「慕容評」を編集中
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父は[[鮮卑]][[慕容部]]の大人[[慕容廆]]で、兄に[[慕容翰]]・[[慕容皝]]︵[[前燕]]の文明帝︶・[[慕容仁]]・[[慕容昭]]、弟に[[慕容幼]]がいる<ref name="民族大移動75">三崎﹃五胡十六国、中国史上の民族大移動﹄、P75</ref>。
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父は[[鮮卑]][[慕容部]]の大人[[慕容廆]]で、兄に[[慕容翰]]・[[慕容皝]]︵[[前燕]]の文明帝︶・[[慕容仁]]・[[慕容昭]]、弟に[[慕容幼]]がいる<ref name="民族大移動75">三崎﹃五胡十六国、中国史上の民族大移動﹄、P75</ref>。
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[[336年]]に軍師将軍となり、慕容皝が慕容仁を撃った際には昌黎から進撃した。これで前軍師となり、[[339年]]には前燕に侵攻してきた[[石虎]]の将軍の[[石成]]の[[後趙]]軍と遼西に戦って破った。[[343年]]には[[慕容儁]]に従って[[代 (五胡十六国)|代]]を攻めた。[[349年]]に甥の慕容儁が前燕を継ぐと、輔弼将軍とされた。この年に石虎が死去して後趙が争乱になると、後趙の旧臣の[[賈堅]]を攻めて捕え、[[章武郡]][[太守]]とされた。
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甥の[[慕容恪]]が[[冉閔]]を捕えた後、[[352年]]8月にその太子の[[冉智]]らの拠る[[鄴]]を攻めて陥れ、[[冉魏]]を滅ぼして冉智を連行する功績を立てた<ref name="民族大移動71">三崎﹃五胡十六国、中国史上の民族大移動﹄、P71</ref>。
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[[354年]]に鎮南将軍・都督秦雍益梁江揚荊徐兗豫十州諸軍事として洛水に鎮した。その後[[司徒]]・驃騎将軍・上庸王となり、[[張平 (後趙)|張平]]を討ってこれを逃走させた。[[359年]]に[[東晋]]の[[諸葛攸]]が北伐した際には[[傅顔]]とともに5万をもってこれと戦い、東阿において破った。
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=== 国を傾けた奸臣 === |
=== 国を傾けた奸臣 === |
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[[360年]]1月に甥の慕容儁が死去すると、その息子でまだ幼い[[慕容暐]]が跡を継ぎ、慕容評は[[太傅]]となった<ref name="民族大移動75"/>。国の実権は慕容儁の弟の[[慕容恪]]が[[太師|太宰]]として掌握し<ref name="民族大移動75"/>、慕容評はそれに従って[[364年]]から開始された南下拡大策に参加し、軍を率いて[[許昌]]や[[汝南郡|汝南]]を落とす功績を立てた。[[367年]]5月、慕容恪が病死すると前燕の実権を握った<ref name="民族大移動75"/>。しかし慕容評は腐敗政治を展開、貪欲な性格で軍需物資を横領したりして私財を積み、国家の衰退を招いた。この状況を見た東晋の司馬の[[桓温]]は3度目の北伐を行って前燕に侵入した<ref name="民族大移動75"/>。この桓温の侵攻に弱体化した前燕軍は敗戦し続け、慕容暐は[[龍城]]への[[遷都|還都]]を検討するまでになる<ref name="民族大移動76">三崎﹃五胡十六国、中国史上の民族大移動﹄、P76</ref>。だが慕容暐の叔父の[[慕容垂]]が桓温と対峙し、さらに前秦に領土割譲を条件に援軍を求める事で対抗する<ref name="民族大移動76"/>。慕容垂は前秦軍到着の前に桓温を撃破し、慕容垂が新たな実力者として前燕では台頭し始めるが、それを憎んだ慕容評により慕容垂は排除を図られたため、やむなく前秦に亡命した<ref name="民族大移動76"/>。慕容垂の出奔で前燕を支える大黒柱はいなくなり、逆に前秦は[[苻堅]]や[[王猛]]らにより攻勢に出て、まずは洛陽が王猛により奪われた<ref name="民族大移動76"/>。
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[[370年]]9月、前秦は王猛に6万の軍を預けて本格的に前燕侵略を開始し、対する前燕も慕容評が40万の大軍を率いて対抗したが<ref name="民族大移動76"/>、軍需物資を横領したりする慕容評のために味方の士気は上がらず、[[晋陽]]や[[上党郡|上党]]など主だった都市が次々と攻められた<ref name="民族大移動76"/>。慕容暐から責任を問われた慕容評は兵力優位を過信して王猛と決戦するが大敗して5万人を失った。さらに11月には苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落し、慕容暐は捕縛されて前秦の首都の[[長安]]に連行され、前燕は滅亡した<ref name="民族大移動76"/>。 |
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慕容評は鄴陥落の前に逃亡し、[[高句麗]]に亡命した<ref name="民族大移動156">三崎﹃五胡十六国、中国史上の民族大移動﹄、P156</ref>。しかし前秦の游撃将軍[[郭慶]]が龍城に迫って高句麗に圧力をかけると、高句麗は前秦との関係を優先して慕容評の身柄を拘束して前秦に送還した<ref name="民族大移動156"/>。苻堅は慕容評を給事に任命したが、かつて慕容評のために国を追われた甥の慕容垂が苻堅に対して聖朝の穢れであり、誅殺をと願い出た。苻堅は殺しはしなかったが、朝廷からは閉め出して范陽郡太守とした。
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慕容評は鄴陥落の前に逃亡し、[[高句麗]]に亡命した<ref name="民族大移動156">三崎﹃五胡十六国、中国史上の民族大移動﹄、P156</ref>。しかし前秦の游撃将軍[[郭慶]]が龍城に迫って高句麗に圧力をかけると、高句麗は前秦との関係を優先して慕容評の身柄を拘束して前秦に送還した<ref name="民族大移動156"/>。苻堅は慕容評を給事に任命したが、かつて慕容評のために国を追われた甥の慕容垂が苻堅に対して聖朝の穢れであり、誅殺をと願い出た。苻堅は殺しはしなかったが、朝廷からは閉め出して范陽郡太守とした。
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