「六条宮」の版間の差分
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[[後鳥羽天皇]]皇子で[[順徳天皇]]の同母弟・[[雅成親王]]は[[正治]]2年︵[[1200年]]︶の誕生直後、[[宣陽門院]]覲子内親王の養子となり、5歳の時に[[親王宣下]]を受けた。この時、雅成親王は宣陽門院の御所である﹁六条殿﹂で成長していたため﹁'''六条宮'''﹂と呼称されていた。その後、雅成親王は[[承久の乱]]により兄・順徳天皇に連座して一時[[但馬国]]に流されたが、後に帰京し、再び六条殿に住まいしていた。 しかし、雅成親王の子息である[[権僧正]]源空︵[[法然]]とは別人︶、[[澄覚法親王]]は﹁六条宮﹂を名乗っていない。すなわち、[[宮号]]を世襲している形跡がないことから現在まで通じる概念での宮家ではなく、六条宮 ==参考文献==
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