「日本共産党労働者派」の版間の差分
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{{日本共産党から分裂した党派}}
'''日本共産党労働者派'''︵にほんきょうさんとうろうどうしゃは︶は、 ==概要==
[[1928年]]の[[三・一五事件]]により[[逮捕 (日本法)|検挙]]された共産党の前中央事務局長・[[水野成夫]]は、獄中において党の方針に疑問を感じるようになり、[[1929年]]5月、手記﹁日本共産党脱党に際して党員諸君に﹂をまとめ、同じく獄中にある党員・活動家の回覧に付し賛同を求めた。彼は再建された党組織が[[弾圧]]により再び壊滅しつつある状況を前に、これを敗北ととらえる﹁政治的リアリズム﹂に立脚するべきであり、﹁日本の状勢に適応せざる戦術の採用﹂﹁それを促す[[コミンテルン]]盲従主義﹂﹁それによる党の大衆よりの孤立﹂﹁[[君主制]]廃止スローガンの急進主義﹂﹁[[天皇]]地主[[寺院]]等の[[土地]]の無償没収スローガンの原理主義﹂﹁[[植民地]]問題における英米仏と日本の質の混同﹂の6点を誤りと認めることを主張した。特に'''君主制廃止は日本の国情に合わないため、コミンテルンとの関係を絶った上でこれを撤回するべき'''であるとした。 水野がこのような声明を発するに至った背景には、一つには、幹部が待合で遊興中に逮捕されるような党の腐敗に対する憂慮があったが、 水野らは三・一五および[[四・一六事件]]の[[公判]]で統一被告団からの分離を求め、[[1930年]][[保釈]]出獄 解党派の運動は政治的には極めて小さな力しか持たなかったが、コミンテルンとの関係断絶と﹁君主制廃止﹂ ==
* 伊藤晃 『転向と天皇制:日本共産主義運動の1930年代』 [[勁草書房]]、[[1995年]] ISBN 4326300957
** 第二章「日本共産党労働者派と平田勲」参照。
* しまねきよし 「日本共産党労働者派 - 水野成夫」[[思想の科学|思想の科学研究会]] 『共同研究 転向』(上) [[平凡社]]、[[1978年]](改訂増補版)
** 河合悦三・春日庄次郎による「批判」が付されている。
==関連
* [[武装共産党]]
* [[共同被告同志に告ぐる書]]
{{戦前の日本共産党}}
{{DEFAULTSORT:にほんきようさんとうろうとうしやは}}
[[Category:日本共産党諸派|ろうとうしやは]]
[[Category:
[[Category:昭和時代戦前の政治団体]]
[[Category:反共主義]]
[[Category:1930年設立の政党・政治団体]]
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