「佐竹義重 (十八代当主)」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2016年6月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 佐竹
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 改名 = 徳寿丸(幼名)、義重
| 別名 = [[仮名 (通称)|通称]]:次郎<br />渾名:鬼義重、坂東太郎
| 諡号 = 通庵
| 官位 = 常陸介
| 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]
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天正18年︵[[1590年]]︶、かねてから懇意にしていた豊臣秀吉の[[小田原征伐]]が始まると、義重は義宣とともに小田原に参陣し、[[石田三成]]の[[忍城]]攻めに加わった。その後、[[奥州仕置]]にも従ったことから、義重は秀吉から常陸国54万石の支配権を認められ、一気に状況を挽回することに成功した。 秀吉の後押しもあり、常陸中部に勢力を振るっていた[[江戸重通]]を攻め、[[水戸城]]から追い出し、また[[府中]]の[[桓武平氏]][[平繁盛|繁盛流]][[大掾氏]]の嫡流を滅ぼした。また、天正19年︵[[1591年]]︶2月には鹿島・行方両郡の[[南方三十三館]]と称される[[鹿島氏]]など大掾氏一族と[[武田氏#その他の武田氏|常陸武田氏]]の[[武田信房]]ら[[国人]]領主を[[太田城 (常陸国)|太田城]]に招いて謀殺し、[[額田城]]の[[小野崎氏|小野崎昭通]]を攻撃した上で、秀吉からの退城勧告を突き付けて追放するなどして常陸国内を統一した。 === 関ヶ原の戦いから最期 ===
[[画像:Rokugojohi.JPG|thumb|180px|佐竹義重公顕彰碑]]
その後は義宣に実権を譲渡し、[[太田城_(常陸国)|太田城]]にて悠々自適の隠居生活を送り、「北城様」と呼ばれた。
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== 人物・逸話 ==
* 義重は智勇に優れていた。かつて北条軍と戦ったときなどは、7人の敵を一瞬で斬り伏せたとまで言われており、その勇猛さから﹁'''鬼義重'''﹂、﹁'''[[坂東太郎]]'''﹂の異名で恐れられた * 就寝時に敷布団を使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたという逸話がある。出羽に転封された後、﹁北国は寒いから﹂と子の義宣から寝巻きと敷布団を送られて使ってみたものの結局気に入らず再び敷布団を使うことはなかったという<ref>{{Cite book|和書|author=渡部景一|authorlink=渡部景一|year=1980|month=7|title=佐竹氏物語|publisher=無明舎出版|isbn=4-89544-133-4|ref=渡部1980}}</ref>。 * [[甲相同盟]]の破綻により相模の後北条氏と対決していた甲斐国の[[武田信玄]]と文書を交わし、[[甲斐源氏]]の嫡流を巡って議論したという逸話がある。
* 自らの子女を蘆名氏などの諸大名に養子として送り込み、巧みに勢力を拡大している。
* 上杉輝虎︵後の謙信︶から名刀﹁備前三郎国宗﹂を送られた。後にこれを義宣に譲るが、義宣が刀の切っ先を削って[[脇差]]にしてしまった。愛刀家である義重はこれを嘆いたという。 * 愛刀は南北朝時代に鍛えられた﹁八文字長義﹂。[[北条氏政]]軍と戦った際に、この刀で北条方の騎馬武者を斬ったところ、その武者は兜もろとも真っ二つになり、八文字の形になって馬から落ちたという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h24/01/obj09.html|title=刀 無銘 長義 号 八文字長義|徳川美術館|accessdate=2015-5-23}}</ref>。 == 家臣 ==
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== 関連作品 ==
; 小説
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*[[今村翔吾]]『鬼の生涯』(『戦国武将伝 東日本編』収録、[[PHP研究所]]、2023年)
== 脚注 ==
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