佐々木玄龍
1650-1723, 江戸時代初期の書家
江戸で生まれる。幼少より書の修行に励み、﹁象體の字﹂を得意とする。天和2年︵1682年︶、来日した朝鮮通信使の一行と詩文をやりとりし、正徳元年︵1711年︶7月から幕府に仕え、この時と享保4年︵1719年︶9月にも朝鮮通信使の接待を任されている。享保6年︵1721年︶6月25日に致仕。享保8年︵1723年︶に病を得て没す。享年74歳。武州三縁山︵増上寺︶浄運院に葬る。現墓所は青山霊園(2イ11-34)。法号は﹁領春院興誉琉霊玄龍居士﹂[1]。
書家の細井九皋は﹃墨道私言﹄で玄龍と弟の文山は朝鮮の書法を学んだ、と書いている。玄龍自身は孟魯軒という清国人の書を蔵しそれを学んだという。細井広沢は孟魯軒はおそらく朝鮮の人で、玄龍の書は趙孟頫を尊重していた朝鮮人に似ると評す。﹃東川筆記﹄という文献には、玄龍は長崎の訳司・林道栄の門人であったと書かれている[2]。
玄龍の門人として宝井其角・後藤仲龍などがいる。
(一)^ 三村竹清﹃近世能書傳﹄二見書房、1930年、88-89頁。
(二)^ 三村竹清﹃近世能書傳﹄二見書房、1930年、93-94頁。