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<!--北尾は大相撲力士→スポーツ冒険家→プロレスラー→角界復帰の順に追って述べるため、最初に各テンプレを載せないこととする。これによって北尾のこれまでの人生をたどれるように工夫したので、編集する者はこの流れを崩さないようにお願いする。-->
{{画像提供依頼|顔写真|date=2021年5月|cat=人物}}
'''北尾 光司'''︵きたお こうじ、[[1963年]]︿[[昭和]]38年﹀[[8月12日]] - [[2019年]]︿[[平成]]31年﹀[[2月10日]]<ref name="seikyo1">{{Cite news|title=北尾光司さん 早すぎる死 元横綱・双羽黒|newspaper=FNN.jpプライムオンライン|date=2019-03-29|url=https://www.msn.com/ja-jp/sports/news/北尾光司さん-早すぎる死-元横綱・双羽黒/ar-BBVnvy6#page=2|accessdate=2019-06-28|agency=[[フジニュースネットワーク]]}}</ref>︶は == 大相撲時代 ==
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幼少期に父親の影響で[[柔道]]を始めたが、津市立敬和小学校に土俵が完成してからは毎日のように[[相撲]]を取って相撲が徐々に好きになり、地元の商店街で出場を勧められた相撲大会で優勝してからはさらに好きになった<ref group="注">父親の英才教育を受け、父親と共に毎朝10km程度走り込んでいたという。</ref><ref name="ko">光文社新書メールマガジン2015年2月配信分で行われた北尾へのインタビュー。</ref>。次第に対戦相手に困るようになると、[[立浪部屋]]後援会会員の中にアマチュア相撲三段の腕を持ち、﹁津相撲クラブ﹂の責任者を務める人物から指導を受け、津市立東橋内中学校へ入学して以降は[[立合い]]の当たりで対戦相手を土俵下まで吹っ飛ばすほどの実力を付けた。指導者の協力で、毎年の夏休みには立浪部屋へ泊まり込みで[[稽古]]し、6時に起きて周辺を5km走るのも絶対に欠かさなかった<ref name="ko"/>。中学入学後は同じ中学生に十分な相手がいなかったために[[三重中学校・高等学校|三重高等学校]]へ[[出稽古]]に出かけたが、高校生を相手に全く負けず、3年生の夏休みに[[相撲教習所]]で行われた[[日本相撲協会]]指導普及部の進級試験兼各支部対抗試合でも優勝した。中学校には相撲部や土俵が無かったためにアマチュア相撲界では無名だった北尾が、これにより角界でたちまち評判になった<ref name="ko"/>。両親はそのまま三重高等学校への進学を願ったが入門の意思は変わらず、﹁5年で[[関取]]になれなかったら帰る﹂との条件付きで、中学卒業と同時に立浪部屋に入門した<ref name="ko"/>。 [[1979年]]3月場所に[[初土俵]]を踏む。この場所、中卒で初土俵を踏んだ昭和38年生まれ力士たちは﹁[[花のサンパチ組]]﹂と呼ばれ、北尾もその一人として数えられた。初土俵を踏んだ時点で === 度重なるトラブル ===
しかし、父親が建設会社の取締役で北尾はその一人息子として甘やかされて育てられたためか、少しでも厳しい稽古をさせると﹁痛い、痛い﹂と音を上げる癖があった<ref name="shikyokitao"/>。さらに口癖のように﹁故郷へ帰らせてもらいます﹂と発言し、[[安念山治|6代立浪]]も北尾に対してではなく稽古を付けた兄弟子を注意する始末だった<ref group="注">親方曰く、﹁︵北尾は︶怒られると若い衆に八つ当たりするから誰も注意しなくなるし、私に言う人もいなくなる﹂とのこと。</ref><ref name="shikyokitao"/>。[[黒姫山秀男|黒姫山]]はこれに関して﹁幕下までは技術面に関しては手取り足取り教えますけど、関取になってからは口を出すこともない。ましてや私生活の面は、稽古が終われば僕たち親方衆は自宅へ帰ってしまいますから分かりませんからね。そのうち気が付けば、師匠が北尾に対して、腫れ物に触るかのような接し方をするようになっていて、僕らからも何も言えなくなってしまった﹂と後年語っている<ref name="kechi51"> ベースボールマガジン社﹃大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋﹄p51</ref><ref name="shikyokitao"/>。そして、[[椎間板ヘルニア]]で途中休場して入院した時は、6代立浪への不信感を抱いて本当に故郷へ帰ってしまった。これに怒った父親が北尾を追い返すと、6代立浪は罰として一年間の便所掃除を命じた。さらに[[鞭打ち症]]で途中休場して[[伊豆]]へ温泉治療に行った際には、伊豆で廃業を決意して友人の家に行ったが立浪にすぐ発見され、懇々と諭されて連れ戻された。酷い時は稽古をサボって喫茶店に行くこともあったが、6代立浪が注意しないために誰もが見て見ぬふりをしていた。だが、[[高砂部屋]]への出稽古通い<ref group="注">この高砂部屋への出稽古で目をかけてもらった[[朝潮太郎 (3代)|高砂]]が1988年10月に急逝した際、北尾は﹁廃業事件の際に大変ご迷惑を掛け、深く責任を感じている﹂という理由で通夜に参列していた。</ref>や隠れ稽古に関しては絶対に欠かさなかったという<ref>[https://web.archive.org/web/20190330135723/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032901355&g=spo 相撲史を変えた大器の挫折=元双羽黒の北尾さん死去] JIJI.COM 2019年03月29日22時58分︵時事通信社、2019年4月2日閲覧︶</ref>。また、相撲記者の荒井太郎の記事によると、若い頃は入院中に落ちた筋力を取り戻すために、退院後はたっぷりと四股を踏み、一日500回が日課のスクワットもこなしながら下半身強化に努めた他、持病の腰痛を克服するために、幕下時代には独学で太極拳をマスターするなどしたという<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/861408?page=1 “相撲界から消えた天才横綱”双羽黒こと北尾光司の素顔とは?﹁研究熱心で教え上手﹂﹁あの“やんちゃ横綱”を絶賛﹂相撲愛を貫いた55年の生涯―2024上半期読まれた記事(1/3ページ)] Number Web 2024/05/06 06:00 (文・荒井太郎、2024年5月6日閲覧)</ref>。 === 出世街道 ===
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大相撲での電撃廃業から約2年後の[[1990年]]2月10日、[[新日本プロレス]][[東京ドーム]]大会でのプロレスデビューが発表された。北尾曰く﹁アメリカで数ヶ月間、みっちり修行を重ねた﹂という触れ込みで帰国し、その際に行われた記者会見で鍛え上げられた筋骨隆々の上半身を披露。さらには[[ルー・テーズ]]の指導も受けており、北尾は﹁僕の︵プロレスの︶師匠︵と呼べる人︶は、ルーお父さんですよね﹂と語っている。リングネームは、自身が考案した﹁'''サンダーストーム北尾'''﹂を希望していたが、実際には使用されず本名でデビューする運びとなった。ただしこれは具体的に検討されていたらしく、オリジナル技の名称や入場曲<ref group="注">曲の途中に﹁Break down Thunder Storm…﹂というコーラスが入る部分がある。</ref>に名残がみられる。 デビュー戦の相手は巨体ながら優れた運動神経を持ち、全身に[[入れ墨|タトゥー]]を刻んで奇抜な外見で人気があった[[バンバン・ビガロ|クラッシャー・バンバン・ビガロ]]が選ばれた。﹁プロレスラー・北尾光司﹂の初披露は[[デーモン リングに上がった北尾は黄色い[[タンクトップ]]を引き裂くパフォーマンスを見せ、しきりに声を上げては決めポーズを取る[[アメリカンプロレス]]を意識したプロレスを展開し、デビュー戦を勝利で飾った。この試合での[[フィニッシュ・ホールド|フィニッシュ技]]は[[レッグドロップ|ギロチン・ドロップ]]で、試合運びやパフォーマンスは世界的人気レスラーである[[ハルク・ホーガン]]を意識したものだった。それでいて自信満々の態度を取って入場して相手を挑発し、さらに帰国会見時とは正反対の弛んだ上半身を晒しており、勝利して意気揚々と引き上げる容姿と思い上がった言動もあってプロレスファンからの失笑・ブーイングを買ってしまい、中には﹁帰れ!﹂コールまで起きる有り様だった。 === 北尾に対する酷評 ===
北尾の数年前に[[全日本プロレス]]でデビューした[[輪島大士|輪島]]︵第54代横綱︶にも同様の特別待遇が見られた。38歳でのプロレス転向を﹁無謀﹂であるとすら言われていたが<ref>{{Cite web|和書|title=わずか2年8カ月で歴史を変えた男。輪島大士はプロレス界の触媒だった。︵堀江ガンツ︶|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/832167|website=Number Web - ナンバー(2018年10月16日)|accessdate=2021-06-23|language=ja}}</ref>、輪島本人は横綱のプライドを捨ててしっかりと努力 大相撲廃業前から稽古嫌いで有名だったが、プロレス転向後はアメリカで真面目にみっちりと鍛えていた。しかし 対戦相手にも恵まれて勝利を収めるが、デビュー戦から改善が見られない単調な試合運びはプロレスファンの間で酷評され 当時、シングルとして発売された﹁超闘王のテーマ﹂のキャンペーンで[[中日スポーツ]]の取材に応じた北尾は﹁'''自分の試合が早く終わる また北尾は[[バンプ|受け身]]の技術に難があったため、特定の技 その後、新日本プロレスの現場責任者と[[マッチメイカー]]を兼任 北尾が退団した際には、当時社長だった[[坂口征二]]が同席しての記者会見が開かれた。
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# 待遇面に関しても新人選手ではなく、所属選手と同等・もしくはそれ以上の扱いを受けていた。
など、数々の内部事情が明るみとなる。それらの情報を公表した新日本は「トラブルなどによる解雇ではなく、本人との十分な話し合い
なお北尾の退団後、新日本プロレスへ大相撲出身の[[安田忠夫]]︵元小結・孝乃富士︶が入団した際は、北尾を特別扱いして後にトラブルとなった反省を踏まえて、安田を特別扱いはせずに新弟子扱いの所属選手として、一から厳しく鍛え直す方針に改めている。 === SWS移籍 ===
新日本プロレスから専属フリー契約を解除された北尾は、大相撲の先輩でもある[[天龍源一郎]]を慕って創立間もない[[SWS]] 別動隊の動きが立ち消えになった この試合で北尾は試合当初から不満 北尾は反則負けを宣せられた挙句に、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって﹁[[八百長]]野郎この野郎!、八百長ばっかりやりやがって!!﹂と発言。さらに観客に向かって﹁お前ら、こんな物を観て面白いのか!﹂と言い放ち、帰り際もセコンドの選手に退場を促されながら﹁この八百長野郎!、八百長!!﹂とマイクで叫んだ。観客の前でプロレス業界における﹁[[タブー|禁句]]﹂を連呼するという北尾の姿はプロレス業界全体を騒然とさせたが、北尾本人はこの直後に満足気な表情を見せて﹁どうだい、盛り上がっただろう?﹂とコメントしている<ref group="注">﹁八百長発言﹂が出た1991年4月1日の[[神戸ワールド記念ホール]]大会の2日前に、北尾とテンタは同年3月30日の東京ドーム大会で初めてシングルで対戦した。フォール負けを喫した北尾は自身の試合が終わると、同大会の全試合終了を待たずして会場から帰ってしまうトラブルを起こしている。また﹁八百長﹂事件後、一部週刊誌の報道によると、この試合で相撲時代の番付では遥かに上だった自分がテンタ相手に﹁負け役﹂をやらされた、という不満が募っていたのも事件の引き金になったと指摘している。また天龍・カブキによると、北尾は﹁負け役﹂を渋々了承していたが、天龍達に対して不信感・反感を持っていた[[若松市政]]や[[ドン荒川]]などの人物が、北尾を焚き付けたのではないかと証言・推測している。ただしこの件に関して若松や荒川の証言が無いため、その真相は不明である。</ref>。 160行目:
北尾の没後、当時控室にいた[[船木誠勝]]が動画サイトで舞台裏を証言している<ref name="Funaki's comment">[https://www.youtube.com/watch?v=VwXTxQxAupo&t=595s 北尾vs.テンタ戦は八百長発言より﹃うるせえババア!﹄の方が問題です︵船木誠勝︶ - YouTube] ︵2019年5月24日︶</ref>。それによると試合直後の控室で、一連の言動を注意した現場監督の田中社長夫人に対して北尾が罵声を浴びせた上に、さらに椅子を投げ付ける暴挙にも及んだという。もし椅子が直撃していたら怪我では済まなかったこの行為に関して、船木は例の発言よりも悪質だったと述べている。また田中社長本人はこの日を境に、レスラーへの態度を一変させてしまったという<ref name="Funaki's comment"/><ref group="注">当日の第1試合[[鈴木みのる]]対[[アポロ菅原]]戦でも、両者の技の受け合いが一向に始まらないまま時間が経過し、最後は菅原の試合放棄で決着した。これを含めた当日の試合について社長夫人が控室のレスラーらに向かって叱責した所に、北尾の上記の反応となった。</ref>。また現場に居合わせた[[谷津嘉章]]も同様の発言をしている<ref name="Yatu's comment">[https://www.youtube.com/watch?v=aIh2fhyo7_w ︻不穏試合︼あの日、試合会場で谷津が見たことを全て語ります!北尾光司vsジョン・テンタ‥神戸ワールド記念ホール︻谷津嘉章︼ - YouTube]︵2021年4月20日︶</ref>。また北尾はこの試合をマッチメイクしたカブキに対して、相当な不満をぶちまけていたという<ref name="Yatu's comment"/>。この事実について、当時のプロレスマスコミは一切報じていなかった。 なお、[[藤原喜明]]の証言によると、SWSサイドでは北尾を一旦解雇した後、[[藤原組|プロフェッショナルレスリング藤原組]]のリングで復帰 天龍は過去を振り返り、SWS時代の北尾を﹁新日本プロレスのリングでデビューし、SWSに来たんだけど、結局﹃︵プロレス界に︶来てやったんだ﹄が捨てられなかったようだ﹂﹁北尾に受け身とか試合運びを教えると﹃天龍さん、俺が一気に力を出したら相手はぶっ壊れちゃいますよ﹄ってそればっかりで、真面目に練習しないんだから。﹃客にショー的な部分も見せて初めてプロレス、初めてプロレスラー北尾だ﹄って何度言っても分かってくれなかったね﹂﹁会社の移動バスに乗っても﹃長いんだよバスは! こうして新日本プロレス・SWSと立て続けに解雇
=== 復帰と引退 ===
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初期の[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]や[[UFC]]にも参戦し、[[1996年]][[4月5日]]に行われた﹁第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング﹂では、ペドロ・オタービオと対戦して1R5分49秒、グラウンドでの肘打ちで敗れた。同年[[5月17日]]に行われた[[UFC 9]]では、 マーク・ホールと対戦、鼻の骨折によるドクターストップで敗れた。[[1997年]][[10月11日]]には[[PRIDE.1]]において[[ネイサン・ジョーンズ]]と対戦、総合格闘技戦で初勝利を挙げる。 [[1998年]][[5月1日]]に開催された[[全日本プロレス]]・[[東京ドーム]]大会では、同じ大相撲出身の[[田上明]]とのシングルマッチが組まれたが、カード発表直後にキャンセル<ref group="注">キャンセルとなった事情は明らかになっていない。もちろんキャンセルが確定した後だが、北尾は大会と同日、すなわち真裏で行われた[[大日本プロレス]]の[[戸田市スポーツセンター]]大会に参戦、8人タッグマッチに出場している。</ref>。その後「やりたいことをやり終えた」として現役引退を表明。同年7月18日、[[北原光騎]]主催のキャプチャー・新宿ACBホール大会で北原を相手に引退試合を、同年10月11日の[[PRIDE.4]]で引退セレモニーを行った<ref>{{Cite web|和書|title=【追悼】「北尾さんがいなければ僕は…」“プロレスラー”北尾光司さん逝去に弟子の望月成晃、高田延彦氏が悼む |url=https://npn.co.jp/article/detail/37250098 |website=リアルライブ |access-date=2023-06-07 |date=2019年04月01日}}</ref>。武輝道場は
== 角界復帰、晩年、死去 ==
プロレスの引退から5年後の2003年、日本相撲協会所属ではないフリーの立場ながら、代替わりした第7代立浪部屋のアドバイザーに就任。元付け人でかつて部屋を脱走したと報じられた[[羽黒海憲司|羽黒海]]︵引退後、立浪部屋の[[世話人]]︶の要請で、短期間ながら﹁報酬はいらない。今でも相撲が好きだ﹂と[[猛虎浪栄]]ら後進に熱心に指導を行っていたという。当時三段目で停滞していた猛虎浪は北尾の指導で殻を破った。北尾は番数はあまり多く取らせなかったが、指導が細かくてうまかったという評判であった<ref name="1year">[https://number.bunshun.jp/articles/-/861408?page=3 “相撲界から消えた天才横綱”双羽黒こと北尾光司の素顔とは?﹁研究熱心で教え上手﹂﹁あの“やんちゃ横綱”を絶賛﹂相撲愛を貫いた55年の生涯―2024上半期読まれた記事(3/3ページ)] Number Web 2024/05/06 06:00 (2024年5月6日閲覧)</ref>。現役時代に使用した[[廻し|化粧回し]]を日本相撲協会に寄贈した<ref name="mizoumaru">[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2019/03/30/kiji/20190330s00005000173000c.html 北尾さん 関係者が素顔明かす﹁角界を去ってからは別人のように優しかった﹂] Sponichi Annex 2019年3月30日 05:30︵スポーツニッポン新聞社、2019年3月31日閲覧︶</ref>。アドバイザー在任は短期間(1年ほどという説もある<ref name="1year"/>)であったことが後年判明しているが<ref name="38men"/>、歴代の横綱が集まる横綱会へ出席するなど日本相撲協会との関係も改善し、現役時代の暴れん坊のイメージとはかけ離れた優しさでも知られるようになった<ref name="mizoumaru" />。 退任後、宴席で同席した相撲関係者が尋ねたところ、[[岐阜県]][[関市]]でナイフのデザイナーをしていると答えたという<ref name="kitaosponichi">[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2019/03/30/kiji/20190330s00005000172000c.html 北尾光司さん 55歳の若さで死去 第60代横綱双羽黒 13年から闘病生活] Sponichi Annex 2019年3月30日 05:30(スポーツニッポン新聞社、2019年3月31日閲覧)</ref>。
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|[[青葉城幸雄|青葉城]]||1||1
|[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]||12||4
|[[旭富士正也|旭富士]]||12||6
|[[板井圭介|板井]]||7||1
501行目:
* [[立浪部屋]]
* [[千代の富士貢]]
* [[若羽黒朋明]] - 立浪部屋所属・自由奔放な性格・現役時代に異端児扱いを受けていた・大関以上に昇進しながら年寄名跡を襲名することなく廃業したなど、双羽黒との共通事項が多い。ちなみに双羽黒が横綱に昇進 * [[シルバーコレクター]]
* [[プロレスラー一覧]]
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[[Category:元大相撲力士のタレント]]
[[category:障害を持つ人物]]
[[Category:不祥事により引退した大相撲力士]]
[[Category:三重県出身の人物]]
[[Category:1963年生]]
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