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== 川島芳子生存説 ==
芳子は銃殺執行直後から替え玉説が報じられ、その後も長く[[生存説]]がささやかれてきた。近年では、中華人民共和国の民間団体や日本の報道検証番組などが1970年代まで生存していたという説を唱えているが、科学的証拠を欠いており風説の域を出ていない。 === 生存説の源流 ===
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# 執行後に公開された遺体は、銃弾が頭部を貫通、顔面を激しく損傷しており、容貌の正確な判別は困難だった。
# 処刑数日前に面談した[[AP通信]]のジャーナリストによると、芳子の髪型は短髪だったが、処刑後の写真に写っている遺体の髪は肩ほどまでの長さがあった。
# 処刑直後に中華民国の新聞各紙が報じたところによると、監獄に芳子と同年代で、重病で余命いくばくもない女性がおり、その母親が監獄関係者から、娘を身代わりに差し出すことを持ちかけられ、母親は金の延べ棒10本で娘を身代わりにすることを承諾した。しかし、実際には4本しか受け取ることができなかったため、遺族がマスコミに告発したという。国民党政府はこの報道をデマだと否定する声明を発表したが、[[国共内戦]]に敗れた国民党が台湾に逃れる過程でうやむやになった。 # 生存説を重視した[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は、各地に調査員を派遣して関係者に聞き取りをするなどの調査を行ったが結論は出ず、国共内戦で調査は打ち切られた。GHQの調査報告書はアメリカ国立公文書館に保管されている。 # 実妹[[愛新覚羅顕琦]]は、自伝﹃清朝の王女に生れて﹄で処刑直後の写真を見たが、芳子本人に間違いないと主張。替え玉報道が出たことについては、処刑現場にはアメリカ人記者のみが入ることを許され、中国人記者が閉め出されたため、腹いせに替え玉説を書いたという見方を示している。 === 1950年代に死亡説 ===
2003年放送のクイズ番組「[[世界痛快伝説!!運命のダダダダーン!]]」([[朝日放送テレビ|朝日放送]])に中華人民共和国在住の芳子の娘と自称する女性が出演した。女性によると、監獄から脱出した芳子は日本人男性と再婚して娘を出産したが、1950年代に暴漢に襲われて両親が殺害され孤児になったという。
=== 周恩来の「○」説 ===
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2008年11月に、芳子は旧満州国警察学校関係者に匿われ、﹁方姥︵方おばあさん︶﹂と名乗って[[吉林省]][[長春市]]に住み、1978年に死去したと証言する女性が現れ、調査が開始された<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200811/2008111500254 東洋のマタ・ハリ﹂は生きていた?=処刑逃れ、78年まで長春で-中国紙] 2008年11月15日</ref><ref>[http://www.xwhb.com/news/system/2008/11/05/010004653.shtml 我方姥就是川岛芳子]新文化網 2008年11月5日 (中国語)</ref>。中国メディアも注目し<ref>[http://zt.xwhb.com/my2009/cdfz/ 最新证据表明川岛芳子诈死隐居长春30年 (川島芳子特設ページ)] 2009年4月20日 新文化網 (中国語)</ref>、日本の[[産経新聞]]も調査に協力した[[長春大学]]講師野崎晃市との詳細なインタビュー記事を掲載した<ref>{{cite news|date=2009-06-13|title=︻グローバルインタビュー︼男装の麗人、川島芳子は生きていた︵上︶野崎晃市・長春大講師 - MSN産経ニュース|url=http://sankei.jp.msn.com/world/china/090613/chn0906130800000-n1.htm|newspaper=[[MSN産経ニュース]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|accessdate=2019-03-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100825211347/http://sankei.jp.msn.com/world/china/090613/chn0906130800000-n1.htm|archivedate=2010-08-25}}</ref><ref>{{cite news|date=2009-06-14|title=︻グローバルインタビュー︼男装の麗人、川島芳子は生きていた︵下︶野崎晃市・長春大講師 - MSN産経ニュース|url=http://sankei.jp.msn.com/world/china/090614/chn0906140800000-n1.htm|newspaper=MSN産経ニュース|publisher=産業経済新聞社|accessdate=2019-03-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101014112830/http://sankei.jp.msn.com/world/china/090614/chn0906140800000-n1.htm|archivedate=2010-10-14}}</ref>。 2009年3月4日の[[テレビ信州]]による報道では、芳子が生存していたと証言する女性が、2009年3月に中華人民共和国の民間調査団と共に[[長野県]][[松本市]]にある[[松本市歴史の里]]︵川島芳子記念館︶を訪れ、芳子の生前の写真を見て﹁幼少期に教育を受けた方おばあさんと芳子の目と鼻はよく似ているが、断定できるかと言われると言い切れない﹂と話している。 [[2009年]]4月13日放送の﹃[[報道発 ドキュメンタリ宣言|報道発 ドキュメンタリ宣言 昭和史最大のスクープ 男装の麗人・川島芳子は生きていた! 2時間スペシャル]]﹄︵[[テレビ朝日]]放送︶<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/d-sengen/sp/index.html 報道発 ドキュメンタリ宣言・川島芳子特集ページ]</ref>によると、死刑の前日に買収された軍人から﹁執行兵の銃は空砲です、銃声と共に倒れる振りをして下さい﹂と芳子に説明があり、死刑は通常どおりの公開処刑ではなく非公開で行われ、アメリカ人記者2人だけが立ち入りを許可されたがカメラを取り上げられ、芳子の処刑直後に遺体は毛布に包まれ、検死室に送られた、との事である。 192行目:
=== 台湾で公表された処刑関係文書 ===
2009年12月、[[ == 史料 ==
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