藤原呈子
1131-1176, 平安時代末期の皇妃、藤原呈子。近衛天皇中宮。院号は九条院。法名は静浄観。勅撰集﹃新古今和歌集﹄に1首入集
藤原 呈子︵ふじわら の ていし︵しめこ︶、天承元年︵1131年︶ - 安元2年9月19日︵1176年10月23日︶︶は平安時代末期の皇妃、女院。第76代近衛天皇中宮。父は藤原伊通、母は藤原顕隆の娘立子。美福門院藤原得子と藤原忠通の養女。院号は九条院。法名静浄観。
久安4年︵1148年︶美福門院養女、同6年︵1150年︶関白藤原忠通養女となる。同年2月従三位、4月に入内・女御の宣旨を受け、6月中宮に冊立される。久寿2年︵1155年︶夫近衛天皇の崩御で出家。保元元年︵1156年︶皇后、同3年︵1158年︶皇太后。仁安3年︵1168年︶院号宣下。安元2年︵1176年︶46歳で崩御。
実父伊通が美福門院の従兄弟にあたる縁で、美福門院の養女となる。また叔母︵伊通妹︶が関白忠通の正室であったことから、忠通の養女として近衛天皇に入内、先に皇后となっていた左大臣頼長の養女多子と並んで中宮に立后した。このことから忠通・頼長兄弟の関係は悪化、忠通は父忠実から義絶されるが、忠通も自邸である近衛殿を御所として皇后多子を天皇と遠ざけるなど、頼長に対抗した。しかし久寿2年︵1155年︶7月に子のないまま近衛天皇が崩御、翌月呈子も出家する。翌年保元の乱の後皇后、2年後皇太后に進み、仁安3年︵1168年︶38歳で院号宣下により九条院と号した。
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