: axe historique西(voie triomphale)(voie royale)殿西西8km
テュイルリー庭園から見たコンコルド広場エトワール凱旋門。後方にラ・デファンスのビル群
歴史軸

殿

西西

西22殿

西12西

西西

6

1RERA

歴史

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テュイルリー宮殿

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テュイルリー宮殿と庭園。17世紀

14殿殿161563西500m殿殿西300m500m

1714殿調西17091724

ルーヴル、テュイルリーの連結

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現在のルーヴルとテュイルリー

殿殿殿41608殿沿

殿殿殿殿殿14殿殿

西への延伸

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ガブリエルによるルイ15世広場の設計

175315湿175517631515

-1764161791

1770西17725m

第一帝政〜7月王政

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オベリスクの建立

7

180018061808180671836
 
殿1860

71831殿

沿

オスマンのパリ改造

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オスマンのパリ改造。東西の赤線がリヴォリ通り。

12

西殿3殿殿

171856

テュイルリー焼失

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焼失したテュイルリー宮殿

パリ・コミューン末期の1871年5月23日夜、テュイルリー宮殿などパリ市内の多くの公共建築物が何者かに放火され、宮殿は全焼した。

第三共和政が安定してくると、テュイルリー宮殿を再建する案が持ち上がった。オスマンは議会で「カルーゼル凱旋門はエトワール凱旋門からの軸を受け止めるには小さすぎ、ルーヴルに対して傾いて見える。この場所に大きな建物が必要だ。」と述べている。しかし結局宮殿が再建されることはなかった。

20世紀

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195019703西2001990

2001989

ギャラリー

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その他の軸

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エッフェル塔から見たマルス広場と士官学校

調17調

参考文献

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  • 宇田英男『誰がパリをつくったか』朝日新聞社〈朝日選書〉、1994年