「慕容評」の版間の差分
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同年、前燕の併呑を目論んでいた前秦天王[[苻堅]]は、西戎主簿[[郭弁]]を密かに鄴へ派遣して内情を探らせた。郭弁は鄴に入ると皇甫真へ接近して前秦へ帰順するよう誘ったが、皇甫真はこれに激怒して郭弁を詳しく取り調べる様要請したが、慕容評はこれを聞き入れなかった。 [[10月]]、前秦の晋公[[苻柳]]が[[永済市|蒲坂]]で、趙公[[苻双 (前秦)|苻双]]が[[秦州区|上邽]]で、魏公[[苻ソウ|苻廋]]が[[陝州区|陝城]]で、燕公[[苻武]]が[[ケイ川県|安定]]で、それぞれ苻堅に対する反乱を起こした。その際、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。前燕の[[魏尹]]・范陽王[[慕容徳]]は前秦を討つ絶好の機会であるとして、朝廷へ出兵を要請した。多くの者がこれに同意したが、慕容評は﹁秦は大国であり、今国難に襲われているといえども、侮る事は出来ん。それに我らの国は朝廷こそ1つであるが、先帝が崩御したばかりである。また、我らの知略は太宰︵慕容恪︶には及ばない。今は関所を閉じて国境を固守するのが最良である。平秦など荷が重すぎる﹂と述べ、軍事行動を起こさなかった。結局、反乱は[[王猛]]・[[トウ羌|鄧羌]]・[[張コウ (前秦)|張蚝]]・[[楊安]]・[[王鑒 (前秦)|王鑒]]によって同年の内に鎮圧された。 [[368年]]2月、慕容恪の遺言には従わずに中山王[[慕容沖]]を大司馬に任じ、慕容垂を退けた。
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