羽田奉行
江戸幕府が武蔵国荏原郡羽田村に設置した遠国奉行のひとつ
概要
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羽田御備場の設置時期は不詳だが、天保の改革による海防強化策の一環として設置されたとみられている。奉行が執務を行う仮番所、台場、台場で扱う火薬などを保管する仮焔硝蔵︵かりえんしょうぐら︶から成り立っていた。
1843年︵天保14年︶12月、羽田奉行が設置され、西丸小姓組の田中勝行が初代奉行に任じられた。続いて翌1844年︵天保15年︶3月には御徒の窪田鎮勝︵窪田治部右衛門︶が支配組頭︵場所高150俵・役扶持15人扶持、手当金7両・徒組上席︶に任じられたほか、続いて与力︵場所高100俵・役扶持10人扶持、手当金7両︶・同心︵場所高20俵・役扶持2人扶持、手当金8両︶らが任じられた。
ところが、天保14年閏9月に水野忠邦が老中を罷免された影響により、翌天保15年5月には羽田御備場の廃止が決定され、田中は浦賀奉行に、窪田は富士見宝蔵番に転任とされ、与力・同心も大番頭や鉄砲方へ異動することになった。また、羽田御備場は鉄砲方に引き渡された後、10月には明け渡しの手続が完了して正式に廃止された。
職員
編集- 奉行-1名
- 支配組頭-1名
- 与力-3名
- 与力勤方-6名
- 与力見習・同見習勤方-4名
- 同心組頭-10名
- 同心-48名
- 足軽-15名
- 水主頭取-20人
- 足留水主-40名
参考文献
編集- 神谷大介「羽田奉行」「羽田奉行支配組頭」「羽田奉行所」(『江戸幕府大事典』(吉川弘文館、2009年) ISBN 978-4-642-01452-6)