「クリトン」への長文のあとがき
しばらく前から、私は﹁個﹂と﹁公﹂の関係を考え続けています。なにしろ、小林よしのり氏が﹁戦争論﹂において提唱した﹁﹃個﹄と﹃公﹄の関係はいかにあるべきか﹂という主題が、立場の違いを超えて考えるべき主題であることが、九月十一日のアメリカ同時多発テロによって改めて証明されてしまったからです。
国家と個人との関係、正義をめぐる対立、それらを考える上で必読となる文献、そのひとつが古代ギリシャ時代にプラトンが著した﹁クリトン﹂であることは間違いないでしょう。そう、ソクラテスが、国家の命じるままに毒をあおったその態度は、今の時代を考える上での手がかりを与えてくれると思うのです。
幸い古い古典なので︵ソクラテスの裁判は紀元前三九九年に行われたそうです︶、ギリシャ語から直接訳された既訳が何冊もあります。ですから、新古書店を探せばどこかにはあるでしょう。実際、翻訳にあたって私は四冊の既訳︵岩波、新潮、角川、講談社学術の各文庫︶を参考にしました。それでもなおつたない翻訳を提供するのは、青空文庫に置くためのテキストを用意しようと思ったからです。これだけ古く、かつ定評ある古典だったら、青空文庫にはあって当然なのです。
さて、ソクラテスは古い友人であるクリトンと、短い対話をしたあとで、﹁国宝の命じるままに従ってここに留まり、死刑になるべきである﹂という結論に達しました。その論理を詳しくみてみると、なかなか面白い問題が浮かび上がってきます。
まずソクラテスは、大衆の思惑を気にするクリトンに対して﹁なんでぼくらが大衆の意見を気にしなくちゃいけないんだい。善き人は―この人たちのことを気にかければそれでいいんだ―物事を、起こったとおりに信じてくれるはずだよ。﹂と言い、善き人の言葉にだけ従うべきであると説得します。ここで当然起こるべき問題は、﹁善き人は物事を起こったとおりに信じてくれるのか?﹂でしょう。つまり、善き人だってソクラテスやクリトンを個人的に知らなければソクラテスが﹁自分から﹂死刑になるだなんて信じられないでしょう。ソクラテスを救うべきだったとクリトンを非難するに違いありません。
まあ他にもいろいろ思うところはあるのですが、ここでは﹃個﹄と﹃公﹄の関係を考えるための手がかりになるところだけを挙げておきます。
ソクラテスは、﹁ただ生きてる人生よりも、善く生きている人生、そういう人生の方を重んじるべきなんだ﹂という意見を提出し、クリトンに同意させています。これはみなさんも普通に同意できることでしょう。そしてその後に、﹁善く生きている人生とは、正しく、立派に生きる人生だ﹂という意見を提出しています。クリトンは普通に同意するのですが、同意できないと言う人も多いはずです。世の中には﹁正しく生きられなくても構わない、楽しく生きれればいい﹂と言う人もいれば、﹁金をもうけられさえすればそれでいい﹂と言う人もいます。﹁正しく立派に生きるために﹂という命題も、﹁何が正しいのか﹂という疑問を引き出します。﹁正しく立派に生きるために﹂世界貿易センターやペンタゴンに突っ込むという行動も、イスラム教徒としてはありえるのです。﹇#追記﹈2007年10月5日に、ここで引用している部分を訂正しました。そのため、引用文を差し替えています。
また、ソクラテスは﹁不正は常に悪いことであり、不正な行動は不名誉をもたらすものだ﹂、従って﹁間違ったことは絶対にしてはいけない﹂という意見をクリトンに同意させています。これもその限りでは正しいのですが、そこから導かれる﹁不正を受けたお返しであっても、間違ったことをしてはいけない﹂というところで立ち止まって考える必要がありそうです。なぜなら、これを認めると、一切の復讐ができなくなりますし、ロシアに侵攻されたチェチェン、中華人民共和国に侵略されたウイグルやチベットが抵抗するのも容認できなくなるのです。
それでもそのことを善い人が承認するものとしましょう。ソクラテスは﹁この意見は今まで多くの人に支持されたことはないし、今後も少数派に留まるような意見なんだからね。それに、この意見に同意してくれる人としてくれない人の間では議論が成立しないんだ。互いの主義主張があんまり違ってるものだから、互いに軽蔑しあわずにはいられないんだ﹂とも言っています。つまり、報復を認めない人は少数に留まるし、説得することもできないことを認めています。この時多数決原理をとれば、国家の方針は﹁報復すべき﹂となるしかありません。そういう現実を見据えなければ、アメリカ同時多発テロと、それに対する報復攻撃をめぐる議論は現実を捕らえられなくなってしまうのです。
さらにもうひとつ。ソクラテスは、国法の言葉を借りて、﹁そなたは我々と対等な立場にはないのだ。従って、我々がそなたにできることを、そなたが我々にできるような権利なんて持ってないのだ﹂ということを認めています。つまり、国家が不当な決定をくだしても、それに従うべきだと宣言しています。アテネは︵市民に対して︶民主主義の制度を敷いていましたが、その前提として﹁国家に従うべき﹂というのがあることをこの言葉は示しています。大前提として公共心を持った市民が、自分の良心に従うことが、アテネの民主主義だったのです。公共心を持たぬままただ反抗することが民主主義ではないのです。
その一例として、アテネが徴兵制を敷いていたことが挙げられます。ソクラテスも兵役に就いたことを﹁クリトン﹂などで告白しています。徴兵されて、戦場に派遣され、そこで敵兵に殺されることがあっても、従わなければならないと、ソクラテスはほのめかしているのです︵﹁もし我々が監禁とか鞭打ちとかでもって誰かを罰しようとしたならば、黙ってその刑に服さなければならないのだ。もしそれによってその人が、傷を負ったり戦場で死ぬようなことになるとしても、刑に服さなければならないのだ。﹂︶。
とはいえ、無条件に国家に従わなければいけないわけではありません。ソクラテスは、国家による教育を受け、成年に達したあとでアテネの法制度に満足してアテネに住み続けていたからこそ、アテネの死刑判決に従うことが﹁自分にとっての正義﹂を全うする道だと思ったのです。つまり、
●国家による教育を受けなかった、またはその内容が不満足だった。
●国家の法律や方針が気に入らない。
の場合は従わなくてもよいはずなのです。ただその場合、その国から逃げだすことが道徳的に正しいとしており、それに抵抗することは、国法と国全体とを一定限度ひっくり返すことになる以上不正となってしまいます。
ですが、国家がそもそも国民を迫害し、ある人たちを虐殺し、国民の反対にも耳を貸さないときにはどうすればいいのでしょうか。あるいは、侵略先の国民のことなど意に介さない︵というか普通はそうですね︶国家によって自分の国家を破壊されてしまった場合、どうすればいいでしょうか。不正に対して不正で返すことができないなら、国民総出で難民になるか、自殺するしかないのです。レジスタンスを組織して抵抗することは、よりよく生きることに反する以上、やってはいけないことになってしまいます。
自衛のための戦争、独立を保つための戦争、独立するための戦争、すべてをひっくるめた﹃個﹄と﹃公﹄の関係、何がよくて何が悪いのか、自分はどう行動すべきか、今一度、﹃クリトン﹄を読んで考え直してみませんか。
2001.11.03
﹃クリトン﹄本文にもどる