち去った。
「もっと居ろよ、マクシム!」伯爵が叫んだ。
「夕食一緒にしましょう」伯爵夫人はまたもウージェーヌと伯爵を放りっぱなしにして、マクシムを追って大広間に入って行った。そこで二人は暫く一緒に留まっていた。彼等は伯爵がウージェーヌを追っ払ってくれるのを期待していたのだ。ラスチニャックには彼等が突然笑い出したり、話したり、また黙り込んだりするのが代わる代わる聞こえてきた。しかし、茶目っ気のある学生はありったけの機知をレストー氏に対して使って、彼を持ち上げたり、色々な話題に彼を乗せようと試みたりした。それもこれも伯爵夫人にもう一度会いたい、そして彼等とゴリオ爺さんとの関係がどうなっているのかを知りたい一心からだった。この女、明々白々たるマクシムの愛人、この女、夫の正妻でありながら、密かに老製麺業者と繋がりを持っている。彼にとって、この女は謎だらけに見えるのだった。彼はこの秘密を見破り、同時にパリジェンヌの中の最高の華であるこの女性をまるで王のごとく支配出来ないものかという野望に燃えるのだった。
「アナスタジー」伯爵は改めて妻の名を呼んだ。
「行きましょ、私のマクシム」彼女は若者に言った。「仕様がないわ。今晩また……」
「君にお願いしたいんだが、ナジー」彼は彼女の耳に囁いた。「君はあの可愛い若者には来させないようにしてくれないか? 彼の目は君のガウンが半開きになった時、まるで炭火のように燃え上がっていたぜ。彼は君に愛を告白することになる、そして君の名を汚すことになる、そして君は、僕に彼を殺してくれと頼むことになるんだ」
「貴方って頭がおかしいんじゃない、マクシム?」彼女が言った。「あの手の純真な学生って、逆に彼等はちょうどいい避雷針になるんじゃない? 私きっとレストーにあの子に対する嫌悪感を植えつけてやるわ」
 マクシムは大笑いして、伯爵夫人に送られて出て行った。夫人は窓際に立って、彼が馬車に乗るのを眺めた。馬に前足で地面を蹴らせると、彼は鞭を振るった。彼女は大門の扉が閉まるまで戻ってこなかった。
「ねえアナスタジー、想像出来るかね」彼女が戻ってくると伯爵が叫んだ。「彼氏の家族が住み着いてる土地は同じシャラント県の中で六キロと離れてないんだよ、彼氏の大叔父と私の祖父はお互い良く知ってるよ」
「同郷人だと知って嬉しいわ」伯爵夫人はうわの空で答えた。
「貴女が思いも及ばないようなことが、まだあるんですよ」低い声でウージェーヌが言った。
「何ですって?」彼女はびっくりして言った。
「と言いますのは」学生は答えて言った。「僕はたった今、あなたの屋敷からある人が出てゆくのを見たんですが、彼とは同じ下宿で隣り合った部屋に住んでるんですよ、ゴリオ爺さんとはね」
 爺さんという言葉をつけられたこの名前に、火を掻き立てようと、火箸を炉に突っ込んでいた伯爵は、まるで手にやけどでもしたように急に立ち上がった。
「貴方ね、ゴリオ氏と言えんものかね!」彼が叫んだ。
 伯爵夫人は夫のかんしゃく玉が破裂するのを見て、さっと顔が青褪めた、そして次に顔を赤らめ、明らかに困惑の色を浮かべた。彼女は平常心を取り戻そうとするような声音で、うわべは屈託無げな様子で答えた。「私達が誰よりも愛している人ですわ……」彼女は言葉を止め、彼女のピアノを見つめた。彼女の中の何かの空想から目覚めたように彼女が言った。「貴方、音楽はお好きですか?」
「大好きです」ウージェーヌは答えたものの赤くなり、何かとても酷く愚かなことを仕出かしてしまったという思いにうろたえて、どうしてよいのか分からなくなった。
「お歌いになります?」そう叫んで彼女はピアノに向かい、低いC音から高いF音まで、巧みな指使いで実に活き々々とした様子で弾き始めた。「ララララ!」
「いえ、奥様」
 レストー伯爵はそのあたりを行ったり来たりしていた。
「貴方は歌えればきっともてるのに、残念だわ。カーロ、カーロ、カーアーロー、ノン・ドゥビターレ」[28]伯爵夫人が歌った。
 ゴリオ爺さんの名前を口にしたことで、ウージェーヌは魔法の杖を一振りしたことになるのだが、その効果は彼女が先に口にした言葉、すなわちボーセアン夫人の親戚だというあの言葉がもたらした効果とは全く逆のものとなってしまった。彼は好意で骨董愛好家の家に招かれ、そこで不注意に彫像がいっぱい置かれていた棚に手を触れてしまい、くっつきの悪い彫像三、四個の頭を落としてしまったのと、まるで同じような立場に置かれている自分に気がついた。彼はいっそ穴があったら入りたいような気持ちだった。レストー夫人の表情は乾き切って冷淡で、彼女の目はあいにくな学生の目を無関心を装うように避けていた。
「奥様」彼は言った。「どうかレストー様とお話ください。そして私の心からの敬意をお受けください。そして私をお許しください……」
「貴方が来てくださるのなら、いつだって」伯爵夫人はウージェーヌを止める仕草をして大急ぎで言った。「貴方はきっと私達、私は勿論レストー伯爵にとっても何だかこれまでなかったような楽しみを与えてくれそうだわ」
 ウージェーヌは夫妻に対して深々とお辞儀をし、レストー氏に付き添われて部屋を出た。レストー氏はラスチニャックが遠慮するのに構わず、控えの間まで彼を送ってきた。
「やつがまたやって来たら、今後はいつも、奥様も私も、私達はいないと言うんだ」
伯爵が召使のモーリスに言った。
 ウージェーヌが玄関の階段を降りようとした時、彼は雨が降っているのに気がついた。
「そーら」彼は思った。「へまやっちまったな、でもって、その原因も結果も未だに解らねえ、おまけに服も帽子も台無しだ。俺は当分、隅っこにじっとしていて、何をすべきかを見つけ出さなきゃなんない。超有名な裁判官にどうすりゃなれるかだけを考えときゃいいんだ。それが上手くゆけば、俺は社交界にデヴューだ。でもって、そこで上手く立ち回るには幌付二輪馬車が何台か要るし、磨き上げた長靴も要る。まだまだ欠かせない道具がある。金の必要も次々に起こってくるし、六フランで買ったスエードの手袋も、朝は真っ白でも、夜会の頃にはいつも黄色に汚れていたりしてるんだろな、たまんねえ! ヒヒ爺のゴリオ爺さんか、くそっ!」
 彼が大通りの門の下に着いた時、つい今しがた、新婚夫婦を降ろしたばかりの貸し馬車の御者がいた。彼は次の客の指示を主人に訊くよりも、こっそりと闇取引の客を乗せてしまおうと企んでいた。御者は、雨傘もなく黒い服に白いチョッキ、黄色い手袋に泥まみれの長靴といういでたちのウージェーヌを見て、合図を送ってきた。ウージェーヌはここまでの怒りに支配されて、人に耳を貸さない状態になっていた。それはしばしば若者に、偶然ぶつかった深淵をまるで探し求めていた幸運を見出したかのように見誤らせて、その中に益々深くはまり込ませるという心理状態だった。彼は御者の誘いにうなづいて同意した。ポケットの中に二十二スーしかないのに彼は馬車に乗り込んだ。そこにはオレンジの花のかけらと帽子飾りの薄片が散らばっていて、新婚カップルが乗っていた名残をうかがわせていた。
「旦那、どちらへやりましょう?」御者が尋ねてきたが、彼の手袋は既に白いとは言えない状態だった。「勿論、自分で撒いた種なんだから、少なくとも何らかの影響が俺に及んでくるだろう!」ウージェーヌはまだ一人で考えていた。
「ボーセアンの邸へ行ってください」彼は高い声で御者に言った。
「どちらのボーセアンですか?」御者が尋ねた。この絶妙の言葉がウージェーヌを戸惑わせた。この見慣れないきざな男はボーセアンの邸が二ヶ所あることを知らなかったし、むこうでも彼の存在を知らない親類がパリにまだどれくらいいるのかも知らなかった。
「ボーセアン子爵、通りは……」
「ド・グルネル」御者は頭で頷き彼の言葉を遮って言った。「ところがですね、まだ他にもボーセアン伯爵と侯爵の邸があるんですよ。サン・ドミニック通」彼はステップを引き上げながら付け加えて言った。
「僕は知ってますよ」ウージェーヌは憮然として答えた。「今日もまた皆が俺を馬鹿にしやがる!」彼は前の座席に帽子を投げ捨てながら思った。「またまた恥さらしをしては、王様の身代金を払って脱出となるんだろうな。しかし少なくとも、俺は俺のいわゆる従姉のところに、ちゃんとした貴族らしい様子で訪問してやるんだ。ゴリオ爺さんはもう少なくとも一〇フランは俺に使わせやがった。忌々しい爺いめ! そうだ、俺は俺の冒険をボーセアン夫人に話してやろう、多分彼女を笑わせられるだろう。彼女なら、この尻尾のない老いぼれ鼠とあの美しい夫人との罪深い関係の秘密もきっと知っているだろう。あの背徳的で俺にとってはひどく高くつきそうな人妻にぶつかってゆくよりも、従姉に気に入ってもらう方がよさそうだな。あの美しい子爵夫人の名前が、かくも強い影響力を持っているんだから、彼女自身はまだもっと力を揮えるに違いない。そうだ、彼女の助けを借りて俺は高みを目指してやろう。誰だって、天空で何かを獲得しようと思ったら、当然、神のお助けを願うしかないよな!」
 こうした言葉は無数の雑多な考えにもまれて漂ったあげく、ようやく彼が短くまとめた感想だった。彼は降る雨を見ているうちに、いくらか落ち着きと自信を取り戻した。彼は思った。もしまだ残っている大事な百スー貨幣二枚を使ってもいいのなら、彼は喜んでそれで、服、長靴、それに帽子を買い揃えるだろう。彼は御者が「門を開けてください!」と叫ぶのを聞いた時は、何故かこみ上げてくる嬉しさを抑えられなかった。赤に金モールの服の守衛が邸の門の蝶番に向かってぎしぎしと音を立て、それから彼の乗った馬車がポーチの下を通り、庭の方に曲がって、階段の庇の下で停止したのを見ると、ラスチニャックは何か快い満足感を覚えるのだった。赤い刺繍を施された青い幅広外套を着た御者は馬車のステップを降ろした。馬車から降りる時、ウージェーヌは忍び笑いを聞いたが、それは柱廊の下に消えていった。三、四人の召使が早くも俗悪な結婚に使われたこの馬車について冗談を言っていた。その笑い声を聞いた瞬間、学生は自分が乗ってきた馬車とパリでも最高に優美な一台の二輪馬車を引き比べていた。二輪馬車は薔薇の耳飾をしてしっかりとはみを噛んで今にも飛び跳ねそうな二頭の馬にひかれていて、御者も白粉を塗り綺麗なネクタイを締め、まるで馬が逃げ出そうとするのを止めるかのように手綱を握り締めていた。新興ブルジョワ階級地域のショセ・ダンタンではレストー夫人は庭内に二十六歳の青年の美麗な二輪馬車を置いていた。伝統的貴族階級地域のフォーブール・サン・ジェルマンでは大貴族の華やかさが彼を迎えてくれた。そこに停まっている馬車の装備一式は三万フランでも買えるかどうかといったしろものだった。
「あの馬車の持ち主は誰なんだろう?」ウージェーヌはつぶやいた。彼は遅まきながら、一人前の女性で誰とも付き合っていない女とパリで出会うことは極めて難しいことを知った。そして、血縁以外で、この手の女王様を征服することは実に価値の高いものであることも知った。「そうだ! 俺の従姉だって、間違いなくマクシムのような愛人を持っているはずだ」
 彼は真実を悟りぶちのめされた心持で玄関の階段を上った。彼の様子を見ていたのか、ガラス戸が開けられた。彼はそこで櫛を入れてもらったロバのようにきちんとした様子の召使がいるのに出会った。彼が出席したあのパーティはボーセアン邸の一階を占める広い接客用のアパルトマンで催されたのだった。招待を受けてから舞踏会まで間がなかったので、彼は従姉を訪問しておくことが出来ず、彼は未だボーセアン夫人のアパルトマンの奥深くまで立ち入ったことがなかった。それ故に彼は卓越した夫人が、その魂と品性によっておのずから醸し出す極上の優美さを一度はこの目で見ておこうとやってきたのだった。レルトー夫人のサロンが彼に比較する材料を提供していたので、彼の探究心は一段と好奇心を高めていた。四時半には子爵夫人が姿を現した。もう五分早ければ、彼女は自分の従弟の来訪を断っていただろう。ウージェーヌ、そう、彼はパリジェンヌの様々なエチケットを全然知らなかったのだ。ともかくも彼は花でいっぱいの白っぽい色調の大きな階段に導かれ金色の欄干、真紅の絨毯を目にしながらボーセアン夫人の前に辿りついた。がしかし、彼は口伝の伝説、パリのサロンで毎晩のように人々の耳から耳へ語り伝えられるあの移り気な話題の数々を全く知らなかった。子爵夫人はこの三年来、最も高名で最も金持ちのポルトガル人の貴族ダジュダ・ピント侯爵と付き合っていた。それはある種の害のない男女関係で、こうした結びつきをしている二人には大いに魅力があるだけに、彼らには第三者の存在が耐えられないのだ。そしてまたボーセアン子爵自身が、好むと好まざるとに関わらず、こうした身分違いの男女の結びつきに対しても尊重する姿勢を、世間に対する模範として見せていた。彼等の友情が始まった最初の頃、子爵夫人のところへ二時に会うために来た人達は、ダジュダ・ピント侯爵がそこにいるのを見かけることが多かった。ボーセアン夫人は部屋のドアを閉めるわけにもゆかず、それがどうにも不便なことだったので、来た人達をいともよそよそしく通した後は、部屋の蛇腹を一生懸命に見つめるばかりだったので、誰もが自分が彼女にどんなに気詰まりな思いをさせているのかを悟るのだった。パリでボーセアン夫人を二時から四時の間に訪問することは彼女には迷惑だということが知れ渡ると、彼女は完璧な孤独の中にいる自分を発見した。彼女はド・ボーセアン氏やダジュダ・ピント氏と一緒にブフォンあるいはオペラ座へ行った。しかし、ド・ボーセアン氏は心得たもので、潔くいつもポルトガル人を置いて何処かへ行ってしまい、その後二人はそこで落ち着いて過ごせるのだった。ところが、ダジュダ氏は近く結婚することになっていた。彼はロシュフィード家の令嬢と結婚する積りだった。上流社交界にあって、この結婚話をまだ知らない唯一の人物、その人物こそ実はボーセアン夫人だったのだ。彼女の友人のうちの誰かが、このことについて巧みに仄めかしたことはあった。彼女はそれを笑い飛ばした。その友人が彼女の幸せを妬んで、困らせてやろうとしたものだと彼女は考えたのだ。しかしながら、結婚は間もなく公示されることになっていた。ダジュダ氏はこの結婚のことを子爵夫人に知らせるためにやってくるのだが、この気立ての好いポルトガル人は未だに裏切りの言葉を敢えて口にすることが出来ずにいた。何故か? 疑いもなく、ひとかどの婦人に対して、この種の最後通牒を告げるほど難しいことはないのだ。ある種の男は戦場で心臓めがけて刃を突きつけてくるような男と相対している方が、二時間も泣き言を言ったあげく黙り込んで、なおかつ、お望み通りの言葉を待っているような女と対しているより、まだずっと気楽に思えるものなのだ。この時に到ってもまだ、ダジュダ・ピント氏は針の筵の上にいて、何とかしてここから脱け出したいと思っていた。そしてボーセアン夫人は、このニュースをやがて知るだろうと考えていた。彼は彼女に手紙を書き、直に言うより、より易しい方法、つまり文通でもって色恋沙汰のかたをつける積りでいた。子爵の召使がウージェーヌ・ド・ラスチニャック氏の名前を告げた時、それを聞いたダジュダ・ピント侯爵は、嬉しさにぞくぞくしてしまった。ご理解願いたいのは、恋する女は、新しい楽しみを見つけるよりも、往々にしてもっと遥かに賢く疑惑を抱くことに巧みなのだ。だから、彼女がまさに捨てられようという瞬間に立ち至って、彼女は、あのウェルギリウスの使者が、遠くからの風の中に愛を嗅ぎつけた[29]よりも、もっと素早く、侯爵の仕草の中に真意を見抜いたのだった。更にボーセアン夫人は、侯爵の身震いを微かなものだが、心底から恐ろしいものと感じたのだった。ウージェーヌは、誰の家であれ、パリでは決してうかつに人の家に立ち入ってはいけないということを知らなかった。へまなことをして恥をかかないためには、まず、その家の友人のような人から、家の主人の経歴、あるいは妻や子供達のことなども聞き知っておかねばならない。ポーランドでは『あなたの荷車には五頭の牡牛を繋いで引かせなさい』という諺があるそうだが、さしずめ、五人の友人から話を聞いておけば、他人の家のぬかるみに足を取られないですみそうではないか。もしも、このような不運についてフランスではまだ特に範例としてすら挙げられていないとすれば、それは、誹謗中傷が常に圧倒的に流布されるわが国の現状では、それを抑えることは全然無理な話だと我々が思ってしまっているからであろう。ウージェーヌが車に五頭の牛を繋ぐだけの時間すら与えなかったレストー夫人のところで泥沼にはまってしまった後、彼はボーセアン夫人のもとへ立ち寄って、牛飼いの仕事をやり直すしか、どうにも仕様がないのだった。とはいえ、彼はレストー夫人とド・トライユ氏をひどく苛立たせたものだが、ダジュダ氏を窮地から救い出してやったのだった。
「さようなら」このポルトガル人は急いでドアの方へ向かっていたが、ウージェーヌが瀟洒な小さな部屋へ入ってくるのを待っていたかのようだった。そこはグレーとローズ色の控え目な印象だけで豪奢そのものに見える部屋だった。
「だけど今夜は」ボーセアン夫人は振り向いて、侯爵に視線を投げかけながら言った。
「私達、ブフォンには行かないの?」
「私は行けそうもない」彼はドアの把手を掴みながら言った。
 ボーセアン夫人は立ち上がり、彼に傍に来るように呼び戻したが、ウージェーヌのことは気にも留めなかった。ウージェーヌはアラビアのおとぎ話を現実に見ているような、目を見張る富裕の輝きの前に立ちすくみ呆然としていたが、この貴婦人に気づかれもしないで、その面前にいる自分を身の置き場もないように辛く感じるのだった。子爵夫人は右手の人差し指を上げて、可愛い仕草で自分の前の場所を侯爵に指し示した。この様子には情熱がもたらす暴虐的力がこもっていたので、侯爵はドアの把手を放して戻ってきた。ウージェーヌは彼を見て羨望の念を抱かずにはいられなかった。
「ほら」彼は思った。「二人乗りの馬車の男だ! だがパリの女から、見つめられるには、やっぱり前足を蹴上げる様な馬、従僕、そして沢山の金が要るんだろうか?」贅沢の悪魔が彼を蝕んだ。勝ちたいという熱気が彼を捉え、金への渇望の余り彼の喉はからからに渇いた。彼は学期の支払い分の一三〇フランを持っていた。彼の父、彼の母、彼の兄弟、彼の姉妹、彼の叔母、彼等全部の分を合わせても、月に二〇〇フランも使っていなかった。彼の現在の状況とこれからどうしても辿りつかなければならない目標との間の懸隔の激しさに彼は呆然としてしまった。
「どうして」子爵夫人が笑いながら言った。「貴方はイタリア座へ行くことが出来ないのかしら?」
「仕事ですよ! 私はイギリス大使館で夕食することになってるんです」
「貴方、それは断りなさいよ」
 男というやつは嘘をつき始めると、もうどうしようもなく嘘の上にまた嘘を積み重ねていかざるを得なくなるものなのだ。ダジュダ氏もまた笑いながらこう言った。「貴方の命令ですか?」
「そう、その通りよ」
「そりゃまあ、私だってご命令には従いたいですよ」彼は大抵の女なら安心させてしまったであろう綺麗な流し目を送りながら答えた。彼は子爵夫人の手を取ると、それにキスをして出て行った。
 ウージェーヌは手で髪をかきあげ挨拶するために身をよじらせた。ボーセアン夫人が自分に気がついてくれるものと思ったのだ。突然、彼女は駆け出し廊下に飛び出し窓のところへ飛んでいった。そしてダジュダ氏が馬車に乗り込むのを見ていた。彼女は彼の命令する声に耳を澄ませた。そして従僕が御者に命令を繰り返すのを聞いた。ド・ロシュフィード家へと言うのを。この言葉とダジュダが馬車に飛び乗る様子はこの女性にとって閃光と落雷だった。彼女は致命的結果への不安に再び苦しめられていた。上流社会においてはこれ以上に恐ろしい惨事はない。子爵夫人は彼女の寝室へ戻ってくると、机に向かい綺麗な便箋を手に取った。
〈その時〉彼女は書き始めた。〈つまり貴方がロシュフィード家で夕食をとり、イギリス大使館には行かなかったその時から、貴方は私に理由を説明する義務が出来たのです。私は貴方を待っています〉
 彼女の手が痙攣的に震えたためゆがんだ幾つかの文字を修正した後、彼女はCの一文字を記して、娘時代のクレール・ド・ブルゴーニュの署名と知らしむる積りだった。それから呼び鈴を鳴らした。
「ジャック」彼女は直ちにやってきた召使に言った。「貴方は七時半にド・ロシュフィードさんのお宅に行きなさい。貴方はそこでダジュダ侯爵がいるかと尋ねるのよ。もし侯爵様がおられたら、この手紙を彼に届けるように言って、ただし返事は要らないわ。彼がいないようだったら戻ってきなさい、そして私の手紙は持って帰ってきてちょうだい」
「子爵夫人には、お部屋にどなたかが来られてます」
「ああ! 本当ね」彼女はドアを押しながら言った。
 ウージェーヌはとても居心地悪く感じ始めていた。彼はやっと子爵夫人に話しかけられたが、それは彼の心の琴線に触れ、彼の感動を誘う響きを持っていた。「ごめんなさい、貴方、私ちょっと手紙を書いてたものだから。でも、もう貴方のお相手をするわよ」彼女は自分が何を言っているのか分かっていなかった。つまり、彼女が考えていたのはこんなことだった。『あー! 彼ったら、ド・ロシュフィード嬢と結婚したいんだわ。だけど彼ってそんなに好きに出来るの? 今夜にでもその結婚話は壊れるんじゃないかしら、それとも私……だけど明日になれば、そんなこと問題にもなってないでしょうよ』
「ねえさん」ウージェーヌが答えた。
「えっ?」子爵夫人はそう言うと彼の方を見たが、視線にこもった無礼さが学生の心をくじいた。
 ウージェーヌはこの「えっ?」を理解した。今日の午後三時から彼は多くの事を学んできた。だから彼は警戒してかかっていた。
「奥様」彼は顔を赤らめながら言った。彼はためらった、しかし続けて言った。「お許しください。私は沢山の庇護を必要としています。こんな遠縁なのに親切にして頂いて、尚更嬉しく思っております」
 ボーセアン夫人は微笑したが、寂しさは隠せなかった。彼女は自分の周辺に迫っている不幸を既に察していた。
「もし貴女が、私の家族が現在置かれている状況を知って下さったなら」彼は続けて言った。「貴女も恐らく、その名づけ子達の周りにあった邪魔物を吹き払ってやったというあの伝説の妖精の役割を、喜んで引き受けて下さるでしょう」
「あ、そうねえ、坊や」彼女が笑いながら言った。「どうして私が、そんなに貴方の役に立てるの?」
「いや私に分かることでしょうか? 貴女は今では陰に隠れて見えなくなっているものの、かつては本当に財宝のような価値のある絆によって結ばれた親戚筋に当たられる方です。私は貴女に何か言いたくて来たのに、いざ貴女にお目にかかると、それを忘れてしまいました。貴女はパリで唯一私の知り合いと言える人です。あー! 私は貴女に相談に乗ってもらいたいのです。どうか私を、貴女のスカートにすがりつきたいと願い、貴女のためなら死んでもいいと思っている哀れな子供と思って、受け入れてやってください」
「貴方、私のためだったら人一人殺せる?」
「それが二人いたって殺してみせます」
「子供ねー! そうだわ、貴方って子供なんだわ」そう言うと彼女はこみ上げてくる涙を堪えた。「貴方だったら心から愛してくれるでしょうね、貴方なら!」
「おー!」彼はうなづきながら叫んでいた。
 子爵夫人はこの学生の野心的な返答振りに強く惹かれていた。この南仏出の学生は彼が最初の目標としたところには達していた。ド・レストー夫人の青色の閨房、そしてド・ボーセアン夫人の薔薇色の広間を行き来するうちに、彼はパリジャン法の三年分を一気に学んでしまった。それは口に出して言われるわけではないが、広く理解され実施されている高度の法解釈、そしてそれはあらゆる場面で通用するものなのだが、彼はしっかりと心の中に打ち立てた。
「あー! 分かります」ウージェーヌが言った。「私は貴女主催の舞踏会でド・レストー夫人に魅了されました。私は今朝、彼女の家を訪ねてきたのです」
「貴方が押しかけて行って、彼女結構困ってたでしょ」ボーセアン夫人は微笑みながら言った。
「えーと! そうですね、私は間抜けなもんだから、貴女が助けてくださらないと、皆から嫌われるようなことばかりやってしまうでしょうね。私は思うんですが、パリで若い御婦人で綺麗で金持ちで上品で、それでもって決まった相手がいないなんて人に出会うのって、ほんとに難しいですね。だけど私にはそういう人が一人いて、世の中のことを教えてくれることが必要なんです。貴女はそういう人なんです。人生のこととか何でも教えてくれることが出来る人なんです。私は至る所でド・トライユ氏のような人にぶつかるでしょう。そうすると私はまた謎めいた出来事の意味を貴女に尋ねに来て、私が当たり前のようにしてきたことがやってはいけない愚かな行為であるなら、その事を言って下さるようにお願いしたいのです。私はさっき、ある爺さんのことを……」
「ランジェ公爵夫人です」ジャックが学生の言葉を遮って言ったので、彼はひどく苛立ったような仕草をした。
「貴方ね、成功したいんだったら、まず感情を表に出さないことも大事よ」子爵夫人は声を低めて言った。
「あーら! こんにちは、あなた」彼女は立ち上がり、公爵夫人の方へ近づきながら言った。そして彼女はまるで姉妹同士で見せるような優しい心情に溢れた様子で手を差し出した。これに対して公爵夫人の方も、この上なく可愛く甘ったれた様子で応じるのだった。
「やれやれ仲良し二人か」ラスチニャックは思った。「僕はこうなったら二人とも保護者になってもらおう。この婦人達は二人同じような愛情を持っているはずだから、あの婦人だって間違いなく僕に関心を寄せてくれるだろう」
「あなたに会えるなんて一体どういう風の吹き回しなの、アントワネットったら?」ボーセアン夫人が言った。
「そうよ私ダジュダ・ピント氏がド・ロシュフィードさんのお宅へ入って行くのを見たのよ、それで、だったらあなたが一人でお宅にいると思ったのよ」
 ド・ボーセアン夫人は唇を噛む様子もなく、顔を赤らめもせず、その眼差しも変わらなかった。公爵夫人が彼女にとっては致命的なこの言葉を口にした時も彼女の額はつややかに輝いて見えた。
「あなたにお客さんがいらっしゃると知っていたら……」公爵夫人はウージェーヌの方を振り返って付け加えた。
「この方はウージェーヌ・ド・ラスチニャックさんです。私の従弟なの」子爵夫人が言った。「あなたはモンリヴォー侯爵のことで何かお聞きになった?」彼女が続けて言った。「セリジーが昨日私に言ったんだけど、誰も彼を見ていないらしいの、あなたんとこへ今日あたり彼が来たんじゃないの?」
 公爵夫人はド・モンリヴォー氏に捨てられたと言われているのに、彼女の方は狂ったように惚れ込んでいるのだった。この質問は心臓に突き刺さるように感じられて彼女は顔を赤らめて答えた。「彼は昨日エリゼー宮にいたわ」
「お仕事だったのね」
「クララ、あなたきっと知ってるはずなんだけど」公爵夫人は悪意が溢れ出さんばかりの眼差しを投げかけながら切り返した。「明日ダジュダ・ピント氏とド・ロシュフィード嬢のことで公示が出るんでしょ?」
 この一撃は実に手ひどいものだった。子爵夫人は青褪めたが笑いながら答えた。「そんな騒ぎなんて、下らない連中が勝手に楽しんでるだけよ。どうしてポルトガルで一番美しい名前をダジュダ氏がロシュフィード家に持ってゆくのよ? ロシュフィード家ってのは、昨日今日爵位を貰ったばかりの連中じゃない」
「だけど、ベルトが持ってる国債は合わせて二〇万リーヴルに達すると言われてるわよ」
「ダジュダ氏はお金持ち過ぎて、その辺の計算が出来ないのね」
「だけどあなた、ド・ロシュフィード嬢は魅力的だわ」
「そうかもね!」
「とうとう彼は今日あそこで夕食をとる。条件が決まる。私、あなたがこのことを知らなさ過ぎるのが不思議でびっくりしたわ」
「こういう馬鹿々々しいこと、貴方もやっちゃうのかしらね?」ド・ボーセアン夫人がウージェーヌに言った。「この可愛い坊やは、たった今、社交界に投げ入れられたもんだから、彼にはちんぷんかんぷんなのよ、ねえアントワネット、私達が話してることについてはね。彼に悪いからこの話は明日にしましょう。明日よ、いいわね、何もかもきっと正式なことが分かるわ。そして、あなたの言ってることは必ず間違いだと判るはずよ」
 公爵夫人はウージェーヌに視線を向けたが、それは一人の男を頭のてっぺんからつま先まで眺めやって、男をぺしゃんこにして無価値たらしめてしまうような、そんな無礼さに満ちたものだった。
「奥様、私は何も知らないままド・レストー夫人の心にナイフを突き立ててしまいました。何も知らずに……まさに私の過ちでした」
 学生はその天分を遺憾なく発揮して、二人の婦人の情愛溢れる言葉の下に隠された寸鉄人を刺す警句の辛辣さをも暴いてみせた。「貴女は沢山の人とお会いになってこられ、その中には多分、貴女の不幸にも密かに関わっている人間もいるのではないかと心配もなさっているのでしょう。でも他方、自分が人に与えた傷の深さに気づかないまま、人に危害を加えるような輩は、自分を生かす方法も知らない愚かな粗忽者と、皆に軽蔑されるのがおちです」
 ド・ボーセアン夫人は学生に向かって、あの高邁な心の人のみが放つ視線、そこには感謝と尊厳が同時にない混ぜになったあの視線を投げかけたのだった。その眼差しは公爵夫人が来訪者を値踏みする守衛のような一瞥で傷つけた学生の心を優しく慰めてくれた。
「想像出来ますか、私がたった今」ウージェーヌが続けた。「ド・レストー伯爵が私の未熟さを大目に見てくれたことに気づいたんです。何故って」彼は公爵夫人の方に向かって謙虚に、だがいたすらっぽい様子で言った。「これは是非聞いてください、奥様、私はまだ哀れな学生の分際に過ぎません。いかにも孤独で、いかにも貧乏です」
「それは口にしないで、ド・ラスチニャックさん。私達女というのはね、誰も受け入れないその手の人のことなんて絶対に聞きたくもないのよ」
「へえ!」ウージェーヌは驚いてみせた。「私はまだ二十二歳です。年齢の不利をカバーすることを考えないといけませんね。確かに私は今、告解室にいます。しかも、これほど美しい告解室で膝まづくことなんて他にはないでしょう。ここでは私達は他所でなら咎めたであろうような罪を犯してしまうことでしょう」
 公爵夫人はこの信仰心の薄い議論に冷淡だったので、子爵夫人に悪趣味な話を止めさせようと持ちかけるところだった。「この方の話って……」
 ド・ボーセアン夫人は従弟のことを、そして公爵夫人のことをいかにもおかしそうに笑い始めた。
「彼はこのために来たんだわ、あなた、つまり良い趣味を教え込んでくれる女性教師を探しに来たってわけよ」
「公爵夫人の奥様」ウージェーヌは言った。「私達を魅了するものの秘密を学ぼうと望むのは自然なことではないでしょうか?」彼は自分で感じていた。「ちっ! 俺って、彼女達にお上手ばかり言って、これじゃ、美容師と全然同じじゃないか」
「でもド・レストー夫人って、私思うんだけれど、ド・トライユ氏とは付き合い始めたばかりでしょ」公爵夫人が言った。
「私はそれについては何も知りません、奥様」学生が答えた。「そのため私は軽率にも、彼等二人の間に飛び込んでしまったのです。最後には私はあの御主人と何とか理解し合えるようになりました。あの夫人にとって、私というものがある瞬間ずいぶん厄介な存在になっていたと思います。それは私が彼等に向かって、とんでもないことを言い出したからです。私がそこへ行く前に、ある人物が忍び階段から出てゆくのを見たのですが、その男のことを知っていると彼等に言ったのです。しかも、その男は廊下の突き当たりで伯爵夫人を抱いたりもしていたんです」
「それって誰なの?」二人の婦人が同時に尋ねた。
「一ヶ月二ルイでサン・マルソー街の奥に、この貧乏学生の私と同じように住んでいる老人ですよ。本当に不幸せな人で、皆に馬鹿にされて、僕達は彼のことをゴリオ爺さんて呼んでるんです」
「あらまあ、貴方みたいなまるで子供にまで」子爵夫人が叫んだ。「ド・レストー夫人はゴリオのお嬢さんの一人なのよ」
「製麺業者とかの娘ね」公爵夫人も言った。「卑しい身分の娘が、ケーキ屋の娘が申し込みをしたのと同じ日に、自分も結婚の申し込みをしたのよ。あなたもあの事覚えてるかしら、クララ? 王様がこのことを最初に茶化したのよ、それは小麦粉にちなんだことで何かラテン語で上手い言葉で。民衆から、ねえどう言ったかしら? 民衆から……」
「エユスデム・ファリナエ(素は同じ小麦粉)」ウージェーヌが言った。
「そっ、それよ!」公爵夫人が言った。
「あー! 彼は彼女の父だったのか」学生は恐ろしげな身振りをして言った。
「その通りよ。あのお爺さんには二人の娘さんがいて、彼はその二人にはもう夢中なのよ。だけど二人とも彼に対してはほとんど知らん顔してるんだわ」
「次女はあれじゃない?」子爵夫人はド・ランジェ夫人を見ながら言った。「ドイツ風の名前の銀行家と結婚したのね、ド・ニュシンゲン男爵とか言ったかしら? 彼女はデルフィーヌとか言うんだったわね? 金髪の娘でオペラ座の近くに家があるのね、そしてブフォンにも来てるんだけど、とても高い声で笑って目立ってる娘じゃなかった?」
 公爵夫人は笑って、こう言った。「だけど貴方、私、貴方には感心してしまうわ。貴方って、どうしてあの人にそんなに一生懸命に関わってるの? アナスタジー嬢に粉まみれになるまで付き合うんなら、レストーのように心底惚れ込んでしまわなきゃね、あー! 彼もそのうち小麦粉まみれの商売人に嫌気がさすでしょうね! 彼女はド・トライユ氏の掌のうちにあるんだけれど、続かないでしょうよ」
「彼女達はその父親に知らん顔をしている」ウージェーヌが繰り返した。
「まあ! そうね、彼女達の父親、あの父親、父親ってやつ」子爵夫人が答えた。「あの優しい父親が彼女達にあげちゃったって噂よ、それぞれに五十万とか六十万フランをね。娘達に良い結婚をさせて幸せをつかまえさせてやるためよ。そして彼自身には年利八千から一万リーヴルまでの年金しか残してないの、それというのも娘達はずっと彼の娘でいてくれると思っていたし、彼は二人の娘達にとって存在し続け、彼が愛され優遇される二軒の家があるものと思い込んでいたのよ。二年もすると娘の婿達は彼等の社交界から、彼のことを最低に惨めったらしい人間のように追っ払うようになったんだわ……」
 ウージェーヌの目に数滴の涙が溢れ出した。彼は家族への純粋で聖なる思いを今更ながら新たにし、一方で若者らしい思考の魅力に未だ支配されていた。そして彼はパリ文明の戦場に足を踏み入れてまだ最初の日々を過ごしただけだった。真の感動が互いの心を揺さぶり、三人は一瞬黙って互いに見つめあった。
「あー! 本当に」ランジェ公爵夫人が言った。「そうね、これは恐ろしい話だわ。それなのに私達は毎日のようにこんなことを見てるんだわ。これって何か理由があるのかしら? ねえ教えてよ、あなた、このお婿さんとかのこと一度でも考えたことあって? お婿さんという人種ね、この人種の男のために私達女は育てられる、あなたや私もね、綺麗な可愛い女の子ってやつよ、この娘に家族は千本もの絆を結びつける、この娘は十七年もの間、多分、家族にとって喜びでしょうし、家族の無垢の魂の象徴でもあると、ラマルティーヌ[30]ならそう言うことでしょう、そのくせやがて彼女は手に負えない嫌な女になっちゃうのよね。この男が我々から彼女をひとたび連れ去ってしまうと、彼はその愛をまるで斧のように振り回して、天使の様な心で彼女が家族と深く結ばれていたあの感情の全てを断ち切ってしまおうとするのよ。昨日は我が娘は完全に我々家族のものだった、そして、我々もまた完全に彼女のものだった。ところが翌朝になると、彼女は我々の敵となってしまう。こんな悲劇が毎日のように起こっているのを、我々は知らないなんて言える? 言えないわよね。こちらでは嫁が義父に向かって最低の無礼を働いている、しかも義父はその息子のために全ての犠牲を払ったというのによ。最も酷いのは、婿が義理の母親を追い出すってやつ。私は何が一体この社会の中で今日の悲劇を生む原因になっているのか訊きたいわ。だけど、結婚後の些細な茶番劇までは言わないけど、婿をテーマにした劇は恐ろしいものよ。私にはあの老製麺業者に起こったことがはっきりと分かったわ。私はあのフォリオのことを覚えているような気がする」
「ゴリオです、奥様」
「そう、あのモリオは革命の時、彼の地区の委員長だったんだわ。彼はあの有名な食料不足の内情を良く知っていたのよ、それであの時に自分が仕入れた値の十倍もの値をつけて小麦粉を売ったんだわ。それから彼は財を築き始めたのよ。私の祖母の家の執事が彼に大変な量の食糧を売ったの。このゴリオは間違いなくあの手の連中と同じように公安委員会に[31]属していたんだわ。私が覚えているのは、私の祖母は小麦を供出したおかげで、どこにでも通用する住民カードを手に入れたようなものなので、グランヴィリエでは完全に安全に過ごせるんだって執事が言ってたことよ。とにかくよ! このロリオ、彼は小麦を首切り人達に売りまくったんだけど、唯一つだけの情熱を持っていただけなの。彼は自分の娘達を溺愛してたって言われてるわね。彼は上の娘をレストー家へ嫁がせ、もう一人の娘はド・ニュシンゲン男爵にくっつけることが出来たの。これは大金持ちの銀行家で王党派の人よ。貴方よく分かるでしょ、帝政下で二人のお婿さんにとって、この九十三年時代[32]の老人を迎え入れることは、そんなに嫌でもなかったのよ。それはブゥオナパルトとも上手くやってゆくのに役立ったのでね。だけどブルボン王朝が復活すると、この親父はド・レストー氏には邪魔になってくるし、銀行家にとっても更に困った存在になってしまったの。娘達は多分ずっと父親を愛していたんだけれど、ここで二股をかけることにしたんだわ、父親と夫にね。彼女達は家に誰もいない時にゴリオに来させたの。彼女達はそれを優しさを見せるいい機会だと思っていたのね。『パパ、いらっしゃい、私達嬉しいわ、だって、私達には誰もいないのよ!』とか何とか。私はね、本当の愛とは慧眼であって英知だと思うの。だからこの哀れな九十三年爺の心はすっかり傷ついていたんだわ。彼は娘達が彼のことを恥じていることに気づいていた。彼女達が夫を愛するならば、彼は婿達にとって障害になることも。だから彼はみずから身を引くしかなかったの。彼は犠牲を払ってきた、何故なら父親だったから。彼は自分で離れていったの。娘達が満足しているのを見ると、彼は自分が上手くやったなと思えるのね。父親と子供がこの小さな罪で共犯者になってたのよ。こんなことって、私達、どこででも見るわね。このドリオ爺さんていう人、自分の娘達のサロンでも、汚れた油のしみのようなものだったのかしらね? 彼はそこで邪魔になっているのではないかと心配になってきたの。この親父に起こったことは、たとえば、飛び切り綺麗な女性が、一番好きな男と一緒になった場合にだって起こり得るのよ。どういうのかって言うと、彼女が彼を愛し過ぎて、うんざりさせてしまったら、彼は姿をくらましちゃう、卑怯にも逃げ出しちゃうのよ。人の感情なんて、みんなそんなものよ。私達の心というのは言ってみれば宝庫なのよ。だから、それを一遍に空にしてしまうと、それは貴方の破滅よ。私達が、すっかり明からさまに晒け出してしまえるのは、せいぜい一つの感情だけで、それも、何の不安も抱かずに打ち明けられるたった一人の人にのみ、そうすることが許されるのよ。私達のテーマのこの親父は総てを与えてしまったわね。彼は二十年間にわたって、心の総てを、彼の愛を、与え尽くしたの。彼は一日にして、彼の財産も与えてしまったの。レモンは十分に搾り切られ、彼の娘達は、その皮だけを道端に捨てて立ち去ったのよ」
「世の中って汚いものね」子爵夫人はショールの端をいじくりながら、目を上げることもなく言った。というのは、ランジェ夫人が彼女に向かってこの話をした時、語ったその言葉が、彼女をひどく傷つけたからだった。
「汚らしいですって! いいえ」公爵夫人が答えた。「当たり前に言ってるのよ、それだけだわ。私があなたにこんな風に話すのは、私は世の中で騙されやすい人間ではないことを言いたいためよ。私はあなたと同じように考えてるわ」彼女は子爵夫人の手を握り締めながら言った。「世の中は泥沼よ、高見の見物とゆきたいものね」彼女は立ち上がり、ボーセアン夫人の額にキスすると、こう言った。「今のあなたって、とても綺麗だわ、ねえ、これまで見たことがないくらい美しい顔色だわ」それから彼女は従弟といわれる若者に軽く頭を下げて出て行った。
「ゴリオ爺さんて、偉いんだ!」ウージェーヌは夜中に銀メッキの皿を折曲げていた彼を見たことを思い出しながら言った。ボーセアン夫人は聞いていなかった。彼女は物思いにふけっていた。どのくらい沈黙のときが流れただろうか。哀れな学生は何かばつの悪さがあって、どうしてよいのか分からず、出てもゆけず留まってもおれず、話すことも適わなかった。
「世の中って汚らしくて意地悪だわ」子爵夫人がやっと口を開いた。「何か不幸があると、直ぐにそのことは友達に分かっちゃうのね、それでまた直ぐに、私にそれを話に来るんだから、しかも、私の心を短刀で刺すようにしてねちねち調べるんだから、そして、私の間抜けぶりにたまげて見せるのね。そう言えば前々から皮肉とか冷笑とかがあったわ! あー! 私は防げたはずなのに」彼女はかつてそうであった大貴族の婦人らしく頭を上げた。誇り高いその両眼がきらきらと輝いていた。彼女はウージェーヌに気がついて言った。「あー! 貴方いらしたのね」
「まだ、いました」彼は情け無さそうに言った。
「そうねえ、ラスチニャックさん、この社交界というものは、せいぜい役立つように利用することね。貴方はその中に飛び込んでゆくお積りのようだから、私お助けする積りよ。貴方は女達の腐敗がどれほど深いかを測り、虚栄に満ちた男達の悲惨の大きさも目の当たりにすることでしょう。私は社交界を描いた本があるとすれば、結構よく読んできた積りなんだけれど、その私にもまだ知らなかったような頁もあったんだわ。今になって私は全てを知ったのよ。より冷静に計算すればするほど、貴方はよりいっそう前へ進めるのよ。情け容赦なく人をぶって御覧なさい、後が心配になるわ。男も女も中継駅ごとに乗り捨てにする郵便馬車のようにお付き合いなさい、そうすれば貴方は遂にはお望み通り頂上に達することが出来るでしょう。ところがね、そこまでいっても貴方に好意を持ってくれる何処かの婦人が貴方の女になってくれない限り、貴方はそれっきりよ。彼女は若くて金持ちで上品でなきゃいけないわ。だけど、もし貴方が本当の感情を抱いたなら、それは宝物として隠しておきなさい。決してそれを感づかれないようになさい、でないと貴方はそれを失くすわよ。それから、貴方は処刑人にもならないこと、でないと貴方が処刑される人間になってしまうわ。もし貴方がまだ本当の愛に出会ったことがないなら、当面は貴方の秘密はしっかりと自分一人で守りなさい! 貴方が心を打ち明けられると十分確信出来る人に出会うまでは、秘密は決して漏らさないこと。まだ存在していないこの真実の愛をあらかじめ担保しておくには、この社交界を信用しないことを貴方は学ぶべきだわ。聞いてねミゲル……(彼女は思わず名前を取り違えたが、それにも気づかなかった)何とも恐ろしいことがあるものねえ、だってあの親父なんて死んだ方がいいなんて思ってるあの二人の娘によって捨てられた父親の話だって、まだましだって言うくらいよ。何が怖いって、それは彼女達の間にある姉妹のライバル意識よ。レストーには貴族の家柄というのがあるの、彼の妻は養女として迎えられた、彼女は贈り物だったのね。一方彼女の妹、金持ちの妹、あの綺麗なデルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人は金融業者の妻なんだけど、悲しみに沈んでいる。嫉妬心が彼女を虜にしていて、姉とは全く没交渉の状態ね。彼女にとって最早、姉なんていないようなものよ。唯この二人の女も父親を通じてだけ、お互いに合流することがあるのよ。その上、ニュシンゲン夫人ときたら、私のサロンに入るためだったら、サン・ラザール街とグルネル街[33]の間の泥水だって飲み干してもいいくらいに思ってるはずよ。彼女はド・マルセイのハートを射止めたと思って、ド・マルセイの言いなりになったの。ところがド・マルセイはうんざりしちゃったのね。ド・マルセイは彼女のことなんか、ほぼ眼中になかったのよ。もし貴方が仲介して彼女を私のところへ来させてあげれば、貴方は彼女のお気に入りになって、彼女は貴方を熱愛することになるわ。貴方が二番手でもいいのなら、彼女を愛してあげて、でなくても彼女を利用することよ。私は彼女に一度か二度会ったわ、大きな夜会で混雑してる時にね。だけど私が彼女と日中に会ったことは全然なかったわ。私がそのうち彼女に挨拶しとけばそれで済むことだわ。貴方はゴリオ爺さんの名前を言ってしまったばかりに、レストー伯爵夫人の戸口から締め出されたのよ。ね、そうでしょ、貴方はレストー夫人を訪ねて二十回行って御覧なさい、貴方は二十回とも留守だって言われてしまうわ。貴方は出入り禁止ってわけよ。仕様がないわ! じゃあね、ゴリオ爺さんが貴方をデルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人のそばへ案内してくれるっていうのは、どお? あの綺麗なニュシンゲン夫人なら、貴方にとって格好のお飾りになるわ。男達は彼女に目を引かれてしまうでしょうし、女達は貴方に夢中になるわ。彼女のライバル、彼女の友達、彼女の親友達までもが、彼女から貴方を奪おうとするでしょう。世の中の女は他の女に好かれている男を愛するものなの、ちょうど哀れな市民階級の人が我々の帽子を奪って、我々の物腰態度を手にいれようとするようなものよ。貴方、もてることよ。パリでは、もてるかどうかが大切なの、何をするにもそれが鍵になるのよ。もし女達が貴方を機知と才能に富んだ人だと思ったら、男達も、そうだと信じるようになるの、貴方が敢えて誤りを正さなければね。そしたら貴方は何でも思いのままよ、どんな高貴な場所にも足を踏み入れることが出来るのよ。そして貴方は社交界とは騙される人間と騙す人間の寄り集まりだってことを知るでしょうよ。騙される方にも、また騙す方にも入っちゃ駄目よ。私は貴方がこの迷宮に入って行くに際して、アリアーヌの導きの糸[34]として私の名前を使うことを許すわ。それを汚さないようになさい」彼女は首を曲げて女王の眼差しを学生に放ちつつ言った。「それは真白なままで返してね。もう、行って、私を一人にさせて。私達女はね……私達にもまた、女の戦いが待っているのよ」
「貴女のために地雷を仕掛けるくらいのことなら、喜んでやる男が必要なのではありませんか?」ウージェーヌは彼女を遮って言った。
「さあ! どうかしらね?」彼女が言った。
 彼は自分の胸をドンと叩いて見せて、従姉の微笑に微笑みを返して、部屋を出た。五時だった。ウージェーヌは腹が減っていて、夕食の時間に間に合わないのではないかと心配だった。パリに来て間もないのに、陣地を獲得した幸運があるからこそ、こんな心配もしなければならないのだと彼は感じた。純粋に無意識的なこの喜びで、彼はすっかり物思いにふけっていた。彼の歳の若者というのは軽蔑され傷つけられると、かっとなって、怒り狂い、社会全体に対してこぶしを振り上げ、復讐してやると思いつつも、自分自身にもまた疑いを抱いてしまうものである。ラスチニャックは今のこの瞬間まさにあの言葉に押しつぶされそうになっていた。『貴方は伯爵夫人の戸口から締め出されたのよ』「やるぜ!」彼は心に叫んだ、「例えボーセアン夫人が正しく、俺が出入り禁止を食らっているにしても……俺は……レストー夫人が行く先々のサロンの何処にでも俺はいてやるんだ。俺は武器の使用法を習い、ピストルの撃ち方も習い、俺はあいつを殺す、あのマクシムを! そして金だ!」日頃の思いが口をついて出た。「どうやって、お前はそれを手に入れるんだ?」突然レストー伯爵夫人の邸に満ちていた豪華さが彼の目の前に輝くように見えた。彼はまさにその中で、ゴリオ嬢の一人が愛人となっている豪華絢爛や、金の飾り物、人目につく高価なオブジェ、成金趣味の愚かしい贅沢、囲われた女の浪費振りを既に目にしていた。その目くるめく印象はボーセアンの荘厳な邸の前にあっという間に打ち砕かれてしまった。パリの社交界の上流階級に投げ込まれて、彼の想像力は彼の心の中に無数の悪しき考えを吹き込んだ。彼の頭の中と意識はそれらでいっぱいに膨らんだ。彼は世の中のあるがままを見た。すなわち、法と道徳は富の前には無力である。そして富の中にこそ究極の王者の論拠を見出せるのである。
「ヴォートランが正しい。富こそが美徳だ!」彼はそう思った。
 ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通へ着くと、彼は急いで自分の部屋に行き、御者に二〇フラン払うためにまた降りてきた。途中でいつもの吐き気を催させる食堂をのぞくと、そこには飼い葉桶の前に並んだ動物のように十八人の会食者がたらふく食べている姿が見えた。この惨めったらしい光景とこの部屋の眺めが彼には恐ろしかった。変化はとても唐突で環境の違いが余りにも際立っていたので、彼に野心的感情を過度に膨らませるなと言っても無理な話だった。一方には優美を極めた社交界が自然に放つ新鮮で魅力的なイメージ、若く活発な姿、最高の美術や豪華さに縁取られ、詩情に溢れた情熱的な頭脳がある。他方には泥で囲まれたような不吉な絵があるかと思えば、人々の顔にも情熱は擦り切れた織り糸と骨組みだけをかろうじてうかがえるに過ぎない。捨てられた女の怒りがボーセアン夫人の口をついて出て来させた教訓、その言葉巧みな教育は彼の記憶の中に刻まれ、そこにある悲惨さも彼に知らしめた。ラスチニャックは富に辿りつくために、二本の堀を平行して掘ることを決意した。学問と愛の双方に賭ける、つまり、知識を極めて博士となる一方で、流行を追って時代の寵児でもありたいと思った。彼はまだまだ子供だった! この二本の堀は、決して合流しない漸近線のようなものだった。
「あんたはえらく暗い顔つきですね、侯爵殿」ヴォートランが彼に、まるで胸に秘めた秘密を探り出そうとするかのような視線を投げつつ声をかけてきた。
「僕は僕のことを侯爵殿と呼ぶような人の冗談には気持ちよく応じる気分じゃあないです」彼は答えた。「ここで本当に侯爵だというんなら、その人は一〇万リーヴルの年金を持っているはずです。ところが、メゾン・ヴォーケを見回しても、皆、間違いなくお金に縁のない人達です」
 ヴォートランはラスチニャックを父性的な、それでいて意地悪な様子で眺めやった。あたかもこう言っているようだった。『がきめ! お前なんかいつだって片付けちまうぜ!』それから彼はこう答えた。「あんたはご機嫌が宜しくないようですな、多分あんたはあの美しいレストー伯爵夫人と上手くゆかなかった、それでですね」
「彼女は僕を締め出した、それというのも、僕が彼女に彼女の父親が我々と同じテーブルで食事をしていると言ったからなんです」ラスチニャックは叫んだ。
 会食者は皆お互いを見つめあった。ゴリオ爺さんは目を伏せ、次いでそれを拭うために横を向いた。
「貴方の煙草が目にしみました」彼は隣の人にそう言った。
「ゴリオ爺さんを怒らせた人は、これからは僕にその言い訳でもしてもらわねばならないでしょうね」ウージェーヌは昔の製麺業者の隣の人を見ながら答えた。「まあ我々全部寄せ集めたよりも彼は偉いんだから。あ、僕はご婦人方のことを言ってるんじゃありませんよ」彼はタイユフェール嬢の方に向かって言った。
 この言葉で話は落ち着いた。ウージェーヌが会食者達に静粛を求める声音で話したからだ。ヴォートランだけは冷やかすような調子で彼に言った。「ゴリオ爺さんのことをあんたが引き受けて、彼について責任ある情報局となる積りなら、剣を上手に使うことやピストルを上手く撃つことを習わなければなりませんよ」
「そうします」ウージェーヌが言った。
「あんたは今日既に戦いを始めたのかね?」
「恐らくね」ラスチニャックが答えた。「しかし、僕のことについては誰にも説明する義務はないですよね。だって僕も他人が夜中にやってることを探ろうなんて思いませんからね」
 ヴォートランはラスチニャックを横目でにらんだ。
「あんたね、操り人形に騙されたくなかったら、すぐさま見世物小屋に入ることだよ。幕の穴から覗いて、何も見えなかったなんてことのないようにな。その話はもうやめよう」彼はむかっ腹を立てそうなウージェーヌを見て付け加えた。「あんたがよければ、我々二人で少し話し合おうじゃないか」
 夕食は暗くて冷たい雰囲気になった。ゴリオ爺さんは学生の言葉によって深い憂愁の中に沈んでしまっていたので、人々の彼に対する思い様が変化したこと、そして若者が非難の声を沈黙させ、彼を守ってあげたことにも気がつかないでいた。
「ゴリオさん」ヴォーケ夫人が声を低めて言った。「近々、伯爵夫人の父親を名乗られるんですか?」
「そして、男爵夫人のもね」ラスチニャックが彼女に応じた。
「彼が考えてるのはそれだけだね」ビアンションがラスチニャックに言った。「僕は彼の頭に注目してるんだ。特徴的な隆起は唯一つだけなんだけど、父性愛ってやつだよ、一種、父性の権化ってとこかな」
 ウージェーヌはとても生真面目だったので、ビアンションの冗談にも笑えなかった。彼はボーセアン夫人の忠告を生かしたいと考えていて、どこでどうやって資金を確保したらよいものか自問自答していた。彼は社交界の大草原を見ていると、それは彼の目にはものすごい速さで沢山の事がいっせいに展開されているように見えて、何か不安にもなってきた。夕食が終わった時、彼と同じように食堂に残っていた人が一人いた。
「お話では、貴方は私の娘に会われたんですか?」ゴリオが彼に感情のこもった声で尋ねた。
 爺さんの声で瞑想から我に返ったウージェーヌは彼の手を取り、ある種の感動をこめて爺さんの顔を見つめた。「貴方は勇敢で実に立派な人物だったんですね。貴方の娘さん達のことは、また後で話しましょう」彼はゴリオ爺さんの返事を聞こうとはしないで、立ち上がり部屋へ戻り、母に次のような手紙を書いた。
〈愛する母さんへ。僕に恵んでくれるためのへそくりを母さんは持っていないかなあ。僕は急いでちょっとした金を作らなければならない立場にあります。僕は一二〇〇フラン要ります、どうしても必要なのです。僕のこのお願いについては父さんには何も言わないで下さい。彼は恐らく反対するでしょう。そして僕はこのお金を手に入れることが出来なければ、僕はすっかり絶望に陥ることになり、僕の頭は燃え狂ってしまうことでしょう。僕の目的は今度会った時に説明します、何故なら僕が今置かれている立場をお母さんに分かってもらうには、大変な量のことを書かねばならないからです。僕は遊んでいたわけではありません、母さん、僕は借金も全然していません。しかし、母さんがこれまで僕に与えてくださったような人生を僕に続けさせてやろうとお考えなら、僕にはこれだけのお金が必要なのです。ところで、僕はボーセアン子爵夫人の家へ出入りするようになり、彼女は僕の面倒を見てくれることになりました。僕は社交界に出なければなりません、しかしながら、恥ずかしくないような手袋を買うにも一スーの金もないのです。僕はパンだけ食べ、水だけ飲み、必要とあらば絶食さえ出来ます。しかし、僕の目の前に道具があって、誰もがその道具を使ってこの国の葡萄畑で働いている、それを黙って通り過ぎるわけにはゆきません。僕にとって今は自分の道を切り開くか、ぬかるみの中に留まっているかの分かれ道にいるのです。僕はあなたが僕にかけて下さった大きな期待のことを知っています。それだけに、早くそれを実現したいと思うのです。お母さん、お持ちの古い宝石類のどれかを売ってもらいたいのです。いつの日か、僕が新しく買って償います。僕は家族の境遇をよく知っているだけに、このような大きな犠牲には感謝してもし切れないと思っています。そして母さんは僕がお願いしたからには、それらを無駄にはしないだろうと考えてくれるものと思っています。そうでなければ、僕なんてとんでもないやつです。どうか僕のこのお願いはやむを得ない必要に迫られた叫びだと聞いてください。我が家の将来は本当にこの援助金にかかっていると言えるでしょう。僕はこれを使ってキャンペーンを始めなければなりません。というのは、パリにおけるこの人生は果てしない戦いだからです。もし金額を満たすためには叔母さんの店でレースを売る以外に方法がなければ彼女に言ってください。僕が彼女のところへ最高に綺麗な品物を送りますから。云々〉
 彼は彼の妹達にも、それぞれに宛てて彼女達の貯金を回して欲しいと頼む手紙を書いた。そして彼女達が兄のためには喜んで払ってやろうという犠牲のことを家族の中ではしゃべらせないで貯金を巻き上げてしまうために、彼は彼女達の若々しい心に特に見事に張られて強く響く名誉心の琴線に触れることで、彼女達の心遣いを引き出すことが出来た。しかしながら、彼はこれらの手紙を書き終えた時、無意識のうちに心がわななくのを感じた。彼は動悸した。彼は震えた。この若き野心家は静寂の中に隠れている彼女達の魂の無垢な気高さを知っていた。彼は二人の妹達にどれほどの苦労をかけるのか、その一方で、それは彼女達にとってどれほどの喜びとなるのかも知っていた。彼女達はどんなに楽しく最愛の兄を葡萄畑の奥に秘密にかくまおうとしているのだろうか。彼の鋭敏な知覚は彼女達が秘密でささやかな宝物を隠し持っていることを探り出していた。そして彼は若い娘達が天才的ないたずらっ子振りを見せながら、彼にこの金を届けるために、生まれて初めての巧妙極まる欺瞞を試みるのを目にした。「姉妹の心は一個の純粋なダイヤモンドだ、測り知れないほどの大きな優しさだ!」彼は思った。彼は手紙を書いたことを恥ずかしく思った。彼女達の祈りは何と力強いのだろう、天に向かっての彼女達の魂の迸りの何と純粋なことだろう! かくも卑しい欲望で彼女達を犠牲にすることが許されようか? 母が全額を送ってやることが出来ないとしたら、彼女はどんなにひどい悲しみに襲われることだろう! 彼女達の美しい気持ち、この恐ろしい犠牲は彼にデルフィーヌ・ド・ニュシンゲンに達するための梯子を提供しようとしていた。家族の聖なる祭壇に撒かれた香料の最後の一粒が、彼の目からどんなに多くの涙を溢れ出させたことだろう。彼は絶望でいっぱいになり、興奮して一人で部屋を歩き回っていた。ゴリオ爺さんがそのような彼を半開きになっていた扉越しに見つけ、入ってきて彼に言った。「どうかされたんですか、貴方?」
「あー! お隣さん、貴方が父親であるように、僕の方は息子であり兄弟でもあるんですね。貴方が伯爵夫人アナスタジーのことをひどく心配なさるのは当然ですよ。彼女はマクシム・ド・トライユとか言う男の恋人ですが、彼は彼女を捨てるでしょう。」
 ゴリオ爺さんは何かを口ごもりながら立ち去ったが、ウージェーヌには彼の言葉にこもる感情が良くつかめなかった。翌日、ラスチニャックは手紙を郵便局に出しに行った。彼は最後まで迷ったが、俺は成功するんだ! と心の中で言いつつ投函した。それは賭博者の言葉、名将の言葉であり、あるいは人を救う以上に多くの人を破滅させた運命論者の言葉でもあった。
 何日か経ってウージェーヌはレストー夫人を訪ねて行ったが、家へ入れてもらえなかった。三回そこへ行ったが、三回とも門は閉ざされていた。彼はマクシム・ド・トライユ伯爵がそこにいないはずの時間を見計らって行ったにもかかわらずだ。子爵夫人が言ったことは正しかった。学生はもう勉強をしなくなった。彼は出席をとられたら返事をするために授業に行った。そして出席の証明が終わると直ぐにずらかった。彼は大部分の学生がとっている理屈に従って行動した。彼は試験を通過する肝心な時だけ勉強をした。彼は二年目、三年目の授業も申し込む決心をし、それから最後に一挙に真剣に法律を学ぼうと思った。彼はそのようにして、十五ヶ月間というもの自由にパリという海を航海する時間を持った。彼はその間、女性との付き合いにふけり、あるいは思わぬ財産も得た。この一週間に彼はボーセアン夫人とは二度会ったが、彼女の家に行くのはダジュダ侯爵の馬車が出て行った後の時間に限っていた。まだ幾日かの間、この華やかな女性、フォーブール・サンジェルマンで誰よりも詩情を誘う人物は勝ち誇っていて、ロシュフィード嬢がダジュダ・ピント侯爵と結婚式を挙げるのを差し止めていた。しかしこの最後の日々に幸せを失うことを恐れる気持ちが何よりも熱く燃え上がったために、破局を早める結果となった。ダジュダ侯爵はロシュフィード家と協調して、この仲違いも仲直りも環境としては幸運だとみなしていた。彼等はボーセアン夫人が今回の結婚という概念になれてしまい、彼女の人生で予想される将来のある時期に芝居の昼興行に行く楽しみを放棄してしまうことを期待していた。意に反して、実に敬虔な約束が毎日繰り返されるのだが、ダジュダ氏は相変わらずコメディを演じてしまい、子爵夫人も敢えて騙され続けているのだった。「潔く窓から飛び降りる代わりに、彼女ったら階段を転がり続けているのよ」彼女の最愛の友であるランジェ公爵夫人はそう言った。しかしながら、この最後の栄光が意外に長く輝き続けたので、子爵夫人はパリに留まり、彼女の若い親戚の面倒を見てやった。彼女はこの若者が持つ一種の強運のようなものに愛着を抱いていたのだ。ウージェーヌは彼女に対しては全霊をあげて忠誠と全面奉仕を誓った。だが彼女の環境に、女達が注ぐいずれの目にも憐れみの色はなく心からの慰めもなかった。仮にある男が彼女達にこの件で優しげな発言をすることはちょっと危険なことだった。
 勝負の舞台を隈なく完全に知っておきたいと思ったので、ニュシンゲン家に接触を試みる前に、ラスチニャックはゴリオ爺さんの人生の過去の事情を探り、確かな情報を集め、何が彼を今日の状態に追い込んだのかを知りたいと思った。
 ジャン・ジョアシン・ゴリオは革命前はごく普通の製麺職人で、熟練し倹約家で、とても独立心が強く、主人の暖簾を買い取りたいと望んでいた。ところが偶然にもこの主人が一七八九年の最初の動乱の犠牲になってしまった。ゴリオはジュシエンヌ通に居を定め、そこは小麦卸市場にも近かった。彼は非常に目端のきく男だったので、この危険な時代に少しでも影響力のある人物となって、自分の商売を守るために居住地区の議長の座に着いた。この周到さは彼が資産を持っていたゆえのことだったが、それは嘘か本当か、あの穀物価格がパリで異常な値上がりとなった時の飢饉以来膨れ上がったものだとされていた。その頃、パン屋の戸口で自殺する人がいたかと思えば、ある人達は冷静に食料品店に行きイタリアのパスタを求めた。この年に市民ゴリオは資本を集中し、それがやがて彼が商売を無類の優越性で進める上で役に立ち、商売は彼に更に莫大な金をもたらした。やがて彼はまずまずの能力の人間には必ず起こるある現象に見舞われた。しかし彼は凡庸さによってかえって救われた。第一に彼の財は金持ちではあっても、さして危険というほどではなかった。短期間だけ知られていたに過ぎないので、彼は人に羨ましがられることはなかった。彼は知力を総て穀物取引に向かって集中しているように見えた。彼の関心事といえば、小麦、小麦粉あるいは飼料、そしてそれらの品質を、あるいは出所を知ること、それらの保管に注意すること、相場を予想すること、収穫が豊作か凶作か予測すること、安値で穀物を手に入れること、シシリーあるいはウクライナから仕入れをすること、等々であった。しかしながらゴリオには助手はいなかった。事業を推し進める彼を見ると、穀物の輸出や輸入についての法律について詳しく説明したり、その基本理念を学んだり、その抜け道を把握したりする様子から、人は彼のことを国家大臣にすらなれるように考えたかもしれない。忍耐強く、行動的で、精力的で、継続性を持ち、商品の発送は迅速だ。彼はまた鷲の目を持ち、常に人の先を越し、総てを予測し、総てを知り、総てを内に秘めていた。着想を得るために外交官のごとく駆け引きし、進み始めると兵卒のごとく一直線だ。彼の専門を離れると、簡素で薄暗い店の戸口のところで彼は暇な時間を過ごし、肩を扉にもたせ掛けていた。彼はそんな時、愚鈍で粗野な職工に戻って、理屈など理解できず、機知に富んだ遊びなどには無感覚で、劇場では眠ってしまう男、ちょうどそう、あの下らないことばかりで力を発揮するパリジャン、あのドリバン父さん[35]のようなものだった。彼等の本質はほとんど総てにおいて似ている。読者よ、貴方が彼等の心の中を見た時、ほとんどの場合、愚鈍さと共に崇高な感情を見出すことになるだろう。崇高と愚鈍、二つの相反する感情が、この製麺業者の心をいっぱいにしていたので、それ以外の感情は消え去っていた。ちょうど穀物取引が彼の頭の中の知性という知性を使い尽くしてしまった状態に似ていた。彼の妻はブリ地方の裕福な農家の一人娘で、彼にとっては宗教的崇敬、言い換えれば限りない愛の対象であった。ゴリオは彼女の中に生来のか弱さと強さ、感じやすさと可愛さを見て、自身の性格とひどく対極的な彼女のそれを称賛せずにはいられなかった。こうした傾向が、男の心の生来の感情だとすれば、相手を保護してやろうといった矜持はいつだって女に有利なように働くのではないだろうか? ここに愛が加わったなら、あの感謝の気持ちが、真摯な魂の中に、何よりも大切な喜びとして存在することになる。そして読者はやがて、精神的に異常なまでの熱狂をつぶさに見ることになるだろう。
 翳りない幸福が七年続いた後、ゴリオは悲しいことに妻を亡くした。彼女は感情の世界以外では、彼のうえに影響力を持ち始めていたところだった。恐らく彼女は自然のように動かないこの男に何等かの変化を与えたことだろう。恐らく彼女は、世間一般の、そして人生の常識を注ぎ込んでくれたはずだった。しかしこの不幸に襲われた後、父性的感情が、ゴリオにあっては狂気と言われるまでに増大した。彼は妻の死によって裏切られた彼の愛を、二人の娘達の上に向け直した。二人は最初のうち、彼の気持ちに十分満足していた。彼のところに自分の娘を後妻として嫁がせたいと思っている卸業者や農家が、彼に持ってくる縁談は輝かしいものに見えたが、彼は男やもめの暮らしを望んだ。彼の義父は彼が話せる唯一の人間だったが、ゴリオの判断は亡くなってしまった妻に対する不誠実をしたくないためなのか、正確なところを知らせて欲しいと彼に望んだ。このような気違い染みた崇高な思いなど理解出来ない穀物取引所の連中は、これを茶化してゴリオに何ともひどいあだ名をつけた。ところが、市場でワインを飲んでいた時、彼をあだ名で呼ぼうと最初に思いついた男は、ある日、製麺業者から肩に猛烈なパンチを食らい、頭から境を接している隣町のオブリン通[36]の道標まで吹っ飛ばされてしまった。ゴリオはなりふり構わぬ献身、猜疑心の強い細やかな愛を娘達に抱いていたが、それらは広く知られていたので、またある日、彼の競争相手の一人が相場の主導権を握るため、ゴリオを市場から撤退させようと思い、彼にデルフィーヌが二輪馬車に衝突されたと告げた。製麺業者は真っ青になり直ぐに市場を後にした。その後数日、彼はこの嘘の通報によって受けた感情の動顛のために病気になってしまった。、彼はこの男の肩にもぶち殺すほどの一撃を加えることはしなかったが、彼を経済的に追い込んで破産させ、力づくで取引所から追い出してしまった。二人の娘に対する教育は当然のことながら常軌を逸していた。六万リーヴルを超える年金を持つ裕福な身の上で、彼自身のためには一二〇〇フランも使わなかったので、ゴリオの幸せは娘達の好き勝手を満足させてやることだった。優れた先生達は、彼女達の才能を開花させるべきだと彼に迫り、それには良い教育が欠かせないと指摘した。彼女達には付き添いの女性も一人いた。彼女達に幸運だったのは、この女性が機知に富み趣味も良かったことだ。彼女達は馬に乗って出かけた。彼女達は馬車も持っていた。彼女達は昔の裕福な領主の奥方のような体験をして暮らした。彼女達は、一番高くつく望みを言いさえすれば、父がいそいそとその望みを叶えてくれる様を見ることが出来るのだった。彼は贈り物に対して、優しい言葉を返してもらうことなど一度もなかった。ゴリオは娘達を天使の列に加えたのだ。当然そこは彼の上方になる。何と哀れな男だろう! 彼の愛は行き過ぎて、ついには彼女達が彼に害悪をもたらす程度にまで達した。娘達が結婚適齢期になると、彼女達は夫を自分の好みで選べると考えた。それぞれが父の財産の二分の一を持参金として持ってゆく積りでいた。アナスタジーはその美貌に惹かれたレストー伯爵に口説かれ、貴族趣味への傾向が強くなり、父の家を出て上流社交界に一目散に突進することになった。デルフィーヌはお金を愛した。彼女はドイツ出身の銀行家で神聖ローマ帝国で男爵の称号を得たニュシンゲンと結婚した。ゴリオは製麺業者のままだった。彼の娘達や婿達は暫くして相変わらずこの商売を続けている彼を見て気を悪くした。もっとも、これだけが彼の人生だったのだ。五年間にわたって、彼等から懇願され続けた末、彼は引退することに同意した。彼の蓄えからの収益と最終年度に上げた収益が生活の糧だった。彼がヴォーケ夫人のところに居を定めたとき、彼女は彼には、年に八千ないし一万リーヴルの年金収入があると見込んでいた。彼がこの下宿に飛び込んできたのは、二人の娘達が夫たちの差し金で、彼を彼女達のもとへ引き取ることを拒絶したばかりか、外見だけでも彼を受け入れることさえしなかった、それを見て絶望感に打ちのめされての結果だった。
 こうした情報はゴリオ爺さんの相談を受けたミュレ氏とかいう人から伝わったもので、この人はゴリオの店を買い取った男だ。ラスチニャックがランジェ公爵夫人から聞いた推測はほぼその通りだと確認された。この不可解で謎に満ちた貴婦人風訪問者に絡む悲劇の導入部のあらましはこのようなものであった。

 
 
 
 
(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
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2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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