「服部誠一」の版間の差分
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[[File:Hattori Seiichi.jpg|thumb|服部誠一]]
'''服部 誠一'''︵はっとり せいいち、 ==生涯==
[[1841年]]、[[二本松藩]]の[[儒官]]であった [[1874年]]、[[文明開化]]のさなかにあった[[東京]]の[[風俗]]を描いた、[[寺門静軒]]﹃江戸繁盛記﹄の明治版ともいうべき﹃東京新繁昌記﹄を出版 1882年には[[立憲改進党]]に加入し、[[山田喜之助]]、[[市島謙吉]]、[[高田早苗]]、[[天野為之]]、砂川俊雄らと政治新聞『内外政党事情』(四通社)を発行。各参加者の多忙により数ヶ月で廃刊となったが、次いで民権拡張を論じる『広益問答新聞』『中外広間新報』などを発行した。これらは政府批判から、たびたび[[発禁]]処分となった。
『東京新誌』も[[新聞紙条例]]によりたびたび罰金や発売禁止処分を受けたが、[[井上馨]]令嬢の暴露記事により、ついに恒久の発行禁止処分を受けることになった。直ちに同様の内容の『吾妻新誌』を発行開始したが、丸谷新八と経営面で訴訟となり、『吾妻新誌』は丸八に譲り、1888年『京華春報』を発刊、しかしこの頃には漢文雑誌は時代に合わなくなって廃刊となった。
その後、[[文部省]]図書課詰などを経て、[[1896年]]に宮城県尋常中学校︵現・[[宮城県仙台第一高等学校]]︶の教員となり、作文や漢文を教えた。その時の教え子には[[吉野作造]]らがいる。 [[1908年]]に 娘は[[赤坂氷川神社]]の狛犬を彫った[[石工]]・[[須藤音吉]]に嫁いだ。その孫が[[徳光和夫]]である。
▲娘は[[赤坂氷川神社]]の狛犬を彫った[[石工]]・[[須藤音吉]]に嫁いだ。その孫が[[徳光和夫]]である。<ref>[[ドキュメンタリー]]番組﹃[[ファミリーヒストリー]]﹄ [[NHK]]、﹁[[徳光和夫]]﹂ 2013年1月21日放送回。</ref> ==影響==
『東京新繁昌記』から『東京新誌』の文体は、[[六朝]]風や[[六経]]の引用から[[浄瑠璃]]の文句、[[都々逸]]、[[漢詩]]など多彩なものを一体にした大胆なもので、また妾を「権妻」、官吏を鯰、泥鰌と呼ぶのも服部の造語だった。『東京新繁昌記』により『江戸繁盛記』が再び注目されるとともに、続いて同種の作品として[[成島柳北]]『柳橋新誌』、石井南橋『新橋雑記』、菊池三渓『西京伝新記』、[[総生寛]]『東京繁昌新詩』、関槎盆子『銀街小誌』、その他地方を題材にした類書がさまざまに出たが、売れ行きでは及ぶところではなかった。
﹃東京新誌﹄の花柳界などの記事執筆者には、桑野鋭︵顧柳散史、﹃龍山北誌﹄︶、荒井繚太郎︵金繚散史︶、三木愛花︵﹃仙洞綺話﹄﹃仙洞余談﹄﹃仙洞美人禅﹄、大久保常吉︵夢遊仙史︶、西森武城︵骨皮道人︶、結城賛︵凡鳥道人、﹃扶桑橋花譜﹄︶などがいた。 ==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|1}}
==参考文献==
*三木愛花「服部撫松伝」([[十川信介]]編『明治文学回想集』岩波書店 1998年)
==関連項目==
*[[日本の近現代文学史]]
== 外部リンク ==
* [
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* [http://snob.s1.xrea.com/fumikura/yoshinosakuzo/hattoriseichi.html 吉野作造「服部誠一翁の追憶」]
{{徳光和夫}}
{{Normdaten}}
{{
[[Category:日本の
[[Category:19世紀日本のジャーナリスト]]
[[Category:
[[Category:日本の中等教育の教員]]
[[Category:幕末二本松藩の人物]]
[[Category:福島県出身の人物]]
[[Category:1841年生]]
[[Category:1908年没]]
[[Category:徳光和夫|+はつとり せいいち]]
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