「北イタリア」の版間の差分
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ここは元来[[ローマ人]]の地ではなく、[[ケルト人]]の[[ガリア]]の一部、[[ガリア・キサルピナ]]であった。[[ローマ帝国]]の[[テトラルキア]]時代には、ミラノが西の正帝領の首都となっている。[[ゲルマニア]]の[[ランゴバルド人]]の建国した[[ランゴバルド王国]]の名残りを残すロンバルディアなどもある。 これらの地は[[神聖ローマ帝国]]の領域となったが、同国の皇帝権が弱体であったこともあり、[[教皇派と皇帝派]]が対立する中で、自治都市が発達した。その中でも[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]は地中海の経済覇権を争い、経済力を背景に強力な海軍を保有した。当時文化の先進地であった中東・エジプトとの交易、および同様に文化先進地であった[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]への経済進出とその崩壊にともなう亡命学者の受け入れ、さらに教皇と世俗権力について合従連衡するという このように国際的商業文化を発達させた北イタリアは、[[南イタリア]]などに比べ、近代化が進んでいて平均所得が高く、イタリアの南北分離を目指した[[北部同盟 (イタリア)|北部同盟]]の支持基盤となった。 南北に二分する場合、上記の州以外を南部とする場合、[[ラツィオ州]]辺りまでを北部に含める場合(すなわち[[両シチリア王国]]領ではなかった地域)など、分け方に幅がある。
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