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''' ''' [[]][[]][[|]][[]][[|]][[]][[]][[]][[]]
 
== 生涯 ==
=== 前燕の将 ===
[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref name="75">P75</ref>
==== 慕容皝の時代 ====
333[[]][[ ()|]]
 
[[咸康 (東晋)|咸康]]2年([[336年]])に軍師将軍となり、慕容皝が慕容仁を撃った際には昌黎から進撃した。これで前軍師となり、咸康5年([[339年]])には前燕に侵攻してきた[[石虎]]の将軍の[[石成]]の[[後趙]]軍と遼西に戦って破った。[[建元 (東晋)|建元]]元年([[343年]])には[[慕容儁]]に従って[[代 (五胡十六国)|代]]を攻めた。
[[336年]]1月、慕容皝は慕容仁討伐の兵を挙げると、慕容評もまたこれに従軍した。討伐軍は昌黎から凍結した海を三百里余りに渡って進み、平郭城から七里の所まで進軍した。慕容仁はその襲来を全く予想しておらず、斥候がこれを報告すると大いに動揺し、出撃するも敗れて捕えられた。討伐軍は慕容仁を殺した後、軍を返した。
 
[[ ()|]]5[[349]][[]][[]][[]][[]][[]]8[[352]]8[[]][[]][[]]<ref name="71">P71</ref>
[[337年]]10月、慕容皝は燕王を自称し、正式に前燕政権を樹立した。慕容評は前軍師に任じられた。
 
[[]]3[[354]][[]][[ ()|]][[寿]]3[[359]][[]][[]][[]]5
[[339年]]4月、慕容評は広威将軍[[慕容軍]]・折衝将軍[[慕輿根]]・蕩寇将軍[[慕輿泥]]と共に後趙領の[[遼西郡|遼西]]へと侵攻し、千家余りを引き連れて軍を返した。後趙の鎮遠将軍[[石成]]・積弩将軍[[呼延晃]]・建威将軍[[張支]]らは追撃を仕掛けたが、慕容評はこれらを尽く返り討ちにして呼延晃・張支の首級を挙げた。
 
=== 国主管傾けた奸臣 ===
[[343]]8[[]][[ ()|]][[|]]退
[[]][[360]][[]][[]]<ref name="75"/>[[]][[|]]<ref name="75"/>5[[364]][[]][[|]]8[[367]]5<ref name="75"/>退[[]]3<ref name="75"/>[[]][[|]]<ref name="76">P76</ref>[[]]<ref name="76"/><ref name="76"/>[[]][[]]<ref name="76"/>
 
建熙11年([[370年]])9月、前秦は王猛に6万の軍を預けて本格的に前燕侵略を開始し、対する前燕も慕容評が40万の大軍を率いて対抗したが<ref name="民族大移動76"/>、軍需物資を横領したりする慕容評のために味方の士気は上がらず、[[晋陽]]や[[上党郡|上党]]など主だった都市が次々と攻められた<ref name="民族大移動76"/>。慕容暐から責任を問われた慕容評は兵力優位を過信して王猛と決戦するが大敗して5万人を失った。さらに11月には苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落し、慕容暐は捕縛されて前秦の首都の[[長安]]に連行され、前燕は滅亡した<ref name="民族大移動76"/>。
[[348年]]9月、慕容皝がこの世を去ると、11月に慕容儁が後を継いだ。
 
[[]]<ref name="156">P156</ref>[[]]<ref name="156"/>
==== 慕容儁の時代 ====
[[349年]]5月、輔弼将軍に任じられ、輔国将軍[[慕容恪]]・輔義将軍[[陽ブ|陽騖]]と共に'''三輔'''と称された。
 
== 脚注 ==
[[350年]]2月、[[冉閔]]が[[後趙]]から自立して[[冉魏]]を建国すると、後趙の殿中督[[賈堅]]は郷里の[[勃海郡]]に戻り、数千の兵を束ねて勢力を保った。慕容評は軍を率いて勃海に到来すると、使者を派遣して賈堅を招聘したが、賈堅は決して降らなかった。9月、賈堅の守る高城を攻め、これを陥落させて賈堅を捕らえた。功績により章武太守に任じられた。
=== 最期注釈 ===
<references group="注釈"/>
 
=== 引用元 ===
[[351]]8[[]][[]][[]][[]][[]][[]]
 
[[352年]]4月、慕容恪は魏昌の廉台において冉閔を破り、その身柄を確保した。同月、慕容評は中尉[[侯龕]]と共に精鋭騎兵1万を率いて、冉魏の本拠地である鄴を包囲した。冉魏の[[大将軍]][[蒋幹 (冉魏)|蒋幹]]・[[皇太子]][[冉智]]は籠城して徹底抗戦の構えを見せたが、城外の兵は尽く慕容評に降伏した。5月、兵糧攻めにより鄴城内では食糧が欠乏し、人々は人肉を食べて飢えを凌ぐ有様であった。蒋幹は[[東晋]]へ使者を派遣して帰順の意志を示し、援軍を要請した。これを聞いた慕容儁は広威将軍慕容軍・殿中将軍慕輿根・右司馬[[皇甫真]]らに2万の兵を与え、慕容評に加勢させた。6月、東晋の将軍[[戴施]]は壮士100人余りを率いて鄴へ突入し、三台を守備した。蒋幹は精鋭五千と東晋の兵を率いて城から出撃したが、慕容評はこれを撃破し、4千の首級を挙げた。蒋幹は鄴城へ逃走した。8月、冉魏の長水校尉馬願らは城門を開いて前燕軍を招き入れ、戴施と蒋幹は倉垣へ逃走した。慕容評は董皇后・皇太子冉智・[[太尉]][[申鍾]]・[[司空]][[條枚]]らを捕らえ、乗輿・服御と共に[[大興区|薊]]へ送った。慕容儁は慕容評へ、鄴の鎮守を命じた。
 
[[354]]34[[]][[]][[|]]
 
[[358]]2[[]][[]]3輿輿輿[[|]][[]]
 
[[9]][[]][[ ()|]]西[[]][[]][[]][[]]1383[[|]]
 
[[359]]8[[]][[]]2[[]][[]][[]]西[[]][[]]5[[|]]
 
=== 国政を主管 ===
==== 慕容恪の補佐 ====
[[360]][[1]][[|]]2[[]][[|]][[]]輿
 
 輿[[輿]][[|]]輿 輿輿輿輿
 
[[361年]]2月、方士の[[丁進]]は慕容恪へ、慕容評を殺して政権を独占するよう説いたが、慕容恪は激怒し上奏して丁進を捕え、これを斬った。
 
[[364年]]2月、龍驤将軍[[李洪]]と共に河南へ侵攻すると、許昌・懸瓠・陳城を尽く攻め落とした。さらには汝南諸郡を制圧すると、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。
 
[[366年]]3月、国内で水害や旱魃が多発すると、慕容評は慕容恪と共に頓首して辞職を願い出たが、慕容暐はこれを認めずにその上表を破り捨てた。
 
[[367]]5[[]][[]][[]]
 
==== 慕容垂との対立 ====
慕容評には軍事の才能はあったものの、[[摂政]]としては無能であり、特に慕容恪の没後は大いに朝政を腐敗させたという。
 
[[]]西簿[[]]調
 
[[10]][[]][[|]][[ ()|]][[|]][[]][[|]][[]][[|]][[]][[]]1[[]][[]][[ ()|]][[]][[ ()|]]
 
[[368年]]2月、慕容恪の遺言には従わずに中山王[[慕容沖]]を大司馬に任じ、慕容垂を退けた。
 
[[]]2011[[]]<ref></ref>
 
[[369]]4[[]]退[[|]]西退
 
これ以降、慕容垂の威名は大いに轟くようになり、慕容評は益々彼を忌避するようになった。慕容垂は「今回募った将士は、みな命がけで功績を建てました。特に将軍孫蓋らは精鋭と戦って強固な敵陣を陥しました。どうか厚い恩賞を賜りますよう」と上奏したが、慕容評はこれを慕容暐に通さずに握りつぶした。だが、慕容垂は幾度もこの事を要請し、遂に慕容評と朝廷で言い争うようになった。これにより、両者の対立は決定的なものとなった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂を嫌っていたので、慕容評は彼女と共に慕容垂誅殺の謀略を巡らせた。
 
11西
 
==== 腐敗政治を展開 ====
前秦へ使者として派遣されていた給事黄門侍郎[[梁深]]が鄴に帰還すると、慕容評へ「秦では日夜軍事訓練が行われ、多量の兵糧が陜東へ運び込まれております。我が見ますに、今の平和は長くは続きますまい。呉王垂も秦へ亡命してまった事で、秦は必ずや我らの隙を衝くでしょう。すぐにでも防備を固められますよう」と進言したが、慕容評は「叛臣を受け入れて平和を破るなど、秦がそのような真似をする訳がなかろう!」と反論した。だが、梁深は「今、中原が二つに別れて対立しているのは、互いに相手を併呑せんと画策した為ではありませんか。桓温の来寇により秦が援軍を出したのは、我らとの友好によるものではありません。もし燕に隙を見つければ、どうして彼らが本来の志を忘れましょうか!」と述べた。また、慕容評は「秦主はどの様な人物であったか」と問うと、梁深は「明哲であり、決断力を有しております」と答えた、また、王猛についても問うと「彼の名声は、虚名ではありますまい」と答えた。これに慕容評は「我の聞いている話とは異なる。汝は主君を脅すというのか!」と述べて取り合わなかった。皇甫真もまた洛陽・太原・壷関の守備を固めて前秦へ備える様上疎すると、慕容偉は慕容評を呼び出してこの事を問うた。だが、慕容評は「秦は弱小であり、我らの力を頼みとしております。それに、苻堅は国交にはそれなりに気を配っております。亡命者の口車に乗り、交流を断絶するような事はしないでしょう。それより、軽率に動いて相手を警戒させる事が紛争の種となるでしょう」と反論し、軍備を増強しなかった。
 
[[ ()|]]使使
 
 
=== 前秦襲来 ===
==== 王猛との決戦 ====
312[[]][[370]]110
 
5106840<ref>30</ref>10[[]]
 
使
 
王猛は渭原に布陣すると、鄧羌・張蚝・徐成らを慕容評の陣営へ突撃させ、敵陣を蹂躙して数えきれない程の将兵を殺傷した。これにより日中には慕容評軍は潰滅し、捕虜や戦死した兵はゆうに5万を超えた。王猛はこの勝利に乗じてさらに追撃を掛けると、捕虜や戦死者の数は10万に上った。大敗を喫した慕容評は単騎で鄴まで逃げ戻った。王猛はそのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。
 
==== 国家滅亡 ====
1110500退
 
=== 最期 ===
12月、慕容評は苻堅により給事中に任じられた。
 
3722
 
やがて在任中に卒したという。
 
==脚注==
<references />
 
== 参考文献 ==
* [[三崎良章]]『五胡十六国、中国史上の民族大移動』([[東方書店]]、[[2002年]]2月)
* 『[[晋書]]』[[載記]]第9・10・11
* 『[[資治通鑑]]』巻095-103
 
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