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画像の説明→「遭難地近隣の清水谷公園に立つ石碑」。レファレンス協同データベースより浜寺公園「惜松碑」についてを外部リンク |
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=== 幕末 ===
[[弘化]]3年︵[[1846年]]︶から藩の記録所書役助として出仕する。[[嘉永]]3年︵[[1850年]]︶の[[お由羅騒動]]では連座して罷免され謹慎処分となる。[[島津斉彬]]が藩主となると謹慎を解かれ、[[嘉永]]6年︵[[1853年]]︶5月に記録所に復職し、御蔵役となる。[[安政]]4年︵[[1857年]]︶[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]、西郷と共に [[1865年]]1月下旬~5月の間に'''利通'''と改名する(久光の七男・真之助が元服し、[[島津忠済|久済]]と名乗ったため憚ったという<ref>大久保利通日記1</ref>)。
文久2年には、久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の[[岩倉具視]]らと共に[[公武合体]]路線を指向して、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]の将軍後見職、福井藩主[[松平慶永]]の[[政事総裁職]]就任などを進めた。西郷や小松と共に政治の中枢として活動する。慶応2年︵[[1866年]]︶には、第二次[[長州征伐]]に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。慶応3年︵[[1867年]]︶に、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、[[四侯会議]]を開催させる。しかし四侯会議は慶喜によって分解させられたため、今までの公武合体路線を変えて、倒幕路線を指向することになる。[[公議政体論|公議政体派]]の[[土佐藩]]との間で[[薩土盟約]]を結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。その土佐藩の建白により江戸幕府将軍・徳川慶喜が[[大政奉還]]を行うと、岩倉ら倒幕派公家と共に、[[王政復古 (日本)|王政復古]]の[[クーデター]]を計画して実行する。王政復古の後、[[参与]]に任命され、[[小御所会議]]にて慶喜の辞官納地を主張した。 |