「清浦奎吾」を編集中
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{{see also|清浦内閣|第二次護憲運動}} |
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[[ファイル:Kiyoura Keigo.jpg|200px|thumb|内閣総理大臣に就任したころの清浦]] |
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[[1923年]](大正12年)、[[第2次山本内閣]]が[[虎ノ門事件]]で[[内閣総辞職|総辞職]]すると、[[衆議院議員総選挙|総選挙]]施行のため公平な内閣の出現を望む西園寺の推薦によって{{sfn|小山俊樹|2012|p=56}}、組閣の大命は再び清浦の下に降下した。1月1日に大命を受けた清浦は75歳という老齢と枢密院議長という職責から拝辞したい意向を1月3日に奏上するが、[[摂政]]宮[[裕仁親王]]より「此際の事であるから務めてやれ」という優諚を受けたため、清浦は組閣を行うこととなった{{sfn|小野修三|2016|p=59-58}}。熊本県出身で総理大臣に就任したのは清浦が初めて |
[[1923年]](大正12年)、[[第2次山本内閣]]が[[虎ノ門事件]]で[[内閣総辞職|総辞職]]すると、[[衆議院議員総選挙|総選挙]]施行のため公平な内閣の出現を望む西園寺の推薦によって{{sfn|小山俊樹|2012|p=56}}、組閣の大命は再び清浦の下に降下した。1月1日に大命を受けた清浦は75歳という老齢と枢密院議長という職責から拝辞したい意向を1月3日に奏上するが、[[摂政]]宮[[裕仁親王]]より「此際の事であるから務めてやれ」という優諚を受けたため、清浦は組閣を行うこととなった{{sfn|小野修三|2016|p=59-58}}。熊本県出身で総理大臣に就任したのは清浦が初めて。 |
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清浦は組閣にあたって自らの支持基盤であった研究会を中心としたため、内閣の構成は貴族院に大きく偏重していた。貴族院からの入閣は研究会が3、[[交友倶楽部]]が2、[[茶話会]]が1、[[公正会]]が1という配分であり、陸海軍大臣のほかは外務次官であった[[松井慶四郎]]が入閣したのみであり、政党からの入閣者はなかった{{sfn|小野修三|2016|p=57}}。ただし、西園寺が清浦推挙にあたって「政友会を尊重せしめ、政策により助けさせるが宣し」と述べたように西園寺は清浦内閣と政友会の協調が行われると考えており{{sfn|小山俊樹|2012|p=56}}、清浦の側では政友会を敵とする意図は持っていなかった。また研究会は伝統的に政友会との協調関係を持っており、組閣にあたっても政友会との調整が行われていた{{sfn|小野修三|2016|p=56}}。また[[内閣書記官長]]として政友会の衆議院議員であった[[小橋一太]]を招き、政友会との連絡も保持されていた{{sfn|小野修三|2016|p=56}}。清浦は後に貴族院で「過渡期ニ於イテ斯ノ如キ内閣ガ憲政ノ常道に背クモノトハ思イマセヌ」と答弁している{{sfn|小野修三|2018|p=34}}。 |
清浦は組閣にあたって自らの支持基盤であった研究会を中心としたため、内閣の構成は貴族院に大きく偏重していた。貴族院からの入閣は研究会が3、[[交友倶楽部]]が2、[[茶話会]]が1、[[公正会]]が1という配分であり、陸海軍大臣のほかは外務次官であった[[松井慶四郎]]が入閣したのみであり、政党からの入閣者はなかった{{sfn|小野修三|2016|p=57}}。ただし、西園寺が清浦推挙にあたって「政友会を尊重せしめ、政策により助けさせるが宣し」と述べたように西園寺は清浦内閣と政友会の協調が行われると考えており{{sfn|小山俊樹|2012|p=56}}、清浦の側では政友会を敵とする意図は持っていなかった。また研究会は伝統的に政友会との協調関係を持っており、組閣にあたっても政友会との調整が行われていた{{sfn|小野修三|2016|p=56}}。また[[内閣書記官長]]として政友会の衆議院議員であった[[小橋一太]]を招き、政友会との連絡も保持されていた{{sfn|小野修三|2016|p=56}}。清浦は後に貴族院で「過渡期ニ於イテ斯ノ如キ内閣ガ憲政ノ常道に背クモノトハ思イマセヌ」と答弁している{{sfn|小野修三|2018|p=34}}。 |