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{{Redirect|天狗党|映画|天狗党 (映画)}}
{{Battlebox
|battle_name=天狗党の乱
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|place=[[水戸]]、[[筑波山]]→[[敦賀市|敦賀]]
|result=幕府軍の勝利、天狗党の降伏
|combatant1=
|combatant2=天狗党<br />[[常陸宍戸藩|宍戸藩]]兵(大発勢)
|commander1={{flagicon|JPN1889}}[[田沼意尊]]<br />{{flagicon|JPN1889}}[[市川弘美|市川三左衛門]]<br />{{flagicon|JPN1889}}[[徳川慶喜]]
|commander2=[[武田耕雲斎]]<br />[[藤田小四郎]]<br />[[山国兵部]]<br />[[松平頼徳]]
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|casualties2=降伏(352人が斬首)
}}
'''天狗党の乱'''︵てんぐとうのらん︶は、[[元治]]元年︵[[1864年]]︶に[[筑波山]]で挙兵した[[水戸藩]]内外の[[尊王攘夷]]派︵天狗党︶によって起こされた一連の争乱。'''元治甲子の乱'''︵げんじかっしのらん︶<ref group=注>元治元年︵甲子年︶に起こったことから。</ref>{{sfn|﹃水戸市史 中巻︵五︶﹄|1990|p=186}}ともいう。 23行目:
== 背景 ==
=== 天狗党の発生 ===
[[文政]]12年︵[[1829年]]︶9月、重病に伏していた[[水戸藩]]第8代藩主・[[徳川斉脩]]は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・ こうして権力を得た一派は、反対派から﹁一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている﹂ということで、'''天狗党'''と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、[[弘化]]2年︵[[1845年]]︶10月に[[老中]][[阿部正弘]]に対し、江戸では高慢な者を﹁天狗﹂と言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を﹁天狗﹂と言うのだと主張している{{sfn|﹃水戸学と明治維新﹄|2003|p=179}}。とはいえ、天狗党という集団はその内部においても盛んに党争と この時期において天狗党への反対派の中心人物となったのは門閥出身の[[結城朝道]]︵寅寿︶であった。もともと朝道は斉昭に重用されていたが、穏健な政策を志向する結城の下には次第に斉昭の藩主就任に反対して弾圧された門閥層や、かつて東湖の父・[[藤田幽谷]]と熾烈な党争を繰り広げた[[立原翠軒]]派の残党など、天狗党主導の政策に反発する者達が集まり、次第に勢力を増していった。斉昭と親密であった[[水野忠邦]]が失脚すると、後任の阿部正弘は、[[天保]]15年︵[[1844年]]︶5月に斉昭を強制的に隠居させ、朝道に水戸藩政の修正を命じた。斉昭はその後一時復帰した忠邦によって謹慎を解かれ、第10代藩主[[徳川慶篤]]の後見として復権。[[嘉永]]6年︵[[1853年]]︶の[[黒船来航]]を期に斉昭が幕府から海防参与を命じられると、水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に[[尊皇攘夷|尊王攘夷派]]が形成された。 37行目:
=== 横浜鎖港路線の成立 ===
[[File:水戸藩小石川邸と後楽園(文久3年)、『御上京道記』、Koishikawa residence of Mito Domain
水戸藩尊攘派の活動が再び活発となるのは[[文久]]2年︵[[1862年]]︶である。この年、[[長州藩]]等の尊攘派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。水戸藩においても、[[武田耕雲斎]]ら激派が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。翌文久3年︵1863年︶3月、将軍[[徳川家茂]]が朝廷の要求に応じて上洛することとなり、これに先立って[[将軍後見職]]に就任していた一橋慶喜が上洛することとなると、一橋徳川家当主で配下の家臣団が少ない慶喜のため、慶喜の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。水戸藩主[[徳川慶篤]]には、武田耕雲斎、[[山国兵部]]、[[藤田小四郎]]など、後に乱を主導することになる面々が追従し、小四郎らは京都において、長州藩の[[木戸孝允|桂小五郎]]、[[久坂玄瑞]]らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。 [[文久3年]]5月、小四郎は一橋慶喜に追従して江戸に戻るが、[[八月十八日の政変]]により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。しかしなお天皇の攘夷の意思は変わらず、政変直前に幕府が表明していた[[横浜港]]の鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した。9月、幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉を開始するが、幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、あくまで横浜鎖港を推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じた。このころ諸藩の尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士らが群集することとなった{{sfn|﹃水戸市史 中巻︵五︶﹄|1990|p=192}}。小四郎は長州藩と連携した挙兵計画を構想し、耕雲斎の強い慰留にも 文久4年︵[[1864年]]︶1月、将軍家茂は老中らとともに前年3月に続く再度の上洛を果たし、[[参預会議]]を構成する諸侯と幕閣との間で横浜鎖港を巡る交渉が行われた。ここでも一橋慶喜は横浜鎖港に反対する他の参預諸侯と対立し、参預会議を解体に追い込んだ。朝廷から[[禁裏御守衛総督]]に任命された慶喜は、元治元年︵文久4年2月改元、1864年︶4月には水戸藩士の[[原市之進]]・[[梅沢孫太郎]]を家臣に登用し、武田耕雲斎に依頼して200~300名もの水戸藩士を上京させて自己の配下に組みこむなど、水戸藩勢力との提携を深めた。天狗党の挙兵はその最中に勃発したのである。 82行目:
筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまう。大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もあったが、結局共に諸生党と戦うことになった。この合流によって、挙兵には反対であった耕雲斎も筑波勢と行動を共にする事になる。 幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも[[幕府海軍]]の﹁[[黒 [[10月5日 (旧暦)|10月5日]]、﹁幕府に真意を訴える機会を与える﹂という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ[[切腹]]させられた。この時、頼徳の家臣ら1,000人余りが投降する。このとき降伏した榊原ら43名は後に[[佐倉藩]]や[[古河藩]]などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。[[常陸宍戸藩]]は[[改易]]に処されたが、これは[[江戸幕府]]最後の[[改易]]となった。また[[大名]]の[[改易]][[切腹]]は[[宝永]]6年︵[[1709年]]︶に[[江戸城]]内で刃傷事件を起こした[[前田利昌 (大聖寺新田藩主)|前田利昌]]以来、約155年ぶりであった。 天狗党の乱最大の激戦地となった那珂湊は、民家、社寺、その他大半を失う大打撃を被った{{sfn| === 天狗党の西上 ===
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11月16日、上州[[下仁田]]において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦した。激戦の末、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走した︵下仁田戦争︶。また、11月20日には信州[[諏訪湖]]近くの[[和田峠 (長野県)|和田峠]]において[[諏訪藩|高島藩]]・[[松本藩]]兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出したが天狗党が勝利した︵和田峠の戦い︶。天狗党一行は[[伊那谷]]から[[木曾谷]]へ抜ける[[東山道]]を進み美濃の[[鵜沼宿]]︵[[岐阜県]][[各務原市]]︶付近まで到達するが、[[彦根藩]]・[[大垣藩]]・[[桑名藩]]・[[尾張藩]]・[[犬山藩]]などの兵が街道の封鎖を開始したため、天狗党は中山道を外れ北方に迂回して京都へ向って進軍を続けた。 天狗党が頼みの綱とした一橋慶喜であったが、慶喜は自ら朝廷に願い出て、[[加賀藩]]・会津藩・桑名藩の4000人の兵を従えて天狗党の討伐に向った。揖斐宿︵岐阜県[[揖斐川町]]︶に至った天狗党は、警備の厳重な[[琵琶湖]]畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し === 投降 ===
[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]、天狗党一行は越前国新保宿︵[[福井県]][[敦賀市]]︶に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。前方を封鎖していた加賀藩の監軍・ 永原は投降した天狗党員を諸寺院に収容し、かなりの厚遇をもって処した<ref group=注>ただし、加賀藩側の天狗党に対する評価は﹁是に於てか、尊王も佐幕もなく、攘夷もなく開国もない。唯有るものは一藩内の勢力争奪の為めにする交刃と砲火とのみであった﹂というものであった。︵﹃水戸浪士西上録﹄218頁。石川県図書館協会、1934年︶</ref>。しかし、田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると状況は一変する。関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員を鰊倉︵[[鰊粕]]の貯蔵施設︶の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められたために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。 この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年[[3月1日]]︵元治2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]︶、武田耕雲斎ら幹部24名が == 乱後 ==
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では[[市川三左衛門]]ら諸生党が中心となって女児・幼児を含む天狗党の家族らをことごとく処刑した。那珂湊反射炉の関係者は、直接戦闘に参加したわけではないが、尊王攘夷派であるという理由で、[[自殺|自刃]]や獄死に追い込まれる者が多かった{{sfn|佐藤|1988|p=92}}。 一方、遠島に処せられることになった[[武田金次郎]](耕雲斎の孫)以下110名の身柄は敦賀を領していた[[小浜藩]]に預けられていたが、家茂が死去して慶喜が将軍位に就くと、配流は中止されて謹慎処分へと変更されることになった。小浜藩主[[酒井忠氏]]は、先代の[[酒井忠義 (小浜藩主)|忠義]]が南紀派の中心人物の一人として安政の大獄を主導したことを怨む慶喜が小浜藩に復讐するのではないかと警戒し、金次郎らを[[若狭国]][[三方郡]][[佐柿]]([[福井県]][[美浜町 (福井県)|美浜町]])の屋敷に移して厚遇した。
慶応2年12月([[1867年]]1月)、天狗党の残党・[[中村勇吉]]、[[相楽総三]]、里見某ら複数名が乾退助(のちの[[板垣退助]])を頼って江戸に潜伏。当時、江戸[[築地]]土佐藩邸の惣預役(総責任者)であった乾退助は、[[参勤交代]]で藩主が[[土佐]]へ帰ったばかりで藩邸に人が少ないのを好機として、独断で彼等を藩邸内に匿う<ref>『幕末維新(第5編)』山内家史料刊行委員会編纂、672頁</ref><ref name="itagaki kun den">『板垣退助君伝 第1巻』[[栗原亮一]]、宇田友猪著、[[自由新聞|自由新聞社]]、1893年</ref>。
[[慶応]]4年([[1868年]])に[[戊辰戦争]]が勃発すると、金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた[[本圀寺党]]と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。天狗党と本圀寺党(両者を併せて「さいみ党」と称した<ref group=注>細布(さいみ)と呼ばれる麻の、官軍支給品の陣羽織を着用していた。</ref>{{sfn|『武田金次郎』|2001|p=59}})は水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。▼
[[File:Monument of Satsu Do Toubaku no Mitsuyaku.jpg|thumb|200px|「[[薩土密約|薩土討幕之密約紀念碑]]」<br>密約が締結される前段階として京都[[東山区|東山]]「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑<br>京都市東山区([[祇園]])]]
慶応3年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]](太陽暦[[6月23日]])、[[中岡慎太郎]]の仲介によって、[[土佐藩]]・[[板垣退助|乾退助]]と[[薩摩藩]]・[[西郷隆盛]]の間で締結された'''[[薩土討幕の密約]]'''では、この浪士らの身柄を土佐藩邸から薩摩藩邸へ移管することも盛り込まれた<ref name="itagaki kun den" />。翌[[5月22日 (旧暦)|5月22日]](太陽暦[[6月24日]])に、乾は薩摩藩と締結した密約を[[山内容堂]]に稟申し、同時に勤王派水戸浪士を江戸藩邸に隠匿している事を告白。土佐藩の起居を促すと、容堂はその勢いに圧される形でこの軍事密約を承認し、退助に軍制改革を命じた。土佐藩は乾を筆頭として軍制改革・近代式練兵を行うことを決定。薩摩藩側も[[5月25日 (旧暦)|5月25日]](太陽暦[[6月27日]])、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。慶応3年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]([[1867年]][[10月6日]])、土佐藩お抱えの刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)は、乾退助が江戸築地の土佐藩邸(中屋敷)に天狗党残党(筑波浪士)を隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する計画を立てていると、土佐藩重役・[[寺村道成|寺村左膳]]に対し密告を行った。行秀は乾退助が水戸浪士・[[中村勇吉]]に宛た書簡の写しを証拠として所有しており、退助の失脚を狙って左膳に密告したものである<ref name="『土佐維新史料』書翰篇1">『土佐維新史料』書翰篇(1)</ref>。「この事が容堂公の耳に入れば、退助の命はとても助からないであろう」と言う話を漏れ聞いた[[清岡公張]](半四郎)は、[[土佐勤王党]]の一員であった島村寿太郎([[武市瑞山]]の妻・富子の弟で、瑞山の義弟)に乾退助を脱藩させることを提案。島村が退助に面会して脱藩を勧めた。しかし、退助は容堂の御側御用役・西野友保(彦四郎)に対し、水戸浪士を藩邸に隠匿していることは、既に5月22日([[薩土討幕の密約]]締結を報告の際)に自ら容堂公へ申し上げている事であるため、既に覚悟は出来ており御沙汰を俟つのみであると返答している。果たしてこれに対して容堂は「退助は暴激の擧(きょ)多けれど、毫(すこし)も邪心なく私事の爲に動かず、群下(みな)が假令(たとへ)之(これ)を争ふも余(容堂)は彼(退助)を殺すに忍びず<ref name="Meijikoushinroku">『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)</ref>」と答えたため事なきを得る<ref name="ishin keireki"> 板垣退助『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』159頁、『板垣退助君戊辰戦略』他より。</ref>。慶応3年10月、この浪士たちが、土佐藩から[[薩摩藩]]へ移管されると、西郷の意を受けて[[庄内藩]]などを挑発し[[戊辰戦争]]の前哨戦となる'''[[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]'''へ発展した<ref name="itagaki kun den" />。
▲[[慶応]]4年1月3日︵[[1868年]][[1月27日]]︶ 水戸を脱出した諸生党は[[北越戦争]]・[[会津戦争]]等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった︵[[弘道館戦争]]︶。彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の[[松山戦争]]で壊滅した。こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、金次郎らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。 118 ⟶ 122行目:
== 行程 ==
元治元年11月1日'''大子'''発 -2日 '''川原''' -3日 '''越堀''' -4日 '''高久''' -5日 '''矢板''' -6日 '''小林''' -7日 '''鹿沼''' -8日 '''大柿''' -9日 '''葛生''' -10日 '''梁田''' -11、12日 '''太田''' -13日 '''本庄''' -14日 '''吉井''' -15日 '''下仁田''' -16日 '''本宿''' -17日 '''平賀''' -18日 '''望月''' -19日 '''和田''' -20日 '''下諏訪''' -21日 '''松島''' -22日 '''上穂''' -23日 '''片桐''' -24日 '''駒場''' -25日 '''清内路''' -26日 '''馬籠''' -27日 '''大井''' -28日 '''御嵩''' -29日 '''鵜沼''' -30日 '''天王''' -12月1日 '''揖斐''' -2日 '''金原・日当''' -3日 '''長嶺''' -4日 '''大川原''' -5日 '''秋生''' -6日 '''中島''' -7日 '''宝慶寺''' -8日 '''薮田''' -9、10日 '''今庄''' -11日 '''新保'''
== 処刑対象 ==
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*諸生党によって斬首された田丸稲之衛門の次女・八重は、まだ17歳の若さながら下記の句を残した。
:''引きつれて死出の旅路も花ざかり''
*天狗党に参加した常陸久慈の僧侶・不動院全海は、その剛力から﹁今弁慶﹂と呼ばれていたが、和田峠の戦いで討死した{{Sfn| *[[渋沢栄一]]は、藤田小四郎を筆頭として天狗党員には知己が数多くいた。その中の一人、信州飯田郷士の薄井龍之は藤田から命を受けて、京都で一橋慶喜の家臣を勤めていた渋沢にひそかに面会に行ったが、天狗党との関係が露見することを怖れた渋沢に追い払われた<ref>{{Cite book|和書|title=歴史を射つ|date=2015|year=|publisher=御茶の水書房|pages=281}}</ref>。 *敦賀の古老が身近な人々に語った(戦時中頃か)ことによれば、天狗党の処刑は公開で行われたので見物に行ったが、引き出された党員は逃亡を阻止するためか両足を竹に括られていたという。
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*天狗党の処刑地である[[敦賀市]]は、昭和40年([[1965年]])に[[水戸市]]と[[姉妹都市]]となっている。悲惨な待遇や処刑は幕府軍が行ったもので、地元の小浜藩は当時から同情的であったとされている。
[[ファイル:Mito-resshi-tsuito-no-hi.jpg|thumb|水戸烈士追悼碑]]
* 福井県敦賀市松島町には、天狗党員353名が処刑後に埋葬された塚があり、﹁[[武田耕雲斎等墓]]﹂として国の史跡に指定されている。塚の近くには﹁水戸烈士追悼碑﹂や耕雲斎の像が建てられている。また、明治7年︵1874年︶には、刑死者353名に加え、戦死・戦病死者も合わせた411名の天狗党員を祀った松原神社が、市道を挟んで、塚の西側に建立され、毎年10月10日には例祭が行われている。さらに、昭和29年︵1954年︶には、天狗党員が監禁された鰊蔵が境内に移築され、水戸烈士記念館となっている。 *昭和44年(1969年)、水戸市松本町に天狗党員を祀った[[回天神社]]が建立された。昭和32年(1957年)に敦賀市から水戸市常磐町の[[常磐神社]]に移築された鰊蔵が、平成元年(1989年)に回天神社境内に再移築され「回天館」として天狗党資料の展示が行われており、扉や板壁などには天狗党員の絶筆が残されている。▼
* 群馬県甘楽郡[[下仁田町]]には、下仁田町歴史館に「元治元年水戸天狗党下仁田戦争懐古碑」及び、天狗党の変145年記念として植樹された「烈公梅」があり、山際稲荷神社(山際公園)に[[小松宮彰仁親王]]揮毫による「義烈千秋の碑」、及び「維新之礎碑」が、本誓寺等に天狗党員、高崎藩士の墓がある。町内下小坂には[[勝海舟]]揮毫による「高崎藩士戦死之碑」が建てられており、高崎藩本陣が置かれた里見家の蔵には下仁田戦争時の弾痕が残っている。▼
*天狗党員の家族らが処刑された水戸赤沼牢跡には慰霊碑が建てられている。▼
* 長野県諏訪郡[[下諏訪町]]の[[和田峠 (長野県)|和田峠]]古戦場付近には天狗党戦死者を供養する「浪人塚」がある。▼
*茨城県[[ひたちなか市]]には那珂湊の戦いに関しての石碑等が多く存在し、鶴代地区には、部田野原での戦闘の戦死者を葬った「首塚」及びこれを供養した「忠勇戦士の墓」と「天狗党員墓」があり、三反田地区の百色山見本林には「天狗党百色山戦場供養碑」がある。中根堂山墓地には幕府側で戦った福島藩士を葬った「元治甲子乱戦死墓」があり、田彦地区には田彦宿の戦闘で戦死した宇都宮藩士9人を葬った「宇都宮藩士九人之墓」および役夫2人の「宇都宮藩役夫両人之墓」がある。また、天狗党本陣があった聴法寺には「筑波勢本陣跡」の碑が、和尚塚古墳には、部田野原での戦闘における天狗党の陣跡として「天狗勢稲荷山陣地跡」の石碑が建てられている。▼
*
*
*茨城県[[行方市]]には[[麻生藩]]に処刑された天狗党員を供養する「天狗塚」、[[大宮神社]]境内には天狗党の忠魂碑がある。▼
▲* 昭和44年︵1969年︶、水戸市松本町に天狗党員を祀った[[回天神社]]が建立された。昭和32年︵1957年︶に敦賀市から水戸市常磐町の[[常磐神社]]に移築された鰊蔵が、平成元年︵1989年︶に回天神社境内に再移築され﹁回天館﹂として天狗党資料の展示が行われており、扉や板壁などには天狗党員の絶筆が残されている。 ▲* 天狗党員の家族らが処刑された水戸赤沼牢跡には慰霊碑が建てられている。
*栃木県那須郡[[那須町]]には[[八溝山]]で破れ、処刑された天狗党「浮浪徒十四人墓」がある。▼
▲* *栃木県[[栃木市]]の[[太平山 (栃木県)|太平山]]には天狗党の記念碑がある。▼
*
* [[笠間市]]池野辺には天狗党員の「首塚(天狗塚)」や「胴塚」がある。同市大田町の養福寺には天狗党殉難碑がある。
*福島県東白川郡[[塙町]]の「道の駅はなわ」敷地内には「田中愿蔵刑場跡」の碑があり、茨城県つくば市の普門寺には田中愿蔵らを鎮魂する「田中忠蔵隊陣営の跡」の石碑がある。茨城県[[常陸太田市]]東連地には「田中愿蔵生誕の地」の石碑がある。▼
▲*群馬県甘楽郡[[下仁田町]]には、下仁田町歴史館に﹁元治元年水戸天狗党下仁田戦争懐古碑﹂及び、天狗党の変145年記念として植樹された﹁烈公梅﹂があり、山際稲荷神社︵山際公園︶に[[小松宮彰仁親王]]揮毫による﹁義烈千秋の碑﹂、及び﹁維新之礎碑﹂が、本誓寺等に天狗党員、高崎藩士の墓がある。町内下小坂には[[勝海舟]]揮毫による﹁高崎藩士戦死之碑﹂が建てられており、高崎藩本陣が置かれた里見家の蔵には下仁田戦争時の弾痕が残っている。 * [[つくば市]]の[[筑波山神社]]には天狗党の顕彰碑及び藤田小四郎の像がある。また、[[栗原村 (茨城県)|栗原]]地区には土浦藩によって当地で討伐された19人を供養した天狗塚がある。<ref group=注>但し横瀬夜雨の『天狗塚』では、討伐されたのは12人のはずが昭和の改葬の際に掘り出したところ19人分の骨が出てきたとされ、素人の数え間違いか古い塚か墓に投げ込んだからではないかと推測している。</ref>
▲*長野県諏訪郡[[下諏訪町]]の[[和田峠 (長野県)|和田峠]]古戦場付近には天狗党戦死者を供養する「浪人塚」がある。
=== 栃木県 ===
* [[宇都宮市]]の[[英巌寺]]児童公園には、宇都宮藩と天狗党の乱との関わりを記した﹁水戸之役戦功之碑﹂がある{{sfn|徳田 編|1972|p=10}}。 === 福島県 ===
* 東白川郡[[棚倉町]]には八溝山で破れて[[棚倉藩]]に処刑された天狗党員を供養するため、藩主[[松平康英]]が建立した「三界万霊塔」がある。
▲*
== 関連作品 ==
=== 小説 ===
* [[島崎藤村]] 『[[夜明け前]]』(新潮文庫、岩波文庫ほか)
* [[大佛次郎]] 『[[天皇の世紀]]』(朝日新聞社、文春文庫)
* 光武敏郎『天狗党が往く』(秋田書店)
* [[山田風太郎]]『魔群の通過 天狗党叙事詩』(文春文庫)
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* [[横山光輝]]「飛猿斬り」(講談社文庫『火盗斬風録』収録)
* [[吉村昭]]『天狗争乱』(新潮文庫、朝日文庫)
::[[1994年]]度の[[大佛次郎賞]]受賞作。
* 杉田幸三『天狗党血風録』(毎日新聞社)
* [[伊東潤]]
* {{Cite book |和書 |author= 大石忠良
* 穂積忠『忠が不忠になるぞ悲しき: 水戸藩諸生党始末』(日新報道、2011年)
* [[朝井まかて]]『恋歌』(講談社、2013年)のち文庫
* 広田文世『天狗壊滅』(筑波書林、2017年)
* 鯉渕義文『烈士たちの挽歌-水戸藩党争始末-』(林試の森書房、2018年)
=== 映画 ===
* [[山本薩夫]]監督『[[天狗党 (映画)|天狗党]]』(大映京都、1969年11月15日公開)
:[[三好十郎]]の戯曲﹁斬られの仙太﹂を原作に[[高岩肇]] 、稲垣俊が脚色。[[仲代達矢]]、[[加藤剛]]、[[若尾文子]]、[[十朱幸代]]らが出演した映画。 ▲=== TVドラマ ===
=== TVドラマ ===
* 『[[天皇の世紀#第一部(テレビドラマ)|天皇の世紀]]』 第一部 13話 「壊滅」(朝日放送、1971年)
* 『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]
* 『[[青天を衝け]]』(NHK大河ドラマ、2021年)
=== 楽曲 ===
* [[北島三郎]] 『[[あゝ水戸浪士]]』 ([[1966年]] 詞:[[星野哲郎]]/作編曲:山崎正清)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注|2}}
=== 出典 ===
{{
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |title= 栃木市史 通史編|publisher=栃木県栃木市|year=1988|ref={{sfnref|『栃木市史 通史編』|1988|pages= 874-876}}}}
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* {{cite book|和書|author=金子功|title=反射炉II 大砲をめぐる社会史|series=ものと人間の文化史 77-II|publisher=[[法政大学出版局]]|date=1995-04-28|page=448|isbn=4-588-20772-5|ref={{sfnref|金子|1995}}}}
* {{cite book|和書|author=佐藤和賀子|title=那珂湊の反射炉|series=ふるさと文庫|publisher=[[筑波書林]]|date=1988-03-05|page=103|ref={{sfnref|佐藤|1988}}}}{{全国書誌番号|88042081}}
* {{cite book|和書|title=茨城県の地名|publisher=[[平凡社]]|series=[[日本歴史地名大系]]第八巻|date=1982-11-04|page=977|ncid=BN00852378|ref={{sfnref|
* {{cite book|和書|editor=徳田浩淳|title=英巌寺史跡|publisher=下野史料保存会|date=1972-04-24|page=22|ref={{sfnref|徳田 編|1972}}}}
== 関連項目 ==
*[[中村勇吉]]
*[[相楽総三]]
*[[薩土密約|薩土討幕の密約]]
*[[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]
== 外部リンク ==
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{{DEFAULTSORT:てんくとうのらん}}
[[Category:江戸時代の戦い]]
[[Category:幕末の事件]]▼
[[Category:幕府陸軍]]
[[Category:幕末の水戸藩]]
[[Category:福井県の歴史]]
[[Category:1864年の日本の事件]]
[[Category:1864年の戦闘]]
[[Category:徳川慶喜]]
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