「藤原呈子」の版間の差分
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{{別人|藤原定子}}
{{基礎情報 皇后<!--日本の皇后-->
|名 = 藤原 呈子
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|在位期間 = <!--皇后・中宮位-->
|和暦在位期間 =
|皇后 = [[久安]]6年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]([[1150年]]
▲|皇太后 = 保元3年([[1158年]])2月
|太皇太后 =
|女院号 = 九条院▼
|出生日 = [[天承]]元年([[1131年]])
|生地 =
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|陵所 =
|諱 =
|旧名 =
▲|女院号 = 九条院
|諡号 =
|異称
|戒名 =
|幼称 =
|氏族 = [[藤原氏]]([[藤原北家|北家]][[中御門流]])<br>養:藤原氏(北家[[御堂流]])
|父親 = [[藤原伊通]]<br>''養父:[[藤原忠通]]''
|
|配偶者1 = [[近衛天皇]]
▲|入内 = 久安6年([[1150年]])4月21日
|結婚 =
|子女 =
|養子女 =
|女御宣下 = 久安6年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]](1150年[[5月26日]])
|准后 =
▲|女院 = [[仁安 (日本)|仁安]]3年([[1168年]])3月14日
|身位 =
|皇居 =
|宮廷首脳人物 =
|宮廷女房 =
|地位 =
|立后前位階 = [[従三位]]<!--立后前に叙された最高位階-->
|役職 =
|親署 =
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美福門院は[[藤原璋子]]と同じ[[閑院流]]の出身である多子よりも、自らの養女である呈子に親近感を示して早期出産を期待していた。[[仁平]]2年︵[[1152年]]︶10月の懐妊着帯は美福門院の沙汰で行われ、12月に呈子が御産所に退出すると等身御仏5体を造立して安産を祈願している︵﹃[[兵範記]]﹄10月19日条、12月22日条︶。しかし予定日の翌年3月を過ぎても呈子は出産せず、僧侶が連日の祈祷を行うも効果はなく、9月に懐妊は誤りであったことが判明して祈祷は止められた︵﹃兵範記﹄7月30日条、﹃台記﹄9月14日条︶。12月に呈子は御産所から内裏に還啓する︵﹃兵範記﹄12月17日条︶。周囲の期待に促された[[想像妊娠]]だったと思われる。 [[久寿]]2年︵[[1155年]]︶7月、近衛天皇は皇子のないまま崩御した。翌月、呈子は出家する。翌[[保元]]元年︵[[1156年]]︶、菖蒲の節句の日︵5月5日︶、呈子は皇嘉門院とともに哀傷歌を交わして近衛天皇の死を悼んでいる︵﹃[[今鏡]]﹄︶。保元元年︵1156年︶10月、[[藤原忻子]]が中宮になったことから皇后に移り、保元3年︵[[1158年]]︶2月、[[統子内親王]]が皇后になると皇太后に移った。[[仁安 (日本)|仁安]]3年︵[[1168年]]︶3月14日、後白河上皇は[[平滋子]]を皇太后に立てるため、呈子に九条院の女院号を宣下した。この院号宣下について[[九条兼実]]は、呈子が父の忠通の養女だったにも == 脚注 ==
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[[Category:中御門流|ていし]]
[[category:平安時代の后妃後宮]]
[[Category:1131年生]]
[[Category:1176年没]]
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