「准大臣」の版間の差分
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結局、まず[[寛弘]]2年(1005年)2月25日に伊周は参内の際には「大臣の下、大納言の上」に着席することとされ、ついで寛弘5年(1008年)1月16日には大臣に准じて[[封戸]]1000戸を与えられることで解決がはかられた。
伊周は自らの待遇を'''儀同三司'''︵ぎどうさんし︶と表現した。儀同三司とは、中国の[[後漢]]の時代、高級武官や皇帝の[[外戚]]などに、三司すなわち[[三公]]︵太尉・司徒・司空︶と等しい待遇を与え﹁儀、三司に同じくす﹂と呼んだことに由来する。日本では三公と言えば大臣︵太政大臣・左大臣・右大臣、あるいは左大臣・右大臣・内大臣︶を指すことから﹁大臣と同じ待遇﹂という意味でこのように自称したものである<ref group="注釈">その後の中国では、﹁儀同三司﹂は﹁開府﹂の二字を伴って﹁開府儀同三司﹂となった。これは﹁三公と同じ待遇である独自の[[家政機関]]を開設することが許された﹂待遇を意味するもので、[[高句麗]]の[[長寿王]]も[[宋 (南朝)|宋]]から認められ、[[武 (倭王)|倭王武]]もこれに対抗して上表文で自称したが しかし伊周が用いた儀同三司はあくまでも自称であり、いわば[[雅号]]のようなものだった<!--︵そもそも、伊周の位階は従二位であって従一位ではない、また同時代の記録に伊周を﹁准大臣﹂と表記した例は確認できない︶--><!-- 蛇足 -->。同時代の貴族たちは彼を前官に即してもっぱら﹁帥﹂﹁前帥﹂などと呼んでおり、正史に準ずる史書﹃[[日本紀略]]﹄にも﹁前大宰権帥﹂と書かれている。しかし文芸の世界ではこの儀同三司が好んで用いられた。伊周の母・[[高階貴子]]は当時の宮廷歌人で、その作歌﹁忘れじの行く末までは難ければ 今日を限りの命ともがな﹂は﹃[[百人一首|小倉百人一首]]﹄にも採られているが、彼女のことは﹁儀同三司母﹂と表現されている。一方、百人一首にはもうひとつ公卿の母が詠んだ歌が採られているが、こちらは﹁右大将道綱母﹂と表現されている。これと同じように高階貴子が﹁儀同三司伊周母﹂とならなかったのは、百人一首が成立した14世紀前半までの時点で﹁儀同三司﹂と呼ばれた人物はこの藤原伊周ただ一人だったためにほかならない。 |