「三浦泰村」の版間の差分
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さらに弟・光村が5代将軍・[[九条頼嗣]]との仲を深めるようにまでなったため、執権[[北条時頼]]から三浦氏は漸う危険視されるようになる。ただ、時頼本人は泰村と三浦氏に政権中枢からの穏便な引退を望んでいた。
[[1246年]]、時頼は六波羅探題に赴任させていた[[北条重時]]を招来することを打診したが、評定の場で泰村のみは承諾せず、頑なにこれを拒んだ。重時が帰参することで自らの政治的地位が低下することを懸念したようだが、これによって時頼や北条一門らの心証をより悪化させた。もし重時の招来を承諾していれば、温厚な重時は三浦氏に穏便な措置を計らってくれたかも知れず、穏健派の重時を遠ざけた事で、三浦氏排斥の過激派である[[安達景盛]]が積極的に干渉する機会を与えてしまい、結果として泰村は自ら墓穴を掘ったとも指摘される。<ref>[[永井晋]]﹃鎌倉幕府の転換点﹄︵NHKブックス︶</ref> 宝治元年︵[[1247年]]︶、時頼と[[安達景盛]]の策謀にかかった泰村は鎌倉で挙兵した。しかしこの反乱は結果的に失敗で、北条軍と安達軍の前に三浦軍は大敗し、追いつめられた泰村は妻子一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害して果てた︵﹃[[宝治合戦]]﹄︶。 32行目:
泰村は[[承久の乱]]における宇治川渡河で[[足利義氏]]と共に果敢に攻め込むなど武威に優れた人物であったが、[[下河辺氏]]や[[小山氏]]など、他の御家人と諍いを起こしたり、北条氏に対する方針を巡り弟光村と齟齬を来すなど、政治家としての立ち回りには拙い部分があり、優柔不断なところがあった。宝治合戦の際には緊張のあまり嘔吐したという話も残っており、切迫した状況では判断力が鈍くなる人物であった。 == 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
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