ゴリオ爺さん バルザック

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 三 不死身
 
 その二日後、ポワレとミショノー嬢が植物園の人けのない遊歩道のベンチで日差しを浴びて坐っているのが見られた。そして彼等は医学生の目にある疑いを抱かせたのももっともだと思わせる風貌をした紳士を相手に何事かを話していた。
「マドムワゼル」ゴンデュロー氏が言った。「私には貴女がためらう理由が分かりません。王立警視庁の警視総監閣下は……」
「あー! 王立警視庁の警視総監閣下……」とポワレが繰り返した。
「はい、大臣閣下はまさにこれにかかりっきりなんです」ゴンデュローが答えた。
 ポワレはかつて役人で、疑いもなく市民道徳の体現者、それでいて思想は持たないといった人間だった。こういう男が、ビュフォン通の自称年金生活者の言うことに、いつまでも耳を傾けていることがあり得るなどと思う人が果たしているだろうか? しかもその年金生活者が実直そうな仮面の下から、イェルサレム通の警官[73]の顔を露わにし、警察という言葉まで口にしたこの時点においてである。しかしながら、実はこれ以上自然なことはなかったのだ。ポワレが愚者達の巨大な家族の中で、いかなるタイプの人間であるかということは、やがて誰の目にも明らかになってくるだろう。それは幾人かの観察者には既にマークされていたが、今日に至るまで公表されていなかったのだ。彼は国家公務員だった。彼は公務員階級の一番下位になる第一等級の身分で採用された。この階級の給与はグリーンランドの気候のようにお寒い一二〇〇フランだった。そしてこれが第三等級になると、給与も温暖地帯のように暖まって、三〇〇〇フランから六〇〇〇フランにまで上がってくる。この辺りではしばしば特別手当も出るので、難しいことだが、この環境に順応出来れば花を咲かせることも可能だ。この下っ端人間の身体障害があるかのような偏狭さを最も端的に露出せしめているところの特徴は、一種の機械的、無意識的、本能的な、総ての大臣や大僧正に対する敬意であろう。それは下っ端役人には、ほとんど読み取ることも出来ない署名と大臣閣下殿の五文字が相俟って、バグダッド王が使う“リル・ボンド・カニ”の呪文のごとく魔術的に引き起こされる。そしてそれはまた這いつくばった民衆の目には、神聖な権力を決定的に象徴することになるのだった。教皇がキリスト教徒にとってそうであるように、大臣閣下は公務員の目には、業務処理においてはまるで絶対的正義であるとさえ映るのだった。閣下が放つ輝きは、公務員達の行為、言葉、彼の名のもとに命じられる総ての事の上に伝わるのだった。彼は彼の刺繍編みを総て包括し、彼が命じる行為を総て合法化する。偉大なる彼の名は彼の意図の純粋性、彼の意欲の健全性を保証し、最も受け入れ難い思想への橋渡しともなるものだった。下っ端の連中が興味を持ってやるようなことでなくとも、彼等の大臣閣下が発した言葉を実現するためとあらば、彼等はいそいそと仕事にかかるものなのだ。役所には大臣閣下の武器として、命令を待つ職員達の忠誠が保管されている。いわば、良心を窒息させ、時と共に人を政治機構の中のボルト・ナットにしてしまい、人間性を排除し終わらせるようなシステムが出来ているのだ。ゴンデュロー氏もまた、氏自身は男らしい人として知られているのだが、ポワレを見て即座にその馬鹿げた官僚気質を見抜いていた。そして彼は機械的に神的効果のある、大臣閣下という魔術的言葉を、自分の正体を明かしつつ、ポワレの目を眩ませるその瞬間を逃さず発したのだった。彼の見るところ、ポワレはミショノー嬢の男として、またミショノー嬢はポワレの女のように映っていた。
「閣下と言われるからには、あー! 大臣閣下となると……話は変わってきますな」ポワレが言った。
「貴方、お聞きになりましたね。貴方はこの判断に信頼を置かれているようにお見受けします」偽の年金生活者はミショノー嬢にも注意を払いつつ更に続けた。「さあ、それではと! 閣下は今や非常に確実な証拠を持っておられる。それによると、ヴォートランと称してメゾン・ヴォーケに住んでいる男は、ツーロン徒刑場から逃亡した徒刑囚かと思われ、“不死身”の名で知られている男です」
「あー! 不死身!」ポワレが言った。「そんな名前が似合うなんて、ずいぶんと幸せなやつですね」
「全くです」警官が答えた。「その渾名は、彼がやった全くもって大胆不敵な犯罪行為の中で、彼が決して死ななかったという幸運のお陰で、彼に付けられたんです。あの男は危険なんです、貴方、ご存知ですかな! 彼はとんでもない事をやらかす性質の男です。彼に下された有罪判決は、彼の住む世界で無限の名誉を彼に与える、まさしくそういうものになっているんです……」
「いったいそれは栄誉ある男なんですか?」ポワレが訊ねた。
「彼なりにはね。彼は他人が犯した罪をかぶる事に同意したことがあります。文書偽造罪で、やったのはとても綺麗な若者で彼は非常にこの男を愛していました。若いイタリア人でとても博打好きだった。軍隊に入った時から仲間になったんですが、この若者には軍隊は全く合わなかったようです」
「しかし、警察庁大臣閣下がヴォートラン氏が不死身であることを確信なさっているのに、いったいどうして彼が私を必要としてるんですか?」ミショノー嬢が訊いた。
「あー! そうだ」ポワレが言った。「もし大臣が本当に、貴方が我々のところへお越し下さって言われたように、何らかの確信が……」
「確かな事は言葉ではないんです。ただ臭うんです。貴方も我々の疑問を理解するようになると思います。ジャック・コラン、渾名は不死身、この男は三つの刑務所の囚人達から全面的な信頼を得ていました。これらの囚人達は、彼を彼等の諜報員、そして彼等の銀行に選んだんです。彼はこの方面の商売に専念する事によって莫大な利益を得たんですが、この商売は当然著名人を要したってわけです」
「あー! あー! 分かりますよね、この語呂合わせ、マドムワゼル?」ポワレが言った。「この方は彼のことをマルクな人(著名人)と呼んだんだ、何故なら彼はマルケ(監視)されてるんだからね」
「偽名のヴォートランは」と警官が続けて言った。「徒刑囚諸氏から資金を受け取り、それを投資することもあれば、彼等に代わって保管も請け負った。そして逃亡する者がいれば、逃亡者が自由に使えるように資金を引き出した。また遺言によって家族に委譲された時は家族に、また妻宛に彼が手形を振り出した場合は妻に自由裁量の権利が与えられたんです」
「それぞれの妻にだって! 貴方は彼等の妻達のことまで話そうって言うんですか?」とポワレが指摘した。
「いや違います、貴方。徒刑囚というのは大体、同棲というだけの結婚なので、我々は内縁の妻と言っています」
「てことは、彼等はずっと内縁関係で行くって事ですか?」
「結果としてね」
「さてと!」ポワレが言った。「そろそろ旦那が痺れを切らすんじゃないかと心配ですな。貴方が大臣閣下にお会いになる以上、世の安寧に反して極悪事件を起こすああした輩の反道徳的行為を正道に導く光ともなる博愛的思想の持ち主と思われるのは、まさに貴方です」
「がしかし、政治は未だに彼等の前に美徳の全的な概念を提示することが出来ないのです」
「それはそうでしょう。そうは言っても、旦那さん、待って下さいよ」
「だけど、この人にとにかく話してもらいましょうよ、私の坊や」ミショノー嬢が言った。
「貴女は分かっておられる、マドムワゼル」ゴンデュローが答えた。「政府はある不正事件に手を入れるべきほどの巨大な利権を見つけ出すことが出来たんです。この捜査は非常に高い地位にまで及ぶと見られています。不死身は相当な金額を受け取り、彼の仲間から手に入れた分のみならず、更に“一万人社会”に属する金まで隠匿しているのです」
「一万人の盗賊!」ポワレがおびえて叫んだ。
「いえ、“一万人社会”はある種の高等悪徳商人の組合のようなもんで、そのメンバーは大規模な商売をするんだが、一万フラン以下の儲けの仕事は相手にしないといった手合いなんです。この組合はいつでも重罪院へ行きそうな、我々とかかわりのあるような輩の中でも目立つ存在であるような連中で構成されている。彼等は法規に詳しく、たとえ逮捕されても死刑を適用されるような危険は決して冒さないように心掛けているんです。コランは彼等の信頼を集めている人物であり、また相談相手でもあるんです。彼等の巨大な資金のお陰で、この男は自分用の警察や強い繋がりを拡大することが出来たので、干渉されることのない秘密のヴェールを拡大したのです。一年前から我々は彼の許へスパイを送り込んでいるんですが、我々は未だに彼の手の内を見ることが出来ないでいます。彼の資金と才能が実に途切れることなく、悪を売りさばくこと、犯罪で稼ぐことに寄与し、永遠に社会とは交戦状態である悪の主題を達成するための武器を常に臨戦態勢においておくことを可能にしました。不死身を逮捕し彼の銀行を奪うこと、それは悪を根元から切り倒すことになるんです。更にこの探索は国家的なもの、また高度に政治的なものになるかもしれないので、これの成功のために協力してくれた人には名誉が与えられる余地があるんです。貴方については、ご主人、新しく官公庁に雇用されるか、警察署長の秘書になられるかしても、その職業によって貴方の退職金を貰うことは少しも妨げられはしません」
「だけど、どうしてなんですか」ミショノー嬢が言った。「不死身はお金を持って逃げないんですか?」
「あー! 何処にもスパイがいっぱいいるんです。彼が何処に行こうと、彼が徒刑囚の金を盗んだとあれば、彼は彼を殺すように命じられた男に追い続けられるでしょう。それから金庫というのは、良家のお嬢さん一人を運ぶほど簡単には運べないんです。そのうえ、コランというやつは誰もが思いつくようなことをするのが苦手で、そんなのは自分にとって恥だと思ってるんです」
「旦那さん、おっしゃるとおりです。それでは彼の面目は丸つぶれです」
「その言い方だと、まるで貴方が彼の心を良く読めてた様に聞こえるけど、とてもそうは思えないわ」ミショノー嬢が言った。
「まあまあ! マドムワゼル、私が答えましょう……しかし」彼は彼女の耳にささやいた。「貴女の彼が私の話の邪魔をしないように頼みますよ。でないと我々はいつまでたっても終われませんから。あの年寄りが、人に話を聞いてもらうためには大きな財産でも持っていなけりゃならないんです。不死身、あの男はここへ来る時、実直な男の仮面を被ってきたのです。彼はパリの良き中産階級の人間に変身したんです。彼は正体不明のままで、ある下宿屋に住み始めた。彼は気がきく、本当に! 誰も彼以上に人を気遣うことなど出来なかった。そしてヴォートラン氏はなかなかの尊敬を集め、かなり大きな事業を手がけているものと思われた」
「そりゃそうだろう」ポワレはそう思った。
「警察はもし我々が本物のヴォートランを逮捕する時、パリの商業界や公共の意見を敵にまわしたいとは思っていません。警視総監は足元がぐらついていたし、敵も何人かいた。もしも失敗があったら、彼の後釜を狙っている連中は自由に喚く声やぎゃあぎゃあ叫ぶ声を利用して彼に飛びかかろうとするでしょう。ここはコニャール[74]、あの偽のサンテレーヌ伯爵の事件にならってことを進めることが大切です。我々があの件については適切であったとは言い切れないですがね。それはまた確認すればよろしい!」
「はい、だけど貴方には綺麗な女性スパイが必要ですわ」ミショノー嬢が快活な声で言った。
「不死身は女を近づけないようにしてるんです」警官が答えた。「秘密を教えましょう。彼は女性を愛さないのです」
「だけど、それだと私には余計に分からないのですけど、何故私がこうした件の証言にちょうど良いのでしょうか、私が二千フラン貰って、ある憶測の裏づけのため働くことに同意しなければならないんでしょうか」
「こんな簡単なことはありませんよ」見知らぬ男が言った。「私は貴女に一回の服用量のリキュールが入った小瓶を手渡します。これを飲むと脳出血のような症状が出るんですが全く危険はなくて、それでいて卒中のように見えてしまうんです。この幻覚剤はワインにでもコーヒーにでも同じように溶け込めるんです。貴女は直ぐに件の男をベッドに寝かせ、彼が死にかかっているのかどうか調べるために彼の服を脱がせるのです。そして誰も見ていない時、彼の肩を一発叩いてください、ぴしゃ! すると貴女はそこに文字が浮き出てくるのを見るでしょう」
「しかし、それはちっとも簡単じゃないね、それは」とポワレが言った。
「そこでです! 貴女は承知してくださいますか?」とゴンデュローがハイミスに言った。
「だけれど、貴方」ミショノー嬢が言った。「もしも文字なんて一つも出てこなかった場合ですけど、私は二千フランいただけるんでしょうか?」
「駄目です」
「それじゃ、何か手当てはあるんですか?」
「五〇〇フランは出ます」
「これだけのことをやらしておいて、たったそれだけですか。悪は良心の中でいつまでも悪として居続けることでしょう。そして私は私の良心の痛みに苦しみ続けることになるんですよ、旦那様」
「私ははっきり言いますよ」ポワレが言った。「このマドムワゼルはとても良心的な人なんです。言うまでもなく、とても愛想のいい人なんだが、それのみならずですよ大変たしなみもある方なんです」
「それでは!」とミショノー嬢が言った。「もしそれが不死身だったら、私に三千フラン下さい。そしてもし、それが唯の市民だったら一銭も要りません」
「いいでしょう」ゴンデュローが答えた。「しかし条件は明日やるということです」
「まだご返事出来ません、旦那様、私は告解師に相談しなければなりませんから」
「ずるいですね!」警官は立ち上がりながら言った。「それでは明日。それで、もし貴女が早く私に話したいと思ったら、サンタンヌ通へおいでなさい。そしてサントシャペルの庭のはずれですよ。入り口は丸天井の下に一個あるだけです。ゴンデュローの名前で尋ねてきて下さい」
 ビアンションはキュヴィエ庭園を通って帰ってきて、まったく聞きなれない“不死身”という名前が耳に飛び込んできたので見ると、それが高名な警視庁課長の口から出たものだと分かった。
「どうして決心出来ないんですか。これは三〇〇フランの終身年金になるんですよ」ポワレがミショノー嬢に言った。
「何故ですって?」彼女が答えた。「だって、じっくり考えなきゃならないところですもの。仮にヴォートランさんがその不死身だとしても、それでも彼とは交渉した方がずっと良いのではないかしら。だけど彼にお金を要求するとしても、それは彼に前もって報せてしまうことになるので、そしたら彼はただでずらかってしまうでしょうね。最悪の結果ね」
「彼が前もって報らされるとして」ポワレが答えた。「あの先生は我々に向かって、彼が監視されていたと言わなかったかね? だが貴女、貴女は一銭も儲からないんだよ」
「そもそも」ミショノー嬢は考えた。「私はあの正体不明の男なんて嫌い、あの男! 彼は私に面倒な事しか言わないんだから」
「しかし」とポワレは続けて言った。「貴女はきっと上手くやれるはずだ。あの人はきちんとした身なりをしていたし、とても信頼出来そうに思えたので、彼の言うようにやれば、それは社会から犯罪をなくしてしまおうという遵法精神にのっとった行為だし、とにもかくにも高潔な行為には違いないのではないかな。相手は生まれついての悪党なんだろう。もしかして、あのヴォートランのやつ、我々を皆殺しにしようなんて思ってるんだろうか? まあ何て悪党だ! 我々はその殺戮を防げなければ、いくらかの責任があるだろうな、おまけに我々自身がその最初の犠牲者だときている」
 ミショノー嬢の関心事はポワレの口から一つずつ出てくる言葉から聞くことは出来なかった。まるで締りの悪い噴水の蛇口を通って滲み出てくる水の一滴一滴のようなものだった。ひとたびこの老人が話し始めると、ミショノー嬢が彼を止めない限り、彼は話し続けた。まるで音量を上げた機械のようであった。まず最初の主題に取り掛かった後、彼は自分が入れた余談につられて、主題を全く反対の方向に向けてしまって、結論は出さないままにしておくのだった。メゾン・ヴォーケに着く頃、彼の際限なく続く話は過去のある時期に彼が臨時の召喚状を裁判所から受け取った事件のことに及んでいた。そこから彼の話は裁判所で証人として供述をさせられたという事件に入り込んでいた。それは有名なラグロー氏とモラン夫人[75]の事件で、彼はモラン夫人の嫌疑を晴らすために弁護側の証人として出頭したのだった。
 彼等がメゾン・ヴォーケへ入っていった時、下宿の仲間達は皆、ウージェーヌ・ド・ラスチニャックがタイユフェール嬢となにやら親密な会話にふけっているのに気づき、彼等の興味がもっぱら二人の若者に集中していたので、二人の年取った下宿人が食堂を横切っていった時、このカップルに注意を払う者はいなかった。
「あの二人はめでたしめでたしになりそうね」ミショノー嬢がポワレに言った。「あの人達一生懸命色目使いあって、この八日間、魂を奪われたみたいだわ」
「そうだね」彼が答えた。「彼女もまた有罪になった」
「誰?」
「モラン夫人だ」
「私はヴィクトリーヌ嬢のことを貴方に言ったのよ」ミショノー嬢は割合無頓着な様子でポワレの部屋へ入ってきながら言った。「だのに貴方はモラン夫人のことを答えてるんですもの。一体何ですか、その女の人って?」
「一体どうしてヴィクトリーヌ嬢まで罪があるなんて言うんだい?」ポワレも尋ねた。
「彼女はウージェーヌ・ド・ラスチニャック氏を愛するという罪を犯してしまったわ。そして、それがどんなことになるかも知らずに大胆に前進している。可哀想に何も知らないで!」
 ウージェーヌは午前中ずっとニュシンゲン夫人のお陰で、絶望的気分に陥っていた。彼は内心では完全にヴォートランに身を委ねていた。しかもこの不思議な男が彼に見せた友情の意図するところも、ある種の提携の前途のことを考えたいとも彼は思わなかった。彼が既に一時間前から足を踏み入れている深淵から引き上げてもらうには、タイユフェール嬢と最高に美味しい約束を交わすという奇跡を待つより他はなかった。ヴィクトリーヌは天使の声を聞いたように思った。天国が彼女の前に開けて、メゾン・ヴォーケは夢のように彩られて、装飾もまるで豪華な劇場を思わせるものだった。彼女は愛している。彼女は愛されている。彼女は少なくともそう思っていた! そして、彼女がラスチニャックに会って、この数時間、この下宿のアルゴス[76]のような連中の目を逃れて、彼の話を聞いた時に思ったようなことを、いかなる女性でも同じように思わずにはいられないのではないだろうか? 彼は自身の良心に問い続け、自分が悪を行ってきたことを自覚し、なおも悪を行うことを望みながら、一人の女性の幸運にすがって自身の小さな罪を償おうと考えていたのだ。彼女の目に彼はその絶望感により内面的美しさまでにじませ、彼が心の中に抱く地獄の炎のによって一段と光り輝いて見えるのだった。彼にとって幸運なことに奇跡は起こった。ヴォートランが楽しげに入ってきて、彼の悪魔的な才能の術策によって結びつけた二人の若者達の心を読み取った。しかし彼は太い声でからかうように歌い始めて、二人の楽しい気分を突然乱したのだった。

私のファンシェットはチャーミング
彼女が素直でいる限り[77]

 ヴィクトリーヌは彼女がそれまでの人生で味わった不幸と同じくらいの幸福を抱いたまま、その場から立ち去った。哀れな少女! 手を握られること、彼女の頬がラスチニャックの髪に軽く触れられ、一つの言葉が彼女の直ぐ耳許で言われたものだから、彼女は学生の唇の熱を感じた。彼の震える腕から伝わってくる彼の胴体の圧力、彼女の首筋にされたキス、それらは一緒になって彼の情熱を演出したので、でぶのシルヴィが隣室にいるということが、この輝かしい食堂に彼女が入ってくる恐れを掻き立てていたが、そのことが逆に過去の名高い愛の物語の中で語られた献身の美しい証しよりも、彼の情熱をもっと燃えるような、もっと活き活きとした、もっと魅力的なものに感じさせるのだった。先人達が描いた見事な表現で飾られた女の同意を示すメニューは、毎月十五日には告解をしていた彼女のような敬虔な若い娘に対しては実に罪深い代物だ! この時の彼女は魂の財宝のありったけを与えてしまったが、後の富裕で幸福になった時の彼女なら、このように感情に身を任せて総てを打ち明けるようなことはしなかったに違いない。
「もう成功間違いなしだ」ヴォートランがウージェーヌに言った。「我等の伊達男二人は闘うんだ。総て順調だ。見解の相違は埋めようがなくてね。あの愛すべき鳩君が何を思ったのか私の友人の鷹に決闘を申し込んだんだ。明日、クリニャンクールの角面堡で。八時半にタイユフェール嬢は、彼女の父親の愛と資産を相続することになる。その間、彼女はここにいて、静かにバターつきのパンをコーヒーに浸けて食べてりゃいいんだ。何か変なところあるかね? このタイユフェールの坊やは剣が強くて、また、ポーカーのフォーカードを手に持っているかのようにいつも自信満々のやつなんだ。しかし、彼だって、私の編み出した剣の一撃で切り殺すことが出来る。どうするかって、剣先を急に持ち上げて相手の額を突き刺すんだ。私は君にその突きを見せてやろう、そりゃあ恐ろしいほど良く決まるんだ」
 ラスチニャックはぼんやりした様子で聞いていて、何も答えなかった。この時、ゴリオ爺さん、ビアンション、その他の何人かの下宿人達がやってきた。
「ほら私が君に望んでいた通り」彼に向かってヴォートランが言った。「君は自分のやるべきことは分かってるだろう。いいな、可愛い鷲君! 君は人々を支配するんだ。君は強く、率直で、頑健だ。私は君を買ってるんだ」
 彼はラスチニャックの手をつかもうとした。ラスチニャックは自分の手を勢いよく引っ込めた。そして椅子に青ざめて座りこんでしまった。彼は目の前に血の池を見る思いがした。
「あー! 我々はまだ相変わらず小いちゃな道徳のしみが付いたおしめをつけているようだな」ヴォートランが低い声で言った。「ドリバンの父っあん[78]は三〇〇万フランを持ってるんだぜ。私は彼の財産を知ってるんだ。持参金を見れば、君もまるで結婚衣装のように真っ白になるだろうぜ、自分の目が信じられないくらい真新しい人間になってるんだ」
 ラスチニャックはもはや躊躇しなかった。彼は今晩中にタイユフェール氏のところへ行って、彼の息子になることを報せようと決意した。この時、ヴォートランは去ったが、ゴリオ爺さんが彼の耳にささやいた。「貴方は悲しそうですね、そうでしょう! 私が貴方を陽気にしてあげましょう、私が。いらっしゃい!」そして老製麺業者はランプで彼のネズミ部屋を明るくした。ウージェーヌは好奇心でいっぱいになって、彼について入った。
「貴方の部屋へ行きましょう」爺さんが言った。彼はシルヴィに学生の部屋の鍵を借りて持っていた。「貴方は今朝、彼女が貴方を愛してないと思ったでしょう、どうです!」彼が言った。「彼女は貴方を力づくで追い出した、そして貴方はそれに立腹して、すっかり絶望的になってしまった。馬鹿な娘だ! 彼女は私を待っていたんだ。分かりますか? 私達はアパルトマンの飾り付けの手配を完了させなければならんのです。貴方は三日後にはここを出て、そちらへ移り住むんだから。私を裏切らんで下さい。彼女は貴方を驚かせたがっている。だが私はこれ以上貴方に秘密を隠しておけないんです。貴方はアルトワ通に住む。サンラザール通の直ぐ近くです。そこでの貴方は、まあ王子様ですな。私達は貴方に、まるで花嫁のためのように家具を揃えましたよ。この一ヶ月、私達はずいぶんなことをやりました。これも貴方に何も不満が残らないようにと思ったのでね。私の代訴人は手続きを始めています。娘は年に三万六千フランを手にするでしょう。彼女の持参金に対する利息です。そして私は彼女の八〇万フランを良質の債権に投資するように強く要請する積りです」
 ウージェーヌは黙って歩き回っていた。腕を組んで同じところを行ったり来たりして、彼は自分のみすぼらしい寝室の中ですっかり混乱していた。ゴリオ爺さんは学生が彼に背中を向けている瞬間を捉えて、暖炉の上に赤いモロッコ革に包まれた箱を置いた。箱には金色に彫りこまれたラスチニャック家の紋章があった。
「ねえ」哀れな爺さんが言った。「私はこれに夢中で首までどっぷり浸かってますよ。しかし、こうなんですよ、私は結構エゴイズムで動いていて、私は貴方が住む町を代える事に興味があるんです。貴方は私を拒絶したりされんでしょう、ね、そうでしょ! 例えば私が貴方に何かをお願いしたとしても?」
「貴方は何をお望みなんですか?」
「貴方のアパルトマンの上、六階に寝室が一つあって、それは付属しているんだが、私はそこに入りたいんですがね? 私は年寄りだ。私は娘達を訪ねるにも遠過ぎる。私は貴方に迷惑をかけたくない。ただそこに居たいだけだ。貴方は毎晩彼女のことを私に話してくれるだろう。そんなことが貴方には不愉快になるだろうか、言って下さい? 例えば貴方が帰ってきたとする。私はベッドに入っているので、私は貴方の様子に耳をそばだてている。私は思うんだ。彼はたった今、私の可愛いデルフィーヌに会ってきたんだ。彼は彼女を舞踏会へ連れて行った。彼女は彼のお陰で幸せだ。もし私が病気になったら、それすら私の心に慰めを与えてくれるだろう。それは貴方の帰ってくる音を聞いたり、貴方がまた静かになったり、出て行ったり、貴方には私の娘との沢山の関わりがある! 私がシャンゼリゼに行くにも、そこはほんの直ぐ近くだ。そこで彼女は一日中過ごしている。私は彼女達と毎日会うだろう。その一方で、私は何回か遅刻もする。そして彼女は恐らく貴方のところへ来るでしょう! 私は彼女の声を聞く、私は翌朝には部屋着姿の彼女に会う、彼女はまるで子猫のようにチョコチョコ動き回り、可愛らしく歩く、彼女はこの一ヶ月来、昔の彼女に戻ったみたいです。若い娘らしく、陽気で粋な感じです。彼女の心は今、回復期にあります。彼女が幸福になれたのは貴方のお陰です。あー! 私は貴方には感謝しきれないくらいです。彼女は私にいつも繰り返し言うんです。『パパ、私はとても幸せだわ!』娘達は儀式ばって言う時には『お父様』と言って私の気持ちを冷やすんです。しかし娘達が私をパパと呼んでくれる時には、また小っちゃい頃の彼女達に会っているような気持ちになるんです。彼女達は私に思い出を総て返してくれるんです。私はよほど父親らしい気持ちになれるんです。私は彼女達のことを人間以上のものと思っています!」爺さんは目のあたりをぬぐった。彼は泣いていた。「私があの言葉を聞かなくなってから長いです。おー! そうだ、私が娘のどちらかと並んで歩かなくなってからも、ざっと十年は経ってしまった。彼女の服に体をこすり付けたり、彼女の後に従ったり、彼女と一緒に熱くなったりすることって良いものですよ。結局、私は今朝、デルフィーヌをあらゆるところに連れてゆきましたよ。私は彼女と一緒に何軒かの店を回ったもんです。そして私は彼女を家まで送っていったんです。あー! 私を貴方の傍においてください。いつか貴方は誰か自分に尽くしてくれる人間を必要とするでしょう。私こそ、そこで役に立つのです。あー! あのアルザス人の太っちょがくたばってくれたら、やつの血が逆流して胃が痙攣しちまえばなあ、私の可哀想な娘、彼女も幸せになれるんだがなあ! 貴方はそうすれば私の婿殿になるんだ、貴方は天下晴れて立派な彼女の夫になれるんだ。くそっ! 彼女は何だってこう不幸せなんだ、だってそうだろ、彼女はこの世の喜びなんて何一つ知らないんだから、私は彼女の罪は総て許してしまうんです。正しき神は誰よりも深く愛する父の側に立って当然なんです。彼女は貴方をすごく愛している!」彼は一呼吸おいた後、頭で頷きながら言った。「行く途中ずっと彼女と私は貴方のことを話していたんです。『そうじゃない? お父様、彼っていいでしょ! 彼は良い心の持ち主だわ! 彼は私のこと話してた?』何と彼女は私にずっとそんな調子で話してたんです。アルトワ通からパノラマ道路に至るまで、ずいぶんな量だった! 要するに彼女は自分の心の中にあったものを全部、私の心の中に注いだんです。この幸せな午前中ずっと、私はもう老人という気はしなかったし、心はまるで羽のように軽く感じられました。私は貴方が私に千フランの札を預けたことを言った。おー! 可愛い娘、彼女はそれに感動して涙を流しました。あの暖炉の上に置いてある物は何ですか?」じっとしているラスチニャックを見ていて、どうにも我慢しきれなくなったゴリオ爺さんがとうとう言った。ウージェーヌは全く不意を突かれて呆然として隣人を見た。ヴォートランによって翌日の予定を告げられたあの決闘は、ウージェーヌが描いていた高貴な希望の実現とは激烈な対照をなしていたので、今の彼はまるで悪夢にうなされているような気持さえするのだった。彼は暖炉の方を振り返り、そこに小さな四角い箱を見つけて、それを開いた。そしてその中にブレゲ製の時計が紙に包まれているのを見つけた。その紙の上にはこんな言葉が書かれていた。〈私は貴方にいつも私のことを思っていて欲しいのです、何故なら……デルフィーヌ〉
 この最後の言葉は疑いもなく彼等の間でそれ以前に起こった場面について言及したものだが、ウージェーヌはほろりとしてしまった。彼の家の紋章は箱の金箔の中にちりばめられていた。この珠玉の作品は本当に長い間の憧れだっただけに、鎖、鍵、細工、デッサンの総てが彼の望みにかなっていた。ゴリオ爺さんはこれ以上ない晴れやかな表情だった。彼は疑いもなく娘からウージェーヌへの贈り物が起こした驚きのどんな小さな効果も、彼女に語って聞かせることを彼女に約束していたに違いない。何故なら彼自身はこうした若者の感動については部外者であって、一緒に感動しているとは見えなかったからだ。彼は既にラスチニャックを愛していた。そしてそれは娘のためであり、また彼自身のためでもあった。
「貴方は今晩彼女に会いに行かれるんでしょう。彼女は貴方を待ってます。太っちょのアルザス男は、お気に入りの踊り子のところで食事します。あーあ! 私の代訴人が奴さんの痛いところをずばりと突いた時は、やつはもう相当面食らってたなあ。やつは娘を偶像のように愛してるとか言ってたんじゃないかな? もしやつが娘に触れたりしたら、私はやつを殺す。私のデルフィーヌに何か……(ここで爺さんは溜息をついた)酷いことを考えると、私は犯罪を犯してしまいそうなんです。しかし、それは殺人ではないんです。やつは豚の体に子牛の頭を載せただけのものですからね。貴方は私がこんなことを言っても面白がって受けとめてくれるのではありませんか?」
「はい、我がゴリオ父さん、貴方がもうご存知のように私は貴方を愛してます……」
「分かってます。貴方は私のことを恥ずかしいなどとは思われていない、貴方はね! 貴方をしっかりと抱かせてください」そして彼は学生を両手で抱き締めた。「貴方は娘をうんと幸せにしてやって下さい。約束ですよ! 貴方、今夜行くんでしょう、そうでしょう?」
「おー、そうです! 私はどうしても延期出来ない用事があって、出かけなければなりません」
「何か私でお役に立つことありませんか?」
「もちろん、あります! 私がニュシンゲン夫人の家へ行ってる間に、親父のタイユフェール氏のところへ行って、夜会で私が彼と一時間話せるように時間をくれるように言っといてもらえませんか? 彼とは野暮用で話さねばならないんです」
「えっ、それは本当ですか、貴方」ゴリオ爺さんは顔色を変えて言った。「貴方は彼の娘に言い寄ってたんではないんですか、下にいる例の下らない連中の話によるんですが? くそっ! 貴方はそれこそが、まさにゴリオの銃眼ともいうべきものだと知らないんですね。そしてもし貴方が私達を騙したとすると、これは一発拳固をお見舞いしなければなりません。おー! そんなことはあり得ない」
「私は貴方に誓います、私はたった一人の女性しか愛さないことを、私はそのことをたった今知ったんです」
「あー、何と言う幸せだ!」ゴリオ爺さんが叫んだ。
「しかし、タイユフェールの息子が明日決闘するそうです。そして私は彼が殺されるだろうと聞いています」
「それが何か貴方に関係あるんですか?」
「勿論、彼に息子を決闘に行かせないようにすべきだと伝えなければなりません……」ウージェーヌは叫んだ。
 この瞬間、彼はヴォートランの声によって遮られた。彼の足音が戸口に近づくのが聞こえ、そこで彼が歌った。

おー、リシャール、おー、私の王!
世界は貴方を見捨てた……[79]
ブルン! ブルン! ブルン! ブルン! ブルン!
私は久しく世界をさまよった
そして誰もが私を知っている……
トラ、ラ、ラ、ラ、ラ……

「皆さん」クリストフが叫んだ。「食事が出来ました。どうぞ食卓へ」
「おや」ヴォートランが言った。「私のボルドー・ワイン一瓶を誰か持っていったな」
「あれは綺麗だと思いますか、あの腕時計ですよ?」ゴリオ爺さんが言った。「彼女は趣味がいいでしょ、そうでしょう!」
 ヴォートラン、ゴリオ爺さん、それにラスチニャックは一緒に降りていった。そして彼等は遅れていったものだから、おのずから食卓では互いに隣り合わせに坐ることになった。ウージェーヌは夕食の間中、ヴォートランの様子に最大の注意を払って見た。ヴォーケ夫人の目にあれほど人好きのするこの男が、それまでには決して見せたことがないようなセンスを披露してくれた。彼は終始才気をきらきらさせて、会食者の皆を元気にしてくれた。その自信と冷静さはウージェーヌを驚嘆させた。
「今日はまた上手い商売で儲かったのかしら?」ヴォーケ夫人が尋ねた。「貴方はずいぶんご機嫌がいいのね」
「私は良い仕事をした後はいつでも陽気だよ」
「お仕事って?」ウージェーヌが訊いた。
「そうだな! うむ。結構な口銭で商品の一部を引き渡すことが出来たんでね。ミショノーさん」と彼はハイミスが彼のことをじっと探るように見ているのをちらと見て言った。「私の姿を見てると何か貴女の気に入らない特徴でもあるんですか、それで貴女はアメリカ人のような目で私を見るんですか? それは言ってくれなきゃ! 私は貴女に気分よくしてもらうためにはそいつを改めるようにしましょう」彼は老役人を横目で見ながら言った。「ポワレ、我々はそんなことで仲違いはしませんよね、どうですか?」
「貴方って実に恰好いいなあ! 貴方はほら吹きヘラクレスのポーズをとっても似合うでしょうね」若い画家がヴォートランに言った。
「確かにそれはいい! もしミショノー嬢がペールラシェーズのヴィーナスのポーズをとってくれるのならの話だが」ヴォートランが答えた。
「で、ポワレは?」とビアンションが言った。
「おー! ポワレはポワレのポーズだ。それは庭のテントウムシだろうな!」ヴォートランが叫んだ。「彼の先祖はポワール(梨)だよ……」
「古くて腐った!」ビアンションが付け加えた。「そういうことなら、貴方は梨とチーズのデザートでくつろげるってわけですね」
「それくらいにして! 馬鹿話は」ヴォーケ夫人が言った。「それで貴方、私達の方へボルドー・ワインを回してくれないかしら、ちょっと瓶の頭が見えたのでね! それはお腹の足しになるし、私達も楽しい気分でいられるからね」
「皆さん」ヴォートランが言った。「会長である奥様が秩序を取り戻すように我々に言って下さった。クチュール夫人とヴィクトリーヌ嬢も我々の滑稽な議論に気を悪くされることもなさそうだ。しかし、ゴリオ爺さんの素朴さを見習おうじゃないか。私は貴方にボルドー・ワインの小瓶を一本差し上げよう。シャトー・ラフィット[80]のワインだ。政治的な話は慎むが、フランス銀行総裁もラフィットだな。おーいチャンコロよ、来てくれ!」彼はまだろうそくを灯けてなかったクリストフの方を見ながら言った。「ここだ、クリストフ! お前は何だって自分の名前が聞こえないんだ? チャンコロめ、飲み物を持ってくるんだ!」
「お持ちしました、旦那様」クリストフが彼に瓶を差し出して言った。
 ウージェーヌとゴリオ爺さんのグラスにワインを注ぎ足した後、二人の隣人が飲んでいる間に、彼はゆっくりと自分のグラスにも少しだけ注いで、それを味わうように飲んだ。が、突然彼が顔をしかめた。
「何だ! 何だ! コルクの臭いがする。これをお前飲んでみろ、クリストフ、それからな、も一度行って、もっと持って来るんだ。右側だったかな? お前知ってるだろう。我々は十六人だ、八本下ろすんだ」
「あなたが気前良くワインをおごってくれるんだから」画家が言った。「私は栗百個分はお支払いしましょう」
「おー! おー!」
「ぶー!」
「ぷるるー!」
 めいめいが発する叫び声が、飾り燭台から花火が打ち上げられるように飛んでいった。
「よーし、ヴォーケのママ、シャンパン二本はママのだったね」ヴォートランが彼女に向かって叫んだ。
「はあ、その通りだわ! あたしのものなら、どうせならこの家のことを言えないの? シャンパン二本! でも、それ一二フランするのよ! あたしはそれだけ稼げないわ、駄目ね! でも、もしウージェーヌさんが、その分払ってくれるんなら、カシスなら、お出し出来ますけどね」
「ほらこれが彼女が言ったカシスだ。カラマツの脂と同じように下剤作用があるんだ」医学部学生が声を落として言った。
「君ちょっと黙っててくれないか、ビアンション」ラスチニャックが叫んだ。「僕は松脂のことを話されるだけで心臓が……あ、はい、シャンパンの件はいいですよ。それは僕が払います」学生は付け加えて言った。
「シルヴィ」ヴォーケ夫人が言った。「ビスケットとショート・ケーキを出して」
「貴女のショート・ケーキはちとでか過ぎますね」ヴォートランが言った。「あれはカビが生えてる。だが、ビスケットの方は頂きましょう」
 ちょうどこの時、ボルドー・ワインは回されていて、会食者達は活気付いて陽気な気分は倍加していた。それは激しい笑いの最中だった。突然何か様々の動物の声のようなものが鳴り響いた。博物館員は思わず恋する猫のにゃーごと泣く声にも似たパリの鳴き声を再生してみたい気を起こした。直ちに八つの声が同時に次のような文句をがなり立てた。「包丁とぉーぎ!」「栗の実ぃの小鳥だよー!」「さあ奥さん、ワッフルはいかが、さあゴーフルだよ!」「陶器の修理ぃー!」「殻から剥きたての牡蠣だよー、牡蠣だよー!」「女房に負けるな、服にも負けるな!」「古着ぃー、古飾りぃー!」「古帽子、売りまーす!」「甘ーい、甘ーい、さくらんぼー!」棕櫚の枝の栄誉は、ビアンションの鼻にかかったアクセントのこの呼び声に与えられた。「傘屋でござーい!」
 やがてこれらの声がうんざりさせるような騒音になり、話題が次々に飛躍する会話になり、ヴォートランがオーケストラの指揮を執る本物のオペラとなった。しかし彼は、既に酩酊状態のウージェーヌとゴリオ爺さんの監視も怠らなかった。この二人は背中を椅子にもたせ掛けて、いつにない混乱を重苦しい様子でじっと見つめていた。彼等は少し飲んだだけだった。この二人は今夜中にやらねばならないことに完全に気を取られていた。しかしながら彼等はまるで立ち上がることも出来ないような気がしていた。ヴォートランは彼等の様子をはたで観察しながら、彼等の顔色の変化を追って、彼等の目が揺れ動き、目を閉じてしまいそうに見えた瞬間を捉え、ラスチニャックの耳許に身をかがめて、こう言った。「おい君、君は君のヴォートラン・パパと戦えるほど、そんなにずる賢くはないんだ。その上、彼は君が馬鹿な真似をするのを放っておくわけにはいかないんだ、とても君が好きなんでね。私がことを決めたからには、私の道を阻めるような強者は神以外にはいないんだ。あー! 君はタイユフェール爺さんに前もって知らせてやるつもりだった。ほとんど小学生並みの間違いをしでかすところだった! かまどは熱い、小麦粉も捏ねられている、パンは木べらにもう乗っている。朝には、我々は焼き上がったパンにかぶりつき、その勢いでパン粉は我々の頭より高く舞い上がるっていうんだ。なのに、我々はパンをかまどに入れるのをやめちまうのかい? いやいや、そうはさせない、全部焼けるだろう! もし君に何か小さな後悔があっても、美味いパンを食っていれば忘れちまうさ。我々がちょっと昼寝でもしている間に、大佐フランシュシニ伯爵が彼の剣先を操って、ミッシェル・タイユフェールの財産相続の件の行方を決めてくれるさ。君にも成り行きが分かるだろう。兄からの財産を相続すると、ヴィクトリーヌは一万五千フランの年金の所有者だ。私が既に聞いた話では、更に母からの相続額が三〇万フラン以上[81]に達する……」
 ウージェーヌは彼の言葉を聞いていたが、返事することが出来なかった。彼はまるで舌が口蓋に張り付いてしまったように感じた。そしてどうにも耐えられないような眠気に襲われた。彼は光の輝く霧を通してテーブルや会食者の姿をやっと見ることが出来るだけだった。やがて物音が静まり、下宿人は一人また一人と去っていった。そしてもう、ヴォーケ夫人、クチュール夫人、ヴィクトリーヌ嬢、ヴォートラン、それにゴリオ爺さんしかいなくなった時、ラスチニャックは何か夢うつつの間に、ヴォーケ夫人が真新しい瓶に置き換えるために、飲み残しのある瓶をつかんでは、それを空にすることに専念しているのに気がついた。
「あー! みんな頭が変なのかしら、ったく若いんだから!」寡婦が言った。
 これがウージェーヌが理解出来た最後の言葉だった。
「こんな茶番劇でも、様になるのはヴォートランさんだけね」シルヴィが言った。「さてと、あら、クリストフったら、轆轤がんなのようないびきをかいてるわ」
「おやすみ、お母ちゃん」ヴォートランが言った。「私は大通りに行って、〈野生の山〉のムッシュ・マーティを大いに堪能してきますよ。〈隠者〉[82]が原作のすごい劇なんですよ。よかったら、例のベリー公とその劇場に同行していた婦人のように、貴女をそこにお連れしますよ」
「ありがとうございます」とクチュール夫人が言った。
「あら、どうして貴女が!」ヴォーケ夫人が叫んだ。「貴女は〈隠者〉から取った劇は見ないと言ってたじゃない。この劇もアタラ・ド・シャトーブリアンの作品で、私達もよく読んだわね。これはとても綺麗な作品なので、菩提樹の木陰で去年の夏なんか、エロディーの身の上のことで、ずいぶんと泣いたものだわ。要するに道徳的な作品で、貴女のところのお嬢さんには影響してしまうんじゃない?」
「私達はお芝居を見に行くことを禁止されてるんです」ヴィクトリーヌが答えた。
「大丈夫、ほら仲間がいる、この人達が」ヴォートランはそう言って、おどけた仕草でゴリオ爺さんやウージェーヌの頭を動かせて見せた。
 学生が楽に眠れるように頭を椅子の上にのせてやった時、彼は歌を口ずさみながら、学生の額に熱烈なキスをした。

おやすみ、私の可愛い恋人!
貴方のそばで私は寝ずの番をします![83]

「私は彼が病気じゃないかと心配なんです」ヴィクトリーヌが言った。
「それじゃ、そばにいて面倒みてあげるのがいい」ヴォートランが答えた。「それは」と彼は彼女の耳許でささやいた。「貴女が従順な妻になるんなら当然の行為なんだ。彼は貴女を熱愛している。この若者はね。そして貴女は彼の可愛い花嫁さんになる。私は貴女にそのことを予言しておく。二人は何処の国に住もうと皆に尊敬され、幸福に暮らし、そして子供も沢山もうける。以上が総ての恋愛小説の完結の仕方だ。さてと、母さん」彼はヴォーケ夫人の方を向いて声をかけ、彼女を抱き締めた。「帽子と伯爵夫人のマフラーに見劣らないようなワンピースを着てきなさい。私は貴女達のために辻馬車を見つけてくる。私が行く」そして彼は歌いながら出て行った。

太陽、太陽、偉大な太陽
あなたはカボチャを熟れさせる

「まあ! ねえ、クチュールの奥様、あの人ったら、あたしを幸せにしてやるって、世間に言いふらす積りよ。さてと」ヴォーケ夫人はそう言うと製麺業者の方を見て、「ほらゴリオ爺さんを忘れるところだったわ。あの老いぼれの爺ときたら、あたしを何処かへ連れていってやろうなんて考えはからっきし持ったことがないんだからねえ。だけど上手いもんで、彼は地の底へ落ちてゆくところさ、ざまみろだよ! いい年をした男が正気を失うなんて、まあなんて下品なんだろう! 貴方は言ったわよね、持っていなければ人は何も失うものはないって。シルヴィ、さあ彼を部屋に連れてっておやり」

 
 
 
 
(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
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2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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