「天狗党の乱」を編集中
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幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも[[幕府海軍]]の「[[黒竜丸|黒龍丸]]」が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた[[山野辺義芸]]は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の[[助川海防城]]も攻撃を受けて9月9日に落城した。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城したが、これも幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。敗走した田中隊は、最終的に[[棚倉藩]]を中心とする軍勢に[[八溝山]]で討伐され、そのほとんどが捕われて処刑された。 |
幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも[[幕府海軍]]の「[[黒竜丸|黒龍丸]]」が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた[[山野辺義芸]]は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の[[助川海防城]]も攻撃を受けて9月9日に落城した。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城したが、これも幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。敗走した田中隊は、最終的に[[棚倉藩]]を中心とする軍勢に[[八溝山]]で討伐され、そのほとんどが捕われて処刑された。 |
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[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]、﹁幕府に真意を訴える機会を与える﹂という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ[[切腹]]させられた。この時、頼徳の家臣ら1,000人余りが投降する。このとき降伏した榊原ら43名は後に[[佐倉藩]]や[[古河藩]]などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。[[常陸宍戸藩]]は[[改易]]に処されたが、これは[[江戸幕府]]最後の[[改易]]となった。また[[大名]]の[[改易]][[切腹]]は[[宝永]]6年︵[[1709年]]︶に[[江戸城]]内で刃傷事件を起こした[[ |
[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]、﹁幕府に真意を訴える機会を与える﹂という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ[[切腹]]させられた。この時、頼徳の家臣ら1,000人余りが投降する。このとき降伏した榊原ら43名は後に[[佐倉藩]]や[[古河藩]]などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。[[常陸宍戸藩]]は[[改易]]に処されたが、これは[[江戸幕府]]最後の[[改易]]となった。また[[大名]]の[[改易]][[切腹]]は[[宝永]]6年︵[[1709年]]︶に[[江戸城]]内で刃傷事件を起こした[[前田利昌]]以来、約155年ぶりであった。
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天狗党の乱最大の激戦地となった那珂湊は、民家、社寺、その他大半を失う大打撃を被った{{sfn|﹃茨城県の地名﹄|1982|p=217}}。この結果、鉄製大砲を鋳造していた[[那珂湊反射炉]]の煙突が大破し、使用不能となった{{sfn|佐藤|1988|pp=91-92}}。那珂湊反射炉は藤田東湖の尽力で建設された経緯があることから、父が造った反射炉を息子︵藤田小四郎︶が破壊する結果となった{{sfn|金子|1995|pp=382-383}}。
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天狗党の乱最大の激戦地となった那珂湊は、民家、社寺、その他大半を失う大打撃を被った{{sfn|﹃茨城県の地名﹄|1982|p=217}}。この結果、鉄製大砲を鋳造していた[[那珂湊反射炉]]の煙突が大破し、使用不能となった{{sfn|佐藤|1988|pp=91-92}}。那珂湊反射炉は藤田東湖の尽力で建設された経緯があることから、父が造った反射炉を息子︵藤田小四郎︶が破壊する結果となった{{sfn|金子|1995|pp=382-383}}。
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