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'''石井 亮一'''︵いしい りょういち、[[慶応]]3年[[5月25日]]︵[[1867年]][[6月27日]]︶ - [[昭和]]12年︵[[1937年]]︶[[6月14日]]︶は、[[明治]]時代から[[昭和]]時代初期にかけての[[心理学|心理学者]] 日本における[[知的障害|知的 妻は近代女子教育の先駆者の一人・[[石井筆子]]である。
== 経歴 ==
===生い立ち===
石井亮一は、[[1867年]]︵[[慶応]]3年︶、現在の[[佐賀県]][[佐賀市]][[水ヶ江]]において誕生した。父 亮一は幼少時より、秀才と評判の少年であったが、体が丈夫ではなかったため、父の意向で藩主の侍医をつとめた大須賀家の養子となり、しばらくは大須賀姓を名乗っていた。その後、[[佐賀県立佐賀西高等学校|佐賀県立佐賀中学校]]に進み、在学中、旧藩主・鍋島家の奨学生に選 === 女子教育者へ ===
亮一は立教大学校在学中に、創立者・[[チャニング・ウィリアムズ]][[聖公会]][[主教]]と深い師弟関係を築いて、その教えに感銘を受けた。そして1887年︵明治20年︶に受洗し、[[キリスト教]]徒となる<ref name="kuzaidan"/>。1890年︵明治23年︶に立教大学校を卒業後、留学のための身体検査でまたしても不合格となり、結局、留学を諦めざるを得なかった。亮一は、母校の付属校であった[[立教女学院|立教女学校]]に奉職すること 教頭在 被災地で保護した20名余の女子の孤児︵孤女︶を引き取って、私財を拠出し、[[日本聖公会|聖公会]]からの義援金を加え、[[荻野吟子]]女医の自宅を借り受けて、[[聖三一孤女学院]]を開設し、孤女を収容し、彼女たちへの教育を開始した。学院は幼稚園、小学部、高等女学校部を設置して、孤女の教育に精励した。[[1891年]]のことであった。 === 知的障害児教育へ ===
亮一が保護した孤女の中に、知的な発達の遅れが認められる女児が2名いた。石井は彼女たちに深い関心を抱くが、当時の日本において、これらの問題に対する処置や研究はまったくおこなわれておらず、﹁白痴﹂と呼ばれて人権侵害が甚だしい状態であった。亮一は、この問題に取り組むことを決意し、2度にわたり渡米し、米国各地の大学・図書館で研究に勤しみ、知的障害児教育の学祖[[エドゥワール・セガン]]([[:en:Édouard Séguin|英語版]])の未亡人から生理学的教育法を学ぶ。また、[[ヘレン・ケラー]]とも会見し、知的障害や特殊な障害についての見識を深める。帰国後、留学成果を実践するため、聖三一孤女学院を在地に因んで'''[[滝乃川学園]]'''と改称・改組して、知的障害者教育の専門機関とする。﹁学園﹂と名のついた組織は滝乃川学園以前には存在しておらず、滝乃川学園が﹁学園﹂の発祥とされるが、渡米した亮一が視察した知的障害者学校の庭が緑豊かなガーデンだったことから﹁学園﹂と名付けたと言われている<ref>智慧の燈火オンライン [https://chienotomoshibi.jp/takinogawagakuen/ ﹃障害者の人権を守り 社会福祉教育の礎を築いた パイオニア﹄]</ref>。 === 滝乃川学園の経営 ===
知的障害児教育・福祉の専門機関となった滝乃川学園は、園児・園生への教育機能の他、成人した園生の就業場所の確保、学園の財政基盤の確立のため、農場や印刷所などの事業部門が設置された他、研究所や[[保育士|保母]]養成所なども相次いで設置され、総合福祉施設としての展開をみた。一方、常に財政問題を抱え、運営は厳しかった。 亮一は、36歳の時、旧知の間柄で、学園の支援者でありかつ園児の保護者でもあった[[石井筆子|渡辺筆子]]未亡人と結婚する。筆子夫人は、[[男爵]][[渡辺清 (政治家)|渡辺清]]の長女で、[[東京女学校]]を卒業した才色兼備の女性であった。筆子夫人は、欧州への留学経験があり、[[華族女学校]]︵後の[[女子学習院]]︶の教諭をつとめ、[[静修女学校]] === 危機を乗り越えて ===
滝乃川学園の運営は、いつまでたっても安定しなかった。[[1921年]]には、園児の[[失火 財団法人認可後も、依然として財政は厳しく、[[昭和恐慌]]の影響から莫大な負債を抱えることとなる。亮一は私財をほとんど学園に寄付し、石井家はもはや破産状態であった。そのうえ、亮一を支えてきた渋沢も没し、学園の運営はさらなる困難を迎えることとなる。 61 ⟶ 66行目:
==人物==
*石井 *数々の名言を残しているが、ことに有名な言葉が、﹁人は、誰かを支えている時には、自分のことばかり考えるけれど、実は相手からどれだけ恵みをもらっているかは、気づかないものだよ。﹂というものである。 *日本の知的障害児者教育は亮一が日本で初めて取り組んだものであったため、当時、国内にはその分野に関する研究書は皆無であった。亮一は、その分野の洋書を多数収集していたため、洋書輸入販売業の[[丸善]]に頻繁に通っていた。丸善にとっては常連顧客であった。かつて、丸善には書店に併設された[[風月堂]]の喫茶室があったというが、これは亮一が当時の丸善社長に提案したものだといわれてい
== 役職 ==
*[[東京府児童研究所]]長
*日本精神薄弱児愛護協会(現・[[公益財団法人]][[日本知的障害者福祉協会]])創設者・初代会長
*財団法人[[藤倉学園]](現・社会福祉法人藤倉学園)理事
*[[学校法人立教
*[[立教女学院|立教女学校]](現・学校法人立教女学院)教育顧問
*東京府[[少年鑑別所]]少年鑑別委員
*東京府児童鑑別委員
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* 津曲裕次([[長崎純心大学]]教授、[[筑波大学]]名誉教授)著 『石井亮一』シリーズ福祉に生きる51(青空社)
* 津曲裕次編『石井亮一と滝乃川学園』(滝乃川学園)
== 外部リンク ==
* [http://www.takinogawagakuen.jp/ 社会福祉法人滝乃川学園]
* [http://jp.nabeshima-ishii.com/ryoichi_fudeko.htm 石井亮一・筆子夫妻の偉大な業績]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いしい りよういち}}
[[Category:19世紀日本の教育者]]
[[Category:20世紀日本の教育者]]
[[Category:19世紀日本の教育学者]]
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[[Category:19世紀日本の心理学者]]
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[[Category:19世紀日本の特殊教育専門家]]
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[[Category:20世紀のプロテスタント信者]]
[[Category:肥前石井氏|りよういち]]
[[Category:日本の
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[[Category:日本の
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[[Category:佐賀県立佐賀西高等学校出身の人物]]
[[Category:立教大学出身の人物]]
[[Category:佐賀県出身の人物]]
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[[Category:1937年没]]
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