ゴリオ爺さん バルザック

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 ウージェーヌが下宿に戻ると、ゴリオ爺さんが彼の帰りを待っていた。
「いいですか」爺さんが言った。「ほら、彼女の手紙だ。ねえ、綺麗な筆跡じゃないか!」
 ウージェーヌは手紙を開封して読んだ。
〈拝啓、父が私に貴方がイタリアの音楽をお好みだと言いました。貴方が私の桟敷席への招待を受けて下さるなら、私にはこの上もない喜びでございます。私達、土曜日にはラ・フォドールとペルグリーニ[62]の歌を楽しみましょう。私は勿論貴方が私の申し出をお断りにはならないものと信じております。ニュシンゲン氏は貴方を私共の宅の格式ばらない夕食にお招きするようにと私に申しております。もし貴方がお受け下さるなら、とても主人を満足させることになるでしょう、と申しますのは、彼は私に同伴して夫婦の義務を果たすような嫌な仕事から解放されるからなのです。お返事の手紙は要りません。いらして下さいな。そして私の挨拶をお受け下さい〉
〈D. de N.〉
「私にもそれを見せて下さい」ウージェーヌが手紙を読み終わった時、爺さんが彼に言った。「貴方は行くんでしょう?」紙の匂いを嗅いだ後、彼は付け加えて言った。「これはいい香りがする! 彼女の指が触れたんだろうな、きっと!」
「女というものはこんな風に男の中に飛び込んでくるもんじゃないんだ」と学生は考えた。「彼女はド・マルセイを取り戻すために僕を利用する積りなんだ。そっちのお手伝いをさせられる悔しさくらいは我慢するさ」
「おやおや!」ゴリオ爺さんが言った。「貴方はまだ何か考えてるんですか?」
 ウージェーヌは虚飾が生み出す妄想がこの瞬間にある種の女達の心を捉えるものであることを理解していなかった。フォーブール・サン・ジェルマンの家の扉を開けるためには銀行家の妻があらゆる犠牲を払う積りであることを彼はまだ知らなかった。この時代には、総ての女性の上にサン・ジェルマン街の社交界に出入りしている女性、言い換えればプチ・シャトーの貴婦人達[63]を評価する風潮が始まっていた。そのような貴婦人の中でも、ボーセアン夫人、その友人のランジェ公爵夫人、そしてモーフリニューズ公爵夫人は第一級の地位を獲得していた。ショセ・ダンタンの女達が自分たちと同じ女性の中の星達がきらめく上流社会に入ろうとする欲望の激しさを知らないのはラスチニャックだけだった。しかし彼の無知が彼には大いに幸いした。お陰で彼は冷静で曖昧さを残していたので、彼女の申し出を受け入れる代わりに条件を付けかねないようにさえ思われた。
「はい、僕は行きます」と彼は答えた。
やはり好奇心が彼をニュシンゲン夫人の家へ向かわせた。一方で、たとえこの女が彼を無視する様な事があっても、多分彼は情熱に導かれて彼女のもとへ向かったことだろう。とはいえ、彼は翌日を、そして出発の時間を辛抱しきれない思いで待ったのだった。若者にとって、彼の最初の情事の時には恐らく彼が初恋の時に感じたのと同じくらいの魅惑があるのだろう。男達は認めようとしないものだが、成功を確信することが幾千もの幸せを生み出してきた。その確信がまた女達を魅力あらしめてきた。一方で、勝利がたやすい時より、困難に見える時に欲望は更に高まるものだ。男の情熱の総ては間違いなくこの二つの理由のどちらか一方により触発され、あるいは持続される。そしてそれが愛の帝国を二分している。おそらくこの分裂は、人がどう言おうと、この社会を覆っている気質についての大きな疑問に対する答えとなるのではなかろうか。もしも鬱病患者にちょっとどぎつい化粧をする必要があったとしよう、恐らくその人が神経質か多血質かにかかわらず、化粧に対する世の反発がうんと強い場合は、彼等はどちらもさっさと手を引いてしまうだろう。言い換えると、悲歌は基本的に不精なところがあり、熱狂的叙情詩は案外苦労性な本質を持っている。自分の化粧をする時、ウージェーヌは彼の小さな幸福をゆっくりと味わったが、若者がそんなことを話すと馬鹿にされるのを恐れて敢えて人には言わなかった。しかし化粧は彼の自尊心をくすぐってくれた。彼は可愛い女性の眼差しが彼の黒い巻き毛の方に流れてゆくのをイメージしながら髪を整えた。彼は子供っぽい気取った様子をしてみた。それはちょうど若い娘が舞踏会に行くために身づくろいする様に似ていた。彼は自分の細い胴体を満足げに眺め、服の皺を伸ばした。「確かに」と彼は思った。「僕より不細工なやつは沢山いる!」それから彼は下宿の住人が皆テーブルに着く時間に下へ降りていった。そこでは彼の優雅な服装が馬鹿騒ぎを起こして、彼は皆から陽気な歓声を受け取ることになった。この高級下宿に独特の生活習慣の特徴は、入念な化粧をするような人がいると、とんでもない騒ぎとなることである。そこでは何か一言理由を言わなければ、新しい服を着る事などついぞ起こらないことなのだった。
「クト、クト、クト、クト」ビアンションが舌を口蓋に当てて鳴らした。ちょうど馬に気合を入れる風だった。
「まさしく公爵様のお出ましね!」ヴォーケ夫人が言った。
「公爵様はコンケート(征服戦)にお出ましだ!」ミショノー嬢が言った。
「コケーリコ(征服)だ!」画家も叫んだ。
「貴方の奥方におめでとう」博物館職員が言った。
「奥様はもうお決まりですか?」ポワレが訊いた。
「結構毛だらけ猫灰だらけ。見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ、見下げたもんだよ底まで掘らせる井戸屋の後家さん。上がっちゃいけない小麦の相場、下がっちゃ怖いよ柳のお化け。馬には乗ってみろ人には添ってみろってね」ヴォートランがおどけをまじえた流暢さとペテン師らしいアクセントをつけながら叫び声をあげた。「憎まれっ子世に憚る、ヴァルデグラスにパンテオン、ショセダンタンにサンジェルマン、チャラチャラ流れるセーヌ川、粋な姉ちゃん立小便、買った買ったさあ買った、カッタコト音がするのは若い夫婦の箪笥の菅だよ」[64]
「まあ! あの人は面白いわね」ヴォーケ夫人がクチュール夫人に言った。「あたしはあの人がいると全然退屈しないわ」
 笑いと冗談の只中で、こんな具合に茶化してぺらぺらと交わされた会話がきっかけとなったのか、ウージェーヌはタイユフェール嬢の密かな眼差しを捉えることが出来た。彼女はクチュール夫人に体をかしげ、夫人の耳に何事かを囁いた。
「あら、幌付き二輪馬車が来たわ」シルヴィが言った。
「それじゃあ彼は何処で夕食をとるんだろう?」ビアンションが訊いた。
「ニュシンゲンの邸だろ」
「ゴリオさんの娘さんです」学生が答えた。
 この名前で、視線はかつての製麺業者の上に注がれた。彼はウージェーヌの方をある種の羨望をこめて見つめていた。
 ラスチニャックはサン・ラザール通のあの軽やかな家の一つ、柱が細く、回廊の狭い、パリに面白味を加えたあの家、パリでも屈指の銀行家の家の中にいた。化粧漆喰や階段の踊り場の大理石のモザイクの中にも、高価なものへの探求が満ち溢れていた。彼は装飾がカフェを思わせるようなイタリア風塗装を施した小部屋でニュシンゲン夫人に会った。男爵夫人は物悲しげな様子だった。彼女が悲しみを隠そうとする努力がウージェーヌを強く捉えたので、彼の嬉しい気持ちは完全に消えてしまった。彼は自分の存在で一人の女を楽しげな気分にしてやろうと思っていたが、彼女は絶望し切っていた。この絶望が彼の自尊心を刺し貫いた。
「私はまだまだ奥様の十分な信頼を得る資格を持っておりません」彼は彼女の関心が自分にないことに傷つけられながらも言ってみた。「しかし、出過ぎたことですが、どうか私を信頼して頂きたく思います。私にはどうか率直にお話下さいませ」
「ここにいて下さい」彼女が言った。「もし貴方がいなくなってしまったら、私は一人ぼっちになります。ニュシンゲンは町で夕食をとります。そして私は一人ぼっちは嫌なんです。私は何か気晴らしがしたいんです」
「しかし、どうなさったのですか?」
「貴方にだけはこんなこと話したくなかったんです」と彼女は叫んだ。
「私はそれを知りたい、その上で私はその秘密について何かのお役に立ちたい」
「恐らく! まずは駄目でしょう」と彼女が答えた。「これは家庭内の喧嘩ですから、心の内に秘めておくべきものですわ。一昨日も私、このことは貴方に話さなかったでしょう? 私って、これっぽっちも幸せじゃないんですよ。金の鎖なんて重苦しいだけですよ」
 ここに女がいて、一人の若者に向かって、彼女は不幸せであると話すとしよう。その若者が溌剌とした心の持ち主で服装も良く、しかも彼が一五〇〇フランの自由に使える金をポケットの中に持っていたとしよう。若者はまさにウージェーヌが思ったそのことを当然考え、そしてうぬぼれてしまうのである。
「貴女はこれ以上何をお望みなんですか?」ウージェーヌは答えた。「貴女は美しい、若い、愛されている、金持ちだ」
「私のことは言わないで」彼女は頭を悲しげに振って言った。「私達一緒に差し向かいで夕食をいただきましょう。私達は最高に美しい音色の音楽を聴きに行きましょう。私の好み、貴方と合うかしら?」彼女は答えると立ち上がった。豊かさを極めた優雅なペルシャ模様の入った白いカシミヤの衣装がのぞき見えた。
「私は貴女を完全に私のものにしたいんです」ウージェーヌが言った。「貴女は魅惑的です」
「貴方は鬱陶しい物件を背負い込むことになってよ」彼女は苦渋を含んだ微笑を浮かべながら言った。「ここでは何も貴方に不幸を感じさせない、だけれども、その見かけにかかわらず、私は絶望の中にいるんです。私の悩みごとのためによく眠れないんです。お陰で私はきっと醜くなってしまうわ」
「おー! そんなことはあり得ません」学生が言った。「しかし、私には分からないのですが、献身的な愛ですら癒せないような悩みとは一体何なんですか?」
「あー! もし私が貴方にそれを打ち明けたら、貴方は私から逃げ出してゆくでしょう」彼女が言った。「貴方はもう男性が習慣的にお世辞を言ってくれる、その程度にしか私を愛しては下さらなくなるでしょう。だけど、貴方が本気で私を愛してくださるなら、貴方はひどい絶望の中に落ちてゆくことになるのよ。私が黙っていなければならないこと、お分かりよね。お願い」と彼女は続けた。「話題変えましょうよ。私のアパルトマン見に行きましょう」
「いいえ、ここにいましょう」ウージェーヌはそう答えて、自信を持ってニュシンゲン夫人の手を取った。そしていかにも話好きらしく彼女のそばの暖炉の前に座り続けていた。
 彼女は手を取られるのに任せていたが、やがて強い感動に突き動かされた彼女の手が若者の手の上に押し付けられてきた。
「聞いてください」ラスチニャックが彼女に言った。「もし貴女に悩みがおありなら、それを私に打ち明けてください。私はただ貴女その人を愛していることを貴女に証明して見せたいのです。貴女は私に貴女の苦しみを話し知らしめることにより、私はその苦しみを消すことが出来ます。それが六人の男を殺さねばならないにしてもです。それが出来ないならば、私はここを出て二度と帰ってはきません」
「あらっ!」彼女はある絶望的な考えにとらわれて叫んだ、そして自分の額を叩いた。「私は一瞬、貴方をテストしかけていましたわ」
「そうだ」と彼女は思った。「やってみるしかないわ」彼女は呼び鈴を鳴らした。
「旦那様の馬車に馬は繋いだ?」彼女は従僕に尋ねた。
「はい、奥様」
「私がそれを使います。旦那様には私の馬車を使ってもらうから、それに私の馬を繋いでね。夕食は七時過ぎになりますからね」
「さあ、こちらへどうぞ」彼女がウージェーヌに言った。彼の方はニュシンゲン氏の二人乗り馬車で彼の夫人の横に座っている自分がまるで夢の中にいるように思われた。
「パレロワイヤル、テアトル・フランセのそばにやって」彼女が御者に言った。
 道中の彼女は興奮しているように見えて、ウージェーヌが山ほど質問したのに返事をしようとしなかった。彼は頑固なだんまりで固めたつかみどころのない、この反抗は一体何なのか分からなかった。
「もう少ししたら彼女は何か漏らすだろう」そう彼は考えた。
 馬車が止まった時、学生は既に心の高まりを抑えられないような状況にあったが、男爵夫人が彼の方を見やった時の雰囲気は彼の熱っぽい言葉に沈黙を促すものだった。
「貴方は本当に私を愛してる?」彼女が訊いた。
「はい」彼は不安に捉われているのを押し隠して答えた。
「貴方は私のことを悪くなんて全然考えないわね、例えどんなことを貴方にお願いしてもね?」
「考えません」
「貴方は喜んで私に従ってくれますか?」
「盲目的に従います」
「貴方は賭博場に何回か行ったことがありますか?」彼女はいくらか震えるような声で言った。
「全然」
「あー! ほっとしたわ。貴方は運が良いはずだわ。これ私の財布です。さあこれを持って! 一〇〇フラン入ってます。それが、この幸せな女が持っている総てなのよ。賭博の店に行ってね。私は何処にあるのか知らないけれど、パレロワイヤルにあるとは聞いています。一〇〇フランをルーレットという勝負に賭けて下さいね。そして総てを失くすか、あるいは私のために六千フラン稼いでくれるか。私の悩み事は貴方が戻って来た時に話すわ」
「私には悪魔がついて、私がこれからやろうとしていることについて私が何事も知り尽くしているかのごとく突き動かしてくれることを祈ります。ともかく私は貴女に従います」彼は次のような考えに嬉しくなって言った。『彼女は僕と運命共同体になった。彼女は僕を拒絶することはないだろう』
 ウージェーヌは可愛らしい財布を持って、賭博場の直ぐ隣の服屋に場所を教えてもらって、九番地に向かって走っていった。彼は店に入り帽子を脱がされた。彼は頓着せず中に入り、ルーレットは何処かと訊いた。常連客があきれる中を部屋のボーイが彼を長いテーブルの前に案内した。ウージェーヌには見物人が皆付いて来ていたが、彼は厚かましくも、何処に掛け金を置くべきだろうかと尋ねた。
「もし貴方が一ルイをここにある三十六の数字のうちの一つの数字の上に置いて、それが当たったとする、すると貴方は三十六ルイを得るというわけだ」白髪のかなり年配の人が彼に教えてくれた。
 ウージェーヌは一〇〇フランを自分の年齢の数字、二十一に賭けた。彼は自分で訳が分からないうちに、周囲から驚きの叫び声が上がった。彼は知らないうちに勝っていた。
「さあ、貴方の金を引き上げなさい」老紳士が彼に言った。「ここの博打で二度は勝てませんよ」
 ウージェーヌは老紳士が彼に差し出してくれた熊手をつかんだ。彼は自分の方に三六〇〇フランを引き寄せて、相変わらず勝負のことは何も分からないまま、その金を赤の上に置いた。見物人達は彼が勝負を続けるのを見て、羨望の眼差しで彼を見つめた。ルーレットが回り、彼はまた勝った。そしてディーラーは再び三六〇〇フランを彼の方に押しやった。
「貴方の金は七二〇〇フランになった」彼の耳許で老紳士が言った。「もし貴方が私を信じるなら、ここでやめることです。赤は八回も出てしまっている。もしも貴方が慈悲深い方なら、このアドバイスを受け入れることです。そうして、差し迫った金の必要に迫られている、このかつてのナポレオンの上官だった惨めな男を慰めてやってください」
 ラスチニャックは呆然としているうちに、二〇フラン金貨十枚をこの白髪の男に持っていかれてしまった。しかし彼は七千フランを持って店を出た。それでいて彼は未だに勝負のことについては何も分からず、それでいて自分の幸運にはただ茫然自失の状態だった。
「あーあー! 貴女はなんて所に私を連れてきてしまったんですか」彼は馬車のドアを閉めながら、ニュシンゲン夫人の前に七千フランを差し出して言った。
 デルフィーヌは狂おしく彼を抱き締め、荒々しくキスをした。が、何か冷静さも残っていた。「貴方は私を救って下さったんだわ!」喜びの涙が彼女の頬をつたって流れた。「貴方には何もかもお話しますわ、友達ですもの。貴方はお友達、ですよね? 貴方は私のことを金持ちで豪奢で足りないものは何もないくらいに、あるいは思ってらしたか、あるいは、私は何にも不足していないように見えたかもしれません。ところが意外にも、ニュシンゲンという人は私には一スーたりとも自由に使わせないんですよ。彼は家にかかる総ての経費だけでなく私の馬車、私の桟敷席の費用も全部支払っています。私の化粧費はとても不満足な金額ですが、彼は認めてくれています。でも、彼はとことん計算して私をある種の惨めな境遇に追い込もうとしています。彼の経費削減の要請には本当に腹が立ちます。もしお前が好きなように金を使いたいのなら言ってみろ、その金はお前に売ってやる、と彼は言うのです。そんな惨めな人間は私以外にこの世に二人といないでしょう! 一体どうして、七〇万フランもお金を持っているこの私が、皮を剥がされるままになってるんでしょうか? 誇りがあるから? それとも憤り? 私達が結婚生活を始めた頃、私達はとても若くて、とてもうぶでした! 夫にお金を要求しなければならない時に使う言葉が嫌で、私達は段々会話をしなくなってしまいました。私は敢えて嫌な話をしなかったのです。私は自分の貯金の金を使い、また可哀想な父が私にくれたお金を使いました。そのうち私は借金するようになりました。私にとって結婚は最悪の失望でした。貴方にはとても話せないようなものでした。ニュシンゲンとは別々のアパルトマンを持って、別れて暮らすというやり方以外で生きてゆけと言われたら、私は窓から身を投げるより他はありませんわ。貴方にはそれを分かっていただければ十分です。若妻であった私、宝石や気まぐれな買い物――可哀想に父は私達に何を頼まれても拒絶しない習慣になっていたのです――そうしたもので出来た私の借金のことを夫に言わなければならなくなった時、私はひどい苦しみをなめることになりました。しかし、とうとう私は勇気を出して、それを彼に言ったのです。だって私の財産だって幾らかはあるはずでしょう? ニュシンゲンは逆上して、私が彼を破滅させるだろうと言いました。何てことを言うんでしょうね! 私も穴があったら入りたいくらいですわ。彼は私の持参金を得た分だけ支払ってくれました。けれども、それ以後の私の個人的費用について、彼は一定額の手当てにしようと主張し、私も安らぎを得たかったので、それを甘んじて受けました。以来、私は貴方もご存知のある方の自尊心を満足させられる女でありたいと努めてきたのでした」と彼女は言った。「仮に私が彼に騙されていたとしても、それは彼の性格の高貴さを正しく評価出来なかった私のせいなのです。でも結局のところ、彼は私とはひどい別れ方をしたってことです! 困ってた時にいっぱい金を投げ与えてやった女を男は決して棄てないものよ、普通ならその女をずっと愛し続けるはずじゃない! 貴方って二十一歳の美しい心の持ち主で、貴方って若くて純粋、だから貴方は何だって人妻が男から金を受け取ることが出来るんだろうと、ずっと自問自答していたんでしょう? 何故ですって! そもそも、その人といたら私達女は女の幸せを得られるだろうといった人と組するのって、自然じゃない? 人が互いに総てを捧げあっている時、一体誰がこの全体からみれば切れっ端のようなものまで心配出来るものでしょうか? お金は感情が既に死んでしまった場合にだけ何らかの意味を持つに過ぎません。男と女は生涯を通じて繋がり合ってゆけるのかしら? 私達の誰が、互いに愛し合っていると考えていた最中に別離なんてことを予見できたでしょうか? 貴方は私達の永遠の愛を正当化しますか? それでは、如何にしてはっきりした利害を正当化しますか? 貴方にはこのことで私が今日どんなに悩んでいるかは想像も出来ないと思います。実は今日ニュシンゲンは私に六〇〇〇フランの手当てを与えることを拒絶したのです。そのくせ彼自身はごひいきのオペラ座の娘には、ちょっきりこれだけのお金を月々あげているんですよ。私は自殺したいと思いました。実に気違い染みた考えが私の頭の中を駆け巡りました。ある時は召使の女や小間使いの女のことを羨ましく思ったものです。また父に会いに行こうなんて、馬鹿なことも! アナスタジーと私、二人で彼から搾り取ったのです。私達の可哀想な父は売れるものは何もかも売ってざっと六〇〇〇フランくらいのお金をこさえてくれました。でも、それも空しく私は今頃は絶望的な状態になっていたはずです。貴方は私を恥辱と死の淵から救って下さいました。私は悲しみで頭がどうかしてたんですわ。あー! 貴方、私は貴方にはこんな言い訳をする義務があります。実は私は理屈もなしに貴方の途轍もない強運にすがったのです。貴方が私をここに置いて離れていった時、そして私から貴方の姿が見えなくなった時、私はここから歩いて逃げ出したく思ったのです……どこへ? 私にも分かりません。ほらこれが、パリの人妻の半数が過ごしている人生なの。うわべのきらびやかさ、魂の中の過酷な悩み。私は私が過ごしているよりも、もっと不幸せな人生を強いられている女達を知っています。中には出入り業者に無理に間違った記憶をしてしまうように強いられる人妻もいるのです。そうでない人妻も夫のものを盗むように強いられるのです。前者は一〇〇ルイもする高級カシミアを買ったことを忘れて五〇〇フランの安物で我慢してるなどという嘘が通ると思っているし、後者は五〇〇フランの安物掴まされたのが分からずに夫から一〇〇ルイ盗んで払ってしまう馬鹿女なの。心身ともに貧しい女達がいて子供には断食をさせておきながら、服を一着手に入れるために小銭をかき集めたりするの。私はね、私はこういった欺瞞からは免れています。私にとって、こんなのこそ最悪だわ。夫に自らの支配権を売り渡すようなそういう妻もいるんでしょうけど、私は少なくとも夫に対する自由をまだ確保してるわ! 私はニュシンゲンのお金で生活を賄ってゆきながら、私が尊敬出来る人の胸の上に私の頭をのせて泣くことだって出来るんですもの。あー! 今晩のド・マルセイ氏はもう私のことを自分の女としてみる権利を失っているんだわ」彼女は両手で顔を覆い、涙をウージェーヌに見せないようにした。彼は彼女の体を放して、うっとりと見とれてしまった。彼女は相変わらず気高く美しかった。「感情の中にまでお金を持ち込むなんて恐ろしいことじゃないかしら? 貴方はもう私を愛せないのでは」と彼女が言った。
 この適度に混ぜ合わされた感情が女達を烈しくし、社会の実際の仕組みが女達に加担することを強いる嘘がウージェーヌの気持ちを揺すぶった。悲痛な叫びを上げるこんなに無垢で無防備なこの美しい女性に感嘆して彼は優しい慰めの言葉を語った。
「貴方はこれからさき、私に対して敵対なんかなさらないわね」彼女が言った。「約束して下さい」
「あー奥様! 敵対なんて私には出来ないことです」彼が答えた。
 彼女は彼の腕を取り自分の胸の上に当てた。その動作には感謝と可愛らしさがいっぱい込められていた。「貴方のお陰で私はほら自由で楽しい身分に戻れたわ。私は鉄の腕に押さえ込まれて生きていたの。私は今は簡素な生活がしたいわ。何にも費わずに。私の様子から、貴方には私のことがよくお分かりですよね、ねえ、そうでしょ? これは貴方が持っていて」彼女は紙幣を六枚だけ取りながら言った。「私の心の中では、私は貴方に千エキュ借りていることになるのよ。何故って、私は貴方と儲けを折半にするべきと思ってるんですもの」ウージェーヌはまるで処女のように抵抗した。しかし男爵夫人は彼に言った。「貴方が共謀者になってくれないんなら、私は貴方を私の敵とみなすわよ」彼は金を取った。「これはいざという時のために置いておきましょう」彼が言った。
「ほらまた私を心配させることを言う」彼女は青ざめて叫んだ。「貴方にとって私が何だって言うの。あたしに誓って」と彼女が言った。「二度と賭場には行かないって。神様! あたしね、貴方を堕落させたのは! 私、心配で死にそうだわ」
 彼等は到着した。あの悲惨と豪奢の対比が学生を呆然とさせた。耳の中では不吉なヴォートランの言葉がたった今までこだましていた。
「ここにお座り下さい」彼女は自分の寝室に入り、暖炉の横の二人掛けソファを指しながら言った。「私はこれから、とても難しい手紙を書くつもりよ! 私にアドバイスを下さいな」
「手紙なんて書かないで」ウージェーヌが彼女に言った。「お金を包んで、宛先を書いて、そして小間使いに言って持ってゆかせればいいじゃないですか」
「本当に貴方って素敵な方だわ」と彼女が言った。「あー! そこなのよ、貴方、これこそが育ちの良さとか言われるところのものなんだわ! これって、まさに純粋のボーセアンそのものだわ」彼女は微笑しながら言った。
「彼女は魅力的だ」ウージェーヌは思った、そして段々と強い感情に捉えられていった。彼はこの寝室を眺めた。そこには豪奢な寵姫らしい扇情的優美さが息づいていた。
「ここは貴方のお気に入って?」彼女は小間使いを呼ぶ鈴を鳴らしながら言った。
「テレーズ、これをド・マルセイ氏に届けて下さい。そして彼本人に手渡すんですよ。もし彼が見つからなかったら、手紙を持ち帰ってください」
 テレーズは出掛ける前に、ウージェーヌの方に茶目っ気のある一瞥を投げてよこした。夕食が準備された。ラスチニャックはニュシンゲン夫人に腕を差し出し、彼女は彼を瀟洒きわまる食堂へと導いていった。そこで彼は従姉の邸で感嘆したあの豪華さを再び目にしたのだった。
「イタリア座の公演がある日は」と彼女が言った。「貴方はあたしと夕食を共にするのよ、そしてあたしと同伴するの」
「願わくは、私もそのような甘い生活に慣れ親しんでゆきたいです。しかし私は貧しい学生で、財産といえば、これから作ってゆかねばなりません」
「そんなのは自然に出来ますよ」彼女は笑いながら言った。「だって、総て上手くいってるじゃない。私はこんなに幸せになれるなんて予想しなかったわ」
 不可能を可能によって証明したり、事実を予感によって破壊したりするのは女性の性癖である。ニュシンゲン夫人とラスチニャックがブフォンの彼等の桟敷席に入った時、彼女は満ち足りた様子をしていたので、彼女は美しくなっていた。そこで誰もがちょっとした中傷を始めた。女性というものはそれには無防備であり、またしばしば人々は喜んで、ふしだらをでっち上げるものなのだ。人は初めてパリに来た時、周りの人々が考えていることが全然分からない。そして人々もまたそこで行われていることを全然話さないものなのだ。ウージェーヌは男爵夫人の手を取り、二人は多少上気した感じで言葉を交わし、音楽が与える興奮を分かち合った。彼等にとってこの夕べは陶然とさせる時間だった。彼等は揃って席を立ち、ニュシンゲン夫人はウージェーヌを再びポンヌフまで連れてゆくことを望んだ。ところが、そこへ行く途中ずっと彼女はパレロワイヤルで彼に惜しげもなく与えた熱烈なキスを拒否し続けた。ウージェーヌは彼女のこの気まぐれな態度を非難した。
「あるいは」と彼女が答えた。「それは思いがけなく尽くして頂いたことに対するお礼の気持ちだったと思います。でも今はそれをすると何かの約束になってしまうのだと思います」
「それで貴女は私には何の約束もしたくない、たまりませんね、気分悪いですよ」彼は不機嫌になっていた。彼女は恋人をうっとりさせるあのじれったそうな様子を示しながら、彼のキスを受けるように手を差し出した。彼はその手を取ったものの、とても彼女を満足させられるような状態ではなかった。
「月曜日に、舞踏会でね」彼女が言った。
 徒歩で帰路について、澄んだ月の光の下で、ウージェーヌは真面目な反省に浸っていた。彼は幸福でもあり、同時に不満でもあった。アヴァンチュールは幸いにも、パリで一番可愛くて一番優美な女性――それは彼が望む目的だった――をものに出来そうな結果に至っている。一方、不満なのは彼の蓄財計画が頓挫したことだ。それはまた前々日に彼が没頭していた未解決の思考の現実性を実証する作業でもあった。失敗は我々の主張する力が弱かったからだと我々は非難される。ウージェーヌがパリ生活を楽しめば楽しむほど、彼は無名の貧しい人間の身分に留まっているのが益々嫌になってくるのだった。彼はポケットの中で彼の千フラン紙幣を皺くちゃにしながら、一方で、それを我が物にするための千もの欺瞞に満ちた理由付けを心に抱いていた。とうとう彼はヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通に着いた。そして彼が階段の上の階に来た時、明かりが漏れているのを見つけた。ゴリオ爺さんが部屋の扉を開けたままにしていて、ろうそくも点火されていた。それは爺さんの言葉に従えば、学生が爺さんに彼の娘のことを物語るのを忘れさせないためであった。ウージェーヌは彼には何も隠さなかった。
「しかし」とゴリオ爺さんは烈しい嫉妬に絶望しながら叫んだ。「彼女は私が破産したとは考えてないでしょ。私にはまだ一三〇〇リーヴルの定期収入がある! あー! 彼女は何でここへ来ないんだ! 私は私の株、債券を売って用立ててやったのに。私達は元金を削ることになるが、残ったもので私は終身年金[65]を組む積りだ。どうして貴方は私のところへ来て、私に彼女の窮状を打ち明けてくれなかったんですか、隣同士で? どうして貴方はその僅か一〇〇フランで賭博勝負をしようなんて度胸をお持ちだったんですか? そいつは心を引き裂くようなまねですよ。そうだ、そういうのこそ婿達がやるべきことなんだ! あー! もしやつらを捕らえたら、私はやつらの首を締めてやる。くそったれが! 泣くよ、彼女泣いてましたか?」
「私のチョッキに顔を埋めてね」ウージェーヌが答えた。
「おー! それ渡して下さい」ゴリオ爺さんが言った。「これは! ここに娘の涙が流れたんだ、私の可愛いデルフィーヌの、彼女は小さい時、決して泣かなかったのに! 私が貴方に別のやつを買ってあげますから、これはもう着ないで、私の手に渡して下さい。結婚契約[66]によれば、彼女は自分の財産は享受すべきなんだ。あー! 私は明日にでも代訴人のデルヴィーユを探しに行きたい。私は彼女の財産を投資に当てるように要求する積りだ。私は法律をよく知っている。そして老練な投資家だ。私はまた牙をむいてやる」
「ねえ親父さん、ほら千フランだよ、彼女が二人の勝ち分から、僕に渡そうとした金だよ。これを彼女のためにチョッキの中に入れといてください」
 ゴリオはウージェーヌを見て、手を伸ばして彼の手を握り締めた。その上に老人の涙がこぼれ落ちた。
「貴方は人生で成功される方です」老人が言った。「神は公正だ、ご存知かな? 私は自身が正直な人間だと思っている。そして貴方については、貴方のような人間は実に稀にしかいないということを貴方にはっきりと言うことが出来る。こうなったら、貴方も私の愛する子供の一人になってくださいませんか? さあ、もう寝ましょう。貴方ならぐっすり眠られる。貴方はまだ父親じゃない。彼女は泣いていた、私には分かる、この私は、彼女が苦しんでいる間、のんきにそこらで食事なんかしてたんだ。私はね、私は娘達二人の涙なんか見たくないので、父親を、息子を、そして聖霊をさえ売り飛ばしたっていいくらいに考えているんだよ!」
「誓って言う」ウージェーヌは寝る時、思った。「僕は生涯誠実な人間として過ごすだろう。両親からの激励に忠実であることに喜びがある」
 神は隠密裏に恩恵を与えてくれると信じている人が世の大多数であろう。そこで、ウージェーヌは神を信じた。
 翌日、舞踏会の時間にラスチニャックはボーセアン夫人の邸に行った。彼女は彼をカリリアーノ公爵夫人に引き合わせるために彼を同行させた。彼は元帥夫人から、これ以上ないほど愛想よく迎えられた。そしてこの夫人の邸で彼はニュシンゲン夫人と再会した。デルフィーヌは着飾って皆に気に入られようとしていた。それはウージェーヌにもっと気に入ってもらいたいとの思惑からだったが、彼女は彼からの一瞥を待ちかねていた。しかも彼女は自分の辛抱し切れない気持ちは隠しおおせているものと思っていた。女の感動を見抜ける男にとって、この瞬間というのは何とも言えぬ心地よいものである。彼女の気持ちを待つことを、自分の喜びを粋に隠すことを、自分が起こした懊悩の告白を聞くことを、自分の微笑が晴らしてやった心配する気持ちを、誰かこうした気分を幾度も味わった幸運な男がいるものだろうか? このパーティの間に学生は突然、彼の地位の重要性を推し測ることが出来た。そして彼はボーセアン夫人の従弟であると公認されることによって社交界で一つの地位を得たことを理解した。ニュシンゲン男爵夫人の征服を社交界は既に認めていたが、それは彼の存在に良い立体感を与え、若者達は皆、彼に羨望の眼差しを向けた。何事であれ意表を突く行動力で彼は最高度にうぬぼれを楽しむことが出来た。広間から次の広間へ抜け、人々の群れから群れを訪れる時、彼は自分の幸運が誉めそやされるのを聞いた。夫人達は彼があらゆることで成功するだろうと予言した。デルフィーヌは彼を失うことを恐れて毎晩彼とキスすることを拒絶しないと約束した。実はそれについては前々日から、合意して納得した時にやるような話になっていたのだった。この舞踏会ではラスチニャックは沢山の約束を交わした。彼は従姉によって何人かの婦人に紹介されたが、いずれの婦人も上品さへの強い志向を抱き、彼女達の邸はその快適さで知られていた。彼はパリでも最も偉大で最も美しい世界の中に投げ込まれた自分を感じた。この夜会はそれ故に彼にとっては輝かしいデビューという魅惑によって彩られていた。そして彼は老境に至るまで、折に触れてその夜会のことを思い出すことになるのだ。ちょうど若い娘がそこで勝利した舞踏会のことを覚えているように……翌日、昼食をとりながら下宿人達の前で彼がゴリオ爺さんに成功談を語っていた時だった、ヴォートランはひたすら非情な薄笑いを浮かべていた。
「それで、あんたはどう考えるんだね」と、この残忍な住人が叫んだ。「社交界の寵児となった若者がネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通のメゾン・ヴォーケでくすぶっていられるもんかね? ここは確かにあらゆる点で立派なもんだ。しかしな、それも当世風だというだけのもんだ。ここは裕福だし、広々として綺麗に仕上げられている。それにラスチニャックというお方が仮住まいにしておられる畏れ多い館だ。だが、つまるところ、ここはネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通だ、で、豪華さとは無縁だ。何故なら、そこは純粋に中年親父向けの世界だからだ。君!」ヴォートランは父親が諭すように、あるいは揶揄するような調子で言った。
「もしあんたがパリでいっぱしの人物になりたけりゃ、あんたは三頭の馬と朝の散歩用に軽装二輪馬車、夜のための幌付き四輪馬車が要る。馬車代は合計九千フランだ。あんたは、三千フランを仕立て屋に使うんじゃなかったとか、六百フランを香水屋に、百エキュを靴屋に、百エキュを帽子屋にそれぞれ払ったことを悔やむようでは、あんたの運命もたかが知れたもんだ。洗濯屋への支払いといえば千フランもかかる。流行の先端を行く若者は、身に付けるものについては特に鋭敏であることは欠かせない。これこそ若者に常に試されることだ。そうじゃありませんか? 愛と教会はそれぞれの祭壇に綺麗な布を被せたがる。そして、あんたは一四〇〇〇フラン要るわけだ。私はパリでこの時代に、あんたが博賭で損をしたとかいうことを言う積りはない。誰だってポケットマネーとして、二千フランくらい欲しいと思うのは無理からぬことだ。私もそんな人生を過ごしてきた。いつ金が要るか分からんもんだよ。最重要項目に加えて、三〇〇ルイの飼料代、犬小屋代として一〇〇〇フラン。さあ、君、我々は虎の子の二万五千フランの年収をどうしても確保しなきゃならんのだ。さもないと我々はぬかるみに転倒し、自分自身を軽蔑し、我々の未来、成功、そして女さえも失ってしまうんだ! それに召使と給仕までもな、うっかりこれを忘れるところだったよ! お尋ねしますが、あんたの恋文を持って行ってくれるのはクリストフですかね? 恋文はあんたが今使っている紙に書くんですかね? それはあんたにとって自殺行為だよ。経験豊かな年寄りを信じるもんだよ!」彼は低い声ながら、次第に声音を強めて言った。「それとも、あんたは清貧な屋根裏部屋に押し込まれたままでいいのかね、そして仕事と結婚しちまうか、あるいは誰か他の人の意見を聞くかだな」
 そしてヴォートランはウィンクをして、タイユフェール嬢を横目で見やった。彼の眼差しは、堕落へと誘うため、学生の心の中に彼がばら撒いた魅力たっぷりの理論を思い出させ、また要約して見せるようなものだった。幾日かが過ぎ去った。その間、ラスチニャックは放埓極まる生活をしていた。彼はほとんど毎日ニュシンゲン夫人と夕食を共にし、それから社交界にお供していった。彼は午前三時か四時に帰り、起きるのは正午だった。それから彼は化粧をして、デルフィーヌと森を散歩するために出掛けるのだった。天気が良ければ、彼も惜しみなくそこで自分の時間を使った。彼は時間の価値をまだ知らなかった。また彼はあらゆる教訓を吸収した。また総ての贅沢への誘惑も熱烈に吸収した。そして情熱の中で、雌のナツメヤシの胚の中に、彼の受胎能力の高い種は待ちきれないという勢いで吸い尽くされたのだった。彼は勝つにしろ負けるにしろ、高額な大きな賭け事に興じた。そして、とうとうパリの若者の途方もない生活に馴染んでしまった。彼は最初に儲けた金で、母と妹に一五〇〇フランを返した。途絶えていた可愛いプレゼントも復活させて、一緒に送ってやった。彼はメゾン・ヴォーケを出たいとは言っていたが、まだ一ヶ月のうちの何日分かが残っていた上に、彼はまだどうやってここを抜け出せばよいのかが分からなかった。若者達はほとんどの場合、ちょっと見には説明のつきにくい法則に従うものであるが、実はその理論は彼等の若さそのものに拠ってきているのだ。そしてまた一種の狂乱のようなものに突き動かされて、若者達は快楽に飛びつくのだ。金持ち、貧乏人であることを問わず、彼等は決して彼等の生活に必要なだけの金は持っていない。そのくせ、彼等は彼等の気まぐれを満たすための金をいつも見つけてくるのである。信用貸しで得られるものなら浪費し、即金払いといったものにはいつも渋るのだ。彼等は持つことが出来るものを浪費することで、彼等が持っていないものに対する仕返しをしているように見えるのだ。似たような問題をもっと具体的に提供すると、学生は服よりも帽子の方に遥かに気を遣うものである。売り上げの大きなことが仕立て屋を必然的に大貸主にし、一方で売り上げの少ないことが帽子屋を彼が交渉を余儀なくされた相手の中では、遥かに分からず屋にしてしまった。もし劇場のバルコニー席に坐っている若者が、はっとさせるようなチョッキを着て、綺麗な女性達のオペラグラスの視線を集めたとしても、彼がちゃんと靴下を履いているかどうかは疑わしいのである。靴下屋もまた彼の財布を食い荒らすコクゾウムシなのだ。ラスチニャックはそのような状態であった。ヴォーケ夫人に言わせると、いつも無一文、それでいて虚飾を満たすためにはいつもいっぱい金があって、彼の財布にはさかさまの奇妙に上手くゆく作用があって、最も当たり前の支払いとは妙に調和しないところがあった。この臭い下宿を出てゆくためには、誰に向かって定期的に頭を下げて自分の主張を聞いてもらえばよいのか、彼は知らなかった。残り一ヶ月分の下宿代は女家主に払わなくてもよいのか、そして彼が入るおしゃれなアパルトマンのために家具は買わなくてもよいのか? それは相変わらず出来ない相談だった。ラスチニャックは賭博のための金を如何にしてひねり出すかについてはよく知っていた。彼は行きつけの宝石店では身分不相応に高価な時計や金の鎖を買っていた。やがて彼はそれらを公設質屋に持ち込むのだったが、それらの品物は質草としては威力を発揮してくれた。質屋は若者達を陰で支える控えめな態度の友ともいうべきものだった。ラスチニャックは食事の支払いや住居費用、あるいは優美な生活を更に洗練されたものにするための必須アイテムの購入といったやむを得ない金の必要に迫られた時、別に大胆さや工夫を凝らした手順というものはないのだが、気がつくと彼はそこへ行っているのだった。俗世的必要性、需要を満たすための借金の契約はもはや彼を鼓舞しなかった。この偶然に支配される人生を既に知ってしまった多くの人間同様、彼はブルジョワの目には聖なる存在である債権を安売りすることは最後の瞬間まで待ち、ドラゴナントの統一された用紙の為替手形[67]が出来るまでパン代の支払いをしなかったあのミラボー[68]の様でもあった。この頃ラスチニャックは金を失ってしまって借金生活になっていた。学生はこのような生活をしっかりした資金源もなく続けることは不可能であることを理解し始めていた。しかし、不安定な境遇から漸くここまで辿りついて、依然として何もかもがぴりぴりと辛く彼を苦しめるが、今の生活の過剰なまでの悦楽を捨て去ることは出来ないと彼は感じ、この生活をどうしても続けてゆきたいと彼は願った。彼は財を作るのに偶然を当てにしていたが、それは夢が現実になることを望むような安易な考えだった。そして現実の障害が大きくなってきた。ニュシンゲン夫妻の家庭内の秘密を初めて知ってゆく過程で、彼は愛を財を成すための道具に変えるためには、あらゆる汚辱を飲み干すこと、そして若気の過ちも無罪放免としてくれた高貴なる思想を捨て去ることが必要であることを認めた。この生活、外見的には華やかでも悔恨というサナダムシにひどく蝕まれ、つかの間の喜びは執拗な苦悩によって高い代償を払わせられる。彼はこの生活と結婚した。彼はそこで、ラ・ブリュイエールのぼんやり者に似て、あるいは溝に溜まった汚泥の層のようにただ何となく過ごしていた。しかし、ぼんやり者同様、彼はまだ服を汚しただけだった。
「じゃあ、おい俺達は高級官吏を殺しちゃったのかい?」ある日、ビアンションが食卓を立つ時、彼に言った。
「いや、まだだ」ラスチニャックが答えた。「しかし彼はあえいでるぜ」
 医学部学生はこの言葉を冗談と捉えたが、それは冗談ではなかった。ウージェーヌはこの下宿で食事してかなりになるが、初めて食事中に考え込んだような様子を見せた。デザートのために出てゆく代わりに、彼は食堂に残り、タイユフェール嬢の前に座って、時々意味ありげに彼女の方を見やっていた。何人かの下宿人はまだテーブルに着いていて、ナッツを食べていた。それ以外の人達は始まった議論を続けながら散歩していた。ほとんど毎晩のことで、ある者は会話の中に見つけた興味の度合いに従い、あるいは消化具合でのだるさなども手伝って、それぞれが気の向くままに立ち去ってゆくのだった。冬には食堂が八時より前に完全に空になることは稀だった。八時には四人の女性だけが残っていて、女性であるがためにこの男達の集会の中にあっては沈黙を強いられていたことに対して仕返しをするのだった。ウージェーヌの何事かを思いつめた様子に興味をそそられたヴォートランは食堂に残っていた。しかし彼はまず外出するような様子を示し、いつものようにウージェーヌからは見られないような位置取りをして、彼にはもう出掛けたと思い込ませた。そして下宿人のうちで残っている連中を置いて立ち去る人達と共に出てゆくように見せかけて、彼は狡猾にも応接間に留まっていた。彼は既に学生の心の中を読み取っていて、決定的な兆候を予感していた。ラスチニャックは確かに自分の立場に当惑していた。それは多くの若者が当然経験すべきものだった。可愛いにしろ粋であるにしろ、ニュシンゲン夫人はあらゆる真の情熱の苦悶を通してラスチニャックを合格させた。しかも彼女は彼にパリでは有効な女性の外交術の源泉を示して見せた。ボーセアン夫人の従弟を自分の近くにいさせることで、公の目に自らの立場を危うくした後、彼女は彼が楽しんで過ごす権利を本当に与えてしまうことを躊躇した。一ヶ月にわたって彼女はウージェーヌの神経をじりじりとさせておき、最後に彼女は彼の心を嘗め尽くした。例えば、彼等の愛人関係の最初の頃なら学生は自分の方が主人だと考えたことだろう。ところが今ではニュシンゲン夫人はウージェーヌの中に良きにつけ悪しきにつけパリの若者が持つ二、三の特徴的感情があることを把握し、その感情を支配することによって、この愛人関係の主導権を握るようになっていた。これは彼女の計算のうちだったのだろうか? 違う。女というものは、たとえ彼女が最も不誠実な態度をとっている最中でも常に真実そのものなのだ。というのは、女達は何らかの自然な感情に屈服しているだけだからだ。恐らくデルフィーヌは突然意識しないままで、この若者によって大きな支配権をとらせてもらい、過分なまでの愛情を表明され、彼女はある種の威厳に満ちた感情に従ったまでなのである。その感情が彼女に譲歩をさせ、あるいは譲歩を撤回させ、あるいは譲歩を中断することを楽しませさえする。パリの女性にとって、まさに情熱が彼女を引きつける時、破滅に瀕して躊躇したり自分の行く末を打ち明けようとしている相手の心を彼女が試そうとするのは極めて自然である。ニュシンゲン夫人の総ての希望は彼女の最初の恋人によって裏切られ、彼女がその若いエゴイストに対して抱いた誠意は真価を認められなかった。彼女はもう少し疑り深くても良かったくらいだ。そして今、彼女はウージェーヌのやり方を見て、彼の短時日での成功はうぬぼれにつながってゆくであろうこと、つまり彼等の立場の奇妙さによって、ある種の軽視が引き起こされるであろうことを恐らく認識したようである。彼女は疑いもなく、この年齢の男の前に堂々として見せたいと、そして自分を棄てた男の前で長い間小さくなっていたその後で、新たな若者に対して自分が大きな存在となることを望んでいた。彼女はウージェーヌが彼女がそれまでド・マルセイの女だったことを知っているだけに、まさにそれ故に、ウージェーヌが彼女のことを尻軽女と考えないで欲しいと思った。結局、冷酷非情な貴公子から駆け出しの放蕩者との遊びに、楽しみを格下げすることを甘受した後、彼女は愛の花咲く区域を散歩する甘い喜びをいっぱい味わった。四方の眺めを嘆賞したり、長い間ざわめきに耳を傾けたり、清らかな微風にしばらく優しく撫ぜられるままにいたりすることは、彼女にとっては本当に魅惑の時であった。真の愛は後に不幸な報いを受ける。初めて嘘を知った時の衝撃が、若い女性の心の中の如何に多くの花をなぎ倒してしまうかを、男達が知らないでいる限り、この真逆の現象は残念ながら頻繁に起こり続けるだろう。その理由は何であれ、デルフィーヌはラスチニャックを手玉に取り、そして彼を騙して遊ぶのが好きだった。それは疑いもなく彼女が愛されているのを知っていて、恋人が悲しんでいる時、それを終わらせることも、気高く優しい女が享受すべき楽しみだと受けとめていたので、いつでも彼の心を晴らせる自信もあったからである。自尊心の強いウージェーヌは彼の最初の闘いを敗北に終わらせたくはなかった。そして彼は初めてのサン・ユベール[69]の祭りのための狩で、どうしてもヤマウズラを一羽仕留めたいと望む狩人のように愛の追求にこだわり続けた。彼の不安、彼の傷つけられた自尊心、彼の絶望、嘘であれ真であれ、それらが次第に彼をこの女性に結び付けていった。パリそのものが彼にニュシンゲン夫人を与えた。彼女の傍らにあって、彼は初めて彼女に会ったその日から少しも前進していなかった。愛というよりも損得ずくで時々差し出される女の媚態くらいしか経験しないまま、彼は馬鹿げた熱狂に落ちていった。女達がラスチニャックへの愛を競い、我が身を初物の獲物のように差し出す、そういう季節があったとすれば、彼女達からはまだ青く酸っぱい美味を味わえるのだが、同時にそれは極めて高価につくものであることを彼が学び始めた時期でもあった。時折、一文無しで未来もない自分を見て、彼は良心の声を聞きながらも、富を得る機会について考えてしまうのだった。かつてヴォートランはタイユフェール嬢との結婚によって幸運を掴めることを彼に明確に示してくれたものだ。彼は惨めさが極限にまで達したと感じる瞬間などは、いつの間にか、あの視線でもってしばしば人を恍惚とさせる恐るべきスフィンクスのような男、ヴォートランの策略にそのまま乗ってしまおうかとすら思うことがあった。ポワレとミショノー嬢がそれぞれの部屋へ戻っていった時、ラスチニャックは毛糸で袖を編みながらストーブの前でうつらうつらしているヴォーケ夫人とクチュール夫人の間にいて、他に誰もいないように思ったので、タイユフェール嬢の方を見た。彼の様子には彼女が思わず視線を下げてしまうような愛情がこもっていた。
「もしかして貴方は心配事がおありなんですか、ウージェーヌさん?」一瞬沈黙の後でヴィクトリーヌが彼に尋ねた。
「悩みのない人はいないでしょう!」ラスチニャックが答えた。「もしも、我々、この私達若者が、献身的な愛でもって十分に愛されていると確信出来るなら、その献身に対しては我々は犠牲で報いなければなりません。我々は常に犠牲を払う覚悟でいます。だから多分、我々は決してそれを悔やんだりはしないでしょう」
 タイユフェール嬢は総ての答えを込めた目で彼の方を見た。彼女の思いは余りにもはっきりと読み取れた。
「ああ、お嬢さん、貴女は自分のお気持ちを今日は確認しているとお感じでしょう。だけど、それが決して変わらないとお答えになれるでしょうか?」
 微笑が哀れな娘の唇の上を漂った。まるで彼女の魂から一筋の光が射して、彼女の姿をぱっと輝かせたようだったので、感情のかくも生々しい活動を刺激してしまったことにウージェーヌはたじろいでしまった。
「つまりこうですね! たとえ明日貴女が金持ちで幸福におなりになっても、たとえ大きな財産がそっくり貴女のものになっても、貴女はやはり貧しい若者を愛し続けられるのでしょうか、貴女の不遇の日々に気にかけていただいた若者を?」
 彼女は可愛らしく頭でうなづいた。
「全然運にも恵まれない若者をですか?」
 新たに同意のしぐさ。
「あんた達、そこで何馬鹿なこと言ってんの?」ヴォーケ夫人が叫んだ。
「放っといて下さい」ウージェーヌが答えた。「僕達、盛り上がってるところなんです」
「とすると、ウージェーヌ・ド・ラスチニャック卿とヴィクトリーヌ・タイユフェール嬢との間で婚約が取り交わされそうだってことかな?」突然食堂の入り口に現れたヴォートランが太い声で言った。
「あー! びっくりさせないで」クチュール夫人とヴォーケ夫人が同時に言った。
「僕はもっと悪い選択だってしかねませんよ」ウージェーヌは笑いながら答えた。ヴォートランの声が彼にこれまで抱いたことのないようなひどく残酷な感情を起こさせた。
「貴方達、悪い冗談はやめて!」クチュール夫人が言った。「娘は部屋へ戻ります」
 ヴォーケ夫人は二人の下宿人についていった。彼女達の部屋で過ごすことで、ろうそくと暖炉の火を節約するためだった。ウージェーヌは一人になって、ヴォートランと一対一で向き合っていた。
「私にはあんたの考えがよく分かっているよ」この男は動じることもなく冷静さを保って彼に言った。「だが聞いてくれ! 私は他の人と全く同じように繊細なところがあるんだよ、この私でもね。あんたは今すぐに決めないで欲しいんだ。あんたは普通の状態ではないからな。あんたには借金がある。私はあんたを私のところへ来させるものが情熱とか絶望とかであることを望まない。そうじゃなくて、それは理性であって欲しいんだ。恐らく、あんたには何千エキュという金が要るんだろう。ほら、あんたはそれが欲しいんだろ?」
 この悪魔はポケットの中の財布に手をやり、そこから札を三枚取り出し、学生の目の前でちらちらと見せた。ウージェーヌは実に残酷な立場に立たされていた。彼はダジュダ侯爵とド・トライユ伯爵に賭博で負けた分を口約束で借りていた。彼には返す当てがなかった。それで彼は行く予定をしていたレストー夫人の夜会にも、とても行く気がしなかったのだ。それは儀式ばらない夜会の一つで、そこでは可愛いケーキを食べたり、お茶を飲んだりするのだが、ホィストで六千フランも負けたりすることもあるという夜会だった。
「ヴォートランさん」彼に向かってウージェーヌは痙攣的な震えを辛うじて隠しながら言った。「貴方が僕に打ち明け話をしてくれた後、僕が貴方のお世話になるということは不可能だということは、当然、貴方に理解して頂けるものと思っています」
「おやおや! あんたが私を思いやって、もうちょっと違った風に話してくれたら」と誘惑者が答えた。「あんたは素敵な若者なんだがな、繊細で、ライオンのように烈しく、それでいて若い娘のように優しい。あんたが悪魔への美しい捧げものだったらなあ。私はあんたの若者らしい気質が好きなんだ。まだ二回でも三回でも高度な政治のことを考えてみることだ。そうすれば世の中のことをあるがままに見ることも出来るだろう。そこでは幾らかのちょっとした善行を施すことによって、上流階級の人間は一階後部座席の馬鹿な観客から大喝采を受けて、自分の気まぐれを完全に満足させるってわけだ。二、三日もすれば、あんたは私達のものだ。あー! あんたが私の弟子になりたいと思ってくれたら、私はあんたがなりたいような人間にしてみせる。あんたの希望はたちどころに叶えられるだろう、あんたがどんな目標を立てようとな、名誉、富、女……現代文明の代わりに神々の不死の薬をあんたには処方してやろう。あんたは我々の甘やかされた子供、我がベンジャミン[70]だ。我々はあんた一人にかかりっきりでへとへとになるだろう、それで結構楽しんでいたりするんだ。あんたの邪魔をする者は皆ぺしゃんこにしてやる。もしあんたが、まだためらいを持っているなら、あんたはやはり私のことを悪党と思ってるのかね? やれやれ! まあ、人間なんてものは、あのテュレンヌ元帥[71]にも劣らぬくらい誠実な人だと思われていても、自分が山賊と一緒に悪事を働いているなんて知らぬ間に、ちょっとした悪事に手を染めちまったりするんだな。あんたは私に借りを作りたくないんだ。そうだろ? 何がいけないって言うんだ」ヴォートランは微かに笑みを漏らしながら続けた。「この紙切れを取ってくれ、そしてここには私の名前を書いてくれ」彼は言いながら収入印紙まで取り出していた。「そしてそこには、こうだ。金三千五百フラン受領致しました。但し一年以内に返却致します。それに日付! 利息というのはとても意味がある、それでもってあんたの気持ちのやましさを取り除ける。あんたは私のことをユダと呼んで、それで、恩を受けたとかのこととはおさらばだと思うことが出来るんだ。私はあんたが今日これからでも私のことを軽蔑したってかまわないと思っている。やがて、あんたが私を好きになるのを確信してるんだ。あんたは私の中にあの恐るべき深淵を見出すだろう。あの広大な感情の集積を見るだろう。愚か者はそれを悪徳と呼ぶんだ。しかしあんたは私のことを決して卑劣だとか恩知らずだとかは思わないはずだ。つまり私は将棋の歩でもなければ角でもない。そうではなく、私は飛車なんだ、君!」
「貴方は一体何者なんですか?」ウージェーヌが叫んだ。「貴方は僕を苦悩させるために生まれてきたような人ですね」
「とんでもない。私はただの善良なおじさんさ。私は君がこれからの日々で泥にまみれないように、私が泥まみれになって保護してやりたいと思ってるんだよ。君はこんなに一生懸命の献身を、どうしてだと不思議に思ってるんだろ? そうだな、私はいつの日か、こっそりと君の耳の穴にその訳を話してやろう。私はまず最初に君に社会秩序の整然たる鐘の音と社会機構の動きを示したんだ。だが君には新兵が戦場に出た時のような烈しい恐怖心が起こるはずだ、そして君は、人間とは自らを神聖なる王であると宣言した者達のために死すべく運命付けられた兵士達のようなものだと、当然考えてしまうことだろう。時代はどんどん変わってゆく。かつて人々は勇者と呼ばれる人物に向かって言ったものだ。『ほら一〇〇エキュ渡しますよ。私に代わって、何々某という人物を殺して下さい』そして何かにつけて、ある人間を物陰に葬った後で、人々は平然として食事なんかしていたんだ。今日、私は君に立派な財産を提供しようと言ってるんだ。それには先頭のサインが要るんだが、それによって君は何らの危険を心配しなくともよいんだ。だが、君はためらっている。この世紀とは軟弱なもんだな」
 ウージェーヌは手形にサインして紙幣と交換した。
「さてと! ちょっと待て、理由を話そう」ヴォートランが言った。「私は何ヶ月かここをあけて、アメリカへ向けて発つ積りだ、私の煙草を植えに行きたいんだ。私は君に友情の煙草を送ろう。もし私が金持ちになったら、私は君を援助する。もし私が子供を持たなかったら――ありそうなことだ、私はここで挿し穂によって私に挿し木しようとするほど物好きではないからなあ――それでは! 私は君に私の財産を遺贈しよう。これは男の友情と言ってもいいんじゃないかな? そうさ、私は君が好きだ、私の方はな。私には一つの情熱があってね、誰か他者に献身したいというやつだよ。私は既にその一つはやったんだ。分かるかな、君、私は普通の人間が見ることの出来るよりも、もっと高度な世界を見てきたんだよ。私は行動は手段とみなしている。だから目的以外のものは見ないんだ。一人の人間とは私にとってなんだろう? これ!」彼は親指の爪で自分の歯をこつこつと叩いた。「人間なんてものは総てか無なんだ。ポワレなんて名乗ってみたところで、そんなもの無以下だ。南京虫のように押しつぶしちまえばいいんだ。やつは卑屈で悪臭がする。だが、君なんかを見てると、人間というのは神でもあり得ると思えてくるんだ。それは皮膚に覆われた機械に過ぎない、だがそこは、その中で最高に美しい感情が掻き立てられている劇場でもあるんだ。そこで私は感情を通してのみしか物事を見ない。一つの感情もある種の思想においては世界そのものたり得るんじゃないかな? ゴリオ爺さんを見てみろよ。彼の二人の娘は彼にとっては宇宙そのものだ。彼女達は一筋の道だ。彼は世界の中で、ひたすらそれを頼りに進んでいるんだ。さて! 私のことだが、真実の感情として残った唯一のものは男の友情だ。男に対するな。ピェールとジャフィエだ。これが私の情熱だ。私は“不滅のヴェニス”[72]の劇をほとんど暗誦して覚えている。君はこれまで、あのように本当に勇敢な男に会ったことがあるかね? それは仲間の一人がこう言う時だ。『さあ、遺体を埋葬しよう!』男はその時、一言も言わずに、また、お説教をたれて人をうんざりさせることもせず、黙って仲間について行くんだ。私はといえば、私にはそういうことがあった。私は全部が全部の人に向かって、こういうことを言う積りはない。ただし君は、君は特に優れた人物だ。私も君には何でも話せるし、君は完全に理解してくれる。君は泥沼でいつまでも泥まみれになっている人じゃないし、ここで我々の周りにいる連中のヒキガエルのような人生を過ごす人でもない。さあ! 私の言いたいことはこれだけだ。君は結婚するんだぞ。我々二人で思い切って行こうじゃないか! 私は鋼鉄のように強い、だから決してひるまない、ああそうだとも!」
 ヴォートランは学生を一人にしてやろうとしたのか、彼から否定的な答えが返ってくるのを待たずに出て行った。彼はこの小さな抵抗、人々が自分自身の前で身を飾らずにはおれないこの闘い、それらがあってはじめて彼等は自分達の非難さるべき行為を正当化することが出来ているという心の奥底までよく心得ているように見えた。
「やつが何を望んで何をやろうと、僕がタイユフェール嬢と結婚することは、まずないんだ!」ウージェーヌは思った。彼はこの男と恐怖を感じるような契約を交わしてしまったという想念にとりつかれ、体の中が熱を帯びて気分が悪くなった。同時にこの男の反世間的思想や世の中を包括的に捉える大胆さに目を瞠った。ラスチニャックは落ち着きを取り戻すと、服装を整えて、馬車を呼び、レストー夫人の許を訪れた。何日か前から、夫人はこの若者に対する思いを強めていた。この若者は一歩ごとに上流社会の中心に近づいていて、将来この社会で彼は恐るべき影響力を持つのではないかと見られ始めていた。彼はド・トライユ氏やダジュダ氏に借金を支払った。彼はその日の夜会でウィストをやり、彼が以前負けた分を取り返した。前途があって、大なり小なり運命論者であるような人の多くに似て縁起を担ぐ人間であった彼は、自分が良き道にとどまっている根気へのご褒美を幸運な時期に天から与えられることを望んだ。翌朝、彼は急いでヴォートランにあの為替手形はまだ手許にあるかと訊ねた。あるという返事を貰うや、彼は喜びを隠しきれない様子で、ヴォートランに三〇〇〇フランを返した。
「すべて順調だよ」ヴォートランが彼に言った。
「しかし、僕は貴方の共犯者ではありません」ウージェーヌが言った。
「わかった、わかった」ヴォートランは彼を遮って言った。「あんたは未だに子供っぽいところがあるんだな。あんたは入り口で詰まらんことにこだわってしまってるんだ」

 

 
 
 
 
(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja)の下で公開されています。
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2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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