「芦屋河原の合戦」の版間の差分
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永正4年([[1507年]])の[[永正の錯乱]]で[[室町幕府]][[管領]][[細川氏]]の跡目をめぐる内紛がおき([[永正の錯乱#両細川の乱|両細川の乱]])、永正6年([[1509年]])の[[如意ヶ嶽の戦い]]で[[細川高国]]・[[大内義興]]連合軍は勝利し細川氏当主は高国になったが、細川澄元軍は阿波に帰国し再び上京の機会を計画していた。
永正8年︵[[1511年]]︶[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]、鷹尾城の築城をめぐる小規模な戦いがおこる。きっかけは高国が[[被官]]であった[[瓦林正頼]]に鷹尾城築城を命じたことに始まる。同地域は阿波から[[京都]]に向かう進路にあたり、澄元の進路を塞ぐ意味で築城を計画したのであるが、古来より[[西国]]との[[交通]]の要街でもあり、肥沃な[[灘区|灘]]筋を抑える意味でもここに進出したものとも思われている。しかし、同地域にある[[灘五郷]]には[[惣]]と呼ばれる村落自治組織があり、[[権門]]の所領[[荘園 (日本)|荘園]]という事を口実に[[守護]]の命にも従わなかった。誇張された表現も含まれるが灘五郷には[[地侍]]が3千名とも4千名ともいたと記され [[武家]]の封建権力に抵抗していた灘五郷は、鷹尾城の築城に刺激され、灘五郷は多年にわたり不和であった[[本庄村 (兵庫県武庫郡)|本庄]]衆と[[西宮]]衆と同盟を組み鷹尾城に対抗する動きに出る。この動きを察知した正頼は鷹尾城より討手20余人を出し、中心人物を討ち取った。この中心人物は正頼とは同族でありながら澄元方であったと見られる。これが5月1日の話である。この時正頼は、本庄衆に対して高国の命に従わず討手に敵対した処罰として、鷹尾城の外堀を作らせ[[用水]]を樋でかけよように命じる。用水は田畑を耕すもので、これを取り上げられることに納得のいかなかった本庄衆は、[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]に灘五郷衆の応援を得て2000名で攻め寄せた。鷹尾城に詰めていた23名の[[与力]]衆は神水を飲み、主力の本庄衆300名に突入し20余名余りを討ち取ると、本庄衆は敗走しこれを見た他の寄せ手は逃亡してしまった。 32行目:
== 戦いの状況 ==
一方、鷹尾城は[[淡路国]]守護[[細川尚春]]が総大将となり兵庫に上陸との連絡が入ると、正頼は高国に注進、高国は[[馬廻り]]衆として、[[柳本宗雄]]、[[波多野稙通]]、[[能勢頼豊]]、[[荒木大輔 (武将)|荒木大輔]]ら30余名と援軍3000を派兵して芦屋浜に布陣、正頼は鷹尾城を中心に山方を固めた。細川尚春軍には灘五郷の地侍衆が加わり、7月26日戦闘が開始された。高国の援軍は[[芦屋川]]の河原で戦いとなり、正頼は山方で戦闘になったようである。この時の戦闘の様子は 一方、隣国の[[播磨国|播磨]]守護[[赤松義村]]は澄元の側に付いていた。義村の義母[[洞松院]]は[[細川勝元]]の[[娘]]であったことから、義村は澄元に与したのである。また澄元の兄の[[阿波国|阿波]]守護[[細川之持]]は義村の姉婿という縁もあり、高国とは敵対関係にあった。そのような間柄により澄元は援軍を要請、8月上旬に義村は[[御着城]]を出立し[[加古川]]周辺で軍勢を整え、[[大蔵谷駅|大蔵谷]]周辺で尚春・灘五郷敗残軍と合流、[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]に兵庫浦に到着する。この時の総数は2万ほどであった。 [[8月8日 (旧暦)|8月8日]]には鷹尾城を包囲、戦闘は翌[[8月9日 (旧暦)|9日]]より開始されようである。﹁さかしき谷、高き岸ともいわず﹂攻め立てとあり == 戦後の影響 ==
義村・尚春・灘五郷連合軍は、鷹尾城をただちに占領、[[米]]、[[銭]]、兵具を略奪し城に火をかけたようである。この敗戦の様子を聞いた[[三条西実隆]]は、 [[ファイル:船岡山城2.jpg|thumb|船岡山の石標]]
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