ゴリオ爺さん バルザック

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 ラスチニャックの心の葛藤は長く続いた。勝利は若者らしい道徳の上に留まるべきであったが、それに反して、彼は抗し難い好奇心でもって引き寄せられるように、そろそろ夜のとばりも下りようという四時半頃に、この下宿は永久に立ち去るのだと彼自身が決意したところだったあのメゾン・ヴォーケのあたりに戻ってきた。彼はヴォートランが死んだのかどうかを知りたいと思っていた。ヴォートランに吐剤を投与する考えをとったビアンションは、ヴォートランが戻したものを自分の所属病院へ送った。それを化学分析にするためだった。ミショノー嬢がそれを捨てるように執拗に望んでいた事は彼のかねてからの疑いを強固なものとした。それに、ヴォートランが余りにも早く回復したので、ビアンションは下宿内で陽気に座をにぎわしていた男に対して何らかの謀議が企てられたのではないかと疑わざるを得なかった。ラスチニャックが帰った時、ヴォートランはもう回復して食堂の暖炉のそばにいた。タイユフェールの息子の決闘のニュースによって、いつもより早く集まってきた下宿人達は事件の詳細と事件がヴィクトリーヌの上に及ぼす影響を知りたくて興味津々で、ゴリオ爺さん以外の皆が再び集まり、この大事件について談笑していた。ウージェーヌが入っていった時、彼の目が平然としたヴォートランの目と出会った。その目は先に彼の心に入り込み、そこで何らかの悪しき琴線を強く弾いたので、彼はそれに対しておののいた。
「これはこれは! お兄さん」脱走中の徒刑囚が言った。「死神は私についてはずっと時期を間違っているんだ。私はあの婦人のお陰で脳出血に打ち勝って生き延びた。この発作は牡牛でも殺してしまうほどのものなんだ」
「あー! 貴方はもう牡牛のように元気に話せるのね」ヴォーケ夫人が叫んだ。
「あんたは私が生きているのを見て残念なんじゃないのか?」ヴォートランはラスチニャックの耳にささやいた。彼はラスチニャックが『この男は何とまあ強いんだ!』と考えてたまげていることを見抜いていた。
「ああ、確かに!」ビアンションが言った。「ミショノーさんが一昨日、不死身っていう渾名の人のことを話してましたね。その名前なんて貴方にぴったりですよ」
 この言葉はヴォートランに雷のような衝撃を与えた。彼は青ざめてよろめいた。彼の磁気を帯びた眼差しが太陽光線のようにミショノー嬢の上に注がれた。この意志の塊のような視線は彼女のひかがみを砕いた。ハイミスは椅子に沈み込んだままでいた。ポワレは彼女とヴォートランの間に立つように素早く前に出てきた。彼女が危機に陥っているのを理解してのことだったが、それは穏やかな仮面の下に隠されていた本性を現した徒刑囚の姿が冷酷無慈悲なものとなったからであった。このドラマの意味するものをまだ何一つ理解していない下宿人達は皆ただびっくりしているばかりだった。この時、人々は何人かの人の足音と兵士が歩道上で響かせる小銃のような物音を聞いた。コランが機械的に窓や壁を見ながら逃げ道を探していたその時、四人の男が広間の入り口に現れた。先頭の男は警視庁課長だった。後の三人は公安局吏員だった。
「法と国王の名において」吏員の一人が言ったが、彼の言葉は驚きのざわめきによってかき消されてしまった。
 やがて静寂が食堂を支配した。下宿人達はこの三人の男に道を開けるために二つに分かれた。三人はいずれも手を脇ポケットに突っ込み、武装用ピストルをしっかり保持していた。憲兵が二人、警官の後に続き広間の出入り口を固め、更に二人の憲兵が現れ、階段へ続く出口を固めた。幾人もの兵士の足音と小銃の音が建物正面に沿った石畳の道にこだましていた。したがって、不死身が逃亡し終せる希望は総て断たれた。誰もが抑えがたい好奇心の目を彼に注いでいた。警視が彼の正面に歩み寄り、頭に荒々しい平手打ちを食わせたので、それは鬘をふっ飛ばし、彼の頭は恐ろしいジャック・コランの頭にすっかり戻ってしまった。れんが色の赤毛で短い髪は、力が悪知恵と混じり合った恐ろしい性格を印象づけ、この頭とこの顔は分厚い胸と釣り合って、あたかも地獄の炎がそれらを照らすかのように煌々と映し出されていた。誰もがヴォートランの全貌を理解した。彼の過去、彼の現在、彼の未来、彼の仮借なき原理、彼の快楽信仰、その思想が彼に反世間的態度を与えたところの闇の王国、彼の行動、あらゆる場面で示された組織力。彼の顔に血が上って目は野性の猫の目のように輝いていた。彼はとても獰猛なエネルギーが現れた動作で飛び上がり、大声で喚き散らしたので、下宿人達は皆恐怖の叫び声をあげた。このライオンの動作と広がった叫び声に応じて、警官達はピストルを取り出した。コランは各軍隊の犬が光に照らされているのを見て危険を察知した。彼は突然、人間としては考えられないような途轍もない力を示したのだった。恐るべき魔術的な光景だった! 彼の顔つきがある現象を呈したのだ。それはあのくすぶった蒸気で満ちた窯、時には山をも持ち上げ、また巨大な氷山もあっという間に溶かしてしまうという、あの湯気の立つ蒸気で満ち溢れた窯以外比べようもないものだった。彼の怒りを冷ました一滴の水は、稲妻のように一瞬ひらめいた思考だった。彼は微笑を浮かべると、自分の鬘に目をやった。
「君が今日来るとは聞いていなかったよ」彼は警視庁課長に言った。そして彼は憲兵に頭で合図しながら手を差し出した。「憲兵殿、私に手錠でも鎖でもかけて下さい。私はここにおられる人達に私が抵抗しなかったことの証人になってもらいます」この火山のような男から噴出して、また元に収まった溶岩と炎、その素早い変化に感嘆の声が上がり広間に響いた。「こいつは君の大手柄だな、お巡りさん」徒刑囚は有名な警視庁課長を見つめながら言った。
「さあ、いいから、服を脱ぐんだ」彼に向かって、サンタンヌ小路の住人が軽蔑感をいっぱいこめて言った。
「何故ですか?」コランが尋ねた。「婦人方もおいでです。私は何も否認しないし、降参しています」
 彼は一呼吸おいて、集まった人々を見つめた。雄弁家がまさにこれから驚くべきことを語ろうとしているかのようだった。
「書き取ってくださいね、ラシャペル・パパ」彼は白髪の小柄な老人に向かって言った。その老人は書類入れから逮捕者の調書を取り出して、テーブルの端に坐っていたのだった。「私はジャック・コランであることを認めます」不死身が言った。「二十年の禁固刑を言い渡されています。そして、私の渾名は盗んだものでないことは、たった今証明したところです。もし私が手を挙げて抵抗していたら」彼は下宿人達に向かって言った。「ここにいる三人のポリ公は、ヴォーケ・ママの家の床の上に私の血を撒き散らして汚してしまうところだったんです。この愚か者達はくっつきあって私に罠をかけました」
 ヴォーケ夫人はこの言葉を聞いて気分が悪くなった。「何てことだい! 口惜しいじゃない。あたしとしたことが、昨日は彼と一緒で幸せな気分に浸っていたなんて」彼女はシルヴィに言った。
「人生哲学的には、ママさんよ」コランが追っかけて言った。「昨日、ゲテ座の私のボックス席に行ったってことをそんなに不運だと思うんですかね?」彼は叫んだ。「貴女は我々よりもマシなんですか? 貴女の心の中にあるよりも、私達が背負っている汚濁の方がまだ綺麗なくらいですよ。貴女は腐敗した社会の無気力なメンバーに過ぎないんですよ。貴女達の中の最高の人間でも、この私には対抗出来ません」彼の目はラスチニャックの上に止まった。コランは彼に優しい微笑を送ったが、それは彼の粗暴な外観とは奇妙な対照をなしていた。
「我々のささやかな契約はまだ生きてるよ、私の天使、君が受けてさえくれたならな! 今だってな! この歌知ってるかい?」彼は歌った。

私のファンシェットはチャーミング
彼女が素直でいる限り

「大丈夫だよ」彼は続けた。「私の取り分は取り戻すさ。怖くて、この私の分をちょろまかすなんて、誰にも出来ないんだ」
 徒刑囚は今、自ら語りかけて、その言行、陽気さから恐怖への急激な変化、途轍もない残忍さ、人懐っこさ、下劣さを突如露わにした。そしてこの男は、一人の人間に過ぎないが、ある種の堕落した国家、または、野蛮でいて論理的、粗野でいてしなやかな民衆の総ての典型を併せ持っていたのだった。一瞬にしてコランは地獄の詩となり、そこには人間らしい感情が溢れ出していた。ただし後悔の念は一切含まれていなかった。彼の眼差しは常に闘いを好みながら失墜した大天使のそれだった。ラスチニャックは彼自身の邪悪な考えを償うかのように、自身が罪に加担していることを認めて、目を伏せていた。
「誰が私を密告したんだ?」コランは恐ろしい目を集まった人達の上に這わせながら言った。そして彼はミショノー嬢の上で目を止めた。「あんただ」彼女に向かって彼が言った。「老いぼれ婆、あんたが私を脳出血にしたんだな。どうやったのか知らんが! 一言で言えば、私は一週間後の今日にでも、あんたの首を鋸で挽くことだって出来る。だが私はあんたを許してやる、クリスチャンだからな。それに、私を売ったやつはあんたじゃない。じゃ誰だ?」彼は司法警察の吏員が彼の洋服箪笥を開け、彼の財産を押収している音を聞きつけて叫んだ。「鳥の巣をやっと見つけた。が、肝心の鳥は昨日飛び立っていたってことだ。私の部屋からは何も見つからんよ。私の商売の種はここなんだ」彼はそう言って、自分の額を叩いた。「私を売ったのは誰か、今、分かったよ。そいつは恐らく詐欺師の“絹糸”だな、だろ? とっつかまえ屋の爺さん?」彼は警視庁課長に言った。「私の部屋の札束は、お暇して出ていったとこだよ。今頃探し回るとはタイミングが良過ぎるくらいだな。からっきしないよスパイ君。ところで“絹糸”だったら、貴方が憲兵隊総がかりでやつを守ろうとしても、十五日以内にやつは墓の中だ。このミショノー嬢ちゃんに貴方は何をあげたんですか?」彼は警察官に尋ねた。「何千エキュもですか? 私はそれ以上に値打ちがありますよ、虫歯のニノン、ボロ着のポンパドール、ペールラシェーズのヴィーナス[87]。もし、あんたが私に前もって知らせてくれていたら、あんたには六千フランやったんだが。あー! あんたはそれは疑うことなかったんだ、年取った肉屋さん、疑ったりしなければ、あんたをひいきしてたのに。そうさ、私はあの不愉快で私をすってんてんにするだけであろう旅を逃れるためには、私はあんたに何だってくれてやったさ」彼は手錠を掛けられながら言った。「あそこの連中はこれから私を引っ張りまわして、うんざりするほどの長い時間を楽しもうって魂胆だ。彼等が私を直ぐに徒刑場に送ってくれたら、オルフェーブル河岸[88]で私のことをじろじろ見る犯罪捜査課の連中が目障りだが、そのうち私は自分の仕事に戻れるんだがなあ。あそこでは、彼等は直ぐさま、ばらばらの心を一つにして彼等の将軍、この立派な不死身を逃すために働き始めるんだ。貴方達の中に、この私のように、貴方の為には何でもやろうと待ち構えている兄弟が一万人もいる、これほどに恵まれた人間はいるか?」彼は誇りに溢れて尋ねた。「ここに良いところがあるんだ」彼は自分の胸を叩きながら言った。「私はこれまでに人を裏切ったことが一度もない! おや、ダボハゼ、あれを見なさい」彼はハイミスに向かって言った。「彼等は私のことを恐ろしげに見ている。だが、あんた、あんたは彼等の心に嫌悪感を起こさせる。せいぜい賞金を集めることだな」彼は一呼吸おいて下宿人達を見回した。「ところで貴方達は一体何を考えてるんだ! 貴方達は一度でも徒刑囚を見たことあるのか? ここに現にいる、コランのようなタイプの徒刑囚は他の人間に比べて卑劣なところのない男だ。そしてその男は反社会的人間が味わう深い幻滅感を打ち破ろうと闘っているのだ。丁度ジャン・ジャック・ルソー[89]が言ったようにだ、そして私は彼の弟子であることを誇りに思っている。要するに、私は政府に対し、沢山ある裁判所、憲兵、予算のことで反対してるだけなんですよ。で、私は揺さぶってみてるわけです」
「何とまあ! 彼は実に見事にデッサンするね」絵描きが言った。
「ねえ、死刑執行人殿の王太子、寡婦の司令塔(徒刑囚達がギロチンに、恐怖の詩に溢れたこの名前をつけた)」彼は警視庁課長の方を振り返って、こう付け加えた。「ねえ、頼むよ、私を売ったやつは”絹糸”なのか! 私は誰か他のやつの仕業を彼に被せたくないんだ。それは正当じゃないからだ」
 この瞬間、コランの部屋の総ての棚を開け、総ての整理をし終わった警官が戻ってきて、捜査隊長に低い声で何やらささやいた。調書は完成した。
「皆さん」コランが下宿人達に向かって言った。「彼等は私を引っ立てて行こうとしています。貴方達は私がここに暮らさせてもらった期間ずっと、私には本当に親切にして下さった。私は感謝申し上げます。さようならと言わせてもらいます。出来ることなら、あなた方にプロヴァンスのイチジクを送らせてもらいます」彼は何歩か歩いたが、振り返って、ラスチニャックの方を見た。「さようなら、ウージェーヌ」彼は優しく寂しげな声で言った。それは彼のぶっきらぼうないつもの話しぶりとは奇妙に対照的に響いた。「もし君が金に困るようなら、私は君の役に立つように私の忠実な友を置いておくぜ」手錠を掛けられていたが、彼は防御の姿勢はとることが出来た。彼は軍隊の長官がやるように点呼を取って号令した。「一、二! それ突きだ。何か困ったことがあったら、そいつのところへ行きなさい。人間でも金でも、君の好きなように使いなさい」
 この特異な人物は彼の最後の言葉の中に思いっきりふざけた調子を込めたので、その意味はラスチニャックと彼自身にしか解らなくなっていた。館内から憲兵、軍人、それに警官達が立ち去った後、女主人のこめかみを酢でこすってやっていたシルヴィは呆然としている下宿人達を見た。
「あらあら! それにしても、彼って良い人だったんだわ」
 この言葉は先ほどの場面によって掻き立てられた感情がそれぞれの人々の上に生み出した魅力と多様性を断ち切る作用を及ぼした。この瞬間、下宿人達はお互いにじろじろ見つめあった後、皆が一斉に目を向けたのは、やせて干からびて冷たくて、まるでミイラのようなミショノー嬢だった。彼女はストーブの横で隠れるようにして目を伏せていた。その様子はまるで彼女が自分の眼差しの表情を隠すためには、ランプの陰も十分の覆いにはならないことを恐れているかのようだった。彼女の姿は彼等にとって、これまで長い間、何故か反発を抱かせるものがあったが、それが突然皆の腑に落ちたように感ぜられた。一人一人の呟きが、完全な音の統合によって全員一致の嫌悪感となって現れ鈍く響いた。ミショノー嬢はそれを聞いて、じっとしていた。ビアンションが口火を切って、隣の人にかがみこんだ。
「あの女が我々と夕食を続けるんだったら、僕は退散します」彼は小声で言った。
 ポワレを除いた誰もが目配せで医学部学生の提案に同意した。学生は全員の同意に意を強くして、古くからの下宿人の方に歩み寄った。
「貴方はミショノー嬢と、とりわけ仲が良いですよね」学生が言った。「彼女に言って下さい。彼女に今直ぐにここから立ち去るべきことを理解させてやってください」
「直ぐにだって?」ポワレが驚いて鸚鵡返しに言った。
 それから彼はハイミスの傍へ行き、何かを彼女の耳許で言った。
「だけど私は下宿代をもう払っています。私は皆と同じように払った分だけここにいます」彼女は下宿人達にマムシのような眼差しを投げつけながら言った。
「それは大したことじゃありません。私達が分担金を出し合って、あなたに払い戻してあげますよ」ラスチニャックが言った。
「コラン支持者様」彼女が蛇のような毒々しい探るような視線を学生に投げかけつつ言った。「見え透いた事を言うのね」
 この言葉に、ウージェーヌはまるでハイミスに飛びかかって、その首を締めんばかりの勢いで飛び上がった。彼女の視線は彼がコランと共犯者であった事を示唆し、その視線は彼の魂にも恐るべき光線を当てたのだ。
「そんなの放っておけ」下宿人達が怒鳴った。ラスチニャックは腕を組んで黙り込んだ。
「ユダ嬢とは、けりをつけて下さいよ」画家がヴォーケ夫人の方を向いて言った。「奥さん、もし貴女がミショノー嬢を追い出さないなら、我々は皆、貴女のバラックから出てゆきます。そしてそこらじゅうで、ここにはスパイと徒刑囚がいるだけだと言いふらしますよ。逆の場合は、我々はこの事件については完全に口をつぐみます。これは結局のところ、最良の社会に達することが出来たのだろうと考えてね。我々は徒刑囚の額に刻印まで打った。そして我々は彼等がパリの小市民に変装することを禁じた。そして彼等が何にでもなれる馬鹿げた笑劇をこれ以上演じることを禁じた」
 この議論の最中にヴォーケ夫人は奇跡的に健康を回復し、姿勢を正し、腕組みをして、目をはっきりと見開いた。涙の痕跡もなかった。
「だけど、ねえ貴方、貴方は一体この家をつぶしてしまいたいの? ヴォートランさんだったらねえ……おー! 悲しい」彼女は中断しながら思った。「あたしは彼のことを正直な男だと考えざるを得ないわ! ほら」彼女は続けた。「空になったアパルトマンが一戸、その上に、貴方達はまだ二戸も空の貸間を私に持たせようって言うのよ、この誰も彼もが住居も落ち着かせようって季節によ」
「皆さん、帽子を手に持って、ソルボンヌへ夕食に出かけましょう、フリコトー[90]で夕食だ」ビアンションが言った。
 ヴォーケ夫人は一瞬にして最も有利な方針を決め、ミショノー嬢のところへ走り寄った。
「さあ可愛いお嬢さん、貴女はまさかあたしの大事な施設が駄目になってしまうのをお望みじゃないでしょう、どうなの? 貴女見たでしょう、何とも言えない大変なことで、あたしはこの人たちに逃げられてしまうのよ。今晩のところは、貴女は自分の部屋に上がっといて」
「ぜーんぜん、ぜーんぜん」下宿人達が怒鳴った。「我々は彼女が今直ぐ出てゆくように言ってるんだ」
「しかし、彼女は夕食を食べてないんだ、この可哀想なお姉さんは」ポワレが哀れげな様子で言った。
「彼女は好きなとこで夕食するんだろ」何人かが叫ぶ声がした。、
「出てゆけ密告者!」
「皆さん」ポワレが叫んだ。彼は愛が雄羊に与えた勇気によって、突然心が最高に昂揚していた。「女性に向かって、言葉に気をつけて下さい」
「密告者に女性も何も関係ないよ」絵描きが言った。
「話題のセクソラマ(女)」
「ポルトラマ(戸外)へ出てゆけ」
「皆さん、これは無作法というもんです。もし人が誰かを追い出そうとするなら、当然やり方があります。私達は家賃を払っている。私達は留まります」ポワレはハンチングをかぶりながら言った。そしてヴォーケ夫人に説教されていたミショノー嬢の脇の椅子に座った。
「聞き分けのないこと!」絵描きがおどけた様子で彼に言った。「つまんないことで聞き分けのない、やれやれ!」
「さあ、貴方達がいなくならないんなら、我々が立ち去りますよ、我々の方がね」ビアンションが言った。
 そして下宿人達は寄り集まって広間の方へ動いていった。
「お姉さん、貴女は一体何をお望みなの?」ヴォーケ夫人が叫んだ。「あたしは破滅よ。貴女はもういられないわ。もう直ぐ暴力沙汰になってしまうわ」
 ミショノー嬢が立ち上がった。
 彼女は立ち去るだろう! 彼女は立ち去らないだろう! 彼女は立ち去るだろう! 彼女は立ち去らないだろう! 二つの言葉が交互に言われ、言葉に含まれた敵意が彼女に襲いかかっていた。女家主と低い声で何らかの規約を確認しあった後、ミショノー嬢はとうとう館からの退出を余儀なくされた。
「私はビュノー夫人のところへゆきます」彼女は脅すような声で言った。
「何処でもお好きなところへいらっしゃい、お嬢さん」ヴォーケ夫人はそう答えたが、この選択の中に残酷な侮辱が含まれているのが分かった。その館こそ彼女がライバル視してきたものであり、結果として、この選択は彼女にとって耐え難いほど嫌なものだった。「ビュノーのところへお行きなさい。あそこじゃ、ヤギに飲ませて元気づけるワインが出るそうよ。それに料理だって、ろくでもないとこから仕入れてるんだから」
 下宿人達は深い沈黙の中で二列に並んだ。ポワレはとても優しげにミショノー嬢を見つめていて、自分が彼女についてゆくべきか留まるべきか決められないままに、あからさまに優柔不断の姿を晒していたので、下宿人達はミショノー嬢と別れられるのも嬉しくて、お互いに顔を見合わせて笑い出した。
「いけ、いけ、ポワレ」絵描きが彼に向かって叫んだ。「それいけ、それ、それ!」
 博物館員は有名な恋歌の冒頭部分を滑稽な調子で歌い始めた。

シリアに向かって発たんとす
若き美貌のデュノワ[91]

「さあ行きなさい。貴方達は行きたくてたまらないんでしょう。トラヒット・スア・ケムク・ウォルプタス」ビアンションが言った。
「蓼食う虫も好き々々、ウェルギリウスの意訳です」家庭教師が言った。
 ミショノー嬢はその男を見ながらポワレの腕を取る様子を見せた。彼はこの誘いに抵抗できず、ハイミスに腕を差し出した。拍手が湧き起こり笑いが爆発した。ブラヴォー、ポワレ! 老いぼれポワレ! アポロン・ポワレ! マルス・ポワレ! 勇者ポワレ!
 この時、使い走りの者が入ってきて、一通の手紙をヴォーケ夫人に渡した。彼女はそれを読んで、そっと椅子の上に置いた。
「まあ雷が落ちて、あたしの家を燃やしちまったてことよ。タイユフェールの息子は三時に死んじまった。あたしは、この可哀想な若者を犠牲にしても、うちにいる婦人達が幸せになれるんだったらいいと願ったんだけど、バチが当たったんだわ。クチュール夫人とヴィクトリーヌが、あたしにまた彼女達の持ち物を送るように言ってきたんだけど、そしてヴィクトリーヌの父と一緒に住もうとしているのよ。タイユフェール氏は娘と一緒に住むことを、更にクチュール夫人を保護してあげることも認めたのよ。四つのアパルトマンが空になるのよ、下宿人が五人も減るのよ!」彼女は座り込んで泣き出しそうになっていた。「不幸があたしに落ちかかってきた」彼女が叫んだ。
 馬車がやって来て停車する音が突然路上に響き渡った。
「まだ何か嫌なことかね」シルヴィが言った。
 ゴリオが突然、顔を輝かせ幸福感が溢れた表情で現れた。それは彼が再生されたと人に信じさせるほどのものだった。
「ゴリオが辻馬車に乗ってきた」下宿人達が言った。「この世の終わりだな」
 爺さんは隅っこでまだ物思いにふけっていたウージェーヌの方に真っ直ぐに近づき、彼の腕をつかんだ。「来なさい」彼はウージェーヌに嬉しそうに言った。
「貴方はまだ何が起こっているか知らないんですか?」ウージェーヌが彼に言った。「ヴォートランは徒刑囚だったんです。彼を捕まえに警察官が来てたんです。そしてタイユフェールの息子は死にました」
「へえ、そうですか! でも、それが私達には、どうってことないでしょ?」ゴリオ爺さんが答えた。「私は娘と夕食をとる。貴方の家でね。聞いてるんですか? 彼女は貴方を待ってるんだ、行きましょう!」
 彼はとても荒々しくラスチニャックの腕を引っ張ったので、学生は無理やり歩かされてしまった。ゴリオの様子はまるで自分の女主人を連れ出すといった風情だった。
「夕食だ」絵描きが叫んだ。
 みなが一斉に椅子を取り食卓についた。
「あらら」でぶのシルヴィが言った。「今日は何もかも駄目だわ。羊肉のシチューが煮え過ぎちゃったわ。ごめんね! ちょっと焦げたの食べてね、仕方がない!」
 ヴォーケ夫人は彼女のテーブルの周りにいた十八人の代わりに、たった十人の人間しかいないのを見ると、一言も言う元気がなかった。しかし皆は彼女を慰めたり明るくさせようと試みた。まず第一に通学生達がヴォートランやその日の出来事について話し合い始めると、彼等はやがて蛇のようにくねくねとした会話に陥ってしまい、決闘、徒刑囚、裁判のことを語り始め、改正すべき法律のことや牢獄のことにまで話は及ぶのだった。それから彼等は気がつくと、ジャック・コランのことを千回も話していて、ヴィクトリーヌや彼女の兄弟のことも話していた。彼等は十のものも二十に話し、ごく普通のものを途轍もない数字のように言った。今日の夕食と前日の夕食との間にあるもの、それは途轍もない変化であった。しかし更に翌日になると、この利己主義な人々はパリの日常の出来事の中にまた新たに恰好の題材を見つけて楽しむことになり、慣れ親しんだのんきさが彼等の気分を支配することとなるのだ。そしてヴォーケ夫人でさえも、でぶのシルヴィの意見を聞くうちに希望のようなものが湧いてきて、静かな気持ちに身を置けるようになっていた。
 その歴史的一日は、その日の晩方にはウージェーヌにとっては最早、夢幻劇のようなものになっていた。彼は性格の強さや頭脳の明晰さにもかかわらず、自分の考えをどう整理すればよいのかわからないままに、駅馬車に乗り、ゴリオ爺さんの横に座っていた。爺さんは話しているうちに、いつにない嬉しさを隠しきれない様子で、感動の余り爺さんの声がまるで夢の中で聞こえるようにウージェーヌの耳に響き渡るのだった。
「今朝の事はもう終わった。私達は三人きりで一緒に夕食です、一緒に! 聞いてるんですか? そうだ、私のデルフィーヌと夕食をしたのは、もう四年も前です。ああ可愛いデルフィーヌ。私は今晩はずっと彼女のそばにいられるんです。私達は今朝から貴方の家にいたんですよ。私は汚い服を着て労務者のように働いたんですよ。私は家具を運ぶのを手伝いました。ああ! 貴方は食事の時、彼女がどんなに優しいか知らないでしょう。彼女はこの私の世話をしてくれるんです。『さあパパ、ほらこれ食べてみて、おいしいわよ』なんてね。それでいて、私はこれを食べられないんです。あー! 私が彼女と幸せに過ごしていた時から何と長い時間が経ってしまったんだろう。だが私達はこれからは昔のように一緒に過ごそうとしているんです!」
「しかし」ウージェーヌが口を挟んだ。「今日という日は本当にとんでもない日でしたね?」
「とんでもない日ですって?」ゴリオ爺さんが答えた。「そうかね、かつてのいつの時代に比べても、世の中、こんなに良くはなかったですね。今はどちらを向いても、道には陽気な人、握手を求める人、抱き合う人しかいないくらいですよ。いつも夕食を娘の家でとっているような幸せな親父が、娘がシェフに注文した可愛らしいディナーなんぞを飲み込むように平らげてるのを私は目の前で見たことがあります、くそっ! あれはカフェ・デ・ザングレ[92]でしたな。しかし、なあに! こっちだって、デルフィーヌのそばなら、アロエの苦汁でも蜂蜜のように甘くなりますよ」
「僕も貴方には昔のような生活が戻ってくると思います」ウージェーヌが言った。
「おい、御者さんよ、もっと走れんかね」ゴリオ爺さんが前のガラスを開けて叫んだ。「ほれ、もっと早く頼むよ。あんたもご存知のあそこへ十分以内にわしを連れてってくれたら百スーやるから、それで一杯やってくれ」この約束を聞いた御者は光のような速さでパリを駆け抜けた。
「この御者は良くないですね」ゴリオ爺さんが言った。
「ところで、一体何処へ連れてってくれるんですか?」ラスチニャックが爺さんに尋ねた。
「貴方の家ですよ」ゴリオ爺さんが答えた。
 馬車はダルトワ通で止まった。爺さんがまず馬車を降りて、寡夫にありがちな浪費癖から、御者に一〇フランを投げ与えた。爺さんは嬉しさの絶頂にあって、身を守るすべを知らなかった。
「行って上がりましょう」彼はラスチニャックにそういうと、中庭を横切って、四階建ての新しくて外観の綺麗なメゾンの裏手にあるアパルトマンの戸口へと彼を案内した。ゴリオ爺さんが呼び鈴を鳴らすまでもなかった。ニュシンゲン夫人の小間使いのテレーズが彼等にドアを開けた。ウージェーヌは若者向きの実に快適なアパルトマンの中に入った。部屋の構成は待合室、小広間、寝室、それに庭を見渡せる書斎からなっていた。小広間の調度品や装飾は、最高の美しさ、最高の上品さといわれるものに比べても遜色のないものだった。彼はろうそくの光の中で、デルフィーヌの姿を認めた。彼女は炉辺の小型ソファから立ち上がり、優しさに溢れた声に抑揚をつけて彼に言った。「どうして貴方を探し回らなきゃならないの、ねえ、このわからずやさん」
 テレーズは出て行った。学生はデルフィーヌを腕の中に抱いた。彼女も激しく抱き締めながら嬉しさに泣いた。沢山の苛立ちが心と頭を疲れ切らせたこの一日の間に彼が見たことと、たった今見たこととの究極的な対比はラスチニャックという人間における鋭敏な神経を決定付ける出発点となったのだ。
「この私には良く分かってる。彼がお前を愛してることをな」ゴリオ爺さんはうんと声をひそめて娘に言った。その時には、ウージェーヌは疲れ切って、ソファーの上に横になっていた。彼は一言も発せられず、また、魔法の杖の最後の一振りがどんな方法で可能となったのかもさっぱり分からなかった。
「さて、それじゃあ見に行きましょう」ニュシンゲン夫人はそう言って彼の手を取り寝室に連れて行った。そこの絨毯、家具、それに様々な小物は彼にはデルフィーヌの寝室をミニチュア化したもののように思われた。
「ベッドがまだないんですね」ラスチニャックが言った。
「はい、貴方」彼女は顔を赤らめつつ言って、彼の腕を取った。
 ウージェーヌは彼女を見た、そして若いながらも、愛する女の心の中の本当の羞恥心の総てを理解した。
「貴女は僕が心から愛し続けてやまない最愛の女性だよ」彼は彼女の耳許で言った。「そうさ、僕達はよく理解し合っているから、あえて言葉に出したんだ。愛が生き生きと真実のものであるほど、それにはヴェールをかけて神秘的でなければならない。僕達の秘密は誰にも明かさないことにしましょう」
「おお! 私はその誰かじゃないよ、私はね」ゴリオ爺さんが少し不満げに言った。
「貴方は勿論僕達と同じですよ、貴方は……」
「ああ! それこそ私が望んだことだ。貴方はこの私には注意を払わなかった、そうでしょ? 私はそこいらに漂っている善良な精霊のように行ったり来たりする。目には見えなくとも、そこにいる事は皆が知っている! おやおや、デルフィネット、ニネット、ドゥデル! 私がこれまで言ってきたことは間違ってるか? 『アルトワ通に綺麗なアパルトマンがある。彼のために二人でそこに家具を備え付けよう』お前はそれを望まなかった。ああ! お前の喜びを作り出すのは私なんだよ。お前の人生を作り出すのと同じようにね。父親というのはいつも与え続けて幸せになれるんだ。与え続ける、これが父親たるものがなすべきことなんだ」
「何ですって?」ウージェーヌが尋ねた。
「そうです、彼女はためらっていた。彼女は下らない噂を立てられるのを恐れていた。まるで世間体のために幸せをふいにしても仕様がないって感じだった。だが、女達は皆、彼女のようになることを夢見てるんだ……」
 ゴリオ爺さんは一人で喋り続けていたが、ニュシンゲン夫人は構わずラスチニャックを書斎に案内した。そこでは、軽く交わすキスの音さえも響き渡ったことだろう。この小部屋はこのアパルトマンの優雅さと上手く調和していた。言うまでもなく、ここには不足な点は何もなかった。
「貴方のご希望に適ったでしょうか?」食卓につくため広間に戻ってきて、彼女が尋ねた。
「はい、良過ぎます、びっくりです! この豪奢、それも完璧な、これは美しい夢の実現だ、若々しく優雅な人生の総ての詩的表現だ。僕はそれを十分過ぎるほど感じるので、感謝しきれないくらいに思っています。しかし、僕はこんなものを貴女から受け取るわけにはゆきません。それに僕はまだ貧乏過ぎて、この……」
「ああ! 貴方はもうあたしに逆らってる」と彼女はちょっとからかう風に威圧的に言って、可愛い仏頂面をして見せた。これは女達が更なる気晴らしに誘い込むために、男の中の几帳面さといったものを嘲笑したくてとる態度なのだ。
 ウージェーヌは、この重大な一日をかけて仰々しく自問していた。そしてヴォートランの逮捕は、彼の前に深淵の深さを示した。彼は危うくそこに転がり落ちそうになっていたのだが、今ようやく、自分の高潔な意識と細やかな心遣いをしっかりと固めることが出来た。その結果、彼は時には寛大な考えでもって、相手の反論が弱いと知りながらも譲歩してやることも出来るようになったのだ。深い悲しみが彼を捉えた。
「どうして!」ニュシンゲン夫人が叫んだ。「貴方は断るお積り? そんな拒絶が何を意味するか、貴方ご存知なの? 貴方は未来を疑っている。貴方は貴方をあたしに結び付けようとはしない。貴方はもしかして、あたしの愛を裏切ってしまうかもしれないと恐れてるの? もし貴方があたしを愛してるのなら、どうして、これっぽっちの些細な贈り物の前で尻込みなさるの? あたしが若い男所帯の家事を調えるのに、どんなに夢中になって没頭したか、貴方が知ってくれたら、貴方は躊躇したりしないはずよ。そしてあたしに御免なさいって言うはずだわ。あたしは貴方のお陰でお金を得たわ。あたしはそれを上手に使ったんだわ、それだけよ。貴方は自分を度量のある人間だと信じてる、だけど貴方はちっぽけな人間よ。貴方はねぇ……もっと沢山聞きたい?」彼女はウージェーヌの情熱的視線を捉えて言った。「それに貴方ったら下らないことを気取ってるのよ。もし貴方があたしのことを全然愛してないなら、ああ! はい、断ってちょうだい。あたしの運命は貴方の言葉にかかってるの。言って下さる? でも父もいるわ。彼にもまた、はっきりと理由を言って」彼女は父の方を振り向き、一呼吸おいて、付け加えて言った。「あたしも私達の名誉に関しては父に劣らず敏感なのよ、信じて下さる?」
 ゴリオ爺さんはこの可愛い喧嘩をアヘンの香りの中で凝固したような微笑を浮かべて、見たり聞いたりしていた。
「要するに! 貴方って人生の入り口にいるのよ」彼女はウージェーヌの手をつかみながら言った。「貴方は大抵の人には乗り越えがたいような障壁を見つけたのね。一人の女の手を開いて覗いてみた、そして尻込みしてる! でも、貴方は成功する。貴方は輝かしい富を築く。成功は貴方の美しい額に記されているわ。あたしが今日貴方に貸したものを、貴方が返せないなんてことあるかしら? 昔は貴婦人達が騎乗槍試合に彼女達の名誉をかけて戦いに行く騎士達に、甲冑、剣、兜、鎖帷子、馬を与えたんじゃなかったかしら? さあそれで! ウージェーヌ、あたしが貴方に差し出しているものは現代の武器よ。何者かになろうという人にとっては必須の道具なのよ。結構なもんだわ、貴方がいらっしゃる屋根裏部屋のことよ。パパの部屋と似たりよったりと言うじゃない? さてと、私達はまだ夕食してなかったっけ? 貴方はあたしを悲しませたいの? さあ答えてくれる?」彼女は彼の手を揺さぶりながら言った。「ああ、パパ、彼の決心助けてあげて! でなきゃ、あたしが出てゆくわ、それで貴方とは二度とお会いしないでしょうね」
「私は貴方に決心してもらう積りですよ」ゴリオ爺さんが夢うつつ状態から醒めて言った。「私達のウージェーヌさん、貴方はユダヤ人から金を借りようとしているんじゃないですか?」
「その通りです」彼が答えた。
「そうですか、待って下さい」爺さんはそう言うと擦り切れた革の汚い紙入れを取り出した。「私がそのユダヤ人に代わってあげましょう。私が請求額を全部支払いました、ほらこれです。貴方はここにあるものについては一銭も払う必要はないんです。そんなに大した金額じゃありません。全部で五千フランちょっとくらいです。私はそれを貴方にお貸しします、私が! 貴方は私を拒絶しないでしょ、私は女じゃないんですから。貴方は私に何かの紙切れに認めを書いてくれたらいい。そして、いつか後で私に返してくれたらいいんです」
 幾筋かの涙が同時にウージェーヌとデルフィーヌの目から流れた。二人は驚きの余り顔を見合わせた。ラスチニャックは爺さんに両手を拡げて抱きついた。
「おや! こりゃ何だ! 貴方は私の子供じゃなかったのかな?」ゴリオが言った。
「だけど父さん、一体どうやってこれを?」ニュシンゲン夫人が尋ねた。
「あー! それだよな問題は」彼が答えた。「私がお前にこの件を自分で片付けるように決心させた時だったが、私はお前がまるで結婚する女のように色々の物を購入するのを見ていたんだ。私はこう思ったものだ。『彼女の家計は大ピンチになるぞ!』代訴人はお前の夫に対して、お前の財産を返させるように訴訟を起こすと、それは半年以上の期間がかかるといっている。それならと、私は額面二七〇〇〇フランの国債を売った。そして私の分として額面一五〇〇〇フランの終身年金を買ったので、私には毎年一二〇〇フランの配当が入ってくる。そして残った金で貴方達の費用は支払った。子供達よ、私はあの階上の部屋で、年に五〇エキュ払って、毎日五〇スーも使えば王子様のように暮らせるさ。それにまだ残っている財産も幾らかある。私は何も使わない。服だって、ほとんど必要ない。ほら、この二週間というもの、私はこんなことを考えては、ほくそ笑んでいたんだ。『あの子達は幸せにやってるんだ!』ってね。おやおや! 君達は幸せじゃないのかい?」
「おー! パパ、パパ!」ニュシンゲン夫人は父親に飛びつきながら叫んだ。父は彼女を膝の上に受けとめた。彼女は接吻で彼を覆い、彼の頬を彼女のブロンドの髪が撫ぜ、彼女の涙が喜びで輝かんばかりのこの老人の顔の上に溢れ落ちた。「大好きなお父様、貴方ってすごい父親だわ! いいえ、この世に貴方のような父親は二人といないわ。ウージェーヌは前から貴方のことがとても好きだったんだから、今はどんなに好きだか分からないくらいよ!」
「だが、お前さん達」ゴリオ爺さんが言った。彼はこの十年来、娘の心臓が彼の心臓のまぢかでどきどきしているのを感じる機会がなかったのだ。「だが、デルフィーヌよ、お前もしかして、私が嬉しさの余り死んでしまうのを望んでるな! 私の哀れな心臓は破裂しそうだ! ウージェーヌさんのところへおゆき。私達はもう十分だろう!」そして老人は自分の娘をとても荒々しく熱狂的に抱き締めたので、娘が言った。「もう! いいかげんにしてよ!」「私はお前に嫌われた!」彼は青ざめて言った。彼は想像を超えた深い悲しみのこもった様子で娘を見つめた。この父性のキリストとも言うべき男の表情を正しく描くためには、あの人類の救世主が人々の救済のために蒙った受難劇を描こうとして、画布の天才達が編み出した様々な画像の中に比較の対象を求めねばなるまい。ゴリオ爺さんは彼の指が余りにも強く握り締めていた彼女のベルトの上にとても優しいキスをした。
「いやいや、私はお前の心を痛めさせるようなことはしていない」彼は彼女に問いかけるように微笑みながら言った。「悲鳴をあげて私の心を掻きむしったのはお前の方だよ」彼は慎重に彼女の耳にキスしながら囁いた。「費用はもっとかかったんだが、彼にはごまかしておかないと悩ませる事になるんでね」
 ウージェーヌは、この男の無限の奉仕を見て、石のように固まってしまった。そして若者独特の信頼から溢れ出たあの素朴な賛嘆を心に刻みつけながら、この男を見つめていた。
「僕はこの立派な贈り物に相応しい人間を目指します」彼は叫んだ。
「あー! あたしのウージェーヌ、たった今貴方が言ってくれたことって、とても素敵だわ」そう言うとニュシンゲン夫人は彼の額にキスをした。
「彼はお前がいるので、タイユフェール嬢と彼女の百万フランを断った」ゴリオ爺さんが言った。「そうだ、彼女は貴方を愛していた、あの少女は……そして彼女の兄が亡くなった。だから彼女は大富豪のような金持ちになったわけだ」
「あー! 何故そんな話をするんですか?」ラスチニャックが叫んだ。
「ウージェーヌ」彼の耳許でデルフィーヌが言った。「私はそのことは本当に申し訳ないと、今晩ずっと思っていたわ。でもね! あたしは貴方を誰よりも愛しますわ、あたしは! いつまでも!」
「ほら、お前が結婚して以来、私にとって、こんな嬉しい日はなかったよ」ゴリオ爺さんが叫んだ。「神はいくらでも好きなだけ私を苦しめりゃあいいんだ、ただ、それがお前に関わることでなければの話だと、私は思っていた。今年の二月のことだった。私は人生において大概そんなに幸せなばかりでいられないものだと思うが、いつになく自分を幸せだと感じられる瞬間があったんだ。フィフィーヌ、私を見てごらん!」彼は娘に向かって言った。「彼女はとても美しい、そうでしょ? そして私は自分に言うんだ。あんたはこれまでに彼女のように綺麗な色をした、そして彼女のように可愛いえくぼのある女性に何人出会ったかね? ないって、まさか? まあいい、この愛すべき女を作ったのは私なんだよ。これからは、ウージェーヌ、貴方のお陰で幸福になって、彼女は何倍も幸せになることだろう。私は地獄にだって行けますよ、お隣さん、もし私の楽園の一部でもお要りなら、私は貴方に差し上げます。さあ食べよう、食べよう」彼は最早自分の言ってることも分からず続けた。「みんな私達のものなんだから」
「何と哀れな父親なんだろう!」
「ああ、お前が知っててくれたらなあ、なあ娘よ」彼は立ち上がり、彼女のところへ行って言った。そして彼女の頭を抱えて三つ編みの真ん中あたりの髪にキスをした。「私に幸せを返してくれるのなんて、お前にとっては実にたやすいもんだがなあ! 何度か私に会いに来ておくれ、私はあの上の階にいる。お前はほんの少し立ち寄ればいいんだ。約束しておくれ、ちょっと!」
「はい、お父様」
「もう一度言っておくれ」
「はい、私の優しいお父様」
「もういい、本当なら、お前に百回でもそれを言わせたいところなんだが。夕食にしよう」
 宵の時間はひどく子供染みた趣向で過ぎていった。ゴリオ爺さんは、この三人の中で相変わらず気違い染みた振る舞いを隠そうとしなかった。彼は娘の脚にキスしようとして身をかがめた。彼は彼女の目の中を長い間見つめ続けた。彼は彼女の衣服に自分の頭をこすりつけた。要するに、彼は飛び切り若く、飛び切り優しい恋人がやるような馬鹿げた行為をやったのだった。
「ご覧になった?」デルフィーヌがウージェーヌに言った。「父が私達と一緒にいる時は、彼の好きなようにさせなきゃならないの。そりゃあ時には邪魔に感じるでしょうけれどね」
 ウージェーヌは既に何度か嫉妬の衝動に駆られたが、彼の忘恩の気持ちを元から押さえ込むような彼女の言葉を非難することは出来なかった。
「それで、いつアパルトマンは出来上がるの?」ウージェーヌは寝室を見回しながら言った。「今夜はここに泊まれないのかい?」
「そうね、でも明日、貴方はあたしと夕食をして」彼女は抜け目のない様子で言った。「明日はイタリア座へ行く日よ」
「私は立見席で観るよ、私はね」ゴリオ爺さんが言った。
 真夜中になった。ニュシンゲン夫人の馬車が待機していた。ゴリオ爺さんと学生はデルフィーヌについておしゃべりしながら、メゾン・ヴォーケに帰ってきた。話しているうちに彼等の熱中度がどんどん高まってきて、ついにはこの二人の荒々しい熱愛者の間には表現の仕方を巡って奇妙な争いすら生まれた。ウージェーヌは何らの私心に汚されることもない父の愛が、その継続性や大きさにおいて、彼自身の愛を圧倒し去っていることを認めざるを得なかった。偶像は父親にとって常に純粋で美しい。そして彼の熱愛は未来と同じく過去のことも総てを糧として膨らんでゆく。彼等はヴォーケ夫人が片隅のストーブのところで、シルヴィとクリストフの間でぽつんとしているのを見つけた。年老いた女家主は、まるでカルタゴが滅亡した時のマリウス[93]のような感じでそこにいた。彼女はシルヴィにつき合わさせて悪いと思いながら、彼女の下宿人として残っている二人の帰りを待っていたのだった。バイロン卿はタッソー[94]のためにこの上なく美しい悲歌を書いていたが、それらの歌もヴォーケ夫人の理解を超えた現実の深さには遠く及ばなかった。
「明日の朝はたった三つだけのコーヒー・カップでいいよ、シルヴィ。そうだね! あたしの家は空っぽだよ、こんな悲しいことないじゃないか? あたしの下宿人がいなくなっちまうなんて、人生ってなんだい? 何にもない。ほら、あの人達がいなくなった後の家具もないあたしの家。家具があっての生活だよ。あたしはこの世で一体何をしたっていうんだい、こんな災難に会うなんて? うちのインゲンマメとジャガイモの料理で二十人の人を養ってきた。あたしの家へ警官が! これからはもう、あたし等はジャガイモしか食べないよ! こうなったらクリストフは辞めさせるよ!」
 サヴォワ出身の少年は居眠りしていたが、突然目覚めて言った。「奥さん?」
「可哀想な子! まるで犬ころ並みの扱いね」シルヴィが言った。
「引越しシーズンは終わってる。皆それぞれ住まいを決めちまってる。何処であたしは下宿人を失っちまったんだろう? 頭がぼっとしてきちまった。それにあの巫女のミショノーめ! あたしからポワレまで奪い取ったんだ! あの男と引っ付くために彼女は一体何をしたんだろうね。彼ったらまるで小犬みたいに付きまとってさ?」
「あー! 奥さん!」シルヴィがうなづいて言った。「あのハイミスはそれこそ悪知恵と巧妙さの塊ですからね」
「あの気の毒なヴォートランさんを奴等は徒刑囚にしちまったんだからね」寡婦は更に続けた。「やれやれ! シルヴィ、これはあたしの手に負えないから、あたしはもうこれ以上考えないことにするよ。陽気ないい人だったねえ、毎月一五フラン払って、ブランデー入りのコーヒーを飲んで、その上、即金で全額払ってくれるんだからねえ!」
「それにあの人は寛大だった!」クリストフが言った。
「ちょっと違うんじゃない」シルヴィが言った。
「いいえ全然違わないよ。彼は自分自身に忠実なだけさ」ヴォーケ夫人が引き取った。「それで、このごたごたの始末があたしのとこへ来るんだからたまんないよ、この猫一匹通らない一角にさ! 誓ってもいい、あたしは今悪い夢を見てるんだ。何故なら、あなたも見たでしょ、私達はルイ十六世が災難に会ったのを見てきたし、私達は帝国の崩壊も見てきたし、帝国が復活しまた倒されるのも見てきた。これら総ては秩序立った世の流れの中にいつだって起こり得ることとして組み込まれているのよ。一方で素人下宿なんぞに反対しようなんて動きはあり得ないのよ。王様無しで済ませられるけど、人は必ず食べてゆかなきゃならない。で、善良な女がいて、コンフラン家の出で、知恵を絞って夕食を提供してきたんだ、世界の終わりが来ない限りは……だけど、それも仕方ないね、世界の終わりなんだからね」
「貴女にとんでもない迷惑をかけたミショノー嬢が、噂によれば、六〇〇〇フランもの年金を受け取ることになるというんだから驚くじゃありませんか」シルヴィが叫んだ。
「あたしにはそのことは話さないでおくれ。あんな性悪女はいないよ!」ヴォーケ夫人が言った。「しかも彼女はラ・ビュノーのところへ行くんだ、念の入ったこった! だけど彼女はどんな報いを受けても仕方ないよ。彼女はここにいて、皆に不快な思いをさせ、人を殺し、盗みをしたんだからね。彼女はあの気の毒な好人物の代わりに徒刑場に行って当然なんだ……」
 ちょうどこの時、ウージェーヌとゴリオ爺さんが呼び鈴を鳴らした。
「あー! やっと仲間達が二人帰ってきた」寡婦は溜息をつきながら言った。
 二人の仲間はこの素人下宿を襲った災厄についての記憶がもう大分薄れていたので、女家主に対して特に改まった挨拶をすることもなく、ショセ・ダンタンの方に移り住むことになると告げた。
「あー! シルヴィ!」寡婦が言った。「これがあたしを殺す最後の切り札よ。貴方達はあたしに止めを刺したのよ、貴方達ったら! あたしは腹をぶたれたわ。そこに棒杭を叩き込まれたの。ほら、この一日は十年かそれ以上も頭から離れることはないだろうね。あたしは気が狂うよ、誓ってもいい! インゲンマメはどうしよう? あー! そうだ、もしあたし一人だけだったら、あんたは明日でお別れだよ、クリストフ。さようなら、皆さん、おやすみなさい」
「彼女は一体どうしたんですか?」ウージェーヌがシルヴィに訊いた。
「当たり前でしょ! ほら、事件以来、皆揃って出て行っちゃうじゃない。だから彼女の頭が変になっちゃったの。さあ、私が彼女の泣き言を聞いてあげるわ。泣き言を言うのも彼女のためになるわ。こんなの初めてよ、私が彼女のとこで働き始めて以来、彼女があんなに虚ろな目をしているなんて」
 翌日、ヴォーケ夫人は彼女自身の表現に従えば、理性を取り戻した。たとえ彼女が下宿人を総て失ってしまって、人生を一変させられた女性らしく、ひどく悲しげな様子に見えたにしても、彼女はもう完全に思考力を回復していて、本当の悲しみ、深い悲しみ――利害をめちゃめちゃにされたり、習慣を断ち切られたりすることが原因となる悲しみ――を彼女の姿は表していた。確かに、恋する男が愛する女が住んでいる家を離れながら投げかける眼差しの悲しげなのも、ヴォーケ夫人が無人の食卓を見つめる時の悲哀ほどではなかった。
 ウージェーヌは、ビアンションがあと数日でインターンを終了し、間違いなく自分の後釜にここへ来るだろうと言って、彼女を慰めた。博物館職員もしばしばクチュール夫人のアパルトマンに住みたいという希望を表明していたし、そう遠くない日に彼女は下宿人の補充が出来るだろうとも言ってみた。
「ありがとう、あなたの願いが叶えられますように! だけど、ここには不幸がとりついているんだ。十日もしないうちに死がやって来る。貴方にも分かるはず」彼女は食堂の方に陰鬱な眼差しを投げかけながら彼に答えた。「誰が亡くなるのかしら?」
「引越しするのがいい」ウージェーヌがうんと声をひそめてゴリオ爺さんに言った。
「奥様」シルヴィが仰天して駆けつけて言った。「私が猫を見かけなくなって、これで三日になりますわ」
「あー! そう、あたしの猫が死んだら、猫がいなくなったら、あたしは……」
 哀れな寡婦は終わりまで言わなかった。彼女は手を組み合わせて祈ろうとしたが、この恐ろしい予想に打ちのめされて肱掛椅子の背にのけぞって倒れこんだ。

 
 
 
 
(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja)の下で公開されています。
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2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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