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'''富田 木歩'''(とみた もっぽ、[[1897年]][[4月14日]] - [[1923年]][[9月1日]])は[[俳人]]。本名は一(はじめ)。[[東京市]][[本所区]]新小梅町(現在の[[東京都]][[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]]一丁目)生まれ。最初の俳号は吟波、後に木歩と号す。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能となる。俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。富田木歩は歩行不能、[[肺結核]]、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の[[石川啄木|啄木]]」と言われ将来を嘱望されるが、[[関東大震災]]で焼死した。26歳の生涯であった。▼
'''富田 木歩'''(とみた もっぽ、[[1897年]]〈[[明治]]30年〉[[4月14日]] - [[1923年]]〈[[大正]]12年〉[[9月1日]])は[[大正]]期の[[俳人]]。本名は一(はじめ){{sfn|文化財ニュース|2003|p=第1号}}。[[東京市]][[本所区]]新小梅町(現在の[[東京都]][[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]]一丁目)生まれ{{sfn|文化財ニュース|2003|p=第1号}}。最初の俳号は吟波、後に木歩と号す。
▲ ==富田木歩の生い立ち==▼
== 生涯 ==
富田家は旧家で代々、向島小梅村近辺の大百姓だった。木歩の祖父は明治のはじめに[[向島 (花街)|向島]]に初めて芸妓屋を開いて花街の基礎を作った人で、言問にあった[[隅田川の渡し|竹屋の渡し]]も所有していたが、その七男丑之助すなわち一の父親は、万事派手で博打好きで、分けてもらった財産のあらかたを無駄に使い尽くし、おまけに1889年︵明治22年︶の大火で屋号﹁富久﹂の本家も資産の大方が灰に帰すと、1897年︵明治30年︶ごろには丑之助一家は、小梅町の一角に鰻屋﹁大和田﹂をやっと開いているだけの貧乏所帯だった。 父丑之助、母み禰の次男として生まれた木歩の本名は一︵はじめ︶。一が生まれた時、既に長男の金太郎、2人の姉、長女富子と次女久子がいた。﹁次男を一︵はじめ︶と名付けたのは母の実兄、野口紋造に子供がないことと、口減らしの意味もあって妹の次男を養子に貰い受ける約束で、そう命名して産着を贈って祝った。名は一の字をハジメと呼ぶのだが、家の者はみな一︵はじめ︶をイチとして、イッチャンと呼ぶならわしになってしまった。﹂<ref>吉屋信子著﹁底のぬけた柄杓-憂愁の俳人たち-﹃墨堤に消ゆ﹄︵富田木歩︶﹂朝日新聞社、1979年6月、p35</ref> 木歩は、1歳の時に高熱を出して両足が麻痺してしまい、長じるに従 ﹁母親のみ禰は無学の上に、酒と[[花札]]と[[不動尊|不動明王]]詣を生き甲斐としている働きのない女だった。毎月、木歩を背負って富田家の菩提寺である向島[[最勝寺 (江戸川区)]]︵さいしょうじ︶の目黄︵めぎ︶不動尊へお詣りに通ってはくれても、小学校へ負ぶって通わせようなどとは思いつきもしなかった。﹂<ref>吉屋信子著﹁底のぬけた柄杓-憂愁の俳人たち-﹃墨堤に消ゆ﹄︵富田木歩︶﹂朝日新聞社、1979年6月、p.36</ref> === 少年期 ===
木歩は、小学校に行きたかったが、身体障害と貧しさのために、小学校にも通えず、無就学児童となった。当時の﹁[[かるた|いろはがるた]]﹂や﹁軍人[[めんこ]]﹂で文字を姉の富子や久子に読んで貰い覚えた。頭脳明晰の木歩少年は早くも[[巖谷小波]]のお伽噺や小波主筆の﹁[[少年世界]]﹂を読めるようになった。少年雑誌のルビ付きで難しい漢字をも会得した。また小波の俳句によって十七文字の日本特有の短詩の存在をおぼろげに知った。 17 ⟶ 21行目:
家業は兄金太郎が継いだが、一向に暮らしは立たず、小梅町の店をたたみ、母と弟妹を連れて本所仲之郷の小店に引越し、そこで再び鰻屋﹁大和屋﹂の暖簾を掲げた。金太郎は浅草の馬肉料理屋の中居をしていた、身寄りもない梅代と結婚した。梅代は片足が不自由だった。 1913年︵大正2年︶16 同じ向島の小梅町から移ってきたとはいえ、金太郎一家は余所者である。世間の人々の陰口で﹁殺生をして商いをする家だから、二人も不具者が出たのだ﹂と言われたり、店の客商売にも障りとなるのを知って、木歩と母、弟、妹らは裏の叔母、野口みよの小さな家に同居させて貰うことになった。叔母は鰌︵どじょう︶屋の板前の良人をもつ貧しい生活だったが、あたたかい善意の人で、その甥たちを迎え入れてくれた。 27 ⟶ 31行目:
木歩は、はじめ﹁石楠︵しゃくなげ︶﹂主宰の[[臼田亞浪]]が選をする﹁[[やまと新聞]]﹂俳壇に投句し入選をつづけ、1914年︵大正3年︶﹁[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]﹂8月号の、投句資格が初めて句作する人に限られた﹁俳句の作りやう﹂欄に吟波の名で投句した、﹁朝顔や女俳人の垣穂より﹂の一句が﹁少年吟波﹂の名で初入選した。[[原石鼎]]は忙しい中を再三指導に来てくれた。三度の食事を二度にしなければならないような、放浪困窮の生活を味わってきた石鼎は、吟波の家の貧しさにもそう違和感を抱かずに、来てくれるのだった。しかし、石鼎はあまりにも芸術家的であり、放浪型の天才肌のそのタイプには、吟波にはなじめない何かがあったのである。﹂<ref name="hanada54">花田春兆著﹁鬼気の人-俳人富田木歩の生涯﹂こずえ社、1975年、p.54</ref> その後、原石鼎から遠ざかり﹁ホトトギス﹂からも離れた。 === 青年期 ===
1915年︵大正4年︶、木歩は臼田亞浪に師事、﹁石楠︵しゃくなげ︶﹂に投句した。臼田亞浪の真実を重んじる句風なり、生き方なりに共鳴するものがあったからだった。 42 ⟶ 46行目:
木歩の置かれた苛酷な境遇と、純真な才能溢れる青年像、これは生涯の友となる声風にも驚きであった。
=== 木歩と声風の出会い ===
1917年︵大正6年︶当時20歳の新井声風は[[慶應義塾大学]]の理財科︵後の経済学部︶の学生であり、父は浅草で映画常設館を営む事業家、市会議員でもあった。声風は、﹁やまと新聞﹂の俳句欄を通じて知った﹁石楠︵しゃくなげ︶﹂の臼田亞浪を師としていた。さらに個人誌﹁茜﹂を創刊したばかりであった。声風は、悲惨な境遇にありながら、清新な句を詠む同門の吟波に前々から興味を抱いていた。 59 ⟶ 63行目:
2月、利助逝く。18歳であった。3月、まき子も結核のため家に戻って来た。木歩がつきっきりで看病するも、まき子の病状は日を追うごとに悪化し7月末、まき子も逝った。浪王一周忌の7日前であった。木歩は駄菓子屋を閉じ、帽子の裏皮つなぎの内職をした。女弟子石川伽羅女へ好意から恋心を抱く。秋、木歩は﹁石楠﹂の同人に推薦された。 ﹁石楠﹂は臼田亞浪が一応主宰であったが、内実は[[大須賀乙字]]、臼田亞浪、風見明成︵かざみ あきなり︶の三者の鼎立でなっていた。乙字派の[[名和三幹竹]]が編集を担当していた﹁懸葵︵かけあおい︶﹂という俳誌︵主宰・[[大谷光演|大谷句仏]]が、その新春号で、公然と臼田亞浪批判を行ったことから、声風は亞浪の意を汲み、声風の同人誌﹁茜﹂を休刊した。また亞浪は﹁石楠﹂には﹁木歩の文章に声風の添削が入っているうちは掲載を許さない﹂としていたので、声風は木歩の文章を掲載してくれる俳誌を探した。幸い[[三河国|三河]]で俳誌﹁山鳩﹂を主宰する浅井意外が木歩に共感を寄せ、木歩の文章を掲載してくれた。 浅井意外は「ホトトギス」の[[村上鬼城]]の信奉者であり、耳疾の鬼城と似通った境遇の木歩に力添えしてくれた。「山鳩」の雑詠選句は鬼城が担当しており、その縁で木歩の名前はホトトギス系の俳人にも次第に知られるようになった。
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弟妹につづく母の死、自らの病苦、こういう中で、声風はじめ俳句の友人は木歩を慰めようと7月、一夜の舟遊びを仕立ててくれた。参加者は木歩、声風、種茅、一仏、不一、松雄、静子、小鈴とその朋輩だった。芸妓を乗せての賑やかな船遊び。太鼓や三味線の音や、さざめく声を響かせて暗い夜の川面を屋形船の灯が過ぎていった。小松島近くでは亡き波王を偲び、手を合わせ、悼句を詠んだ短冊を流し、波王の霊を慰めた。小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験だった。しかし、遂に最も苛酷な運命の日が、木歩と声風の上に襲いかかった。 === 関東大震災と木歩死去 ===
1923年︵大正12年︶9月1日、午前11時58分、激しい大地震が関東地方一帯を襲った。下谷の凸版印刷で地震に 声風は引返して、再び土手の上を探し求めた。人混みの桜の木の下にゴザを敷いて木歩がいた。妹の静子や﹁新松葉﹂の半玉など三人ほどが囲んでいたが、女手ばかりでどうする手立てもなかった。 115 ⟶ 119行目:
声風は﹁木歩君、許して下さい。もう此処まで来ては、どうにもなりません﹂という声とともに、手をさし伸べた。木歩は黙ったまま声風の手を握り返した。声風は大川に身を躍らせた。数時間後、漸く対岸の竹屋の渡し付近に辿り着いた時、見返る声風の眼に向島の土手を火の旋風のはしるのが見え、次の瞬間、土手の人影は消し去られていた<ref> 花田春兆著﹁鬼気の人 俳人富田木歩の生涯﹂1975年10月、発行こずえ社。p.235-237</ref>。 木歩は焼死した。26歳の生涯であった。 === 震災後の声風 ===
震災から8日目に[[市川市|市川]]の兄の家に辿りついた。隅田川の亡骸は伝馬船に引き上げられて火葬された。生き残った木歩の兄や姉妹たちがその火葬の灰のひと握りを求めて、その十月に富田家父祖の菩提寺小松川[[最勝寺 (江戸川区)|最勝寺]]の墓に埋めた。戒名﹁震外木歩信士﹂。 124 ⟶ 128行目:
また、[[墨田区]]向島2丁目に、[[三囲神社|三囲︵みめぐり︶神社]]がある。境内には富田木歩の句碑もある。 富田木歩句碑は震災から一周年に、全国の俳人有志60人が浄財を出して、木歩の慰霊の為に建てたものである。建立の日、9月14日には木歩の兄金太郎、姉富子、妹静子も列席したという。句碑は社の裏手、銀杏の大木の前にある。句碑の書は臼田亞浪による。表面には﹁夢に見れば死もなつかしや冬木風 木歩﹂、裏面には﹁大正拾参年九月一日震災の一周年に於て木歩富田一君慰霊乃為建之友人一同﹂と刻まれている。 1989年(平成元年)3月に、富田木歩終焉の地である枕橋近くに、「か
声風亡き後も、木歩を偲ぶ会と、追善法要並びに追悼句会は、毎年、命日の9月1日前後の日曜日に、最勝寺の住職や地域の俳人によって小松川の最勝寺で催されている。 == 作品 ==
=== 木歩と俳誌「ホトトギス」 ===
「ホトトギス」に掲載された木歩(当時の号は吟波)の句。
*朝顔や女俳人の垣穂より 少年吟波(1914年(大正3年)8月号の「俳句の作りやう」欄 初入選)
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当時はよくこのように、少年とか、十二歳とか、少年であることを注書する例が多く見られた。
=== 木歩七〇句 ===
(花田春兆選)<ref> 花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」1975年10月、発行こずえ社。『木歩七〇句』p242-255</ref>
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''夜釣りの灯なつかしく水の闇を過ぐ''}}
==
*﹁ ﹃不具と病気と貧困とが、彼の精神に、抵抗素を植えつけた。この強さが、今日の多くの遊俳たちの句から、彼の句を区別する。﹄﹃彼が死んだ大正12年には、彼より5才年上の[[水原秋桜子|秋桜子]]も、12才年上の[[富安風生]]も、まだ一家をなすに至っていなかった。……20才代にして、このような特異な完成した境地を打ちたてた作家は、後に[[芝不器男]]が現れるまでは誰もいないのだ。だが青春俳句というには、あまりにも悲しくすんでいる。﹄﹂︵[[山本健吉]]﹁現代俳句﹂より︶ *『境遇への同情の心を傾けるより先に、彼の句の清純さは、われわれの襟を正さしめる。彼の短命は悲しむべきだが、己を生かしきったことは偉とすべきだ』([[大野林火]]「近代俳句の鑑賞と批評」より)
*﹃声高ではないが、自分の境涯を身辺の風物に託して詠んでいる。そのつつましさが好ましい。俳句では、その制約上自然の風詠に仮託する形が多くなってくるが、その中に富田木歩や村上鬼城や花田春兆らの﹁境涯俳句﹂の系譜がある。障害者が境涯をうたうことは存在意義であり、ある意味で自明ともいえるだろう。障害者が境涯をうたわず、不特定多数にまぎれて鎬を削っていこうとすれば、二倍、三倍の刻苦が必要になってくるだろう。その道を究めた人は少ない。﹄︵中島虎彦﹁﹃[[花田春兆]]著 鬼気の人 - 俳人富田木歩の生涯 ﹄書評﹂より﹂ ==
* {{Cite book |和書 |editor=新井声風編 |title=木歩句集 |date=1934-09 |publisher=素人社書屋 |series=現代俳句叢書 外篇 |id={{全国書誌番号|46086846}} |ncid=BA33256819}}
* {{Cite book |和書 |editor=新井声風編 |title=木歩文集 |date=1934-12 |publisher=素人社書屋 |id={{全国書誌番号|47020106}} |ncid=BA33256819}}
* {{Cite book |和書 |editor=新井声風編 |title=富田木歩全集 |date=1935-09 |publisher=素人社書屋 |id={{全国書誌番号|47012592}} |ncid=BA45909512}}
* {{Cite book |和書 |editor=新井声風編 |title=定本木歩句集 |date=1938-08 |publisher=交蘭社 |id={{全国書誌番号|46074509}} |ncid=BA78817533}}
* {{Cite book |和書 |editor=新井声風編著 |title=現代俳人鈔 |volume=第1集 |date=1964-12 |publisher=俳句研究社 |series=現代俳句と評論・随想シリーズ |id={{全国書誌番号|65000417}} |ncid=BN13483194}}
* {{Cite book |和書 |editor=新井声風編 |title=決定版 富田木歩全集 |date=1964-12 |publisher=世界文庫 |id={{全国書誌番号|65009480}} |ncid=BN13483026}}
* {{Cite book |和書 |editor=新井声風編 |title=富田木歩句集 |date=1966-02 |publisher=世界文庫 |series=世界文庫 1 |id={{全国書誌番号|66003921}} |ncid=BN15065719}}
* {{Cite book |和書 |editor=新井声風編 |title=富田木歩文集 |date=1966-08 |publisher=世界文庫 |series=世界文庫 2 |id={{全国書誌番号|67007816}} |ncid=BN13483922}}
* {{Cite book |和書 |title=日本詩人全集 |volume=30 |date=1969-05 |publisher=[[新潮社]] |id={{全国書誌番号|75029189}} |ncid=BN02597034}}
* {{Cite book |和書 |title=現代俳句集成 |volume=第4巻 |date=1982-03 |publisher=[[河出書房新社]] |id={{全国書誌番号|82026651}} |ncid=BN00369436}}
* {{Cite book |和書 |editor=[[小沢信男]]編 |title=松倉米吉・富田木歩・鶴彬 |date=2002-08 |publisher=イー・ディー・アイ |series=EDI叢書 9 |id={{全国書誌番号|20312500}} |ncid=BA58718550}}
==
{{脚注ヘルプ}}
*花田春兆著「鬼気の人-俳人富田木歩の生涯」こずえ社、1975年。▼
*加藤謙次著「小説富田木歩」世界文庫、1966年1月。▼
*上田都史著「小説富田木歩」永田書房、1978年5月。▼
*江宮隆之著「凍てる指」河出書房新社、1992年4月。ISBN-13:978-4309007557▼
*吉屋信子著「底のぬけた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』(富田木歩)」朝日新聞社、1979年6月。▼
*福永法弘著「夢に見れば死もなつかしや 小説・木歩と声風」角川学芸出版、2007年1月。▼
<references />
== 参考資料 ==
▲* 花田春兆著「鬼気の人-俳人富田木歩の生涯」こずえ社、1975年。
▲* 加藤謙次著「小説富田木歩」世界文庫、1966年1月。
▲* 上田都史著「小説富田木歩」永田書房、1978年5月。
▲* 吉屋信子著「底のぬけた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』(富田木歩)」朝日新聞社、1979年6月。
* {{cite book|和書|author=墨田区教育委員会事務局生涯学習課文化財担当編集|title=文化財ニュース第1号〜第37号|publisher=[[墨田区]]教育委員会|pages=第1号|year=2003|isbn=|ref={{sfnref|文化財ニュース|2003}}}}
▲* 福永法弘著「夢に見れば死もなつかしや 小説・木歩と声風」角川学芸出版、2007年1月。
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|富田木歩}}
* {{Kotobank|富田 木歩}}
* {{青空文庫著作者|677|富田 木歩}}
* [http://visit-sumida.jp/spot/6097/ 富田木歩終えんの地] | 一般社団法人 墨田区観光協会【本物が生きる街 すみだ観光サイト】
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とみた もつほ}}
[[Category:20世紀日本の俳人]]
[[Category:結核に罹患した人物]]
[[Category:
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:火災で死亡した人物]]
[[Category:関東大震災で死亡した人物]]
[[Category:1923年没]]<!--1923年没を含む-->
[[Category:1897年生]]
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