日笠恒太郎
明治期の農業経営者、政治家、実業家
経歴
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備前国和気郡奥吉原村[1]︵岡山県[2]和気郡熊山村[3]、赤磐郡熊山町を経て現赤磐市奥吉原︶で、大庄屋・日笠太左衛門の長男として生れた[1]。閑谷校で学び[1]漢学を修めた[2][3]。農業を営む[2][3]。
1877年︵明治10年︶1月、和気郡第5戸長役場戸長に就任[1]。1878年︵明治11年︶郡役所が設置され郡書記となる[1]。1882年︵明治15年︶岡山県会議員に選出され[1]、3期12年間在任し[1]、この間、常置委員を2期務めた[1]。
1889年︵明治22年︶12月、山陽鉄道に入社して書記となり[1]、岡山派出所に在勤し1891年︵明治24年︶の岡山開通に尽力[1]。また、鉄道用陶器製茶入れの製造に着手した[1]。
1894年︵明治27年︶3月、第3回衆議院議員総選挙︵岡山県第2区、中国進歩党︶で当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。結核のため第4回総選挙の投票日前に、議員を辞退する新聞広告を4度掲載して政界を引退した[1]。