前燕の併呑を目論んでいた前秦天王[[苻堅]]は、慕容恪の死を格好の機会と思い、西戎主簿[[郭弁]]を密かに鄴へ派遣して内情を探らせた。郭弁は身分を偽った上で鄴に入り込むと、[[司空]]皇甫真へ接近して取り入ろうと図ったが、皇甫真はこれを疑って郭弁を詳しく取り調べる様に要請したが、慕容評はこれを聞き入れなかった。
10月、前秦の晋公[[苻柳]]が[[永済市|蒲坂]]で、趙公[[苻双 (前秦)|苻双]]が[[秦州区|上邽]]で、魏公[[苻ソウ|苻廋]]が[[陝州区|陝城]]で、燕公[[苻武]]が[[ケイ涇川県|安定]]で、それぞれ苻堅に対する反乱を起こした。その際、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。前燕の[[魏尹]]・范陽王[[慕容徳]]は前秦を討つ絶好の機会であるとして﹁先帝は天命に従い、天下を統一しようと志し、陛下はその後を継いでこれを成就なさっております。今、苻氏では骨肉の争いが起こり、国が五つ︵蒲坂・陝城・上邽・安定・長安︶に別れました。そして、我が国へ降伏する者も相継いでおります。これは秦を燕へ贈ろうという天の御心でございます。﹃天の与えたるを取らざれば、却ってその殃を受く﹄と申しますが、これは︵[[春秋時代]]の︶[[呉 (春秋)|呉]]・[[越]]の興亡を見れば明白でございます。願わくば、皇甫真に并州・冀州の兵を与えて蒲坂を攻撃させ、慕容垂に許・洛︵許昌と洛陽︶の兵を与えて陝城の包囲を解かせ、太傅︵慕容評︶には京師︵首都である鄴︶の兵を与えて出撃させてくださいますよう。その上で、三輔︵前秦の本拠地である関中︶へ檄文を飛ばして利害を説き、賞罰を明確にすれば、敵は風に靡くように我が軍のもとへ馳せ参じましょう。 今こそ、天下平定の絶好の機会なのです!﹂と上疏して出兵を要請した。多くの群臣がこれに同意し、慕容暐もまたこれに大いに喜んで従おうとしたが、慕容評は﹁秦は大国であり、今国難に襲われているといえども、侮る事は出来ん。それに我らの国は朝廷こそ1つであるが、先帝が崩御したばかりである。また、我らの知略は太宰︵慕容恪︶には及ばない。今は関所を閉じて国境を固守するのが最良である。平秦︵前秦平定︶など荷が重すぎる﹂と述べて反対し、結局軍事行動を起こさなかった。最終的に反乱は前秦の[[王猛]]・[[鄧羌]]・[[張コウ (前秦)|張蚝]]・[[楊安]]・[[王鑒 (前秦)|王鑒]]らによって同年の内に鎮圧された。
慕容恪は死ぬ間際に慕容垂を後任の大司馬に抜擢するよう求めていたが、慕容評は慕容垂の事を好ましく思っていなかったのでこの進言を用いておらず、大司馬職は空位となっていた。そして、[[368年]]2月には慕容垂ではなく中山王[[慕容沖]]を大司馬に抜擢した。