本節では、主にバス事業の歴史を中心として、関連事業についても適宜記述する。関連事業についてはグループ会社の節も、車両の歴史は車両の節を参照。
小規模なバス事業者の乱立は、結果的に競合による疲弊を招き[10]、資本力のある事業者が小規模事業者を買収し合併することで、事業規模を拡大すると共に無益な競合を解消する気運が現れ始めた[11]。こうした自主的な統合という方向性は、1931年に公布された自動車交通事業法の目的である﹁交通企業の合理化と交通事業の統制﹂にも叶うものであった[10]。
1928年︵昭和3年︶に、伊勢原の伊勢原自働車運輸が同じく伊勢原を拠点としていたサンエキ自動車と合併して伊勢原サンエキ自動車と改称して[12]、1932年︵昭和7年︶に伊勢原自動車へ社名を変更した[11]。1931年︵昭和6年︶2月17日に江之島自動車、片瀬自動車商会、鵠沼自動車が合併して設立[10]された藤沢自動車は、藤沢近辺にとどまらず、厚木・津久井方面まで沿線事業者と合併の上規模を拡大した結果[11]、1937年︵昭和12年︶には、営業キロが約300キロメートルで車両数約60台を有する大手事業者となり[11]、同年6月25日に同社は京王電気軌道の傘下となる[10]。その一方、藤沢自動車と競合する相模鉄道は自社の相模線を擁護するため[12]、1935年に大谷仁三郎の個人経営だった橋本・渕野辺から田名にいたる路線を譲受し[11]、1936年︵昭和11年︶に愛高自動車商会の厚木と上溝を結ぶ路線を買収し、沿線を自社バス路線の営業エリアとした[13]。また同年には東京新宿に拠点を置く関東乗合自動車が原町田乗合自動車を合併している[11]。
1936年横浜市の相武自動車も同年12月28日鶴屋商会と戸塚自動車商会を合併して翌年1月12日に相武鶴屋自動車と改称した[10]。相武鶴屋自動車は1938年5月10日に東京横浜電鉄の傘下に入り、すでに東横傘下に入っていた中央相武自動車を1939年︵昭和14年︶6月16日に合併して東海道乗合自動車と改称し、主に東海道本線沿線へ路線を展開した[11]。1941年︵昭和16年︶12月15日に東横系となっていた関東乗合自動車の町田営業所を継承し[10]、同じく東横傘下になっていた江ノ島電気鉄道の茅ヶ崎・平塚の2路線を譲受した[14]。1942年に同じく東横系となっていた秦野自動車を合併した[12]。
この時期までに東海道乗合自動車へ譲受されたバス事業の概要は以下の通りである。
鶴屋商会
1919年︵大正8年︶5月開業。戸塚駅 - 長後 - 用田 - 相模厚木駅、長後 - 相模大塚駅、長後 - 桜株 - 大和駅、戸塚駅 - 長沼、戸塚駅 - 藤沢駅、藤沢駅 - 深沢 - 長谷大仏前間の乗合自動車を運営。大木敏行が代表者を務めていたが、大木は相武自動車の横浜市吉野町 - 戸塚町旭町の路線を入手すべく相武自動車の梁瀬社長と交渉。1931年︵昭和6年︶11月7日に梁瀬から相武自動車ごと経営を引き継いでいた。
戸塚自動車商会
1928年︵昭和3年︶4月1日相沢今朝一が開業。戸塚駅 - 岡津 - 阿久和間の乗合自動車を運営。1933年︵昭和8年︶10月1日合資会社設立。1934年︵昭和9年︶6月20日鶴屋商会の大木敏行が経営に参加し、1936年︵昭和11年︶5月11日には経営権を獲得していた。
中央相武自動車
1923年︵大正12年︶3月17日設立。横浜 - 鶴ケ峰 - 川井宿 - 長津田辻 - 鶴間駅 - 厚木間の乗合自動車を運営。1936年︵昭和11年︶4月20日に玉川電気鉄道の傘下会社である目黒自動車運輸が買収し、同社社長の志保沢忠三郎が社長に就任したが、同年10月13日に東京横浜電鉄が玉川電気鉄道を傘下に収めた事に伴い、1937年︵昭和12年︶12月20日に中央相武自動車も東京横浜電鉄の傘下に入ることになり、東京横浜電鉄の経営下に移った[15]。
秦野自動車
1920年︵大正9年︶9月三武鉄太郎が秦野自動車商会を興し、秦野 - 金目 - 平塚間を開業。1921年︵大正10年︶8月24日原慶太郎等が会社を設立[16]。9月1日、秦野自動車商会の路線を継承したほか、秦野 - 二宮間を開業[17]。その後秦野を中心に秦野 - 田原 - 菩提間、秦野 - 蓑毛間、秦野 - 比奈窪間、秦野 - 真田間、平塚 - 二宮間を開業。1936年︵昭和11年︶9月小室半蔵経営の路線︵秦野 - 菩提間。1927年12月25日開業︶を譲受。1938年︵昭和13年︶7月湘南軌道の乗合バス路線︵秦野 - 二宮間。1929年8月14日開業︶を吸収。1939年︵昭和14年︶11月16日に東京横浜電鉄の傘下に入った。1942年︵昭和17年︶2月13日、東海道乗合自動車に合併。
関東乗合自動車
1931年︵昭和6年︶12月25日設立。新宿駅 - 小滝橋 - 新井薬師口間と小滝橋 - 椎名町間を運行していたが、1936年︵昭和11年︶12月22日に原町田乗合自動車︵同年4月に設立された会社で、1921年︵大正10年︶9月より野渡太助が運行し、後に平井実造が経営していた路線を承継。︶を合併することにより、現在の町田市内にも営業基盤を有することになった[18]。しかし、運営上不便だったため[18]、東海道乗合自動車へはこの原町田営業所︵原町田駅 - 図師間、原町田駅 - 瀬谷駅間、新原町田駅 - 小野路間︶を譲渡した[18]。
なお、東海道乗合自動車は鎌倉市より南の三浦半島地区で営業していた湘南半島自動車と日本自動車道にも統合を持ちかけたが、親会社の京浜電気鉄道が反発し議論は不調に終わる。結局湘南半島自動車が日本自動車道を吸収合併した後、京浜電気鉄道を経て東京急行電鉄に組み込まれた。
戦時体制に入ると、陸上交通事業調整法の公布により、バス事業者は極力統合する方向となった[11]。1942年に東京横浜電鉄は京浜電気鉄道と小田急電鉄を統合して東京急行電鉄︵東急︶となっていたが、東急は1943年に藤沢自動車の経営権を京王電気軌道から譲受して傘下に収めた上で[12]、伊勢原自動車を買収した[11]。一方、1942年には陸運統制令に基づく鉄道省通牒により強制統合が進められる事となったが、この時に神奈川県では横浜市・相模・地区外という3ブロックに分けられることとなった[19]。この時、町田地区は東京の調整区域から外されて相模ブロックに編入されることになった[12]。相模ブロックの統合主体は東海道乗合自動車が選定され[19]、1944年︵昭和19年︶5月31日に東海道乗合自動車は藤沢自動車と伊勢原自動車を合併して、6月16日に神奈川中央乗合自動車に商号を変更した[12]。
なお、江ノ島電気鉄道のバス路線については、既に一部の路線が東海道乗合自動車に譲渡されており、残った路線も1944年までには全ての路線が運休となっていたことから、事実上のバス事業廃止となり[12]、11月28日に神奈川中央乗合自動車に譲渡された。この時点では相模鉄道のバス部門はそのままであったが[19]、既に相模鉄道自身も東急の傘下にあった上[20]、鉄道線が国鉄に買収され[19]、神中線も東急に経営委託︵事実上の統合︶していたため[20]、鉄道業における実体がなくなっていた[19]。同社バス部門も江ノ電と同日の1944年11月28日に神奈川中央乗合自動車に譲渡された[20][21]。この時点で相模ブロックの統合が完了したのである[19]。
この時期までに統合されたバス事業の概要は以下の通りである。
伊勢原自動車
1920年︵大正9年︶3月6日に米田精一郎が伊勢原自働車運輸を設立[22]。1923年︵大正12年︶12月須馬自動車を、1924年︵大正13年︶9月青木芳利経営の路線︵太平自動車。平塚 - 二宮間︶をそれぞれ吸収して業容を拡大。一方、同じ伊勢原に1926年︵大正15年︶8月29日山田永三等がサンエキ自動車を設立し、平塚 - 伊勢原、伊勢原 - 大山間を開業する。1928年︵昭和3年︶2月5日両社が合併のため解散して、伊勢原サンエキ自動車を新設。[22]。1932年︵昭和7年︶9月伊勢原自動車と商号を変更[22]。1935年︵昭和10年︶12月旭自動車︵1928年12月5日開業。平塚駅 - 二宮駅間、公所 - 片岡間︶を、1937年︵昭和12年︶10月中井自動車︵1927年︵昭和2年︶11月18日開業。二宮駅 - 比奈窪 - 鴨沢間︶と上倉定吉の上倉自動車︵1927年︵昭和2年︶7月26日開業。国府津駅 - 小竹間、国府津駅 - 鴨宮駅間︶をそれぞれ吸収[23]。1938年︵昭和13年︶3月には秦野自動車より平塚 - 二宮間と平塚 - 須賀間を譲受していた[23]。
藤沢自動車
1931年︵昭和6年︶2月17日に設立。同年6月片瀬自動車商会︵大正9年︵1920年︶9月土屋忠要が開業︶と鵠沼自動車を統合。同年7月17日江之島自動車︵大正8年6月28日設立。同年7月開業︶を合併[22]。以降、県央地区︵高座郡・愛甲郡・津久井郡︶の事業者を悉く買収・併合して統合[24]する。まず、同年12月31日相模自動車︵1920年︵大正9年︶8月10日中野再五郎が設立。本社・厚木。厚木 - 平塚間、厚木 - 半原間、半原 - 八王子間︶を合併。翌1932年︵昭和7年︶10月には寒川自動車商会︵1924年︵大正13年︶7月開業。寒川駅 - 用田間︶の路線を、1934年︵昭和9年︶3月16日には梅沢馨児︵津久井自動車商会。橋本 - 青山 - 鳥屋間、青山 - 前戸間。1925年︵大正14年︶12月開業︶の路線をそれぞれ譲受。1937年︵昭和12年︶6月25日には京王電気軌道︵現在の京王線の母体︶の傘下となるも、京王の資金力をバックに統合を続け、同年12月茅ヶ崎自動車︵1929年︵昭和4年︶8月30日会社設立。翌1930年︵昭和5年︶3月22日、篠田富吉経営の路線︵茅ヶ崎 - 寒川一の宮間、茅ヶ崎 - 平塚間。1924年︵大正13年︶3月開業︶を継承︶の路線を譲受。1939年︵昭和14年︶5月には七沢温泉自動車商会︵海老名 - 厚木 - 七沢間。1928年︵昭和3年︶5月岩田敬一が開業。1931年︵昭和6年︶3月10日合資会社設立︶、万便社自動車商会︵厚木 - 煤ヶ谷 - 宮ヶ瀬間。1926年︵大正15年︶3月山田永三が開業した路線を1931年︵昭和6年︶1月14日に継承︶、桜井伊勢︵茅ケ崎駅北口 - 遠藤間。1930年︵昭和5年︶2月2日開業の小出村営バスを1935年︵昭和10年︶9月に払い下げ︶、山田忠次︵相北自動車商会。三増 - 箕輪辻 - 厚木間。1924年︵大正13年︶10月開業。1933年︵昭和8年︶3月、大谷仁三郎より半原 - 箕輪辻 - 小沢 - 田名間を譲受︶の各路線を譲受。1940年︵昭和15年︶9月、八王子中央自動車︵川尻村︵現・相模原市緑区︶久保沢向原 - 八王子市旭町間。1925年︵大正14年︶11月開業︶の路線を譲受。1943年︵昭和18年︶9月八木屋自動車︵鈴木勇三経営。相模中野 - 与瀬 - 藤野 - 上野原間、与瀬 - 千木良間、藤野 - 上沢井間。1926年︵大正15年︶8月1日開業し、1941年︵昭和16年︶2月には戸高小きくが1931年︵昭和6年︶12月に開業した与瀬 - 勝瀬間を買収︶の譲受で、南は藤沢 - 平塚から厚木・相模原を経て北は八王子 - 上野原までに至る神奈川県を縦断する路線網を築き上げた[25]。
相模鉄道
1935年︵昭和10年︶12月24日、大谷仁三郎経営の淵野辺 - 上溝 - 田名間と田名 - 橋本間の乗合自動車業を承継して開業[26]。1936年6月9日、愛甲自動車商会︵今福亀吉経営。1925年︵大正14年︶2月1日開業︶より上溝 - 厚木間の路線を譲受。1941年6月30日、東京横浜電鉄の傘下に入り、1943年4月1日、神中鉄道︵現在の相鉄本線の母体︶を吸収合併するが、1944年6月1日、本来の鉄道路線である茅ケ崎 - 橋本間が国家買収される︵現在のJR相模線︶。従って同社は現在の相鉄ホールディングスと同一企業であるが、この時神奈中に編入されたバス路線と現在の相鉄バス︵1950年6月20日、横浜市内で改めて開業︶は全くの無関係であり別物である。
1945年には空襲に備え、本社事務所を伊勢原に疎開移転した[27]。
神奈川県中央部は、横浜・川崎と比較すると戦災による路線の被害は少なかったが[20]、戦後の輸送量増加においては車両不足が顕在化した[19]。このため、1946年︵昭和21年︶に神中自動車工業秦野工場を買収し、自社で車両再生を行った[20]。また車両不足から運休に追い込まれていた横浜市内の一部路線を再開するため、東京急行電鉄とともに横浜市交通局と臨時運転契約を結んだ。
1948年︵昭和23年︶、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東京急行電鉄︵大東急︶から、小田急電鉄・京浜急行電鉄・京王帝都電鉄︵現・京王電鉄︶が分離したが、合併前は小田急の路線であった井の頭線が京王の所属となり[20]、その代わりとして箱根登山鉄道︵現・小田急箱根︶とともに神奈川中央乗合自動車が小田急電鉄の傘下に入る事になった[28]。
なお同じ小田急グループの他のバス会社は当時まだ小田急電鉄とは無関係の独立会社であった。小田急バスは旧社名を武蔵野乗合自動車といい、小田急の傘下に入るのは神奈川中央乗合よりも後の1950年︵昭和25年︶である。立川バスは戦前、南武線を運営していた南武鉄道︵現・太平洋不動産︶の子会社で、1954年︵昭和29年︶に小田急グループ入りした。また、東海バスが小田急グループに入るのは、それから20年近く後の1971年︵昭和46年︶である。
同年にはディーゼルバスの導入を開始[29]、戦時中は休止していた貸切バス事業も再開している[28]。
この時期、江ノ島電気鉄道︵現在の江ノ島電鉄︶では自社鉄道線の擁護を目的として[20]、かつて江ノ電が経営していたバス路線の買収を図った[28]。交渉の難航はあったものの、五島慶太の斡旋によって買収が決定[20]、1949年6月に藤沢・鎌倉・大船・弘明寺地区の路線の一部が江ノ電に譲渡された[28]。
1951年6月には社名を神奈川中央交通に変更した[29]。1953年には本社を平塚市に移転した[30]。沿線住民や利用者からは、この時期から﹁神奈中﹂という通称で呼ばれるようになった[28]。本項でも、以下神奈川中央交通を﹁神奈中﹂と表記する。
このように輸送力増強に追われる中、要員不足が顕在化することとなった[31]。特に車掌の採用難が厳しくなったことから[32]、当時都市部の一部路線で行われていたワンマン化を進める事になった[31]。しかし、ワンマン化自体は1951年に大阪市交通局で実施されていたが[36]、それまでワンマン化されていた路線は均一運賃体系の路線が主で、多区間運賃制路線では申告制前払いとしたところもあった[36]。しかし、神奈中の大多数の路線のように運賃区間の多い路線での多区間運賃制へのワンマン化事例は当時存在せず、運賃収受の確実化を図る必要があった[36]。
そこで、乗車停留所を明確にするために、乗車時に乗車整理券を取り、乗客は降車時に整理券と照合して運賃を支払うという﹁整理券方式﹂のワンマンバスを導入する事になり、1962年11月1日より試験的に運賃区界数2区間の路線でワンマン化が開始された。この時の整理券はボール紙[注釈3]で[37]、前扉付近に整理券ホルダーを設置した。以後、神奈中の乗車方法は前乗り前降りが基本となる。その後も機器の開発を進め、1964年4月には運賃区界数5区間の路線でもワンマン化が行われたが[37]、この時には色分けされたプラスチック板の整理券を乗車時にボタンを押して受け取る方法となり[37]、さらに同年10月には運賃区界数8区間の路線にも導入された[37]。それを受けて、1965年2月1日より伊勢原と茅ヶ崎の2営業所で本格的なワンマン化を開始した。1966年にはロール紙に1枚ずつ番号を印刷してカットする機構が開発され[37]、運賃区界数にかかわらずワンマンバスの運行が可能になったことから一気にワンマン化を促進し、同年10月1日には山間部の一部路線を除いてほぼ全路線がワンマン化された。
日本では多区間運賃制路線でのワンマン化は神奈中が初であり[31]、会社の規模としては急速かつ広範囲にワンマン化が進められたが、監督官庁から安全性を危惧する意見があり、狭隘な道路では待避所やカーブミラーの設置を進めると共に[38]、見通しの悪い踏切などでは自社で交通整理要員を配置して対処した[35]。また、当時はワンマン化に反対するバス事業者が多く、他社の労働組合からワンマンバス導入展開にクレームもあり[37]、労使共に説得したこともあるという[37]。しかし、ワンマン化は時代の趨勢であり、以後整理券方式のワンマンバスは日本全国に拡大され、乗降ドアの違いなどはあるものの、日本のバスにおいて標準的な運賃支払い方式となった。神奈中においては、1974年5月の大秦野駅とヤビツ峠を結ぶ路線を最後に、完全ワンマン化を達成している[32]。
神奈中の深夜バス路線の例(本厚木駅24時35分発鳶尾団地行き)
ベッドタウンの外延化と共に、利用者からは路線バスをもっと遅くまで走らせることに対する要望が強くなっていた。神奈中においても例外ではなく、1970年5月には入居開始されてから間もない鶴川団地の住民から最終バスを延長するよう申し入れがあった[49]。神奈中ではこの要望への回答として、同年7月27日より鶴川駅→鶴川団地行きのバスについて23時10分と23時30分の深夜便を設定した[49]。
この深夜バスは、通常の路線バスと異なるサービスを提供するという観点から、道路運送法24条の2﹁貸切自動車運送事業による乗合許可﹂を適用した貸切扱いとし[注釈4]、運賃を通常の3倍に設定して[49]定期券は利用不可とした[49]。
日本における深夜バスの運行は古くから行われており、1952年9月には阪急バスによって大阪 - 池田・宝塚および大阪 - 京都間で運行を開始しており、首都圏でも1964年には東京都交通局が東京駅~銀座・小滝橋・新宿方面を、1969年には首都圏近郊の民営バス8社によって6路線の深夜バスが運行を開始している。しかしながら、交通ジャーナリストの鈴木文彦は、この鶴川駅~鶴川団地における深夜バス運行を﹁日本で初めての深夜バス﹂と位置付けたことで[41]、﹁神奈川中央交通が日本で初めての深夜バスの運行を開始した﹂であるという誤解が1990年代~2010年代にかけて広まった。
この深夜バスに対して、鶴川団地住民は反対運動によるボイコットをおこした。1970年7月27日の運行開始の第1便に対して、住民は自家用車13台を動員し、初便に乗客が1人も乗らないという状況をつくりだした[50]。当日の第1便は8名の利用者よりも報道陣が目立った状態で[51]、運賃設定などに反発した一部の住民が会員制の﹁自主バス﹂を運行したり[49]、運賃制度について大学教授・利用者代表と会社役員がNHK番組で論戦を行うなどの動きもあったが[52]、路線拡充や深夜バス運賃の据え置き[注釈5]や引き下げ[注釈6]により深夜バスに移行したため[49]、1980年までに﹁自主バス﹂は廃止となった[49]。
運輸省でもバスの終車延長には積極姿勢を見せ、1970年12月には﹁大都市周辺部の深夜バス運行について﹂という通達を出した[49]。しかし深夜バスは、不規則労働となる乗務員に手当てを支払った上で採算性が確保できるかどうかの判断が事業者によって分かれる[49]。このため関東地方に限っても、深夜バスを運行する事業者が大幅に増加するのは深夜の交通機関の確保について運輸省が再度勧告を出した1986年以降である。深夜バスの採算性を認めた神奈中においては、深夜バスの運行系統は年毎に増加し、東京都内の全事業者を合わせた深夜バスの系統数が約50系統となった1987年の時点で、神奈川県内では既に神奈中だけで50系統以上の深夜バスが運行されていた[49]。
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カード取扱テスト車
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バスカード取扱車
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初期のカードリーダー
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当時の神奈中では、回数乗車券利用者が全乗客の27%を占めており[64]、定期券利用者とともに固定客とみられていた[64]。事業区域内の大半の路線が多区間運賃制であり[64]、どの区間にも対応させる目的で金種別に19種類もの多種にわたる回数券を発売していた[65]。しかしすべての利用者に満足できるものではなく[66]、また運賃精算などの後方業務も複雑になっていた[67]。これを解消するため、神奈中はプリペイドカード式回数乗車券︵バスカード︶の導入を決定した[68]。
当時、バスカードは一部の均一運賃制路線での導入例はあったが[どこ?]、多区間運賃制の路線に対応したシステムは存在しなかったため、システムを新規に構築する必要があった。1985年に三陽電機製作所と共同でシステム開発に着手、1987年10月20日より伊勢原の路線バス15台にて実用化を前提とした試験を開始[54]、この結果を受けて1988年︵昭和63年︶5月9日より﹁神奈中バスカード﹂の運用を開始した[69]。これは多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入事例であり[55]、1990年︵平成2年︶3月26日には全車両での導入を達成している。
システム開発と導入にあたり、運輸省より﹁昭和63年度バス交通活性化補助﹂を受けているが、バスカード導入で補助対象になったのも日本で初めてである[70]。なお、この年度には長崎自動車のバスカードシステム導入も補助対象となっている[71]。
同時期には奈良交通︵1989年︶、長崎自動車︵1990年︶でもバスカードシステムが導入されており[69][71]、この後バスカードシステムを導入するバス事業者は増加してゆくことになる。
神奈中バスカードが利用可能な車両には、前面に丸い青色の﹁バスカード取扱車﹂のマークを装着していた。この方式は奈良交通でも踏襲されている︵奈良交通では緑色︶。
その後、神奈中バスカードはバス共通カードへ発展解消していくことになるが、当初は神奈中バスカードのシステムとバス共通カード導入事業者のシステムが異なっていたため、神奈中でバス共通カードが完全導入されるまではバス共通カードを利用できない車両が存在し[72]、逆に他社のバス共通カード取扱車においては神奈中バスカードを利用することはできなかった。しかしバス共通カードの割引率などは神奈中バスカードで設定されていたものが踏襲されており、PASMOの﹁バス利用特典サービス﹂の特典バスチケットにもその金額は引き継がれている。
夜行高速バス 横浜 - 奈良線(やまと号)
湘南神奈交バス担当時代
神奈中ハイヤーに移管された貸切バス
しかし、ここまで順調に規模を拡大してきた神奈中も、バブル経済崩壊後の不況の波から逃れることはできなかった。1991年に年間輸送人員が3億2百万人に達したのをピークとして[75]、1992年以降はバス利用者数は減少傾向となった[75]。神奈中沿線に製造業が多いこともあり、消費低迷は製造業での業務縮小を招いた[76]。さらに少子化による通学需要の減少も作用し、路線バス利用者は年毎に減少してゆく[75]。
これに対応するべく、1995年の路線バス車両はすべて中型車での導入となり[77]、同年には町田・平塚・戸塚営業所に置かれていた貸切・観光バス部門の大半を子会社の神奈中ハイヤーに移管した[78]。その後、2000年に神奈川県の第三セクター・神奈川県観光︵当時︶の経営悪化に伴い同社の株式を取得の上子会社化[76]。同社の新横浜営業所とし、2002年に県観光は神奈中ハイヤー観光バスに称号を変更、更に神奈中ハイヤーの貸切バス部門︵町田・平塚・戸塚︶を神奈中ハイヤー観光バスに移管した上で、2004年に神奈中観光に改称した[76]。なお、この間の2002年2月には小田急グループ自体の事業再編の一環として、旧箱根登山観光バスの東京観光営業所︵町田市鶴間︶を神奈中ハイヤーで譲受し、野津田車庫に置かれていた自社の町田営業所と統合の上、旧箱根登山観光の営業所に移転している。
関連事業においては、それまで﹁くるまやラーメン﹂のフランチャイズとして展開していたものを2000年に提携解消し、﹁らーめん花楽﹂として独自の店舗展開を行うことになった[79]。また、1999年からはビデオ・CDレンタル事業︵TSUTAYAのフランチャイズ︶も開始した[80]。
その一方で、これまでの神奈中にはなかった施策もいくつか行われている。
神奈中は元々大型車が中心で、狭隘路線などに限定して中型車が導入されていた状態であった。これはかつて、幅2mクラスの小型車ではワンマン運行に適した車両が少なかったことによる。しかし住民からの路線開設要望が多い路線については、リアエンジンの小型バス︵日野・レインボーRB︶が発売されたことを機に、1992年10月から3路線で小型バスによる路線の運行を開始した[81]。
一方、藤沢市の藤が岡団地では、駅からの途中に急坂がある上に住民の高齢化が進んでおり、路線バス運行の要望が高まっていた[82]。神奈中では路線開設に向けて検討した結果、小型バスを使用すれば運行が可能と結論づけ[82]、1997年5月より団地循環の路線を開設した。団地内では約100m毎に停留所を設置、バス車内には住民が自由に使用できるコミュニティボードを設置するなど[82]、コミュニティバスと同様の設定ではあるが、自治体からの補助金は得ていない[82]。使用する車両には﹁湘南ロコ号﹂と愛称が付けられた。以降、同様のミニバス路線がいくつか開設されている[83]。
分離子会社の車内に設けられた車内売店(2008年3月31日付で終了)
一方で、1996年に箱根登山鉄道バスが秦野地区から撤退することになり、その受け皿として湘南神奈交バスが設立された[84]。これを母体として、1997年からは相模原地区において同社への移管を行ったのを皮切りに、新たに地域毎に分離子会社の設立と管理委託などを進め、運行コストの低減を図った[84]。また、移管された路線の大半では不採算路線の増収策として車内で物品販売も行われ[85]、マスコミにも﹁車内売店のあるバス﹂として話題を提供した。販売品目に米が加わった際には売店の設置された各車両を米穀小売販売業者の店舗として神奈川県知事に登録していた[注釈7]。
これと並行して不採算路線の整理も進められる事になり、2002年までに極端に乗車率の低い路線は廃止された。
この頃、環境問題がクローズアップされていた折、神奈中でも環境問題に取り組むことになった。基本的にはマイカー通勤からバス通勤への移行を呼びかけるものであるが、ただ呼びかけるだけではバス会社の都合と受け止められる可能性を考慮し[86]、バス会社側でも新しい運賃制度を導入することが必要と考えられた[87]。
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スヌーピーバス
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検討の結果、ドイツにおいて導入されている環境定期券制度の導入を行うことになった[87]。これは通勤定期券を所持している利用者と同伴の家族が土休日に神奈中の一般路線を利用する際には1回の乗車が現金100円になるというものであるが、制度の導入だけではなく、広告塔に相当するものが必要と考えられた[87]。そこで、知名度が高く他社が使用していないキャラクターを選定することになり[87]、アメリカで環境問題について使用されているスヌーピーが選ばれた[87]。版権を持つ法人にも﹁環境保全が目的﹂と認められ、格段の配慮があったという[87]。
こうして、1997年9月20日の日本で初となる環境定期券制度導入と同時に﹁スヌーピーバス﹂が運行開始された[78]。スヌーピーバスは2年間で40台が導入され、2002年まで運行された他、一時期は江ノ電バスでも運行されていた。
1997年夏には、これからバスを利用する世代となるであろう児童層に着目し、路線バスの利用方法を覚えてもらうという趣旨で[75]﹁ちびっこ50円キャンペーン﹂を開始した。現金払いの場合は一般路線の全路線で小児運賃50円となるというもので、当初は長期休暇とゴールデンウィークのみの実施であったが、多い時には1日1万3千人もの利用がある[75]など一定の効果が認められた事から、後年すべての土曜・休日に適用を拡大している。2023年4月には、交通系ICカード利用時における﹁小児IC運賃の一律50円﹂を開始するのに伴い、ちびっこ50円キャンペーンは同年3月末で終了した[88]。
また、高齢者向けの施策としては、1996年より敬老の日に65歳以上の運賃を100円とするサービスを行った後、2001年6月より﹁かなちゃん手形﹂の発売を開始した。これは、初めに購入するパスを安価に設定[注釈8]、パスを提示した場合は乗車1回につき運賃を区間にかかわらず100円とするもので、1回毎の運賃を安価に設定することで乗車回数を増やす事を目的とした施策である[89]。1日1万2千人の利用があるという[89]。当初は車内でも発売していた。これと同時に、一般路線の全線に有効な﹁一日フリー乗車券﹂の発売も開始している[90][注釈9]。
横浜神奈交バスに移管された夜行高速バス
1999年、神奈中では田村車庫・本厚木駅から羽田空港へ向かう空港連絡バスの運行を開始、好調となった[84]。以降は町田・相模大野・港南台・辻堂・藤沢の各駅から羽田空港・成田空港を結ぶ路線も運行を開始した。
一方、夜行高速バスでは乗車率が高いにも拘らずコスト割れする路線もあり[91]、生活路線でない赤字路線の運行を続ける理由はないとの見地から[92]、広島・和歌山・奈良への路線は廃止され、盛岡への路線は岩手県交通の単独運行となった[84]。
その他の路線は子会社の運行コストであれば存続可能と判断され[92]、湘南神奈交バスに移管された[91]。後に横浜神奈交バスに再移管されたが[93]、2017年1月の事業再編で神奈川中央交通本体の運行に戻されている。
2003年から、日本プロサッカーリーグ︵Jリーグ︶のクラブと関わりを持つようになり、同年より神奈中本社がある平塚市にホームスタジアムを置く﹁湘南ベルマーレ﹂のオフィシャルクラブパートナーとなり、神奈中主催のサッカースクール開催や最寄駅とスタジアム︵平塚競技場︶を結ぶシャトルバスの運行を担うようになり[94]、2009年にはベルマーレラッピングバスも運行された[95]。
さらに、2007年頃からは町田営業所の近くにホームスタジアムを置く﹁FC町田ゼルビア︵当時はJFLのクラブ︶﹂の観客輸送も担うようになり、2009年より神奈中の親会社である小田急電鉄がクラブスポンサーに就任した[96]。なお、前述の湘南ベルマーレとは異なり、神奈中としてはFC町田ゼルビアのクラブパートナーには参画していないが[97]、2023年よりFC町田ゼルビアラッピングバスがシーズン期間限定で運行されている。
横浜市交通局から引き継いだ「11系統」
2004年以降は、他社局からの路線譲受も行われた。2004年2月には、横浜市交通局から路線移譲について申し入れがあったことから[98]、2005年から2008年にかけて横浜市営バス11系統を段階的に譲受した[98]。
また、相模鉄道からも同時期に路線移譲の申し入れがあったため[98]、こちらも2006年から2008年にかけて4系統を譲受している[98]。
さらに2006年には﹁横浜市生活交通バス路線維持制度﹂の対象となる15系統について公募が行われたが[98]、そのうち3系統については2007年から横浜市交通局に代わって運行を開始した[98]。
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自転車ラックを装備したバス
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「かなch.」のモニター
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2009年3月26日からは、茅ヶ崎・辻堂駅発着の一部路線で自転車をバスに搭載するサービスが開始された[99]。自転車を搭載可能な路線バスは前例があるが[99]、バスの前面に自転車ラックを設置し、自転車をバスの前面に積載する方式は日本初の導入例である[99]。
2011年10月1日より、舞岡操車所の路線バス50台の運転席後方にモニターを設置し、ニュース・天気予報・広告などを放映する﹁かなch.﹂というサービスを開始した[100]。
関連事業においては、2004年からは温浴施設︵スーパー銭湯﹁湯快爽快﹂︶の運営に参入する一方で[101]、スーパーマーケット﹁神奈中ストア﹂は2007年9月30日をもって全店舗閉鎖となり[93]、同時期にバス車内における物品販売も終了となっている。
通勤・通学路線においては、新しいタイプの公共交通の模索も進められた。
湘南台駅と慶應義塾大学藤沢キャンパスを結ぶ路線は、朝のバス待ち行列が250人近く並ぶ有様で、通常のバスでは捌ききれない状況であった。また、駅前広場の状況も警察により一般車の乗り入れ規制や交通指導員の配置なども行われていたが、通常のバスによるこれ以上の増発は困難な状況であった。このため、2003年には藤沢市が中心となって新たな公共交通システムを導入するための検討委員会が設立され[102]、道路交通の遠隔化やバリアフリー化、さらに交通不便地域でのミニバスによるフィーダー路線運行によるマイカー抑制や環境保全などを目標と定めた[102]。その前提として、1台あたりの定員の多い連節バスを基幹路線に導入することになった[102]。
藤沢市で導入された連節バス﹁ツインライナー﹂ (ち201)
日本において連節バスを製造していた富士重工業は当時既にバス車体製造から撤退しており[103]、交通バリアフリー法が制定されていたため床面地上高を550mm以下に抑える必要もあったことから、輸入車を導入することになり、大阪府の中央交通が日本総代理店となるネオプラン製セントロライナーを導入する事になった[103]。これは日本の道路運送車両法により定められた連節バスの構造要件には合致しない車両[103][注釈10]であったが、自治体及び警察の協力も得られたことから特別に認可され[103]、2005年3月14日より﹁ツインライナー﹂と命名された、日本では初めての導入となるノンステップ連節バスが運行を開始した[102]。本路線を基幹路線とし、慶應義塾大学で﹁ツインライナー﹂に接続し、ミニバスで周辺地区を循環する支線バスによる交通網の拡大も行われた[102]。
これに続き、厚木市は朝方通勤時のバス利用者が多い厚木アクストへの通勤路線に連節バスの導入を検討し、2006年には独自の補助金制度を定めた[104]。しかし、この時には藤沢市で導入されていたセントロライナーが日本向け車両の供給を中止しており[105]、車種選定を改めて行うことになった。
追加導入された﹁シタ―ロ﹂の連節バス﹁ツインライナー﹂ (ま201)
神奈中では三菱ふそうトラック・バスに対して、日本での連節バス製造の可能性について打診したが[105]、三菱ふそうは日本での製造は困難と回答し、代わりにダイムラーグループのエボバスが製造するメルセデス・ベンツ・シターロの導入支援を行うことになった[105]。受注にあたり、欧州規格のままの車体幅2.55mで非常口扉を設置しないという日本の道路運送車両法による保安基準をさらに超える仕様[注釈11]での製造という条件があったが[105]、神奈中では藤沢市での連節バス運行実績を基に独自で基準緩和を働きかけ[106]、2008年2月4日より厚木市内でも連節バスの運行が開始された[107]。日本国内で欧州規格そのままの路線バス車両導入は初めての事例である。
これらの基準緩和に対する神奈中の行動力には、三菱ふそう関係者も大いに刺激を受けたという[106]。
神奈中では、日本全国でも連節バスの導入が広まる事を期待しており[108]、連節バス導入を検討する他県の自治体に対して連節バスの貸し出し・実証実験運行や展示・試乗会への協力を行っている[107]。2008年8月には新潟市へ[107]、2009年10月には浜松市への貸し出しが行われた[107]。
連節バスは2012年5月28日から、藤沢市と厚木市に引き続き、町田市内でも運行が開始[109]。東京都内の一般路線で連節バスが運行される初のケースとなった[109]。
その後、2018年には藤沢市で新たに2路線の運行を開始したほか、2021年には相模原市と町田市で新たに1路線ずつ、2024年には横浜市戸塚区で新たに1路線の運行を開始した[110]。2024年の導入車両は神奈中としては初となる国産連節バスの﹁日野・ブルーリボンハイブリッド連節バス﹂が導入された[110]。
2010年代後半に入ると、生活交通路線の維持や人為的ミスによる交通事故防止、運転士不足などに対処するため、自動運転バスの実用化に向けた取り組みを開始する[111]。
2017年に小田急電鉄、慶應義塾との間で先端技術の研究、地域の活性化、人材育成、教育活動などで連携協力する内容の協定を締結。2018年5月には、小田急電鉄、SBドライブ︵現・BOLDLY︶との間で協業に関する協定を締結し[111]、同年6月には自社初となる小型自動運転バス︵日野・ポンチョ︶を使った自動運転技術の実証実験を慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで、2019年2月には多摩ニュータウン内でそれぞれ実施した[112]。2021年2月には、横浜市栄区において中型自動運転バス︵いすゞ・エルガミオ︶を使った実証実験が行われ、この実験では磁気マーカに加え、信号情報の受信、路側センサー等による自動運転バスと地上インフラとの連携により、自動走行割合の大幅な向上が見られた[113]。
2021年10月には東京都住宅供給公社︵JKK東京︶と群馬大学が共同で、町田木曽住宅地域において乗客を乗せた自動運転車両︵レベル2、トヨタ・アルファード︶を活用した実証実験を実施することになり、運行事業者として神奈中グループ︵神奈川中央交通及び神奈中タクシー︶が参画することになった[114]。しかし、試験走行中に物損事故が発生したことを受けて実験開始が延期され[115]、2022年9月に運用を見直したうえで改めて実験運行が実施された[116]。
2022年5月からは慶應義塾大学SFC研究所と共同で、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス内で自動運転による循環シャトルバス︵三菱ふそう・ローザ︶の本格運行を開始した。運行開始時は自動運転レベル2での運行だが、2025年度に自動運転レベル4︵高度運転自動化︶を目指すとともに、将来的には自社一般路線での自動運転バス導入を目指している[117]。
2024年1月からはいすゞ自動車などと共同で、平塚駅南口エリアにて自動運転仕様に改造された大型路線バス﹁いすゞ・エルガ﹂を用いて、自動運転バスの実証実験が行われた。実験は自動運転レベル2での運行で、自動運転バスの操作を習得した運転士が乗務し、平塚営業所の﹁平15系統﹂の運行経路を一般の乗客を乗せずに走行する形で実施し、今後は特定条件下における完全自動運転となる自動運転レベル4を目指している[118]。
先述の通り、1996年の湘南神奈交バス設立以降順次進められてきた、神奈交バス5社への一部路線移管および運行管理の委託だったが、エリアの特性に応じた事業環境や効率化・最適化などを考慮し、この従来までの体勢を一新することが、2015年3月26日に行われた取締役会において決議された。
効力は2017年1月1日[119]で、バス事業をエリアごとに神奈川中央交通︵神奈川中央交通+横浜神奈交バス、相模神奈交バス町田営業所を含む︶、神奈川中央交通東︵藤沢神奈交バス+相模神奈交バス︶、神奈川中央交通西︵湘南神奈交バス+津久井神奈交バス︶の3社にそれぞれ吸収合併し再編、これにより従来の神奈交バス5社︵湘南、藤沢、横浜、相模、津久井︶は消滅した。
再編の概要は、以下の表の通りである[120][119]。2016年12月26日のリリースで再編後の営業所が一部計画変更の上公表され、相模神奈交バス相模原営業所︵峡の原車庫︶が﹁橋本営業所︵車番略称‥﹁も﹂︶﹂へ、相模神奈交バス厚木営業所︵上荻野車庫︶が﹁厚木北営業所︵車番略称‥﹁き﹂︶﹂へ変更された[121]。その後、2017年12月16日より大和・相模原営業所が新たに神奈川中央交通東が加わったほか、2019年4月1日より伊勢原営業所が新たに神奈川中央交通西が加わった。
再編前の営業所名
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再編前の事業者
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再編後の事業者
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再編後の営業所名
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備考
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あ
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厚木営業所(及川、下荻野操車所)
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神奈川中央交通
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神奈川中央交通
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あ
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厚木営業所
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い
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伊勢原営業所
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神奈川中央交通
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い
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伊勢原営業所
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現在の事業者は神奈川中央交通西[122][123]
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お
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(横浜営業所 舞岡操車所) 横浜神奈交バス 舞岡営業所
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横浜神奈交バス
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お
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舞岡営業所
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2015年4月当時、神奈川中央交通より全面受託(神奈交自社路線あり)。現在は全面解除
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さ
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相模原営業所(麻溝操車所)
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神奈川中央交通
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さ
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相模原営業所
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現在の事業者は神奈川中央交通東
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せ
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綾瀬営業所
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神奈川中央交通
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せ
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綾瀬営業所
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た
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多摩営業所
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神奈川中央交通
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た
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多摩営業所
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ち
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茅ヶ崎営業所
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神奈川中央交通
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ち
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茅ヶ崎営業所
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と
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戸塚営業所
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神奈川中央交通
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と
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戸塚営業所
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や
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(大和営業所 中山操車所) 横浜神奈交バス 中山営業所
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横浜神奈交バス
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な
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中山営業所
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2015年4月当時、神奈川中央交通より全面受託。現在は全面解除
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ま
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町田営業所 相模神奈交バス 町田営業所
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神奈川中央交通 相模神奈交バス
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ま
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町田営業所
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2015年4月当時、相模神奈交バスへ一部委託
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や
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大和営業所(鶴間操車所)
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神奈川中央交通
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や
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大和営業所
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2015年4月当時、鶴間操車所の一部を藤沢神奈交バスへ委託(神奈交自社路線あり) 現在の事業者は神奈川中央交通東
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よ
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横浜営業所
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神奈川中央交通
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よ
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横浜営業所
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相模神奈交バス 菅生営業所
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相模神奈交バス
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神奈川中央交通東
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菅生営業所
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川崎市交通局菅生営業所を全面受託 2017年3月26日[124]より、受託営業所を菅生から井田営業所へ変更[125][126]。
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あ
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(厚木営業所 上荻野操車所) 相模神奈交バス 厚木営業所
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相模神奈交バス
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き
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厚木北営業所
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2015年4月当時、神奈川中央交通より全面受託
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ふ
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(茅ヶ崎営業所 藤沢操車所) 藤沢神奈交バス 藤沢営業所
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藤沢神奈交バス
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ふ
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藤沢営業所
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2015年4月当時、神奈川中央交通より全面受託(神奈交自社路線あり)
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さ
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(相模原営業所 峡の原操車所) 相模神奈交バス 相模原営業所
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相模神奈交バス
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も
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橋本営業所
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2015年4月当時、神奈川中央交通より全面受託(神奈交自社路線あり)
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や
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藤沢神奈交バス 大和営業所
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藤沢神奈交バス
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や
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大和営業所
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2015年4月当時、神奈川中央交通より鶴間操車場の一部を受託
(神奈交自社路線あり)
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つ
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(相模原営業所 三ヶ木操車所・城山操車所) 津久井神奈交バス 津久井営業所
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津久井神奈交バス
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神奈川中央交通西
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つ
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津久井営業所
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2015年4月当時、神奈川中央交通より全面受託(神奈交自社路線あり)
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は
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(伊勢原営業所 秦野操車所) 湘南神奈交バス 秦野営業所
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湘南神奈交バス
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は
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秦野営業所
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2015年4月当時、神奈川中央交通より全面受託(神奈交自社路線あり)
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ひ
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伊勢原営業所 平塚操車所 湘南神奈交バス 平塚営業所
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神奈川中央交通 湘南神奈交バス
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ひ
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平塚営業所
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2015年4月当時、湘南神奈交バスへ一部委託(神奈交自社路線あり)
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営業所名後ろの括弧内の平仮名及び英字は営業所を略記する際の記号。個別の路線については各営業所及び操車所の項目を参照のこと。
- 神奈川中央交通
- 神奈川中央交通東
- 神奈川中央交通西
●弘明寺営業所 - 神奈川県横浜市︵1954年12月21日に移転の上横浜営業所に改称[215]︶
●上溝営業所 - 神奈川県相模原市︵1958年9月22日に移転の上相模原営業所に改称[216]︶
●厚木営業所半原操車所 - 神奈川県愛甲郡愛川町︵1982年5月16日廃止[217]︶
●藤沢営業所長後操車所 - 神奈川県藤沢市︵現 長後駅前サービスセンター。1988年12月24日廃止。営業所機能は綾瀬営業所に移行[218]︶
●横浜営業所笹下操車所 - 神奈川県横浜市港南区︵2001年12月16日廃止[140]。営業所機能は管轄の本郷操車所に移転︶
●神奈中ハイヤー観光バス 新横浜営業所 - 神奈川県横浜市港北区︵2004年廃止︶
●元は県の第三セクター神奈川県観光の営業所。同じ神奈中ハイヤー観光バス︵当時︶の平塚・町田・戸塚営業所へ統合し廃止。詳細は神奈中観光を参照。
●藤沢営業所 - 神奈川県藤沢市︵2005年4月16日に茅ヶ崎営業所へ統合し廃止、操車所化[143]︶
●津久井営業所 - 神奈川県津久井郡津久井町︵2005年4月16日に相模原営業所へ統合し廃止、操車所化[143]︶
●津久井営業所城山操車所 - 神奈川県津久井郡城山町︵2005年4月16日に相模原営業所に移管[143]︶
●神奈中観光 戸塚営業所 - 神奈川県横浜市戸塚区︵2006年廃止︶
●先立った小田急グループ内の事業再編で、2002年に旧・箱根登山観光バス東京営業所を統合し、野津田車庫から旧箱根登山観光の車庫へ移転していた当時の神奈中観光町田営業所︵町田市鶴間。現・東京営業所︶と2006年に統合し廃止。詳細は神奈中観光を参照。なお、現在も車庫は現存し、神奈川中央交通戸塚営業所上矢部休憩所として休憩や待機で使用している。
●秦野営業所 - 神奈川県秦野市︵2008年5月16日に伊勢原営業所へ統合し廃止、操車所化[93]︶
●神奈中観光 平塚営業所 - 神奈川県平塚市︵2008年改称。現在の神奈川営業所︶
●神奈中観光 町田営業所 - 東京都町田市︵2008年改称。現在の東京営業所︶
●舞岡営業所 - 神奈川県横浜市戸塚区︵2011年10月16日に横浜営業所へ統合し廃止、操車所化︶
前述の藤沢・津久井・秦野・舞岡については、子会社への全面委託化に伴う操車所化であり、それぞれ神奈交バスの営業所として現存していた。
また、事業再編の項での先述通り、舞岡については2017年の事業再編で再び神奈川中央交通の営業所となった。
以下は2006年12月まで存在した神奈交時代の営業所一覧で、記号は当時の各神奈交の自社所有車両に使用された︵受託車両には用いない︶。なお、所在地に併記した営業所名は、各神奈交の営業所が所在する神奈中本体の営業所・操車所を表す。
●湘南神奈交バス︵か︶
●平塚営業所 - 神奈川県平塚市︵平塚営業所田村操車所︶
●秦野営業所 - 神奈川県秦野市︵伊勢原営業所秦野操車所︶
●藤沢神奈交バス︵FK︶
●大和営業所 - 神奈川県大和市︵大和営業所鶴間操車所︶
●藤沢営業所 - 神奈川県藤沢市︵茅ヶ崎営業所藤沢操車所︶
●相模神奈交バス︵SK︶
●相模原営業所 - 神奈川県相模原市緑区︵相模原営業所峡の原操車所︶
●厚木営業所 - 神奈川県厚木市︵厚木営業所上荻野操車所︶
●町田営業所 - 東京都町田市︵町田営業所︶
●津久井神奈交バス︵T-︶
●津久井営業所 - 神奈川県相模原市緑区︵相模原営業所三ヶ木操車所︶
●津久井営業所城山操車所 - 神奈川県相模原市緑区︵相模原営業所城山操車所︶
●横浜神奈交バス︵YK︶
●舞岡営業所 - 神奈川県横浜市戸塚区︵横浜営業所舞岡操車所︶
●中山営業所 - 神奈川県横浜市緑区︵大和営業所中山操車所︶
統合により神奈川中央乗合自動車が発足した1944年6月16日の時点では、以下の営業所が存在した。
東海道乗合自動車の営業所
弘明寺[215]・戸塚[219]・平塚[220]・中野[221]・町田[222]
旧・藤沢自動車の営業所
藤沢[223][注釈19]・茅ヶ崎[224]・厚木[225]
旧・秦野自動車の営業所
秦野[226]
旧・伊勢原自動車の営業所
伊勢原[227]
その後、同年9月16日には茅ヶ崎営業所を平塚営業所に統合した[224]ほか、相模鉄道のバス事業譲り受けに伴い、同年11月28日に上溝営業所が発足している[216]。
戦後、1952年2月23日に鶴間営業所が開設された[228]ことに伴い、町田営業所は鶴間営業所の出張所となった[222]。1954年には弘明寺営業所の業務を横浜市南区笹下町に新設された横浜営業所に移転[229]、1958年6月25日には町田営業所が開設され[222]、逆に鶴間営業所は町田営業所の出張所となった[228]。同年9月22日には、上溝営業所が移転の上相模原営業所に改称している[216]。1960年には中野営業所を津久井営業所に改称した[230]。
1960年代以降、輸送力の増強に伴う車両の増加に対応するために、営業所を郊外へ新設や移転を行い、同時に敷地面積も拡大するという手法がとられた[31]。まず1962年には厚木営業所上荻野出張所︵当時︶・戸塚営業所長後出張所︵当時︶が開設され[230]、翌1963年4月20日には戸塚営業所を戸塚駅前から郊外︵横浜市戸塚区中田町、現 立場ターミナル停留所︶に移転[231]、同年5月10日には舞岡営業所が新設されたほか[232]、1963年12月25日には横浜営業所本郷出張所が竣工[232]、1964年8月15日には平塚営業所から分離して[231]茅ヶ崎営業所が設立された[232]。なお、命令系統の明確化を目的として[231]、1962年以降は各営業所は運輸部所属部門から社長直轄の事業所に変更された[231]。
1965年に車両数が1000台を超えると、さらに郊外への移転が進められた。1966年6月10日に秦野営業所が移転[232]、1968年には平塚営業所田村操車所が竣工[233]、1969年には町田営業所が移転[233]、1970年には町田営業所から鶴間操車所が分離して大和営業所が発足[234]、1971年には相模原営業所峡の原車庫が開設され[235]、1972年には厚木営業所も移転した[236]。1973年には貸切業務が平塚・戸塚の2営業所に統合された[237]ほか、戸塚営業所長後操車所を藤沢営業所に[237]、津久井営業所の橋本操車所を相模原営業所へそれぞれ移管した[237]。
1988年12月24日からは藤沢営業所から分離するかたちで[218]綾瀬市吉岡に綾瀬営業所が開設され[238]、藤沢営業所長後操車所は廃止された[218]。2001年7月29日には多摩営業所が開設された[239]。
2005年4月16日からは、藤沢営業所は茅ヶ崎営業所藤沢操車所に[143]、津久井営業所・城山操車所2005年4月16日よりそれぞれ相模原営業所三ヶ木操車所・相模原営業所城山操車所︶に[143]、秦野営業所は2008年5月16日より伊勢原営業所秦野操車所に[93]、舞岡営業所は2011年10月16日より横浜営業所舞岡操車所に変更された。各地区の神奈交バスへの全面的な管理委託が行われたことによるもので、神奈川中央交通本体としての営業所機能は廃止された。
その後2017年1月1日の会社再編により神奈交バス5社は消滅し、次の通り再編された。
●旧横浜神奈交バスの営業所‥舞岡︵横浜営業所舞岡操車所︶・中山︵大和営業所中山操車所︶を神奈川中央交通に移管[注釈20]。
●旧相模神奈交バスの営業所‥相模原︵相模原営業所峡の原操車所︶・厚木︵厚木営業所上荻野操車所︶を神奈川中央交通東に移管しそれぞれ橋本営業所・厚木北営業所に名称を変更し、町田は神奈川中央交通の営業所に一本化された。
●旧藤沢神奈交バスの営業所‥藤沢︵茅ヶ崎営業所藤沢操車所︶・大和を神奈川中央交通東に移管[注釈21]。
●旧湘南神奈交バスの営業所‥平塚︵伊勢原営業所平塚操車所︶・秦野︵伊勢原営業所秦野操車所︶を神奈川中央交通西に移管。
●旧津久井神奈交バスの営業所‥津久井︵相模原営業所三ヶ木操車所・城山操車所︶を神奈川中央交通西に移管。
また、上記の再編に続き2017年12月16日には、神奈川中央交通の営業所であった相模原・厚木・大和の各営業所が神奈川中央交通東に移管された[注釈22]。2019年4月1日には、神奈川中央交通の営業所であった伊勢原営業所が神奈川中央交通西に移管された。
なお、2009年6月からは、それまで社長直轄事業所であった各営業所は、運輸営業部に所属する部門に変更された[240]。
各営業所の特徴として、乗務員の休憩室と事務室の仕切りがなく[241]、事務員が多忙の際には休憩中の乗務員が外部からの問い合わせ電話を受けることもある[241]という点が挙げられる。
●かなちゃん手形
●69歳以上の利用者限定で購入でき、手形を呈示することで一般路線バスを本来の運賃に関係なく1乗車100円(深夜バスは200円)で利用できる。3か月3,500円、6か月5,900円、1年10,800円である。当初は65歳以上としていたが、2022年3月10日発売分より69歳以上に対象年齢が引き上げられた。
●一日フリー乗車券
●神奈川中央交通グループの一般路線バスが乗り放題になるフリー乗車券で、当日のみ使用可能。PASMOまたはSuicaを利用し、バス車内でのみ発売。大人1,050円、小児530円。かつてはスクラッチ式︵2011年12月31日販売終了︶、磁気券︵2022年2月28日販売終了︶も存在した。
●身体障害者手帳・療育手帳
●現金運賃、IC運賃は5割引、定期券は3割引、スマートフォンアプリ﹁ミライロID﹂等を提示︶した場合、本人と介護人に対してそれぞれ割引運賃が適用される。
●IC運賃を障がい者用ICカードで支払う場合、手帳の提示は不要。
●精神障害者保健福祉手帳
●精神障害者保健福祉手帳︵写真付︶を提示︵スマートフォンアプリ﹁ミライロID﹂等の提示も含む︶し、かつ乗車降車ともに本人に限り5割引の運賃が適用される。
●但し、東京都発行の手帳及び、東京都内での利用に限る︵本社がある神奈川県及び山梨県において、東京都民以外の人は障害者割引が利用出来ないので注意が必要である︶。
本節では便宜上、大型車のうち全長が10.5mから10.9mの車両を「標準尺車」、全長が9mから10.5m未満の車両を「短尺車」、全長11m級の車両を「長尺車」と標記する。
神奈中の前身となる事業者の1つである鶴屋商会では、フォードやビュイック、レオなどの輸入車両が使用された記録が残っている[51]。
1940年10月になると、石油消費規制が強化されたことに伴い、保有車両の7割が代用燃料化された[242]。さらに、1941年8月には液体燃料配給停止の措置がとられたため、保有車両の全車両が代用燃料化されることになった[242]。
当初は代用燃料は木炭と薪が使用されていた。神奈川県内では清川村が良質の木炭の産地であった[243]。地元民からは﹁木炭を特別に配給するからダイヤの完全運行をしてほしい﹂という依頼もあったという[243]。ところが、1945年に入ると県内産木炭の入荷が途絶え[243]、やむを得ず福島県から鉄道輸送によって木炭を入手することになった[243]。しかし、神奈川県産の木炭と比べるとガス発生量は少なかったという[243]。その福島県産の木炭さえも入手が難しくなり、最終的にはほぼ薪に頼る状態となった[243]。
薪については、代用燃料導入当初は、ガス発生にも適する状態のよく乾燥された良質の薪が入手できていたが[244]、1944年頃からは乾燥が不十分な状態のままで入荷することになった[244]。薪の産地は丹沢の森林地帯で[244]、トラックや座席を撤去したバスで足柄上郡三保村まで直接取りに行っていたという[244]。終戦直後になると、薪の加工工場の生産能力が間に合わず、1946年には渋沢に薪生産工場を設けて自社生産を行った[244]。
燃料以外の保守部品も不足しており、エンジンオイルは鉱物油・植物油・魚油を混合したものを使用し[244]、しかも一度使用したオイルは再生の上配給に回された[244]。窓ガラスが破れた場所には板が張られ[244]、雨漏りの補修もままならず[245]、雨の日には車内で乗客が破れた傘をさしている光景も見られたという[245]。
なお、空襲を避けるため、横浜市内の路線を担当する戸塚営業所では全車両に装甲車に見えるようなカムフラージュを施して営業していたという[243]。
戦後、稼動車両を早期に増強しないと収入が見込めない状態であった[246]。しかし、バスはシャーシが割り当てられたものの架装すべき車体がない状態であった[246]。また、部品を他の車両に流用したままになっていた遊休車両もあった[246]。そこで、秦野町︵当時︶にある神中自動車工業秦野工場を買収し、秦野工場として自社で車両整備を行うことになり[246]、1947年から秦野工場として本格的に業務が開始された[246]。同工場で再生された車両は、自製のボンネット周りに外観上の特徴があった[51]。
また、戦後の貸切バス再開に伴い、1936年式のフォードの内装を改装した貸切バス車両を2台導入したが[247]、これも秦野工場で再生された[247]。
秦野工場は各営業所の付属工場の整備が進んだ1953年に閉鎖されたが[246]、戦後の車両復興に大きく貢献した。
1948年10月には、初のディーゼルバスとしていすゞ・BX91型が5台導入された[247]。翌1949年に導入された車両からは、路線バス車両のカラーリングについて、ベース色がクリーム色に変更された[248]。
1963年には、清川村の札掛へ乗り入れる路線が開設されたが[249]、この路線に導入された車両は、当時の神奈中としては唯一のマイクロバスであった[249]。
高度成長期は輸送力増強に対応するため、道路環境が整備されているとは限らなかったにもかかわらず、高度成長期から1990年までの神奈中で導入される車両の大半は長尺車であった[55][注釈23]。車両数も別表に見られるように増加の一途を辿り、特に厚木営業所では1985年度に所属台数が200台を超えている[注釈24]。
1980年代半ばに神奈川三菱ふそう自動車販売が傘下となってからは三菱製車両の導入が多くなり[54]、2005年時点では9割以上が三菱車となっている[212]。相模原・多摩・戸塚・平塚・町田・横浜など、大型路線車のほとんど全車が三菱車で占められている営業所も多数存在する[注釈25]。いすゞ製の車両は綾瀬・茅ヶ崎・藤沢・大和の各営業所に多く[250][注釈26]、日野製の大型車両はハイブリッド車と一部のブルーリボンII以外は全車両が伊勢原営業所に配置され[251][注釈27]、日産ディーゼルは主に厚木・平塚・秦野の各営業所に配置された[251][注釈28]。各メーカーの車両とも、1990年以降はノンステップバスなど一部の短尺車を除き標準尺車のみの導入に統一されている[212]。狭隘路線や閑散路線には中型車も導入されており、こちらもかつては4メーカーから導入していたが、日野製の中型車は2009年までに日産ディーゼルの中型車は2011年に全廃となり、現在は三菱製といすゞ製のみの在籍となっている。1985年製の車両までは6年から8年程度︵長くても10年程度︶で廃車されるケースが多かったが[210]、近年は使用年限を延長しており[210]、2017年時点で最も古い車両は2001年式である[210]。[注釈29]
一般路線車の車体は、三菱製は伝統的に︵呉羽自動車工業→新呉羽自動車工業→三菱自動車バス製造→︶三菱ふそうバス製造[210][注釈30]、日野製は日野車体[210]、いすゞ製は純正の川崎重工の他、富士重工や北村製作所を並行して採用していた[210][注釈31]。日産ディーゼル車についても富士重工および西日本車体工業製で導入されていたが[210]、2010年後半以降は三菱からのOEM車種であるスペースランナーAを導入していた。
なお、ほかの事業者では2000年の三菱リコール隠し以降三菱製の導入を一時中止したり、減らしたりした事業者が多いが、当社は前述の理由から若干、いすゞが増えた程度。ただし、中型車を擁する営業所ではエアロミディ生産中止の影響でジェイ・バス製以外の選択肢がなくなり、いすゞや日野が増加する傾向にある。
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三菱「エアロスター」ノンステップ(お07)
撮影:馬車道駅前
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三菱「エアロミディS」ワンステップ(い103)
撮影:伊勢原営業所
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いすゞ「エルガミオ」ノンステップ(や0107)
撮影:相武台前駅
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いすゞ「エルガハイブリッド」ノンステップ(な44)
撮影:鶴ヶ峰駅
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日野「ブルーリボンハイブリッド」ノンステップ(ひ114)
撮影:愛甲石田駅
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日産ディーゼル「スペースランナー」ノンステップ(あ30)
撮影:厚木バスセンター
自らが所属する営業所長から各運転士に対して乗務車両を任命し、運転士はその車両の専属乗務や簡単な車両管理などを行う﹁担当車制﹂を採用している[210]。運転士の手入れにより、使用年限の途中での車体更新は行なわれていないにもかかわらず[210]、経年車でも美しく保たれている車両が多い[210]。
2012年の時点では神奈川中央交通本体における車両の保有台数は約2100台で[253]、これは日本最多保有台数である[253]。
ノンステップバスの導入は1998年より積極的に推進している[212]。標準尺車と短尺車を導入している。当初はノンステップバスには専用のカラーリング︵後述するブルーイエロー色︶を採用していたが、2002年以降は一般車と同じデザインに変更されている。三菱車においてはエアロスターを増備しているが、2008年から2009年前半までは一部を除いて日産ディーゼルからのOEM車種であるエアロスター-S︵AA系︶を導入していた[254]。なお、通常の路線車は1998年からアイドリングストップが標準に[212]、2001年からはワンステップバスが標準となった[212]。2002年7月25日からは、後窓に後方視界確保のための広角レンズ設置が開始された[204]。
大型方向幕は1985年9月から採用され[58]、2002年5月13日からLED行先表示器の導入が開始され[140]、方向幕の車両も2004年頃の改造開始から3年程度でLED表示器に載せ変えた[注釈32]。これにより、路線開設や廃止などによる幕交換やほこりなどで汚れた幕の清掃などの負担が大幅に軽減された[255]。2016年8月31日からは白色LEDの新型行先表示器を搭載した車両が導入され、今後は全営業所で順次導入予定[256]。また、路線バスの車内放送は長らく8トラテープを使用していたが、2005年10月23日よりクラリオン製音声合成装置の導入が開始された[143]。出庫時に運行ダイヤを設定することによって、LED式行先表示器・運賃表示器・整理券発行器・カードリーダーが集中制御できるようになった[255]。
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方向幕時代の前面行先表示
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LED前面行先表示器
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白色LED前面行先表示器
2003年の新車より小田急グループマテリアルズ仕様で導入されている。これは同社を通じて購入することによりコストを抑えながら短期間で大量の更新が行えるようになっている。このため、床面処理・ドア配置や空調装備品などは小田急グループのバス事業者共通の仕様となっている。
2015年中盤の導入車から大型車は三菱ふそう・エアロスターのQKG-MP38FK、中型車はいすゞ・エルガミオの SDG-LR290J1或いはSDG-LR290J2、小型車は日野・ポンチョといったノンステップ化への統一や神奈中独自の仕様であった運賃幕や出入口幕の廃止に伴い、2014年中盤の新車から神奈中独自の仕様が消滅しつつある。
後部ブレーキランプについては、1988年式以降は2灯だったものを4灯に変更[257]、さらに1997年式からバス協型→角型に変更した[257]。
室内は前向き座席が標準であるが、1988年9月の新車からは、優先席が横向きに変更された[58]。1998年までは、座席モケットは一般席が赤・優先席が青となっていた[258]。2009年7月からは、熱線吸収ガラスと三角吊り手が導入された[159]。
バス専業としては日本最大の事業者だけに1年あたりの導入車両数が多く、その結果﹁神奈中仕様﹂とも言える特注仕様が存在する。
後ヒンジ式前扉
1979年まで、折戸の前扉が通常とは逆の後ろ側に開く後ヒンジ式だった[51]。
運賃支払い方法表示窓︵運賃幕︶
1970年代から、車両前面上部左側の表示窓に乗車方法と運賃支払い方法を表示する﹁運賃支払い方法表示窓﹂が設けられ、1980年代からは乗降口に近い車両前面の向かって右側の窓下[注釈33]に設置されるようになった[209][注釈34]。尚、一時期江ノ電バスでも使用されたことがあった。2014年度からこの表示窓を廃止し、一部いすゞ・日野製車ではステッカーに変更される車両も登場したが、ステッカーは2018年前半までとなった。
大型バンパー
2000年導入車までは前後のバンパーは大型の仕様が標準となっていたが[209]、これはバンパーをフロントガラスの清掃の際に使用するステップと兼用させるためであった[259]。
長尺車
かつて三菱にホイルベース5.8mで全長が11m級の車両︵長尺車︶[注釈35]を特注し、これをMP218-Nとしてメーカーに追加で型式認定させた程の力を持つ[注釈36]。しかし、1990年を最後に長尺車の導入は終了し[257]、以後は標準尺車をメインに導入されている[212]。また、1995年には全長9m・幅2.3m級の中型車両を大量に導入している[257]。2014年中旬のMP38導入以降はノンステップバスは短尺車、2015年度以降は全車ノンステップの短尺車で統一されている。
新ステップ車
1992年9月25日から試用開始し[260]、1994年から2000年にかけて導入された標準床車両は全て前扉に極東開発工業製の可動式ステップを設置した﹁新ステップ車﹂となっている[210]。これはさらに床の低い車両の導入や観光バスなどで見られる補助ステップでは、新興住宅地に多い急坂では車体と路面の接触の可能性があったため[261]、乗降性の改善策として、三菱自動車工業︵当時︶・新呉羽自動車工業・極東開発工業との共同開発により導入された[262]。この﹁新ステップ﹂は横浜市交通局・神戸市交通局・小田急バスなど、他の事業者にも波及している[263]。しかし、2017年に﹃つ605﹄を最後に新ステップ車は神奈中から消滅した。
車外ドアコックの鍵
2008年後期導入車より、前面および側面の車外ドアコックに鍵が取り付けられている。同時に既存車も全車取り付けられた。高速バスタイプの車両では至って普通の仕様だが、すべての路線車に導入する会社は珍しい。既存車への取り付けは車両によって位置が異なる。なお、一般路線車は2017年頃より、新車導入車に限り、アドブルー投入口にも鍵が設置されている。この他、同社高速路線車は全車、軽油及びアドブルーの投入口にも取り付けられている。
前扉が後ヒンジ式の三菱ふそうMP117N
運賃幕。左が旧仕様の幕、右が新様式の幕
バンパーの比較。奥の車両がステップを兼ねた大型バンパー
特注車を型式認定させた三菱ふそうP-MP218N
「新ステップ車」は前扉にリフトを設置
神奈川中央交通で引退した車両は、京阪バス・西武バスと共に日本各地の地方事業者へ供給しており[264]、なかには﹁廃車車両の譲渡先数が日本一﹂と評されたこともある[264]。使用年数が6年から8年と比較的早期に代替していた1990年代は多くの車両が地方の事業者へ売却され、地方の冷房化率向上に貢献している。
最近では15年程度で廃車としており、ワンステップバスの国内移籍比率が上昇している。15年前後での廃車は他社と比べると比較的早期で、過去にはミャンマー、フィリピン、ニュージーランド、ラオスなど海外へも輸出されていた。
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阿寒バス※貸切車を一般路線用へ転用
(阿寒バス弟子屈営業所)
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東海自動車※貸切車を路線車に転用するため方向幕を増設
(下田営業所)
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熊本電気鉄道※「かなちゃんバス」塗装をそのまま流用
(熊本交通センター)
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越後交通グループ
(新潟県長岡市)
名称は一般的に呼ばれているものであり、正式なものではない。一部にラッピングのものも含まれる。
1949年の新車から採用された[248]。黄色に近いクリーム色[248]+下部赤色+赤色と橙色の帯。当初は下部の赤色が波形になっており、前面などにも差異があったが、1987年から直線的なデザインに変更された[55][注釈37]。波形デザインの車両は1999年6月30日に廃車となった﹁さ154﹂が最後であった[138]。2004年からは正面の社紋が﹁かなちゅう﹂﹁かなこう﹂ロゴマークに変更された[265]。2012年6月1日より神奈中グループのブランドマークが制定され[266]、路線バス車両の前面、側面、後面に青色で﹁Kanachu﹂と書かれたブランドマークの貼り付けが順次行われている[266][注釈38]。
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旧塗装(お77)
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1987年より採用された塗り分け。初期は赤が目立つものだった(や65)
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1987年より採用された塗り分け(あ81)
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2004年から「かなちゅう」ロゴマークを表示(た37)
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2012年6月1日より「Kanachu」ブランドマークを表示(あ135)
2002年4月1日から導入された[140]。白色の車体に、各神奈交指定色が前方から中央車体下部及び後方全体に塗られ、大きくKANAKO BUSのロゴが入るという、各車共通で色違いのデザインである[265][注釈39]。新車として神奈交バスが購入した車両のみに施される塗装なので、数は少ない。2016年12月より神奈中再編に向けて、各神奈交色であった車両は、ラッピングにより神奈中色に変更されている。
過去には各神奈交の塗装のままロゴの一部をシールで目隠しをしている車両もあったが、2017年6月の﹃つ604﹄を最後に消滅した。
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湘南神奈交バス(か1004)※現在は廃車
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津久井神奈交バス(T-18)※現在は神奈中色に変更(写真は当時の神奈交色)
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相模神奈交バス(SK2010)※現在は神奈中色に変更(写真は当時の神奈交色)
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藤沢神奈交バス(FK013)※現在は神奈中色に変更(写真は当時の神奈交色)
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初代「カナちゃん号」(は87)
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2代目「かなちゃん号」(ち68)
1989年に初めて採用[268]。青色の車体にハイウェイをイメージした白と紺の波線、車体中央部にカモメをイメージした黄色のマークが3連あり、橙色でKanagawa Chuoとロゴが入る。その後1997年からは貸切兼用車︵ワンロマ車︶に[269]、1998年からはノンステップバスの車体色としても採用された[270]。社内では﹁ブルーイエロー﹂と呼ばれている[270]。
1997年に藤沢市でミニバス路線を開設した際に採用された[265]。前述の塗装からイエローを省略したデザインに、アヒルのイラスト入れたものだが、イラストが入っていない車両も存在する[270]︶。車体の表記は前述のブルーイエローとは異なり、KanaChu︵またはKanakoBus︶と省略している。しかし、2015年12月以降の導入されている小型車は青一色、その後、2020年2月導入のひ167,168は一般色に変更されている。
1994年の﹁ひ852﹂及び、1999年以降に採用され[268]、グレーに上半分が水色。窓の下と屋根にロゴが入る[注釈40]。横浜神奈交の車両は側面の社名ロゴが異なる点で識別可能[268]。
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神奈中空港リムジン色(さ852)
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横浜神奈交バスリムジン色 (YK8112)
年表節で述べた環境保護キャンペーンの一環で、ワンロマ車を青く塗装し、スヌーピーや他の登場人物をラッピングしたもの[271]。1997年に導入した14台は図柄も1種類であったが、1998年に導入された26台ではベースの青を明るくし[271]、夜行高速バス色のベース色と同色となったほか[268]、キャラクターの図柄も2種類となった[271]。契約終了後には白帯や神奈中ロゴが入らずに完全な青一色で運行された期間もあった。
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スヌーピーバス 1997年式(ひ132)
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元スヌーピーバス 1997年式(あ151)
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元スヌーピーバス 1998年式(い25)
ベースカラーはピーチピンク1色[265]。窓周りは黒で、ロゴが入る。最初に導入されたセントロライナーでは、天井部分にもロゴが入れられていたが、シターロでは省略され、現行のシターロでは屋根の塗装自体が省略されている(エアコン部分を除く)
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ツインライナー色(ち202)
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ツインライナー色(あ201)
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ツインライナー色(も203)
旧来の貸切色は、1953年6月に導入された車両から導入された[272]、白地に赤と青の塗り分け[273]。貸切・観光バス用車両や、一部の路線バス車両・特定輸送車両等に用いられた。2013年現在でも、旧貸切色そのままあるいは簡略化︵特定色︶したデザインで、企業・学校・養護学校等の特定輸送車両に用いられている[274]。
1989年には、スーパーハイデッカー車の導入とともに、ブルーイエローと共通する新デザインの貸切色が採用されたが[275]、1997年以降は順次小田急グループ統一デザインに変更された[268]。なお、車体のロゴ表記は、神奈中ハイヤー時代はKanachu Hire)、神奈中観光となってからの車体表記はKanachuで、いずれも神奈中本体の所属車両とは異なっている。
1994年に神奈川県総合リハビリテーションセンターと共同開発した[270]車両は青をベースとしたデザイン。一方、1996年に東京都の補助金により導入した町田営業所所属車は白地に水玉模様[270]。
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伊勢原営業所所属のリフト車色(い110)
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町田営業所所属のリフト車色(ま197)
2014年︵平成26年︶6月より各営業所︵藤沢・秦野・厚木・津久井・相模原の神奈交委託も含む︶に順次導入された、神奈川中央交通公式キャラクターかなみんのラッピングバス。車体デザインは、横浜みなとみらい地区が描かれた桃色、海水浴するかなみんが描かれた青色、登山するかなみんが描かれた緑色、住宅街が描かれた水色の4種類が存在し、それぞれその地域を所管する営業所にあったイメージのものが導入されている。2019年に全車ラッピングが剥がされ、同年導入の新車に新デザインの塗装がされている。また、このかなみんラッピングバスでは、前面の行先表示器左側へ﹁かなみん﹂ステッカー︵都営バス﹁みんくる﹂・東急バス﹁ノッテちゃん﹂・小田急バス﹁きゅんた﹂・関東バス﹁かんにゃん﹂ステッカーと同様のもの[注釈41]︶を貼り付けており、車内の座席もかなみんが描かれた仕様となっている。しかしながら、﹃かなちゃん号﹄とは違い、コスト削減のためにラッピングで施されている。2019年以降の新デザインでは、ラッピング施工車が2015年標準仕様ノンステップのため、同位置にはベビーカーステッカーの貼り付けがなされており、﹁かなみん﹂ステッカーの貼り付けは一代限りとなった。
﹁調和﹂をデザインテーマとし、これまでの標準色で使用されてきた赤、橙、黄の3色の縦ラインとグラデーションで表現される。デザインを担当したのは、フェラーリのデザインも担当した奥山清行氏。なお、﹁Kanachu﹂のブランドマークは引き続き使用される。2023年度下期から各営業所に配属され、その後車両代替に伴って導入される予定となっている[276]。カラーデザインの刷新は、1949年以来74年ぶりとなる。
YAMATE LINER
茶色の濃淡にロゴが入る。2007年4月に横浜市交通局より移管された舞岡営業所11系統用に登場[141]。後に11系統にはノンステップ車を運用する事になり、それまで11系統で使用していたワンステップ車は3台を除き11系統の運用を外れ、それらの車両は塗色はそのままでロゴのみが'KANACHU-BUS'に書き換えられたものとなっている。なお、同塗装の車両は11系統の他に、60系統、保土ヶ谷駅東口発着の77系統、保06系統でも運用される。
自転車ラックバス
前面がオレンジ、側面がオレンジと白のツートンカラー。﹁BICYCLE CARRIER﹂のロゴも施されている。
この他、﹁湘南めぐみが丘﹂色、町田市民バスまちっこ︵町18・町28系統︶色や、各自治体から受託運行しているコミュニティバスの専用色などがある。
YAMATE LINER(お0116)
自転車ラックバス(ち87)
「湘南めぐみが丘」色(ひ0165)
(旧)まちっこ色(ま131)
愛川町循環バス(あ12)
相模原市コミュニティバスせせらぎ号(も611)
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車体外部の社番表示
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バスロケーションシステム導入車両の車内に貼付されている社番の表示
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携帯バスロケでは車両番号で当該車両の到着予想時刻が参照できる
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同一の社番であっても時を経て同じ番号が異なる車両で蘇ることがある。(や15)
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神奈川中央交通・神奈川中央交通東・神奈川中央交通西の所属車両に付けられている社番は、「平仮名1文字」と「1 - 3桁の数字(営業所別・用途別の固有番号)」の組み合わせにより構成され、平仮名は所属する営業所を示している[277][278]。
- 営業所の略号
- 出典:[277][278]
- 数字の付番ルール
基本的に下記のルールで付番される。下記では前述3社をそれぞれ神奈中・神奈中東・神奈中西と省略して表記し、グループ3社と表記した場合は前述3社を指すものとする。
●1 - 299‥神奈中の一般路線車[277][278]
●ミニバス・コミュニティバス・連節バスなどの特殊な車両は、営業所によっては201、202…などのきりの良い番号から付番される場合もある。
●301 - 499‥グループ3社の特定車︵企業・学校などとの契約輸送用︶[277][278]
●501 - 599‥グループ3社の貸切車︵近距離送迎・イベント輸送などに使用︶[277][278][注釈42]。
●601 - 699‥神奈中東・神奈中西の一般路線車[277][278]
●701 - 899‥グループ3社の高速路線車・空港路線車・深夜急行車[277][278]
なお、基本的に廃車・転出車の社番は代替となる新車・転入車に引き継がれる[278]ほか、転属や用途変更時には改番が発生する[277]。増車の際には欠番となっている番号を振ったり、減車の際にはその番号を欠番にすることがあるほか、減車台数が多い時には番号の整理を行うことがある[注釈43]。
バス車内には、運転席上に表示された正式な社番とは別に、バスロケーションシステム用の﹁車両番号﹂が表示されている。なお、神奈中バスロケーションシステムのモバイル版では、現在乗車しているバスの車両番号を入力する事で、その先の各停留所の到着予想時刻を参照したり、電子メールで送信する事が可能である[279][注釈44]。
特定車・高速車を含み、貸切車・教習車は含まない。
沿線の見どころやバスに関するお得な情報、神奈中の歴史など、地域に密着した情報を提供するフリーペーパーとして2002年(平成14年)に発行開始。バス車内などで配布していたが、情報提供媒体の多様化などを鑑み、一定の役割を終えたとして、2018年春号(No.65)をもって発行終了となった[311]。
2014年(平成26年)3月28日に神奈川中央交通の公式マスコットキャラクターとして「かなみん」が制定された。乗客や地域住民に親しみを持ってもらうことを目的とし、神奈川中央交通の略称「神奈中(かなチュー)」からネズミをモチーフにしたキャラクターとなっている。名前募集には4,842件の応募が寄せられた。
(一)^ ﹃神奈川中央交通五十年史﹄ p.6の表記による。
(二)^ 現代でいうタクシーのこと︵﹃神奈川中央交通五十年史﹄ p.6︶。
(三)^ 鉄道の﹁硬券﹂と同様のもの。
(四)^ 東急バスが1975年に東急コーチを運行開始した際にも、同様の理由で法的には貸切扱いとしていた。
(五)^ 通常運賃を20円から30円に改定する際に通常運賃の2倍に変更したため、深夜運賃は60円のままとなった。
(六)^ 定期券の場合は通常運賃の支払いで利用可能に変更された。
(七)^ 2004年までは食糧管理制度により登録が義務付けられており、米の販売には必ず県知事への登録が必要だったため、車内の売店をスーパーマーケット﹁神奈中ストア﹂の店舗扱いとすることで対応し、車内にも登録証が掲示されていた。
(八)^ 3か月券は3,500円、6か月券は5,900円、1年券は10,800円︵2014年3月31日までは3か月券は3,000円、6か月券は5,000円、1年券は9,000円、2019年9月30日までは3か月券は3,250円、6か月券は5,400円、1年券は9,850円︶
(九)^ 発売金額は大人1,050円、小児530円︵2014年3月31日までは大人1,000円、小児500円、2019年9月30日までは大人1,030円、小児520円︶で、空港リムジンバス、深夜急行バス、一部のコミュニティバスを除く各線で利用可能。当初はスクラッチ式、磁気券の乗車券を発売していた。2011年12月19日からICカード﹁PASMO﹂または﹁Suica﹂を利用した1日フリー乗車券の発売が開始され、ICカードに発売金額がチャージされていれば車内でも乗務員に申告の上で購入できるようになった︵交通系ICカード全国相互利用開始後も発売できるICカードは﹁PASMO﹂または﹁Suica﹂のみとなる︶
(十)^ 例えば、1999年に制定された構造用件では第1軸と第3軸が同一の軌跡を辿る事とされたが、セントロライナーでは第3軸にはステアリング機構がないため、必然的に第1軸と第3軸の軌跡は異なる。
(11)^ 日本の道路運送車両の保安基準第二条において最大車体幅は2.5mと定められている他、第二十六条では定員30名以上の車両には非常口扉の設置が義務付けられている。
(12)^ 但し、在来車の塗り変えは行われなかった。塗り変えるより車両置き換えの方が早く終了するためとされている。
(13)^ 但し、日野中型車を除くU-車は全車改造扱いで平成6年排出ガス規制適合(KC-)車に移行された1997年以降のいすゞ︵富士架装車︶、日産ディーゼル︵現・UDトラックス︶車も改造扱いとなる。
(14)^ 後に再度取り付けられ、現在はカバーで覆われている。
(15)^ abc運行開始当時は京浜急行電鉄。
(16)^ ただし、京急車は田村車庫には乗り入れない。
(17)^ ab運行開始当時は京成電鉄。
(18)^ 2022年10月15日までは、グループ会社の小田急バス町田営業所が隣接していた︵翌16日に新百合ヶ丘営業所に移転︶。
(19)^ 戦時中から1948年8月までは事業を中断していた︵﹃神奈川中央交通六十年史﹄ p.80︶
(20)^ 舞岡営業所は神奈川中央交通の営業所に復帰した。
(21)^ 大和営業所については、この時点では旧藤沢神奈交バスの営業所︵現在の大和営業所鶴間操車所︶のみ神奈川中央交通東に移管された。
(22)^ この際に大和営業所は神奈川中央交通東の営業所に一本化されたが、旧神奈川中央交通の営業所と旧藤沢神奈交バスの営業所︵2017年1月1日付で神奈川中央交通東に移管済︶では営業所の名称が異なる体制となり、前者は単に﹁大和営業所﹂であるが後者は﹁大和営業所鶴間操車所﹂となった。
(23)^ ﹃バスジャパン・ニューハンドブック23﹄ p.61の記述によれば、厚木・横浜・戸塚・舞岡の各営業所に配置されているギャラリーバス﹁カナちゃん号︵初代︶﹂も長尺車だった。
(24)^ ﹃神奈川中央交通七十年史﹄ p.106によると、1985年3月31日の時点で199台、1986年3月31日の時点で205台となっていた。
(25)^ なお、三菱ふそうトラック・バスの本社も同じ神奈川県︵川崎市中原区︶に所在する。
(26)^ ﹃バスジャパン・ハンドブックR・57﹄ p.29の表によれば、2005年10月31日時点での神奈中本体のいすゞ路線車は238台で、このうち茅ヶ崎の配置数は58台、藤沢が39台、大和が32台、綾瀬が47台。中山操車所開設後は大和のいすゞ大型路線車のほとんどが中山操車所配置となった。
(27)^ ﹃バスジャパン・ハンドブックR・57﹄ p.29の表によれば、2005年10月31日時点での神奈中本体の日野路線車は45台で、このうち21台が伊勢原に配置されている。また、﹃バスジャパン・ハンドブックR・57﹄ pp.54-55によれば、1991年から2004年までの日野製大型路線車は伊勢原にしか配置されていない。
(28)^ なお、2004年以降は日産形低公害車の実証実験を厚木営業所が担当することとなり、尿素SCRステーションを設置した関係から日産ディーゼル車が継続的に配備され、2009年2月28日現在で41台在籍、稼動車の30%程度にまで比率が上がっている。
(29)^ 一般乗合可能車両で最も古いのは2002年式。
(30)^ ただし、高速路線車および貸切車︵一部を除く︶では三菱ふそうバス製造に一本化されるまでは当時の三菱自動車工業名古屋製作所大江工場製で導入していた。
(31)^ 特にいすゞ+富士重工の組み合わせは富士重工のバス車体製造撤退時まで取引を続けており、これらは茅ヶ崎営業所に集中的に配備された他、藤沢・綾瀬を除く営業所では新製配置のいすゞ車は原則として富士重工車体であった。ただし、中型車では1999年導入のエルガミオ以降は純正車体で導入されている。
(32)^ ごく一部を除き英語表記は行われていない。回送は英語表記された表示をしており、表記内容は﹁OUT OF SERVICE﹂である。
(33)^ エアロスターではセイフティウィンドーが標準装備されている部分。
(34)^ 運賃収受が前払いか後払いかを表示するためのもので、一部車を除き幕式になっている。ただし、1987年に26台が導入されたギャラリーバス﹁カナちゃん号﹂に限っては設置されていなかった。
(35)^ 三菱ふそう・エアロスター、P-MP218P改。
(36)^ その後、北陸鉄道や京浜急行バスなどでも導入例が見られたが、ニューエアロスターでは設定されなくなった。
(37)^ ごく短期間、現行の塗り分けに決まるまで車体前面上部に赤色が掛かるなど細部に変遷が見られた。
(38)^ ﹁かなちゅう﹂ロゴマークは﹁Kanachu﹂ブランドマークに貼り替えられているが、2003年までに導入された車両の正面の社紋は残し、前面以外に﹁Kanachu﹂ブランドマークを貼り付けしている。
(39)^ 各社の色は、湘南が黄橙、横浜が濃い青、藤沢が淡い青、相模が明るい青緑、津久井が深緑。
(40)^ 神奈中の車両では "Kanagawa Chuo AIR EXPRESS SALOON" となるのに対し、横浜神奈交バスの車両では "Yokohama Kanako Bus AIR EXPRESS SALOON" となっていた。
(41)^ これらの事業者は一般車両にもステッカーが貼られているが、神奈中ではラッピングバスのみの貼り付けとなっている。
(42)^ 一般路線で使用することがある。
(43)^ 2001年の多摩営業所開設時に同所へ転出車が大量発生した際の相模原営業所での事例などが該当する。
(44)^ システム上では神奈中・神奈交委託車の区別はされておらず、神奈交委託車の頭の0番︵や05など︶は入力しなくても表示される。
(45)^ 2017年1月1日に厚木北を分離したため台数が減少︵﹃神奈川中央交通100年史﹄ p.59︶
(46)^ abcde神奈川中央交通と神奈川中央交通東の車両数を合算
(47)^ ab2008年5月16日に伊勢原に統合のため、伊勢原の台数には旧秦野の台数も含む︵﹃神奈川中央交通九十年史﹄ p.97︶
(48)^ 2017年1月1日に秦野を分離したため台数が減少︵﹃神奈川中央交通100年史﹄ p.59︶
(49)^ ab2005年4月16日に相模原に統合のため、相模原の台数には旧津久井の台数も含む︵﹃神奈川中央交通九十年史﹄ p.95︶
(50)^ 2017年1月1日に津久井と橋本を分離したため台数が減少︵﹃神奈川中央交通100年史﹄ p.58︶
(51)^ 1989年3月時点での台数は91台︵﹃神奈川中央交通七十年史﹄ p.111︶。
(52)^ 2001年7月29日開設時点での台数︵﹃神奈川中央交通八十年史﹄ p.75︶。
(53)^ ab2005年4月16日に茅ヶ崎に統合のため、茅ヶ崎の台数には旧藤沢の台数も含む︵﹃神奈川中央交通九十年史﹄ p.95︶
(54)^ 2017年1月1日に藤沢を分離したため台数が減少︵﹃神奈川中央交通100年史﹄ p.58︶
(55)^ abc神奈川中央交通と神奈川中央交通西の車両数を合算
(56)^ 2017年1月1日に相模原より分離
(57)^ 2017年1月1日に伊勢原より分離
(58)^ 1988年12月24日に綾瀬を分離したため台数が減少。1988年3月時点での台数は165台︵﹃神奈川中央交通七十年史﹄ p.101︶。
(59)^ 2017年1月1日に茅ヶ崎より分離
(60)^ 2017年1月1日に中山を分離したため台数が減少︵﹃神奈川中央交通100年史﹄ p.56︶
(61)^ 一部地域で自治体からコミュニティバスを受託運行している。
(62)^ 神奈中タクシーホールディングスとして神奈中ハイヤー・相模中央交通の経営統合を目的として2009年9月に設立。2019年7月に子会社を吸収合併し、現商号に改称。
(63)^ 2019年11月13日から2020年10月31日までの期間、乗合事業として相模大野駅北口~南町田グランベリーパーク駅間を結ぶ路線バスを運行していた時期が存在する。
●飯田辰彦﹁我奮戦せり 神奈中バス黒字始末記﹂﹃旅﹄第726号、日本交通公社出版事業局、1987年9月、104-105頁。
●鈴木敏﹁乗合バスへのカードシステム導入とバス交通活性化について﹂﹃バス・ジャパン﹄第9号、バス・ジャパン刊行会、1988年7月、50-52頁、ISBN 4795277648。
●鈴木文彦﹁深夜バスの発展と現状﹂﹃バス・ジャパン﹄第8号、バス・ジャパン刊行会、1988年4月、42-45頁、ISBN 479527763X。
●鈴木文彦﹁普及の兆しを見せるバスカード その現状と展望﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第2号、ぽると出版、1988年11月、45-48頁、ISBN 4938677024。
●鈴木文彦﹁私の取材メモ 指差喚呼はどこへ﹂﹃鉄道ジャーナル﹄第533号、鉄道ジャーナル社、2011年3月、116頁。
●高橋俊哉﹁深夜バス ハナ金ウォッチング﹂﹃バス・ジャパン﹄第8号、バス・ジャパン刊行会、1988年4月、46-48頁、ISBN 479527763X。
●日本バス友の会、鈴木文彦﹁Bus Corner﹂﹃鉄道ジャーナル﹄第238号、鉄道ジャーナル社、1986年10月、134-137頁。
●日本バス友の会、鈴木文彦﹁BUS CORNER﹂﹃鉄道ジャーナル﹄第512号、鉄道ジャーナル社、2009年6月、143-145頁。
●日本バス友の会、鈴木文彦﹁BUS CORNER﹂﹃鉄道ジャーナル﹄第550号、鉄道ジャーナル社、2012年8月、159-161頁。
●日本バス友の会、鈴木文彦﹁BUS CORNER﹂﹃鉄道ジャーナル﹄第551号、鉄道ジャーナル社、2012年9月、159-161頁。
●盛永伸一﹁富士重工現役車両のスタイリング﹂﹃バス・ジャパン﹄第5号、バス・ジャパン刊行会、1987年6月、5-10頁、ISBN 4795277605。
●﹁神奈川中央交通に聞くバスカード導入の実際﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第2号、ぽると出版、1988年11月、40-44頁、ISBN 4938677024。
●﹁一般低床車の前ステップにリフト機構が付いた﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第16号、ぽると出版、1993年3月、52-53頁、ISBN 4938677164。
●﹁国内バスニュース﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第16号、ぽると出版、1993年3月、94-95頁、ISBN 4938677164。
●﹁国内ニュース﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第30号、ぽると出版、1995年7月、92-97頁、ISBN 493867730X。
●﹁バス事業者訪問69神奈川中央交通﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第68号、ぽると出版、2001年10月、43-66頁、ISBN 4899800681。
●﹁走り出した国内初のノンステップ連節バス 神奈川中央交通の"ツインライナー"﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第89号、ぽると出版、2005年3月、21-25頁、ISBN 4899800894。
●﹁神奈川中央交通のツインライナー第2弾が運行開始﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第106号、ぽると出版、2008年2月、9-15頁、ISBN 9784899801061。
●﹁評価も上々、運行開始から1か月 神奈中のツインライナー第2弾﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第107号、ぽると出版、2008年4月、16-19頁、ISBN 9784899801078。
●﹁国内ニュース﹂﹃バスラマ・インターナショナル﹄第131号、ぽると出版、2012年5月、86-89頁、ISBN 9784988901313。