庄司巽
大日本帝国陸軍軍人
庄司 巽(しょうじ たつみ[1]、1893年(明治26年)8月11日[2] - 1963年(昭和38年)7月6日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
庄司 巽 | |
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生誕 |
1893年8月11日 日本 東京府 |
死没 | 1963年7月6日(69歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
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1893年︵明治26年︶に東京府で生まれた[2]。陸軍士官学校第25期卒業[2]。1938年︵昭和13年︶7月15日に陸軍歩兵大佐に進級すると同時に[3]、独立歩兵第5大隊長︵駐蒙兵団・独立混成第2旅団︶に就任し[1][2]、日中戦争に出動した[2]。1939年︵昭和14年︶3月に歩兵第40連隊長︵第2軍・第10師団・歩兵第8旅団︶に転じ[1][2]、石家荘付近の平定に任じ[2]、同地に駐屯した[2]。連隊は同年夏に鳥取に復員したが[2]、1940年︵昭和15年︶に満洲永久駐屯が決定され[2]、佳木斯に移駐した[2]。1942年︵昭和17年︶4月に札幌連隊区司令官に就任した[1]。
1945年︵昭和20年︶3月31日に歩兵第87旅団長︵関東軍・第3方面軍・第44軍・第117師団︶に就任し[2]、ソ連軍侵攻に備えていた[2]。同年6月10日に陸軍少将に進級[3]。戦後はシベリア抑留を受けたが[4]、1950年︵昭和25年︶7月に綏芬河でソ連から中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収容された[4][5]。戦犯管理所では﹁学習反省﹂﹁認罪坦白﹂などを行った[6]。当初は1956年︵昭和31年︶6月に開かれる瀋陽特別軍事法廷で懲役14年の判決が予定されていたが[7][8]、理由は不明であるが免訴となり[7][8]、釈放され帰国した[9][10]。
脚注
編集参考文献
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●大澤武司 著﹃毛沢東の対日戦犯裁判 : 中国共産党の思惑と1526名の日本人﹄中央公論新社、2016年。ISBN 4121024060。
●福川秀樹 編著﹃日本陸軍将官辞典﹄芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
●外山操 編﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。