「佐竹義重 (十八代当主)」の版間の差分
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| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]初期
| 生誕 = [[天文_(元号)|天文]]16年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]([[1547年]][[3月7日]])
| 死没 = [[慶長]]17年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[1612年]][[5月19日]])<ref>{{Kotobank|佐竹義重}}</ref>
| 改名 = 徳寿丸(幼名)、義重
| 別名 = [[仮名 (通称)|通称]]:次郎<br />渾名:鬼義重、坂東太郎
| 諡号 = 通庵
| 官位 = 常陸介
| 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]
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| 兄弟 = '''義重'''、[[那須資家]]、[[佐竹義尚 (南家)|義尚]]、[[小場義宗]](義家)、[[宇都宮広綱]]室([[南呂院]])、[[岩城親隆]]室([[桂樹院]])
| 妻 = 正室:'''[[伊達晴宗]]の娘'''(宝寿院)<br /> 側室:細谷氏
| 子 = '''[[佐竹義宣 (右京大夫)|義宣]]'''、[[蘆名義広]]、[[江戸実通]]室(のち[[高倉永慶]]室)、[[岩城貞隆]]、[[岩城宣隆
|''特記事項 =
}}
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[[元亀]]3年︵[[1572年]]︶には[[白河結城氏]]を配下に置いた。さらにその前後には縁戚関係も利用して[[岩城氏]]も事実上傘下に収め︵義重は[[岩城重隆 (戦国武将)|岩城重隆]]の外孫であるうえ﹁重﹂は重隆の偏諱で猶子にもなっていると見られる︶、[[那須氏]]とも講和を結んだ。[[天正]]2年︵[[1573年]]︶には北条方に寝返った小田氏治と再び戦って、その所領の大半を併合するなど、活発に勢力を拡大していった。天正3年︵[[1575年]]︶には[[白河城]]を奪取する。 しかし急速な勢力拡大は周辺の諸大名に危機感を抱かせ、北条氏政や蘆名盛氏らより二正面作戦を強いられ、窮地に追い込まれる。これを打開するために、[[結城氏]]や[[宇都宮氏]]と婚姻関係を軸にして同盟を結んで氏政と対抗したり、[[畿内]]の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と懇意になるなど同盟を重視して味方を増やした。天正8年︵[[1580年]]︶に蘆名盛氏が亡くなって[[蘆名盛隆|盛隆]]が継ぐと蘆名氏の方針も変わり、天正9年︵[[1581年]]︶に[[御代田合戦]]においては義重が蘆名氏と敵対する[[田村清顕]]を破ると、同年10月には義重が[[黒川城]]の盛隆を訪問して佐竹氏と蘆名氏は同盟関係に入った。これによって伊達氏よりも南側︵[[会津]]・[[中通り|仙道]]・[[浜通り|海道]]︶の諸大名は事実上佐竹氏の傘下に入り、室町時代中期以来分裂を続けたこの地域が1つの勢力圏を形成することになった。周辺の諸大名は義重が﹁奥州一統﹂を為した<ref>﹁︵天正9年︶6月7日付真田昌幸宛武田勝頼条目﹂真田家文書﹃群馬県史資料篇7﹄3065号 </ref>と高く評価し、義重自身もそう自負するようになる{{Sfn|垣内|2017|pp=28-29・38-43}}。 しかし、天正13年([[1585年]])に[[下野国]]に進出した北条軍の猛反攻にあって[[長沼城 (下野国)|長沼城]]を奪われ、不利な状況下においての和睦をせざるを得なくなった([[沼尻の合戦]])。
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天正18年︵[[1590年]]︶、かねてから懇意にしていた豊臣秀吉の[[小田原征伐]]が始まると、義重は義宣とともに小田原に参陣し、[[石田三成]]の[[忍城]]攻めに加わった。その後、[[奥州仕置]]にも従ったことから、義重は秀吉から常陸国54万石の支配権を認められ、一気に状況を挽回することに成功した。 秀吉の後押しもあり、常陸中部に勢力を振るっていた[[江戸重通]]を攻め、[[水戸城]]から追い出し、また[[府中]]の[[桓武平氏]][[平繁盛|繁盛流]][[大掾氏]]の嫡流を滅ぼした。また、天正19年︵[[1591年]]︶2月には鹿島・行方両郡の[[南方三十三館]]と称される[[鹿島氏]]など大掾氏一族と[[武田氏#その他の武田氏|常陸武田氏]]の[[武田信房]]ら[[国人]]領主を[[太田城 (常陸国)|太田城]]に招いて謀殺し、[[額田城]]の[[小野崎氏|小野崎昭通]]を攻撃した上で、秀吉からの退城勧告を突き付けて追放するなどして常陸国内を統一した。 === 関ヶ原の戦いから最期 ===
[[画像:Rokugojohi.JPG|thumb|180px|佐竹義重公顕彰碑]]
その後は義宣に実権を譲渡し、[[太田城_(常陸国)|太田城]]にて悠々自適の隠居生活を送り、「北城様」と呼ばれた。
慶長5年︵[[1600年]]︶の[[関ヶ原の戦い]]では、子の義宣はかねてから懇意にあった石田三成の西軍に付こうとしたが、時流を見ていた義重は[[徳川家康]]の東軍に与するように述べ、父子は対立した。この時義重をはじめ、義宣の弟の蘆名義広、佐竹氏家臣筆頭である佐竹義久など義宣以外の多くの佐竹家中の者が東軍を支持していた。東軍が勝利した戦後の[[慶長]]7年︵[[1602年]]︶5月、義宣のどちらにも付くともいえない曖昧な態度を理由に、佐竹氏は[[出羽国]][[久保田藩|久保田]]計20万石︵実高40万石︶に減封された。義重が前から誼を通じていた家康・秀忠親子に嘆願したため、改易は免れた。 久保田移転後は相次ぐ反佐竹一揆に対応するため、義宣とは別に[[六郷城]]︵[[仙北郡]][[美郷町 (秋田県)|美郷町]]︶に居を構え、[[六郷町 (秋田県)|六郷町]]の町割りをおこない、所領南部︵仙北・[[平鹿郡|平鹿]]・[[雄勝郡|雄勝]]の3郡︶の見張りを行っていたが、慶長17年︵[[1612年]]︶4月19日、狩猟中に落馬して死去した。享年66。末子の[[佐竹義直|義直]]は義重の死後に生まれている。 69 ⟶ 70行目:
== 人物・逸話 ==
* 義重は智勇に優れていた。かつて北条軍と戦ったときなどは、7人の敵を一瞬で斬り伏せたとまで言われており、その勇猛さから﹁'''鬼義重'''﹂、﹁'''[[坂東太郎]]'''﹂の異名で恐れられた * 就寝時に敷布団を使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたという逸話がある。出羽に転封された後、﹁北国は寒いから﹂と子の義宣から寝巻きと敷布団を送られて使ってみたものの結局気に入らず再び敷布団を使うことはなかったという<ref>{{Cite book|和書|author=渡部景一|authorlink=渡部景一|year=1980|month=7|title=佐竹氏物語|publisher=無明舎出版|isbn=4-89544-133-4|ref=渡部1980}}</ref>。 * [[甲相同盟]]の破綻により相模の後北条氏と対決していた甲斐国の[[武田信玄]]と文書を交わし、[[甲斐源氏]]の嫡流を巡って議論したという逸話がある。
* 自らの子女を蘆名氏などの諸大名に養子として送り込み、巧みに勢力を拡大している。
* 上杉輝虎︵後の謙信︶から名刀﹁備前三郎国宗﹂を送られた。後にこれを義宣に譲るが、義宣が刀の切っ先を削って[[脇差]]にしてしまった。愛刀家である義重はこれを嘆いたという。 * 愛刀は南北朝時代に鍛えられた﹁八文字長義﹂。[[北条氏政]]軍と戦った際に、この刀で北条方の騎馬武者を斬ったところ、その武者は兜もろとも真っ二つになり、八文字の形になって馬から落ちたという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h24/01/obj09.html|title=刀 無銘 長義 号 八文字長義|徳川美術館|accessdate=2015-5-23}}</ref>。 == 家臣 ==
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== 関連作品 ==
; 小説
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*[[今村翔吾]]『鬼の生涯』(『戦国武将伝 東日本編』収録、[[PHP研究所]]、2023年)
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=垣内和孝|title=伊達政宗と南奥の戦国時代|publisher=[[吉川弘文館]]|year=2017|isbn=978-4-642-02938-4|ref={{SfnRef|垣内|2017}}}}
== 外部リンク ==
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