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{{Infobox 島
|島名=端島
|画像=[[ファイル:Nagasaki Hashima 01.png|300px]]<br />[[File:Hashima Nagasaki Japan.jpg|300px]]
|画像説明=端島(南西側、2009年撮影)
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|地図2=Japan Nagasaki#Japan
}}
'''端島''' [[明治時代]]から[[昭和時代]]にかけて海底[[炭鉱]]によって栄え、日本初の[[鉄筋コンクリート]]造の[[高層]][[集合住宅]]も建造されるなど、[[1960年代]]には[[東京]]以上の[[人口密度]]を有していた。[[1974年]]︵[[昭和]]49年︶の閉山にともな [[2015年]]([[平成]]27年)、[[国際記念物遺跡会議]](イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む「[[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業]]」が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]に登録された<ref>[
== 地理 ==
[[ファイル:Cku-74-20 c45 6 hashima.jpg|thumb|200px|左下が端島、右上が[[中ノ島 (長崎県)|中ノ島]]。閉山の1974年撮影。︵{{国土航空写真}}︶]] 同じく[[高島炭鉱|炭鉱]]で栄えていた'''[[高島 (長崎県長崎市)|高島]]'''の南端からは南西に約2.5[[キロメートル]]<ref name="shimadas" />の距離にあり、[[長崎半島|長崎半島︵野母半島︶]]からは約4.5キロメートル<!-- 上陸時に配布された、長崎市によるパンフレット‥検証可能性に問題があるため出典とはしない -->離れている。 端島と高島の間には[[中ノ島 (長崎県)|中ノ島]]という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には﹁'''三ツ瀬'''﹂という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。 端島は 旧[[高島町 (長崎県)|高島町]]の年間平均気温は15 - 16[[セルシウス度|℃]]<ref name="heicho_2">﹃高島町の足跡﹄、2頁。</ref><ref name="30th_47">﹃高島町政三十年の歩み﹄、47頁。</ref>。平均[[降水量]]は2,000ミリメートル<ref name="heicho_2" />、冬は比較的雨量が多い<ref name="30th_47" />。夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い<ref name="30th_47" />。 31行目:
== 歴史 ==
端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810 - 1889年)、第二期・納屋制度期(1890 - 1914年)、第三期・産業報国期(1914 - 1945年)、第四期・復興 === 第一期・原始的採炭期(1810 - 1889年) ===
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端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する[[高島炭鉱]]とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。それを支える労働者のための福利厚生も急速に整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていた<ref name="seikatsu_126">﹃軍艦島の生活﹄126頁</ref>。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、﹁星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない﹂<ref>﹃軍艦島の生活﹄105頁</ref>との言葉がある。 1916年︵大正5年︶以降から少年および婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される<ref name="seikatsu_126"/>。1939年︵昭和14年︶からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年︵昭和18年︶から中国人捕虜の強制労働が開始された<ref name="katayose">片寄俊秀﹁軍艦島の生活環境﹂</ref>。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという<ref name="katayose" />。戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の[[華人労務者]]やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限︵20年︶が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定した<ref>﹁中国人強制連行訴訟 長崎地裁も賠償認めず 不法行為は認定﹂読売新聞 2007年3月27日 西部夕刊1面。</ref><ref>﹁強制連行、長崎も賠償認めず 地裁判決、時間の壁を理由に﹂朝日新聞 2007年3月27日 西部夕刊11面。</ref>。彼らの証言については、﹃軍艦島に耳を澄ませば 端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記録﹄︵社会評論社。2011年、2016年増補改訂版︶にも記されている。 [[1935年]]︵昭和10年︶[[3月26日]]午後10時頃、第一坑でガス爆発事故が発生。翌27日午後4時までに大小10回の爆発事故が続いたことから救出活動を途中で断念。注水による消火活動が行われた。死者17人、重軽傷者17人<ref>死者・行方不明は十七人、端島坑でガス爆発﹃大阪毎日新聞﹄昭和10年3月28日︵﹃昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年﹄本編p517 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶</ref>。 さらに[[1939年]](昭和12年)に
戦時中の1941年から始まった﹁[[大日本産業報国会|'''産業報国戦士運動''']]﹂の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた[[1941年]]︵昭和16年︶には約41万トンを出炭<ref>﹃軍艦島の遺産﹄51頁。</ref>︵端島の歴史における年間最高出炭︶、1943年には第2立坑より1日に2,062トンを出炭した。この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年 - 1945年の﹃火葬認可証下付申請書﹄によると、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる<ref name="seikatsu_154"/>。事故による死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などだが、日本人の場合は家族で住んでいる者も多かったため、高齢者や衛生状態の悪かった当時の日本のことで幼少者の病死もそれなりにあったのではないかと考えられる。死者が出た他にも、徴兵あるいはケガで働けなくなった等の理由による離島で、補充や入れ替わりがあった可能性も考えれば、どれほど参考となる数字かは疑問だが、1940年の端島の推定人口が3,333人なので [[1945年]]︵昭和20年︶[[6月11日]]にアメリカの潜水艦﹁[[ティランテ (潜水艦)|ティランテ]]﹂が、停泊していた石炭運搬船﹁白寿丸﹂を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは﹁米軍が端島を本物の[[軍艦]]と勘違いして[[魚雷]]を撃ち込んだ﹂という噂話になった<ref>﹃軍艦島の遺産﹄52-55頁。</ref>。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没する。1945年︵昭和20年︶に完成した65号棟︵報国寮︶北棟の防空用[[迷彩|偽装塗装]]にこの時期の記憶が残る。 === 第四期・復興
[[ファイル:端島炭坑の炭坑札.jpg|thumb|300px|労働者に給与として「日本円」の代わりに支払われた、端島の「[[炭鉱札]]」(1961年発行)([[福岡大学]]図書館所蔵)。現金を支払わないことで、会社の運転資金の節約と、労働者の移動(「島抜け」「ケツワリ」「ヤマカエ」)を制約する役割がある<ref>[http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/tankousatu/tankousatu.html 炭鉱札とは] - 福岡大学図書館</ref>。1916年施行の[[工場法 (日本)|工場法]]で禁止されたが、現実には1960年代まで行われた]]
終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減するが︵なお、1945年当時の端島の人口データは、終戦の混乱期ということもあり、国勢調査のデータで1,656人、高島町端島支所のデータで4,022人と大きな乖離があり、あまりあてにならない︶、1945年10月の石炭生産緊急対策要綱による復興資金の供給、さらに1948年に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]によって輸入砂糖の出炭奨励特配が行われ、また復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加する。同時に住宅不足が深刻化する。 87 ⟶ 88行目:
[[1951年]]には坑内でガス突出事故が発生している<ref name="769p" />。
=== 第五期・石炭衰退
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から[[石油]]への移行︵[[エネルギー革命]]︶により衰退。特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、炭鉱の規模が縮小される<ref>角川日本地名大辞典42長崎県︵1987年7月8日発行︶770ページ</ref>。これ以降人口が急速に減少する。しかし端島炭坑は[[1965年]]︵昭和40年︶に三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準となった。さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善した。この時期の端島の住民にアンケート調査を行った[[長崎総合科学大学|長崎造船大学]]の[[片寄俊秀]]によると、住民の充足度も高く、この時期の端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、﹁'''[[シビル・ミニマム]]の完全充足期'''﹂と評される<ref name="seikatsu_131">﹃軍艦島の生活﹄131頁</ref>。 しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、[[1970年]]に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表<ref name="seikatsu_131" />。その後数百万トンの石炭を残したまま<ref>﹁軍艦島あす閉山 エネルギー危機のさ中 数百万トンを残して﹂朝日新聞 1974年1月14日 東京朝刊3面。</ref>[[1974年]]︵昭和49年︶1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、4月20日の連絡船の﹁最終便﹂で退去した総務課のN氏、端島の最後を見届けるべく乗船していた研究者の[[片寄俊秀]]、[[阿久井喜孝]]、片寄の友達である作家の[[小松左京]]らの離島をもって、端島は[[無人島]]となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた<ref>﹃軍艦島の遺産﹄172頁。</ref>。 片寄俊秀は、﹁職住近接﹂ [[ファイル:Gunkanjima-variousviews-2016-1-3.ogv|thumb|thumbtime=2|200px|(動画) 端島の姿(2016年撮影)]]
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また、住人らは戦時中の﹁闇﹂の部分を語ろうとはしなかった。長崎造船大学の教授として、京大の西山夘三に代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて端島の生活を詳細に調べ上げた片寄は、軍艦島の充足した生活と言う﹁光﹂の部分だけでなく、戦時中の﹁圧制ヤマ﹂と呼ばれる奴隷労働や、中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった﹁闇﹂の部分も明らかにし、論文﹃軍艦島の生活環境﹄︵1974年︶としてまとめ上げ、雑誌﹃住宅﹄︵日本住宅協会、1974年5月号-7月号︶に掲載された︵この論文は西山研究室の研究の一環とみなされ、 西山の撮影した閉山前の写真・西山の論文とともに﹃軍艦島の生活<1952/1970>:住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート﹄としてまとめられている︶。しかし、﹁これ以上暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい﹂と言う元住民のまなざしと板挟みとなり、片寄は研究を中断するに至る<ref>﹃﹃軍艦島の生活﹄153頁</ref>。 閉山後より阿久井喜孝の調査によって、 ===世界遺産の登録運動 (2000年代以降)===
2000年代より、[[近代化遺産]]として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。[[廃墟]]ブームの一環でもしばしば話題に上る<ref>﹁﹇アングル﹈軍艦島再び脚光 炭鉱遺産-廃虚ブーム﹂﹃[[読売新聞]]西部本社版﹄2002年9月27日付夕刊、3面。</ref>。無人化以来、建物の崩壊が進んでいる<ref>[http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090512-687307/news/20090512-OYS1T00230.htm 長崎沖の軍艦島、35年ぶり上陸解禁 元島民ら一歩] - YOMIURI ONLINE︵[[読売新聞]]︶ 2009年4月23日付</ref>。ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。 島は[[三菱マテリアル]]が所有していたが、[[2001年]]︵平成13年︶、高島町︵当時︶に無償譲渡された<ref>﹁“軍艦島”町に譲渡 長崎・高島 観光活用へ﹂﹃[[読売新聞]]西部本社版﹄2001年11月23日付朝刊、34面。</ref><ref name="asahi011126">﹁炭鉱跡、産業遺産で再出発 長崎・高島町が﹃軍艦島﹄取得﹂﹃[[朝日新聞]]西部本社版﹄2001年11月26日付朝刊、31面。</ref>。所有権は、[[2005年]]︵平成17年︶に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承された。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。2005年︵平成17年︶[[8月23日]]、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各[[メディア (媒体)|メディア]]で紹介された<ref>﹁軍艦島の姿、2005年夏 長崎市の無人島・端島﹂﹃[[朝日新聞]]西部本社版﹄2005年8月24日付朝刊、1面。</ref><ref>﹁軍艦島‥公開 炭鉱閉山、無人31年-長崎﹂﹃[[毎日新聞]]西部本社版﹄2005年8月24日付朝刊、1面。</ref>。島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で﹁長崎市端島見学施設条例﹂と﹁端島への立ち入りの制限に関する条例﹂が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、[[2009年]]︵平成21年︶4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった︵条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止<ref name="bylawh2044">[http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/reiki/reiki_honbun/q3021102001.html 端島への立ち入りの制限に関する条例︵平成20年長崎市条例第44号︶]</ref>︶。解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸した<ref name="yomiuri090524">[http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/nagasaki/20090524-OYS1T00368.htm 軍艦島 上陸解禁から1か月、来島者の9割﹁満足﹂] - YOMIURI ONLINE︵[[読売新聞]]︶ 2009年5月24日付</ref>。その後も、半年間で34,445人<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/heritaging/nagasaki/20091023/20091023_0001.shtml 上陸解禁から半年 軍艦島観光 上げ潮 来島者 年間予測大きく突破 若者多く、波及効果小粒?] - 西日本新聞朝刊 2009/10/23付</ref>、1年間で59,000人<ref>{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20100429190606/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100422-OYT1T00699.htm|title=廃虚・軍艦島に5万9000人上陸…解禁1年|work=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2010-04-23|accessdate=2010-04-23}}</ref>、3年間で275,000人<ref name="yomiuri120613">{{cite news|url=http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/history/20120613-OYS8T00833.htm|title=軍艦島人気、全国区に|work=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|date=2012-06-13|accessdate=2012-10-05}}</ref>と好調である。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる<ref name="yomiuri090524"/>。軍艦島上陸ツアーによる経済波及効果は65億円に上る<ref name="yomiuri120613" />。 一部で[[世界遺産]]への登録運動が行われ、2006年8月には[[経済産業省]]が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に﹁[[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業# 軍艦島を国の文化財に指定する動きは、2013年11月5日の参議院内閣委員会にて[[秋野公造]]参議院議員が未だ国の文化財ではなかった軍艦島に国の財政支援を求める質疑<ref name="#3">[https://kokkai.ndl.go.jp/
長崎市の協力のもと、立入禁止区域や屋内を含む島内全域を撮影した端島の[[Google ストリートビュー]]が、2013年6月28日に公開された<ref>{{ [[長崎大学]]インフラ長寿命化センターは2009年度より軍艦島の[[3D]]による記録・保存管理に取り組んでおり、2014年には長崎市の委託を受けて、3D[[測域センサ|レーザースキャナー]]・[[全天球カメラ|全方位カメラ]]・[[無人航空機]] === 人口の推移 ===
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== 島内の建築物 ==
[[ファイル:Nagasaki Hashima map ja.png|thumb|300px|端島の地図。紫は炭鉱関連施設 [[ファイル:Hashima apartment building circa 1930.JPG|thumb|300px|1930年代の端島の集合住宅]]
端島に残る[[集合住宅]]の中には、保存運動で話題になった[[同潤会アパート]]より古いものがいくつか含まれている。7階建の[[#30号棟︵グラバーハウス︶|30号棟]]は[[1916年]]︵大正5年︶の建設で、日本初の[[鉄筋コンクリート造]]の高層アパートである<ref>﹃軍艦島の遺産﹄184頁。</ref>︵ただし1916年の竣工時は4階建て︶。 [[#30号棟︵グラバーハウス︶|30号棟]]を皮切りに、長屋を高層化したような[[#日給社宅|日給社宅]]︵16号棟から20号棟、1918年︶など、次々に高層アパートが建設された。[[第二次世界大戦]]前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、[[鉄筋コンクリート造]]の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工の[[#65号棟︵報国寮︶|65号棟]]は端島で最大の集合住宅である。なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたため<ref name="shiryoshu630">﹃軍艦島実測調査資料集 追補版﹄630頁。</ref>であり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は[[木構造 (建築)|木造]]であった<ref name="shiryoshu630" />。 高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ﹁雨でも傘を差さずに島内を歩ける﹂と言われたという。 205 ⟶ 207行目:
| style="background-color:#eef" | RC造3F
| rowspan="2" style="background-color:#e0ffff" | 職員社宅
| {{Display none|/00}}9戸。<br>[[声優]]の[[石森達幸]]が少年時代に居住。
|-
| {{Display none|0}}3号棟
| style="background-color:#eef" | 1959年<br />(昭和34年)
| style="background-color:#eef" | RC造4F
| {{Display none|/0}}20戸。幹部用。内風呂あり︵集合住宅では3号棟のみ︶。<br>[[シンガーソングライター]]の[[岡崎律子]]が少女時代に居住。 |-
| {{Display none|0}}5号棟
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=== 65号棟(報国寮) ===
[[ファイル:Nagasaki Hashima 02-1.png|thumb|200px|左:65号棟(鉱員社宅/屋上幼稚園)、右:70号棟(端島小中学校)、手前:資材倉庫]]
65号棟は[[鉄筋コンクリート造]]の鉱員社宅で、端島で最大のアパートでもある<ref name="kaijo47">﹃軍艦島 : 海上産業都市に住む﹄47頁。</ref>。コの字型をしており、最初に建設された北側の7階建て﹃報国寮﹄は、第二次世界大戦中にも [[1958年]]︵昭和33年︶に完成した南側の棟は﹁新65号﹂と呼ばれていた<ref>﹃軍艦島の遺産﹄94頁。</ref>。端島では最も高い建物︵10階建て︶で、各戸に水洗式のトイレが完備されていた︵北側・東側の棟は共同トイレ︶。 === 世界遺産 ===
端島では、明治期に作られた岸壁と海底坑道のみが、世界文化遺産﹁明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業﹂の一部として、世界遺産のコアゾーン︵推薦資産︶に指定され、保護の義務が課されている。 なお ==== 岸壁 ====
明治時代に建造された、「[[三和土|天川]]工法」と呼ばれる伝統的な石組で組まれた護岸。コンクリートで補強されて現代まで使われているが、波が激しいためコンクリートがし
波が特に激しい外洋に面する北西面は15メートルの高さがあり、さらに波返しもついているが、時化の時はその上に建っている4・5階建ての建物すら乗り越え、上から潮が降る「塩降街」となる
==== 坑道 ====
明治時代に開発された、端島の地下に広がる端島炭坑の坑道。この時代としては世界でも珍しい海底坑道である === その他の建築物 ===
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== 条例 ==
長崎市は﹁長崎市端島見学施設条例﹂で、端島に﹁長崎市端島見学施設﹂を設け、桟橋、見学広場、見学通路を設けると定める<ref name="kengaku">[ また、長崎市は﹁端島への立ち入りの制限に関する条例﹂により安全確保のため、端島の区域のうち、長崎市端島見学施設条例で定められた見学施設の区域以外の区域への立ち入りを市長が特別の理由があると認める者を除いて認めていない<ref>[ == 交通アクセス ==
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=== 国内における世界遺産登録の動き ===
国内では民間による[[世界遺産]]への登録運動が行われ、2006年8月には[[経済産業省]]が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に﹁[[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業# === 韓国による世界遺産登録反対運動 ===
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2015年5月11日に韓国・[[ソウル特別市|ソウル]]で開催された[[日韓議員連盟]]の合同幹事会で﹁明治日本の産業革命遺産﹂の世界文化遺産登録に韓国政府が反対していることについて、政治問題化しないよう韓国側に理解を求め、22日に継続して協議することを確認した<ref>統合ニュース 2015/05/08 18:35 産業革命施設の世界遺産登録問題 日本と22日に協議=韓国[http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2015/05/08/0400000000AJP20150508002900882.HTML]</ref>が、翌日、韓国国会は本会議で、日本政府が﹁明治日本の産業革命遺産﹂の世界文化遺産への登録を推進していることを糾弾する決議を可決、採択した<ref>朝日新聞 2015年5月12日20時24分 韓国の国会、日本の産業革命遺産めぐり糾弾決議を可決[http://www.asahi.com/articles/ASH5D56BKH5DUHBI01B.html]</ref><ref>[http://www.sankei.com/world/news/150518/wor1505180002-n2.html ﹁安倍日本﹂憎し 朴槿恵政権﹁対日外交タスクフォース﹂ 韓国は何をしようとしているのか]産経新聞 2015年5月18日</ref>。2015年5月20日、韓国大統領の[[朴槿恵]]大統領は、ユネスコのボコバ事務局長と会談し、﹁歴史に背を向けたままの世界遺産登録の申請は、国家と国家の不必要な分裂を招くことだ﹂と述べ、登録反対を直接伝えた<ref>[https://archive.is/MHYed 韓国・朴大統領、ユネスコ事務局長に日本“世界遺産”で反対強調]fnn 2015年5月21日</ref>。6月11日には[[尹炳世]]外交部長官が登録阻止のためユネスコ委員国を歴訪した<ref>統合ニュース 2015/06/11 15:51 韓国外交部長官 独・クロアチア訪問=世界遺産で協力要請へ[http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2015/06/11/0400000000AJP20150611002700882.HTML]</ref>。民間では、主要な[[韓国のキリスト教]]の指導者たちが会見を行い、[[日本キリスト教協議会]]に働きかけ﹁日本の帝国支配に関連する世界文化遺産を登録する日本の試みを非難する共同声明﹂と題した日韓の共同声明を発表<ref>[http://www.christiantoday.co.jp/articles/15899/20150423/korea-churches-hashima-world-cultural-heritage.htm ﹁軍艦島﹂などの世界遺産登録に反対 韓国の教会指導者が共同声明 ]クリスチャン・トゥディ 2015年4月23日</ref>。 これに対して、日本の推進派は超党派の世界遺産議連を結成して登録実現に向けて働きかけを強めるよう政府に求める決議を採択した<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20150618k0000m010087000c.html 世界遺産議連‥登録実現へ決議]毎日新聞 2015年6月17日</ref>。この問題について、日本の[[岸田文雄]]と韓国の[[尹炳世]]による外相会談が開かれ、日本が韓国の﹁[[百済考古遺跡|百済歴史遺跡地区]]﹂を世界文化遺産に登録することを支援する代わりに、韓国も﹁明治日本の産業革命遺産﹂の登録を支援することで合意したが、韓国の﹁百済歴史遺跡地区﹂の登録が採決された翌日、韓国は合意を反故にし、﹁明治日本の産業革命遺産﹂の登録に反対を表明<ref>時事通信 2015/07/04-21:50 [http://www.jiji.com/jc/zc?k=201507/2015070400248]</ref><ref>くす玉割れず…地元は困惑 世界遺産の審議先送り[http://www.asahi.com/articles/ASH746QBVH74TIPE03G.html]</ref>。最終的に日本政府は韓国政府に譲歩し、﹁日本が徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる﹂ことを約束し、端島の登録が採決された<ref>時事通信 2015/07/06-00:19 日本政府﹁薄氷決着﹂に安堵=歴史認識にしこり残る-世界遺産[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201507/2015070600005&g=pol]</ref>。 この結果について、韓国は日本が﹁韓国人を強制労役させた事実を認め、韓日和解ムードが形成されるきっかけになった﹂と評価し、両国で韓国人の被害者を慰めて、﹁未来志向の韓日関係﹂を築くように日本に求めている<ref>中央日報 2016年07月18日09時21分 [http://japanese.joins.com/article/347/218347.html]︻コラム︼THAADと軍艦島︵1︶</ref>。 === 韓国による世界遺産撤回運動 ===
2017年7月、軍艦島の案内情報に朝鮮人強制徴用に関する記述がないことを理由に、韓国の[[誠信女子大学校]]教授の[[ソ・ギョンドク|徐敬徳]]らにより、ユネスコに軍艦島を世界遺産撤回するように求める運動が展開され 東京都新宿区に2020年に設置された産業遺産情報センターには寧ろ鉱山労働者が丁寧に扱われたとする文書が展示され、日本政府は端島において朝鮮人の強制労働が行われた事実が分かるような措置を講じるとの約束を破ったとの批判の声があがった。2021年7月、ユネスコ世界遺産委員会は、日本が約束を守らなかったことに遺憾の意を表明する異例の決議案を全会一致で可決した。<ref>{{Cite web |url=https://www.bolnews.com/latest/2022/02/japanese-gold-mine-hides-seedy-sordid-past/ |title=Japanese gold mine hides seedy, sordid past |access-date=2023-12-13 |publisher=BOLS Media}}</ref>
2023年、「犠牲者を記憶にとどめる」コーナーを産業遺産情報センターに新たに設けるなど徴用を巡る展示を充実させた日本の追加の取り組みを評価する新たな決議を、ユネスコは採択した<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20230915/5030018981.html |title=https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20230915/5030018981.html |access-date=2023-12-13 |publisher=NHK}}</ref>。とはいえ、この新たな決議では、日本に韓国を指すとみられる関係国との継続的な対話を促すとともに、今後の取り組みとして新しい証言検討など追加の研究・調査を行い2024年12月1日までにその結果を報告することを求めている<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB150410V10C23A9000000/ |title=ユネスコ、軍艦島の日本対応を承認 21年「不十分」一転 |access-date=2023-12-13 |publisher=日本経済新聞}}</ref>。ともあれ、この変化については、尹錫悦政権下での日韓関係の改善姿勢による韓国側態度の変化<ref name=":0" />や日本側の外交努力の勝利<ref>{{Cite web |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/1dcf0d151e6e88ff084950e64db714d381da8a76 |title=ユネスコ、軍艦島「批判」はほぼ削除…日本の「努力」だけ認める |access-date=2023-12-13 |publisher=LY Corporation(ハンギョレ新聞) |website=Yahoo!ニュース}}</ref>と捉える見解がある。
== 舞台とした作品 ==
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; 映画
:* ﹃緑なき島﹄︵[[1949年]]公開︶の舞台<ref name="shimadas"/><ref>﹃軍艦島の遺産﹄58頁。</ref>{{efn|1955年11月17日に同名のNHK短編映画が放送された。なお、本作品は軍艦島での﹁奴隷労働﹂の傍証として釜山の﹁[[国立日帝強制動員歴史館]]﹂でも展示されたが、実態と異なるとする元島民らからの意見がある<ref>{{Cite web|和書|title=軍艦島元島民がNHK映像に疑義 負のイメージ拡散を懸念|url=https://www.sankei.com/article/20201203-MGJ3PNMQ4FNCZC6QVGM3H5VA5Q/2/|website=産経ニュース|date=2020-12-03|accessdate=2021-06-10}}</ref>。}}。 :* ﹃純﹄︵[[1980年]]公開、[[江藤潤]]主演︶では主人公・純の出身地となっており<ref>﹁{{Kinejun title|19162|純}}﹂</ref>、端島でのシーンもある。 :* ﹃[[冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-]]﹄︵1981年、[[千葉真一]]主演︶ - ビル間をロープで綱渡り・爆破・海中へダイブするなど、クライマックスの中心となる舞台<ref>{{Cite journal |和書 |author = |date = 1981-11-07 |title = 初秋の[[霧ヶ峰|霧ヶ峰高原]]に[[主題歌|テーマ曲]]﹁﹁冒険者たちのメロディー﹂を流して[[ロケーション撮影|ロケ撮影]] |journal = [[冒険者 (アドベンチャー) カミカゼ]] |pages = 12 - 13 |publisher= 東映株式会社映像事業部 |format = [[小冊子|パンフレット]] }}</ref>。 555 ⟶ 561行目:
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:* 『[[進撃の巨人]]』実写映画版での撮影ロケ地の一つとなった。
:* ﹃[[軍艦島 (映画)|軍艦島]]﹄︵2017年公開、[[韓国映画]]︶ - [[日本統治時代の朝鮮]]で軍艦島に強制徴用された400人の朝鮮人が脱走をするというストーリーの娯楽アクション映画<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2016/06/23/0200000000AJP20160623003200882.HTML 韓国映画﹁軍艦島﹂がクランクイン 来年中ごろ公開予定] [[聯合ニュース]]2016年8月13日</ref>。最後に朝鮮人徴用者全員の虐殺計画が立てられたとか、そのために脱走したという事実はなく、﹁軍艦島を世界遺産にする会﹂は﹁端島の歴史を全否定する内容﹂﹁捏造と間違った歴史認識には両国の溝を深めるだけである :* 『[[軍艦少年]]』([[2021年]]公開、[[佐藤寛太]]主演)
; 音楽
:* [[B'z]]﹃[[MY LONELY TOWN]]﹄︵[[2009年]]︶の[[ディスクジャケット]]、[[ミュージック・ビデオ]]撮影のロケ地<ref name="music video"> {{Cite web :* [[KOTOKO]]『[[Light My Fire]]』([[2011年]])、[[ミュージック・ビデオ]]撮影のロケ地<ref>WHV Japan・KOTOKO『Light My Fire』Music Video making(2011-11-16)</ref>。
:* [[ナノ (ミュージシャン)|ナノ]]﹃Rock on.﹄︵[[2014年]]︶、[[ミュージック・ビデオ]]撮影のロケ地<ref> {{Cite web :*[[10神ACTOR]] 『フロンティア』([[2015年]][[12月15日]])、[[ミュージック・ビデオ]]を軍艦島で撮影
:* [[KAT-TUN]]﹃[[UNLOCK (KAT-TUNの曲)#収録曲|GREATEST JOURNEY]]﹄︵[[2016年]]︶、[[ミュージック・ビデオ]]撮影のロケ地<ref>{{Cite web :* [[林原めぐみ]]『[[With you (林原めぐみのアルバム)|With you]]』(2017年)のアルバムジャケット撮影、『青空』(2017年)、ミュージック・ビデオ撮影のロケ地。
:* [[Cres]] 『[[End Time]]』([[2006年]])、ジャケットのモチーフ。音楽ゲーム、[[BMS (音楽ゲーム)|BMS]]の最難関楽曲。<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=9-bLRFOTVQM |title=Cres - End Time |access-date=2013-01-01 |publisher=Youtube(Google)}}</ref>
:* [[BiSH]]『STORY OF DUTY』(2020年)、CODE OF DUTY MOBILEとのタイアップ曲。配信限定ミュージック・ビデオ撮影のロケ地
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; ドラマ
:*[[2000年]]放送の[[日本放送協会|NHK]]制作連続ドラマ﹃[[深く潜れ〜八犬伝2001〜]]﹄の主なロケ地ともなった<ref name="nnp01005" /><ref>﹁哀愁の軍艦島 かつての炭鉱、TVドラマ舞台に︵報!︶﹂﹃[[朝日新聞]]西部本社版﹄2001年3月8日付夕刊、1面。</ref><ref name="nh">[[酒井竜次]]監修・編 ﹃ニッポンの廃墟﹄ インディヴィジョン、2007年、ISBN 9784990371203、212頁。</ref>。 :* 2011年放送の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]制作ドラマ『[[浅見光彦シリーズ]]』の第40弾『棄霊島』の舞台であり、ロケ地。2009年4月に観光客の上陸が解禁されて以降、テレビドラマの撮影が行われたのは初
:* 2011年放送の[[TBSテレビ|TBS]]・[[テレパック]]制作ドラマ『[[西村京太郎]]サスペンス [[探偵 左文字進]]15「長崎・軍艦島の殺意」』の舞台であり、ロケ地。
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; その他テレビ番組
:*[[廃墟の休日]](2015年7月10日 - 2015年9月25日、[[テレビ東京]]︶第一回、第二回、第三回 - 第三回では端島に隣接する[[中ノ島 (長崎県)|中ノ島]]にあったかつての島民たちの憩いの場を訪ねている。 :*[[暗闇三太]]︵2015年7月5日 - 2015年9月27日、[[九州朝日放送]]︶第一話、第四話、第十四話 - 主人公の暗闇三太が人間界に初めて降りてきた場所が端島でありメインの舞台になっている。[[1967年]]制作という設定の白黒アニメのため :*TVアニメ『ケムリクサ』(2019年)制作のためにロケが行われており、主に1話と2話の物語の舞台となっている。
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:*[[桑佳あさ]]『しょうあんと日々。』
:*[[皆川亮二]]『[[D-LIVE!!]]』 - ep38に登場する。
:*[[弘兼憲史]]『[[黄昏流星群]]』 - 「過去からの星還」
:*[[弘兼憲史]]『[[人間交差点]]』 - 「島」
; 写真集
:* [[D'ERLANGER]] 『虚無への供物』(1990年 八曜社) ISBN 978-4827001037
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== 外部リンク ==
* [http://www.gunkanjima-nagasaki.jp/ 軍艦島(端島)]{{リンク切れ|date=2023年3月}} - 長崎市
* [https://www.gunkanjima-museum.jp/ 軍艦島デジタルミュージアム] - 長崎市松が枝町5-6。電鉄「大浦天主堂駅」徒歩1分。
* [http://gunkanjima.hayabusa-studio.com/ 軍艦島を世界遺産にする会] - NPO軍艦島を世界遺産にする会
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{{デフォルトソート:はしま}}
[[Category:長崎市の地理]]
[[Category:長崎県の無人島]]
[[Category:東シナ海の島]]
[[Category:長崎県の観光地]]
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[[Category:日本のゴーストタウン]]
[[Category:近代化遺産]]
[[Category:
[[Category:明治日本の産業革命遺産]]
[[Category:鉱山の世界遺産|炭 はしま]]
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