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{{Infobox 人物
|氏名
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|出生名
|生年月日
|生誕地
|没年月日
|死没地
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}}
'''楢崎 龍'''︵ならさき りょう、[[天保]]12年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]︵[[1841年]][[7月23日]]︶ - [[明治]]39年︵[[1906年]]︶[[1月15日]]︶は、[[江戸時代]]末期︵[[幕末]]︶から[[明治]]時代の女性。名は一般に'''お龍'''︵おりょう︶と呼ばれることが多い。 [[久邇宮朝彦親王|中川宮]]の侍医であった父が死んで困窮していた頃に[[坂本龍馬]]と出会い妻となる。[[薩長同盟]]成立直後の[[ == 生涯 ==
===
[[
[[
[[天保]]12年︵[[1841年]]︶、医師の[[楢崎将作]]と貞︵または夏︶の長女として[[京都]]富小路六角付近で生まれた。異説では実父は[[西陣織]]を扱う商人で将作の養女になったともいう<ref>{{Harvnb|阿井|2005|loc=pp.209-212}} 楢崎家は元は[[長州藩|長州]]の士分であったが、お龍の曽祖父の代に主君の怒りを受けて[[浪人]]になっていた。父の将作は[[久邇宮朝彦親王|青蓮院宮]]の侍医であったため、お龍は裕福な家庭で育ち、[[華道|生け花]]、[[香道]]、[[茶道|茶の湯]]などを嗜んだが、炊事は苦手だった。しかし、勤王家であった父が[[安政の大獄]]で捕らえられ、赦免後の[[文久]]2年︵[[1862年]]︶に病死すると その後、お龍は七条新地の旅館﹁扇岩﹂で働き<ref>{{Harvnb|鈴木|2007|loc=p.36}}</ref>、母・貞は[[方広寺]]大仏殿︵[[京の大仏]]︶近くの[[天誅組]]の残党を含めた[[土佐藩]]出身の尊攘派志士たちの隠れ家で賄いをするようになった。龍馬とお龍は[[元治]]元年︵[[1864年]]︶頃に出会っている<ref>{{Harvnb|鈴木|2007|loc=p.34}}</ref><ref>﹃坂本龍馬と海援隊﹄p.84</ref>。後年のお龍の回顧によると、龍馬と初めて会ったときに名前を聞かれて紙に書くと自分と一緒だと笑っていたという<ref name=book1>{{Harvnb|坂本|2010|loc=p.86}}</ref>。お龍に惚れた龍馬は母・貞に、お龍を妻にしたいと申し入れ、貞も承知した<ref>{{Harvnb|鈴木|2007|loc=p.40}}</ref><ref name=book1/>。 同年6月の[[池田屋事件]]の際に、大仏でも[[会津藩]]の手入れがあって家財道具も没収されてしまった。︵大仏騒動︶ 一家は困窮し、龍馬は﹁日々、食うや食わず、実に哀れな暮しであった﹂と述べている<ref name=tegami/>。これらお龍の境遇について、龍馬は姉・[[坂本乙女|乙女]]に宛てた[[慶応]]元年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]付の手紙で詳しく書き送り、彼女を﹁まことにおもしろき女﹂と評している<ref name=tegami/>。お龍の後年の回想によると、同年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]に龍馬とお龍は内祝言を挙げた<ref name=otyou>﹃反魂香﹄︵{{Harvnb|一坂|2009|loc=pp.48-49}}︶</ref>。 === 寺田屋遭難
各地を奔走していた龍馬は、懇意にしていた[[伏見区|伏見]]寺田屋の[[お登勢]]にお龍を預け、お龍は﹁'''お春'''﹂の変名でお登勢の娘分になった。この時期についてお龍は龍馬と2人で歩いていたら[[新選組]]と遭遇し、龍馬が慌てて隠れてしまった話<ref>﹃千里駒後日譚﹄︵{{Harvnb|坂本|2010|loc=pp.101-102}}︶</ref>や、[[桐野利秋]]に寝床を襲われた話<ref>﹃反魂香﹄︵{{Harvnb|坂本|2010|loc=pp.103-105}}︶</ref>などを、後年回顧している。また、新選組局長の[[近藤勇]]がお龍に懸想して、櫛や[[簪]]を買って来 [[慶応]]2年︵[[1866年]]︶[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]、龍馬の仲介もあって、[[薩長同盟]]が成立した。その翌[[1月23日 (旧暦)|23日]]、龍馬は護衛役の[[長府藩|長府藩士]]・[[三吉慎蔵]]と寺田屋に投宿していた。その晩、入浴していたお龍は窓外に多数の捕吏がいることに気付き、咄嗟に袷︵あわせ︶一枚を羽織って<ref>﹃千里駒後日譚﹄︵{{Harvnb|坂本|2010|loc=pp.111-113}}︶</ref>二階に駆け上がり龍馬と三吉に通報した。お龍の機転により、龍馬と三吉は不意打ちを受けることなく応戦し、負傷しつつも辛うじて脱出できた。︵[[ ▲各地を奔走していた龍馬は、懇意にしていた[[伏見区|伏見]]寺田屋の[[お登勢]]にお龍を預け、お龍は﹁'''お春'''﹂の変名でお登勢の娘分になった。この時期についてお龍は龍馬と2人で歩いていたら[[新選組]]と遭遇し、龍馬が慌てて隠れてしまった話<ref>﹃千里駒後日譚﹄︵{{Harvnb|坂本|2010|loc=pp.101-102}}︶</ref>や、[[桐野利秋]]に寝床を襲われた話<ref>﹃反魂香﹄︵{{Harvnb|坂本|2010|loc=pp.103-105}}︶</ref>などを、後年回顧している。また、新選組局長の[[近藤勇]]がお龍に懸想して、櫛や[[簪]]を買って来たりしたという話も伝えている<ref>{{Harvnb|坂本|2010|loc=p.188}}</ref>。 ▲[[慶応]]2年︵[[1866年]]︶[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]、龍馬の仲介もあって、[[薩長同盟]]が成立した。その翌[[1月23日 (旧暦)|23日]]、龍馬は護衛役の[[長府藩|長府藩士]]・[[三吉慎蔵]]と寺田屋に投宿していた。その晩、入浴していたお龍は窓外に多数の捕吏がいることに気付き、咄嗟に袷︵あわせ︶一枚を羽織って<ref>﹃千里駒後日譚﹄︵{{Harvnb|坂本|2010|loc=pp.111-113}}︶</ref>二階に駆け上がり龍馬と三吉に通報した。お龍の機転により、龍馬と三吉は不意打ちを受けることなく応戦し、負傷しつつも辛うじて脱出できた。︵[[寺田屋事件#.E5.9D.82.E6.9C.AC.E9.BE.8D.E9.A6.AC.E8.A5.B2.E6.92.83.E4.BA.8B.E4.BB.B6|寺田屋遭難]]︶お龍は龍馬たちを家屋の裏木戸から逃がしたが、裏木戸には大きな石を載せた漬物槽があり、それらをどかして逃げ道を作った。後日お龍が確かめると、槽と石は到底、動かすことができない重さだったそうである。<ref>﹃芸西村の歴史を綴る﹄、門脇鎌久、芸西村教育委員会、2016年、P39</ref> 龍馬はこの事件の顛末を慶応2年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]付の手紙で兄・[[坂本権平|権平]]に詳しく報告し、その際にお龍のことを﹁名は龍、今は妻です﹂と紹介している <ref>﹃龍馬の手紙﹄p.237-243</ref>。また、姉・乙女宛ての手紙では﹁このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました﹂とお龍への感謝の気持も表している<ref>慶応2年12月4日付書簡︵原文﹁此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり﹂﹃龍馬の手紙﹄p.257-258︶</ref>。 === 薩摩旅行 ===
寺田屋遭難で龍馬は両手指に重傷を負い、[[西郷隆盛]]の勧めもあって、刀傷治療のために[[薩摩国|薩摩]]へ下ることになった。龍馬とお龍は[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]に薩摩藩船﹁三国丸﹂で大坂を出帆した。船上で龍馬は﹁天下が鎮まったら汽船を造しらえて日本を巡ろうとか﹂と言い、お龍が﹁家などいりません。船があれば十分です。外国まで廻ってみたいです﹂と言い返すと、龍馬は﹁突飛な女だ﹂と笑い出した。後でこの話を聞いた西郷も﹁突飛な女だから君の命は助かった﹂と大笑いしたと後年、お龍は回想している<ref>﹃反魂香﹄︵{{Harvnb|一坂|2009|loc=p.94}}︶</ref>。 48 ⟶ 49行目:
龍馬を初めて世間に紹介した[[坂崎紫瀾]]の﹃[[汗血千里駒]]﹄では、この旅行を西洋人がする﹁ホネー、ムーン﹂︵[[新婚旅行|ハネムーン]]︶と結び付けて説明しており<ref>﹃坂本龍馬歴史大事典﹄p.146</ref>、現在では日本最初の新婚旅行として知られている<ref name=sinkon/>。 ▲File:坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡 石碑.jpg|龍馬 お龍「結婚式場」跡 石碑<br />(京都市東山区)
▲File:Amenosakahoko.jpg|高千穂峰の天逆鉾
=== 長崎・下関での生活
同年6月、傷が癒えた龍馬は[[長州征伐|第二次長州征伐]]で幕府軍と戦う長州へ向かうことになり、お龍は途中の[[長崎市|長崎]]で下船し[[小曾根英四郎]]家に預けられた。翌慶応3年︵[[1867年]]︶[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]、龍馬は[[下関市|下関]]の[[伊藤助太夫]]家を借りて亀山社中︵後の[[海援隊]]︶の拠点を置き、お龍はここで妹・起美と日々を過ごすようになる。下関滞在中、龍馬とお龍は[[巌流島]]で花火を打ち上げたり、歌会に出席して楽しんだ<ref>{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.74-77}}</ref>。同年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]、龍馬はお龍へ[[いろは丸|いろは丸事件]]の経過報告とともに彼女を気遣う手紙を送っており、これが現存するお龍宛ての唯一の手紙である<ref>慶応3年5月28日付書簡︵﹃龍馬の手紙﹄p.364-370︶</ref>。お龍と龍馬が最後に会ったのは同年9月に下関に寄港した際であった<ref>{{Harvnb|坂本|2010|loc=pp.137-139}}</ref>。 海援隊士・[[安岡金馬]]の子・[[安岡重雄|重雄]]︵秀峰︶は、この時期のお龍について﹁龍馬はぞっこん惚れこんでいたが、︵海援隊の︶同志たちは嫌っていた。生意気で龍馬を傘にきて同志たちを下風に見たがっていた﹂と述べている<ref>﹃阪本龍馬の未亡人﹄︵{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.109-110}}︶</ref>。[[土佐藩]]士・[[佐々木高行]]は、お龍のことを﹁有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり﹂︵大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。善にも悪にもなるような女︶と評している。 66 ⟶ 59行目:
同年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]、龍馬は京都・近江屋で暗殺された([[近江屋事件]])。
=== 龍馬の死 ===
龍馬の訃報は、[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]に下関に伝えられた。覚悟していたものの、お龍は髪を切って仏前に添えると、大泣きしたという<ref>﹃反魂香﹄︵{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.89-91}}︶</ref>。龍馬との間に子はいなかった。後年、お龍は龍馬が亡くなった晩に、血だらけの龍馬が夢枕に立っていたと語っている<ref>﹃千里駒後日譚﹄︵{{Harvnb|坂本|2010|loc=pp.139-140}}︶</ref>。 ▲=== 龍馬の死後 ===
龍馬の死後、暫くは︵寺田屋遭難の際にも龍馬と一緒に行動した︶[[三吉慎蔵]]が、お龍の面倒をみていた。また生前の龍馬の意思により、妹・起美が海援隊士の[[菅野覚兵衛]]︵千屋寅之助︶と結婚した。 [[慶応]]4年︵[[1868年]]︶3月、お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に送り届けられた。だが、坂本家での生活は長くは続かず、3ヵ月ほどで立ち去ることになる。龍馬の姉・乙女との不仲が理由との説もあるが<ref>{{Harvnb|阿井|2005|loc=pp.184-187}}</ref>、お龍本人は﹁乙女さんには親切にしてもらいました﹂と後年語っている<ref>﹃千里駒後日譚﹄︵{{Harvnb|鈴木|2007|loc=p.245}}︶</ref>。不仲だったのは義兄の権平夫婦で、お龍は後年の回顧談で龍馬に下る褒賞金欲しさに自分を苛めて追い出したと恨み事を述べている<ref>﹃反魂香﹄︵{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.193-194}}︶</ref>。 === 流転 ===
その後、妹・起美の嫁ぎ先である安芸郡和食村︵現[[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[芸西村]][[和食 (芸西村)|和食]]︶の千屋家︵菅野覚兵衛の実家︶の世話になったが、覚兵衛が[[海軍省]]へ出仕して[[アメリカ合衆国|米国]]へ留学することになって千屋家にも居られなくなり、明治2年︵[[1869年]]︶中頃に土佐を出ることになった。出立する際に龍馬からの数多くの手紙は他人に見せたくない二人だけのものとし、すべて燃やすよう依頼しており、このためお龍宛ての龍馬の手紙は1通を残して全て失われてしまった<ref>{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.121-122}}</ref>。お龍が一時期逗留した芸西村には﹁お龍と起美の銅像﹂が建立されている。 土佐を出たお龍は寺田屋お登勢を頼りに京都へ行き、龍馬の墓所近くに庵を結んで墓守をしながら暮らしていたが、やがて京都にも居づらくなり<ref name=siryu>﹃反魂香﹄︵{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.123-124}}</ref>、東京へ出た。お龍は東京で知人の[[勝海舟]]や西郷隆盛を頼り、同情した西郷は金20円を援助したが、丁度[[征韓論]]に敗れて下野する時期で、帰ったら世話をすると約束されたものの、それきりとなってしまった<ref name=siryu/>。 その後は元薩摩藩士の[[吉井友実]]や元海援隊士の[[橋本久太夫]]の世話になった。一方で龍馬の家督を継いだ[[坂本直]](高松太郎・小野淳輔)は、訪ねて来たお龍を冷たく追い返している<ref>『続反魂香』({{Harvnb|鈴木|2007|loc=p.127}})</ref>。元海援隊士の間ではお龍の評判は悪く、維新後に出世した者も少なくなかったが彼女を援助する者は誰もいなかったといわれ<ref>『実話雑誌』({{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.130-131}})</ref>、[[田中光顕]](元[[陸援隊|陸援隊士]]で後に[[宮内大臣]]にまで出世)の回顧談によれば、瑞山会([[武市瑞山|武市半平太]]ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、お龍の処遇が話題になった際にも妹婿の菅野覚兵衛にまで「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒はみられない」と拒否されたという<ref>{{Harvnb|鈴木|2007|loc=p.131}}</ref>。お龍は腹の底から親切だったのは西郷と勝そしてお登勢だけだったと語っている<ref>『反魂香』({{Harvnb|一坂|2009|loc=p.176}})</ref>。
=== 再婚 ===
[[ 明治7年︵[[1874年]]︶、勝海舟または菅野覚兵衛の紹介で [[神奈川宿]]の[[料亭]]・[[割烹 田中家|田中家]]で仲居として働いた<ref name="名前なし-20230316124510">{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.132-136}}</ref>。田中家に伝わる話では頑固で使い辛かったというが、この逸話の真偽も不明である。
翌明治8年︵[[1875年]]︶、[[西村松兵衛]]と再婚し、'''西村ツル'''となり、[[横須賀市|横須賀]]で暮らした。[[安岡秀峰]]や[[中城仲子]]︵覚兵衛の姪︶の証言によれば西村松兵衛は元は呉服商の若旦那で、寺田屋時代のお龍と知り合いであり、維新の動乱時に家業が傾き横須賀に移り住んで大道商人をして生計を立て覚兵衛の家にも出入りしていたため、覚兵衛︵またはお登勢<ref>安岡秀峰﹃阪本龍馬の未亡人﹄︵{{Harvnb|鈴木|2007|loc=p.258}}︶</ref>︶の世話でお龍と結婚することになったという<ref name="名前なし-20230316124510-2">{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.128-131}}</ref>。また、料亭田中家で仲居をしていた時に松兵衛と知り合ったという話もあるが、これも真偽も不明<ref>{{Harvnb|阿井|2005|loc=p.190-191}}</ref><ref name="名前なし-20230316124510"/>{{ 松兵衛との入籍後に母・貞を引き取り、妹・光枝の子・松之助を養子とした === 晩年 ===
明治16年︵[[1883年]]︶、[[土陽新聞]]に掲載された[[坂崎紫瀾]]の﹃汗血千里駒﹄がベストセラーとなり、それまで忘れられた存在だった龍馬の名が広く世間に知られるようになった<ref>﹃坂本龍馬伝﹄p.116-117</ref>。だが、同書は伝記としては事実誤認や創作の多い内容で、お龍も﹁誤謬が多くて口惜しい﹂と語っている<ref>﹃千里駒後日譚﹄︵{{Harvnb|一坂|2009|loc=p.203}}︶</ref>。 このため[[安岡秀峰]]や[[川田瑞穂|川田雪山]]がお龍宅を訪ねて聞き書きを著した。安岡の著作が明治32年︵[[1899年]]︶から翌33年︵[[1900年]]︶に雑誌﹃文庫﹄に掲載された﹃反魂香﹄、﹃続反魂香﹄、﹃維新の残夢﹄であり、川田の著作は明治32年に土陽新聞に掲載された﹃千里駒後日譚﹄﹃千里駒後日譚拾遺﹄である。お龍は﹃千里駒後日譚﹄の最後で﹁龍馬が生きていたなら、また何か面白い事もあったでしょうが…﹂と語っている 明治30年︵[[1897年]]︶に安岡秀峰が訪ねた時にはお龍は横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしていた<ref>﹃雑誌実話﹄︵{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.143-144}}︶</ref>。晩年は[[アルコール依存症]]状態で、酔っては﹁私は龍馬の妻だ﹂と松兵衛に絡んでいたという<ref>{{Harvnb|阿井|2005|loc=pp.196-197, p.200}}</ref>。夫に先立たれた妹・光枝がお龍を頼るようになり、3人で暮らすようになったが、やがて松兵衛と光枝が内縁関係になり二人でお龍の元を離れて別居してしまう<ref>{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.154-157}}</ref><ref>{{Harvnb|坂本|2010|loc=p.151}}</ref>。お龍は退役軍人・[[工藤外太郎]]に保護されて余生を送った<ref>明治37年12月15日﹁東京二六新聞﹂︵{{Harvnb|鈴木|2007|loc=p.21, 155}}︶</ref>。 [[日露戦争]]開戦直前の明治37年︵[[1904年]]︶、[[昭憲皇后|美子皇后]]の夢枕に坂本龍馬が立ったという話が広まり、再び龍馬が注目を集め、お龍の存在も世間に広く知られるようになる<ref>鈴木かほる﹃史料が語る 坂本龍馬の妻お龍﹄p.147</ref>。 明治39年([[1906年]])1月にお龍が危篤に陥ると、皇后大夫[[香川敬三]](元陸援隊士)から御見舞の電報が送られ、[[井上良馨]]大将が救護の募金を集めている。同年1月15日にお龍は66歳で死去した。
== 死後 ==
== お龍の写真について ==
現存するお龍の写真は、[[明治]]37年 ﹃続反魂香﹄の末筆で安岡が﹁現今のお良婦人は、今回を以て初めて写真したるなれば、是おそらく天下の絶品ならむ﹂<ref name=yasuoka/>と述べて ところが、[[昭和]]54年︵[[1979年]]︶に[[近江屋]]井口新助家のアルバム︵[[中井弘]]旧蔵写真アルバム︶から発見された女性の立ち姿の写真が公表され<ref>昭和57年12月22日付[[高知新聞]]</ref>、また、﹃セピア色の肖像 幕末明治名刺写真コレクション﹄︵井桜直美著、[[朝日ソノラマ]]、2000年︶に掲載された椅子に腰かけた女性の写真もお龍の写真とされた。二枚の写真は一見して同一人物のもので、浅草大代地の[[内田九一]]の写真館で撮影されたことが判明している。 新たに発見された写真には否定的な意見も多く<ref>{{Harvnb|鈴木|2007|loc=pp.22-26}}</ref><ref>{{Harvnb|阿井|2005|loc=pp.205-212}}</ref>、真影か否かは判然としなかった。平成20年︵[[2008年]]︶に[[高知県立坂本龍馬記念館]]が[[警察庁]][[科学警察研究所]]に鑑定を依頼したところ、座り姿の写真と晩年の写真とをスーパーインポーズ法により比較した結果、﹁同一人物の可能性がある﹂との鑑定結果が出された。 しかしながら、これは[[平成]]8年︵[[1996年]]︶10月10日に﹁ソニー坂本龍馬研究会﹂の釜谷直樹が﹃お龍二枚の写真﹄として画像分析した時の方法と全く同じであり、この時も﹁コンピューターによる画像処理とその結果﹂を報告書にして、作家 そして、科学警察研究所は「顔の輪郭と耳、目、口などの配置は二枚の写真のものはきわめて似ている。これらの写真からは同一人物の、若い日と晩年のものであるといっても特に矛盾は生じないように思われる」として、「両者は同一人物と判定できうるもの」と結論付けているが、これも元[[慶應義塾大学]]理工学部准教授の高橋信一の研究により、鑑定方法として間違っていると指摘されている<ref>『若い日の「お龍さん」写真は本物? 警察庁科警研が鑑定』(2008年5月15日付読売新聞)</ref><ref>『やっぱりお龍さん? 写真の女性、龍馬の妻の「可能性」』(2008年5月16日付朝日新聞)</ref><ref>『お龍:異論あった若い写真「別人の根拠なし」』(2008年5月15日付毎日新聞)</ref><ref>『若き日の龍馬の妻と「同一人の可能性」科警研』(2008年5月15日付産経新聞)</ref>
このような経緯で、それまで座り姿の写真が﹁若き日のお龍の写真﹂として扱われるようになっていたが、 平成25年([[2013年]])、[[日本軍装研究会]]の平山晋が都内の古書店で、若き日のお龍とされた女性と同じ人物が写された名刺判写真を発見した。平山が発見した写真に写る女性は、座り姿の写真と同じポーズを取っており、片手の位置が違うだけの同一人物であるため、このことからも「若き日のお龍の写真」はお龍とは別人の写真であることが判明した。さらに、全身像の写真についても、他の複数の女性とコラージュされた名刺判写真が存在し、この写真の裏書には、この女性
== 登場作品 ==
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*『[[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]]』(2018年、NHK大河ドラマ、演:[[水川あさみ]])
; アニメ▼
その他テレビ番組
* 『[[ねこねこ日本史]]』(2016年、[[Eテレ]])▼
*『[[歴史秘話ヒストリア]] 龍馬が愛した女〜お龍 知られざる素顔〜』(2013年、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、演:[[縄田かのん|縄田智子]])
; ゲーム▼
*『[[古舘トーキングヒストリー]] 〜幕末最大の謎 坂本龍馬暗殺、完全実況〜』(2019年、[[テレビ朝日]]、演:[[橋本マナミ]])
; 漫画▼
* 『[[お~い!竜馬]]』(1986年-1996年、[[小学館]]、原作:[[武田鉄矢]]、作画:[[小山ゆう]])▼
*『[[龍 -RYO-]]』(2013年)
; 小説▼
* 『お龍』(2008年、[[新人物往来社]]、著:[[植松三十里]])▼
*
* 『[[さなとりょう]]』(2017年、[[太田出版]]、著:谷治宇)▼
* 『[[サムライせんせい]]』(2013年-、[[リブレ出版]]、[[黒江S介]])
*『月琴を弾く女 お龍がゆく』(2010年、[[幻冬舎]]、著:[[鏡川伊一郎]])
*『ゆけ、おりょう』(2016年、[[文藝春秋]]、著:[[門井慶喜]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
;史料
*『千里駒後日譚』- 楢崎龍の話を[[川田瑞穂]]が聞き書きしたもの
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== 関連項目 ==
* [[信楽寺 (横須賀市)|信楽寺]] - 楢崎龍の墓がある
== 外部リンク ==
{{Wikisource|楢崎龍関係文書|楢崎龍関係文書}}
{{Commons|Category:Narasaki_Ryo}}
* {{青空文庫著作者|1587|楢崎 竜}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ならさき りよう}}
[[Category:19世紀日本の女性]]
[[Category:20世紀日本の女性]]
[[Category:幕末の女性]]
[[Category:明治時代の
[[Category:坂本龍馬]]
[[Category:山城国の人物]]
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