慕容評
生涯
前燕の名将
慕容皝の時代
父は前燕の実質的な創建者といわれる慕容廆であり、333年にこの世を去ると兄の慕容皝が後を継ぎ、慕容評は軍師将軍に任じられた。この時、兄の慕容仁は慕容皝と対立し、平郭に割拠するようになった。
336年1月、慕容皝は慕容仁討伐の兵を挙げると、慕容評もまたこれに従軍した。討伐軍は昌黎から凍結した海を三百里余りに渡って進み、平郭城から七里の所まで進軍した。慕容仁はその襲来を全く予想しておらず、斥候がこれを報告すると大いに動揺し、出撃するも敗れて捕えられた。討伐軍は慕容仁を殺した後、軍を返した。
337年10月、慕容皝は燕王を自称し、正式に前燕政権を樹立した。慕容評は前軍師に任じられた。
339年4月、慕容評は広威将軍慕容軍・折衝将軍慕輿根・蕩寇将軍慕輿泥と共に後趙領の遼西へと侵攻し、千家余りを引き連れて軍を返した。後趙の鎮遠将軍石成・積弩将軍呼延晃・建威将軍張支らは追撃を仕掛けたが、慕容評はこれらを尽く返り討ちにして呼延晃・張支の首級を挙げた。
343年8月、慕容儁と共に代国を攻めた。代王拓跋什翼犍は軍を撤退させたため、慕容評らは戦うことなく引き返した。
348年9月、慕容皝がこの世を去ると、11月に慕容儁が後を継いだ。
慕容儁の時代
349年5月、輔弼将軍に任じられ、輔国将軍慕容恪・輔義将軍陽騖と共に三輔と称された。
350年2月、冉閔が後趙から自立して冉魏を建国すると、後趙の殿中督賈堅は郷里の勃海郡に戻り、数千の兵を束ねて勢力を保った。慕容評は軍を率いて勃海に到来すると、使者を派遣して賈堅を招聘したが、賈堅は決して降らなかった。9月、賈堅の守る高城を攻め、これを陥落させて賈堅を捕らえた。功績により章武太守に任じられた。
351年8月、魯口を守る後趙の幽州刺史王午を攻撃した。慕容評が南皮まで進むと、王午は配下の将軍鄭生を派遣して迎撃させたが、慕容評はこれを返り討ちにして鄭生を討ち取った。
352年4月、慕容恪は魏昌の廉台において冉閔を破り、その身柄を確保した。同月、慕容評は中尉侯龕と共に精鋭騎兵1万を率いて、冉魏の本拠地である鄴を包囲した。冉魏の大将軍蒋幹・皇太子冉智は籠城して徹底抗戦の構えを見せたが、城外の兵は尽く慕容評に降伏した。5月、兵糧攻めにより鄴城内では食糧が欠乏し、人々は人肉を食べて飢えを凌ぐ有様であった。蒋幹は東晋へ使者を派遣して帰順の意志を示し、援軍を要請した。これを聞いた慕容儁は広威将軍慕容軍・殿中将軍慕輿根・右司馬皇甫真らに2万の兵を与え、慕容評に加勢させた。6月、東晋の将軍戴施は壮士100人余りを率いて鄴へ突入し、三台を守備した。蒋幹は精鋭五千と東晋の兵を率いて城から出撃したが、慕容評はこれを撃破し、4千の首級を挙げた。蒋幹は鄴城へ逃走した。8月、冉魏の長水校尉馬願らは城門を開いて前燕軍を招き入れ、戴施と蒋幹は倉垣へ逃走した。慕容評は董皇后・皇太子冉智・太尉申鍾・司空條枚らを捕らえ、乗輿・服御と共に薊へ送った。慕容儁は慕容評へ、鄴の鎮守を命じた。
354年3月、鎮南将軍・都督秦・雍・益・梁・江・揚・荊・徐・兗・豫十州諸軍事に任じられ、洛水を鎮守した。4月、司徒・驃騎将軍に昇進し、上庸王に封じられた。
358年2月、前燕に背いた上党郡太守馮鴦討伐に当たった。3月、領軍将軍慕輿根が慕容評と合流した。この時、慕輿根が急攻しようとすると慕容評は﹁馮鴦は砦を固めているから、その心を緩めるべきであろう。﹂と諫めた。だが、慕輿根は﹁そうではありません。公は城下に至って月を経ておりますが、未だに一度も交戦しておりません。賊は我が国家の力がこの程度だと考え、万一の僥倖を願っていたのです。今、我の兵がやってきて、賊は恐れて皆離心を生じて計を定められずにおります。これを攻めれば必ず勝利を得られるでしょう。﹂と反論すると、これに応じて急攻を決行した。すると、馮鴦はその配下との間に互いに疑いを生じ、野王へ逃走して安国王を自称していた呂護を頼り、その兵は皆降伏した。
9月、并州で一大勢力を保持していた張平を攻撃し、征西将軍諸葛驤・鎮北将軍蘇象・寧東将軍喬庶・鎮南将軍石賢らを始め138の砦を降伏させた。張平は3千の兵を伴って平陽へ逃走し、前燕に降伏を請うた。
359年8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が2万の水軍・陸軍を率いて前燕を攻め、石門より侵入して黄河の小島に駐屯した。諸葛攸は配下の匡超を碻磝に進ませ、蕭館を新柵に配し、さらに督護徐冏に水軍三千を与えて東西より気勢を上げた。慕容評は長楽郡太守傅顔と共に5万の歩兵・騎兵を率いて東阿において迎え撃ち、諸葛攸を大敗させた。
国政を主管
慕容恪の補佐
360年1月、慕容儁が崩御すると、慕容暐が後を継いだ。2月、慕容評は太傅に任じられ、太宰慕容恪・太師慕輿根と共に輔政を命じられた。
だが 慕輿根は武衛将軍慕輿干と結託し、慕容恪と慕容評を誅殺して政権を奪おうと考えていた。その為、可足渾皇太后と慕容暐へ向けて﹁太宰と太傅が謀反を企てております。我が近衛兵を率いて彼らを誅殺することをお許しください﹂と奉った。可足渾皇太后はこれに従おうとしたが、慕容暐が﹁二人は国家の忠臣です。先帝が選んで私たちを託したのです。そのような愚かな事はしません。それに、太師︵慕輿根︶こそが造反を考えている張本人でないとも限りません﹂ と述べたため、取りやめとなった。やがて、慕輿根の計画が露見すると、慕容評は慕容恪と共に謀議して密かに慕輿根の罪状を奏上し、皇甫真・傅顔が慕輿根を捕らえて乱を収めた。慕輿根の妻子・与党も罪に伏して誅された。これ以降、政治の実権は慕容恪が握ったが、彼は決して専断する事は無く、必ず政務に関しては慕容評と合議したという。
361年2月、方士の丁進は慕容恪へ、慕容評を殺して政権を独占するよう説いたが、慕容恪は激怒し上奏して丁進を捕え、これを斬った。
364年2月、龍驤将軍李洪と共に河南へ侵攻すると、許昌・懸瓠・陳城を尽く攻め落とした。さらには汝南諸郡を制圧すると、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。
366年3月、国内で水害や旱魃が多発すると、慕容評は慕容恪と共に頓首して辞職を願い出たが、慕容暐はこれを認めずにその上表を破り捨てた。
367年5月、慕容恪が病により重篤に陥った。慕容恪は自分の死後、慕容評の猜疑心が強い事から、才覚ある人間を取り立てないのではないかと恐れていた。その為、慕容評へ弟の呉王慕容垂を大司馬に取り立てて六軍を統率させる様、言い残した。また、慕容暐の庶兄の安楽王慕容臧へも同様の進言を行っている。やがて慕容恪が病死すると、慕容評は可足渾皇太后と共に国政を担った。
慕容垂との対立
慕容評には軍事の才能はあったものの、摂政としては無能であり、特に慕容恪の没後は大いに朝政を腐敗させたという。
同年、前燕の併呑を目論んでいた前秦天王苻堅は、西戎主簿郭弁を密かに鄴へ派遣して内情を探らせた。郭弁は鄴に入ると皇甫真へ接近して前秦へ帰順するよう誘ったが、皇甫真はこれに激怒して郭弁を詳しく取り調べる様要請したが、慕容評はこれを聞き入れなかった。
10月、前秦の晋公苻柳が蒲阪で、趙公苻双が上邽で、魏公苻廋が陜城で、燕公苻武が安定で、それぞれ苻堅に対する反乱を起こした。その際、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。前燕の魏尹・范陽王慕容徳は前秦を討つ絶好の機会であるとして、朝廷へ出兵を要請した。多くの者がこれに同意したが、慕容評は﹁秦は大国であり、今国難に襲われているといえども、侮る事は出来ん。それに我らの国は朝廷こそ1つであるが、先帝が崩御したばかりである。また、我らの知略は太宰︵慕容恪︶には及ばない。今は関所を閉じて国境を固守するのが最良である。平秦など荷が重すぎる﹂と述べ、軍事行動を起こさなかった。結局、反乱は王猛・鄧羌・張蚝・楊安・王鑒によって同年の内に鎮圧された。
368年2月、慕容恪の遺言には従わずに中山王慕容沖を大司馬に任じ、慕容垂を退けた。
慕容評が執政して以降、王公貴族らは密かに多くの戸籍を隠し持つようになっていた。同年、広信公悦綰は慕容暐へ諸々の蔭戸︵私的に抱えている戸籍︶を廃して郡県に返還する様進言すると、慕容暐はこれに同意し、悦綰に命じてこれらの摘発に専従させた。悦綰は事実を究明して厳格に摘発したので、王公は不正を隠し通すことが出来ず、公民は20万戸も増員する事が出来た。だが、朝士はこれに大いに憤り、慕容評もこれを不満とした。11月、慕容評は賊を派遣して悦綰を暗殺した[1]。
369年4月、東晋の大司馬桓温が前燕征伐の兵を挙げた。慕容評は迎撃軍を派遣するも全て撃破され、慕容臧の率いる主力軍も鄴城近郊で敗戦した。慕容評は大いに恐れ、慕容暐を伴って龍城へ撤退した。また、慕容垂に迎撃を命じると共に、前秦に虎牢以西の地を割譲する事を条件に援軍を要請した。最終的に、慕容垂は援軍に来た前秦軍と共に桓温を破り、退却させた。
これ以降、慕容垂の威名は大いに轟くようになり、慕容評は益々彼を忌避するようになった。慕容垂は﹁今回募った将士は、みな命がけで功績を建てました。特に将軍孫蓋らは精鋭と戦って強固な敵陣を陥しました。どうか厚い恩賞を賜りますよう﹂と上奏したが、慕容評はこれを慕容暐に通さずに握りつぶした。だが、慕容垂は幾度もこの事を要請し、遂に慕容評と朝廷で言い争うようになった。これにより、両者の対立は決定的なものとなった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂を嫌っていたので、慕容評は彼女と共に慕容垂誅殺の謀略を巡らせた。
11月、慕容垂は難を避けるために龍城へ移ろうと思い、狩猟を願い出て平服で鄴を出奔し、龍城へ向かった。だが、邯鄲にいる慕容麟が父である慕容垂を告訴したので、慕容評は慕容暐へこの事を告発し、西平公慕容強に精鋭兵を与えて追撃を命じた。その為、慕容垂は進路を変更して洛陽に入り、前秦に亡命した。慕容徳・車騎従事中郎高泰らは慕容垂と仲が良かったので、みな免官となった。尚書右丞申紹は慕容評へ﹁今、呉王が出奔したことで、外ではあちこちでその事が言いはやされています。王の僚属の中で賢なる者を昇進させ、いらぬ噂を消し去るべきです﹂と勧めると、慕容評は﹁誰にすべきか﹂と問うた。申紹は﹁高泰がもっとも適任です﹂と答えたので、慕容評は高泰を尚書郎に任じた。
腐敗政治を展開
前秦へ使者として派遣されていた給事黄門侍郎梁琛が鄴に帰還すると、慕容評へ﹁秦では日夜軍事訓練が行われ、多量の兵糧が陜東へ運び込まれております。我が見ますに、今の平和は長くは続きますまい。呉王垂も秦へ亡命してまった事で、秦は必ずや我らの隙を衝くでしょう。すぐにでも防備を固められますよう﹂と進言したが、慕容評は﹁叛臣を受け入れて平和を破るなど、秦がそのような真似をする訳がなかろう!﹂と反論した。だが、梁琛は﹁今、中原が二つに別れて対立しているのは、互いに相手を併呑せんと画策した為ではありませんか。桓温の来寇により秦が援軍を出したのは、我らとの友好によるものではありません。もし燕に隙を見つければ、どうして彼らが本来の志を忘れましょうか!﹂と述べた。また、慕容評は﹁秦主はどの様な人物であったか﹂と問うと、梁琛は﹁明哲であり、決断力を有しております﹂と答えた、また、王猛についても問うと﹁彼の名声は、虚名ではありますまい﹂と答えた。これに慕容評は﹁我の聞いている話とは異なる。汝は主君を脅すというのか!﹂と述べて取り合わなかった。皇甫真もまた洛陽・太原・壷関の守備を固めて前秦へ備える様上疎すると、慕容暐は慕容評を呼び出してこの事を問うた。だが、慕容評は﹁秦は弱小であり、我らの力を頼みとしております。それに、苻堅は国交にはそれなりに気を配っております。亡命者の口車に乗り、交流を断絶するような事はしないでしょう。それより、軽率に動いて相手を警戒させる事が紛争の種となるでしょう﹂と反論し、軍備を増強しなかった。
前秦の黄門郎石越が使者として到来すると、慕容評は前燕の富盛を誇示する為、盛大にもてなした。尚書郎高泰・太傅参軍劉靖は慕容評へ﹁石越という人物は、その言は出鱈目であり、その目は遠くしか見ておりません。あれは友好の使者ではなく、我が国の隙を見つけに来たのでしょう。ここは軍事訓練を派手に見せ、奴らの意気を喪失させるべきかと。豪奢な様を見せつけているだけでは、益々我らを侮ることでしょう﹂と進言したが、慕容評は従わなかった。高泰は失望し、病気と称して職を辞した。
慕容評は財貨を貪り、飽くことが無かった。その為、朝廷でも賄賂は横行し、官吏の推挙も賄賂によって決まったので、下々には怨嗟の声が溜まった。尚書左丞申紹はこの状況を憂えて、守宰の人選見直しと官吏の削減、また経費の節減と官吏への正しい賞罰を行う様上疏したが、聞き入れられなかった。
前秦襲来
王猛との決戦
同月、慕容暐が以前約束した割譲を反故にすると、苻堅は激怒して王猛に歩兵騎兵合わせて3万を与えて前燕へ侵攻させた。12月、洛州刺史慕容筑が守る洛陽に攻め込んだ。370年1月、慕容臧が精鋭10万を従えて洛陽救援に向かうも大敗を喫し、戦意喪失した慕容筑は洛陽ごと降伏した。
5月、苻堅は王猛を総大将に任じ、楊安・張蚝・鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与えて、前燕討伐に向かわせた。8月、慕容評は40万[2]の大軍を率いて迎撃に向かったが、彼は王猛を恐れて進軍出来ず、潞川に駐屯した。その間に王猛軍は壷関・晋陽を攻め落とした。10月、王猛は潞川へと進んで慕容評と対峙すると、慕容評は敵が遠征軍であった事から持久戦に持ち込もうとした。だが、慕容評はこのような状況下でも山水資源を軍人へ売って錢を稼いでおり、王猛はこれを知ると夜襲を計画し、游撃将軍郭慶に精鋭五千を与えて夜闇に乗じて間道から敵陣営の背後に回らせ、山の傍から火を放った。この火計により、慕容評軍の輜重は焼き尽くされた。この火は、鄴からも見える程凄まじかったと言う。
慕容暐はこれに驚愕し、侍中蘭伊を派遣して慕容評へ﹁王は高祖︵慕容廆︶の子であり、宗廟社稷を憂えるのべきであるに、将兵を慰撫せずに、なぜに材木や水を独占してその利益をかき集めているのか!官庫に山積する財宝を朕は王と共有しておるのに、なぜに貧しさを憂えているのか!もし賊が進撃して国を滅ぼしてしまえば、王はかき集めた銭帛をどこに収容するというのか!かき集めた銭帛は全て兵卒へ分け与え、これを督して速やかに戦闘するように!﹂と詰ったので、慕容評は大いに恐れ、王猛へ使者を送って決戦を告げた。
王猛は渭原に布陣すると、鄧羌・張蚝・徐成らを慕容評の陣営へ突撃させ、敵陣を蹂躙して数えきれない程の将兵を殺傷した。これにより日中には慕容評軍は潰滅し、捕虜や戦死した兵はゆうに5万を超えた。王猛はこの勝利に乗じてさらに追撃を掛けると、捕虜や戦死者の数は10万に上った。大敗を喫した慕容評は単騎で鄴まで逃げ戻った。王猛はそのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。
国家滅亡
11月、苻堅は自ら精鋭10万を率いて出征し、王猛と合流して鄴を攻め立てた。これにより、前燕の散騎侍郎余蔚は夫余・高句麗・上党の人質500人余りを率い、鄴の北門を開いて前秦軍を迎え入れた。慕容評は慕容暐や慕容臧と共に龍城へ逃走を図った。慕容評は無事に退却する事が出来たが、慕容暐は郭慶に高陽で捕らえられてしまった。さらに、郭慶は進軍を続けて龍城へ迫ると、慕容評は高句麗へ亡命した。だが、高句麗は慕容評を捕らえて前秦へ送還した。これにより前燕は滅亡した。慕容評の屋敷には大量の財宝が残されていたが、全て押収された。
最期
12月、慕容評は苻堅により給事中に任じられた。
372年2月、慕容垂は苻堅へ、前燕滅亡の原因を作った慕容評を誅殺するよう請うた。苻堅は処刑については認めなかったが、慕容評を范陽郡太守に任じて地方へ追いやった。
やがて在任中に卒したという。