宮澤裕
日本の政治家、大東文化大学教授。(1884 - 1963)
宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年(明治17年)1月12日 - 1963年(昭和38年)5月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(広島3区・6期)。
宮澤裕 みやざわ ゆたか | |
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生年月日 | 1884年1月12日 |
出生地 |
広島県沼隈郡金見村 (現福山市金江町金見) |
没年月日 | 1963年5月23日(79歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学政治学科 |
所属政党 | 立憲政友会、日本進歩党 |
親族 |
小川平吉(岳父) 宮澤喜一(長男) 宮澤弘(次男) 宮澤洋一(孫) |
来歴・人物
出生から学生時代まで
広島県沼隈郡金見村︵現・福山市金江町金見︶の小さな農家に生まれた。父・鹿吉の時代は生活は楽でなかった[2]。だが教育熱心な鹿吉は、裕が村の小さな小学校を卒業すると、苦しい家計をやりくりして福山中学校に通わせた[2]。裕は中学を卒業すると、さらに上級の高校を目指そうとした[2]。しかし家の状況は中学校に通わせるのが精いっぱいで、とても高校へ進学させるほどの余力はなかった[3]。そこで裕は学資をかせぎ出すために京都へ行き、アルバイトをはじめた[3]。裕がやっとありついたのは市電の車掌だった[3]。
こうして苦労しながら、コツコツと金をためているとき、たまたま学資を援助しようという奇特な人物が現れた[3]。六高から東大の法科へ進んだ。
苦学を重ね東京帝国大学法科大学政治学科卒業後は、内務省に入省する。
山下汽船へ
政治家として
略歴
●1884年 - 広島県沼隈郡金見村︵現・福山市金江町︶出身[1]。父親は鹿吉といい、祖父は喜十郎[1]。
●1906年 - 広島県立福山中学校︵現・広島県立福山誠之館高校︶卒業[1]。
●第六高等学校卒業[1]。
●1914年 - 東京帝国大学政治学科を卒業[1]。
●1928年 - 衆議院議員︵広島3区︶連続6回当選[1]。
●1936年 - 内閣調査局参与[1]。
●1939年 - 政友会が分裂し、革新派に所属[1]。
●1940年 - 鉄道政務次官[1]。
●1945年 - 日本進歩党の結成に参加[1]。大東文化大学教授[1]。
●1946年 - 公職追放[1]。
●1952年 - 政界を引退[1]し、長男・喜一に後を託す。
●1963年 - 79歳で没。
人物像
後列左より、宮澤裕、妻・こと
前列左より、東京高師附属小(現・筑波大附属小)の制服を着た長男・喜一、三男・泰、次男・弘
家庭
宮澤家
著書
●﹃平易なる思想論﹄隆文館、1923年。
●﹃買ひ被ぶつてゐた欧米 万国議員会議に使して﹄先進社、1932年。
●﹃機関説と帝国憲法﹄日本新聞社、1935年。
●﹃税制改革と予算案の検討 国民の生活にどう響くか﹄今日の問題社、1936年。
●﹃日本政治学原論﹄巌松堂書店、1941年。
脚注
参考文献
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』、鈴木・小川・宮沢家 門閥ゼロからのスタート(153-157頁) 角川書店 1983年
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』、第10章 宮沢家-高級官僚・政治家を輩出する華麗なる一族(197-211頁) 角川書店 2002年