西條八十
日本の詩人、作詞家、仏文学者 (1892 - 1970)
生涯
東京府出身。1898年︵明治31年︶、桜井尋常小学校に入学。松井喜一校長に影響を受ける。旧制早稲田中学︵現早稲田中学校・高等学校︶在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぐ。吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校︵現在の正則学園高等学校︶にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌﹃聖盃﹄(のち﹃仮面﹄と改題)を刊行。三木露風の﹃未来﹄にも同人として参加し、1919年︵大正8年︶に自費出版した第一詩集﹃砂金﹄で象徴詩人としての地位を確立した。後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。
象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき﹃東京行進曲﹄、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした﹃青い山脈﹄、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー﹃蘇州夜曲﹄、古賀政男の故郷風景ともいえる﹃誰か故郷を想わざる﹄﹃ゲイシャ・ワルツ﹄、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作﹃王将﹄等無数のヒットを放った。
また、児童文芸誌﹃赤い鳥﹄などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。
エピソード
●名前は筆名ではなく、本名である。両親は、苦しいことがないようにと、﹁苦﹂に通じる﹁九﹂を抜いた﹁八﹂と﹁十﹂を用いて命名した。
●映画化やドラマ化もされ有名になった森村誠一の﹃人間の証明﹄の中で、﹃ぼくの帽子﹄︵﹃コドモノクニ﹄︶が引用された。
代表作
全集
- 『西條八十全集』(国書刊行会刊)
研究書
- 『アルチュール・ランボオ研究』(1967年)
詩集(象徴詩・純粋詩)
- 『砂金』(1919年)
- 『見知らぬ愛人』(1922年)
- 『美しき喪失』(1929年)
- 『一握の玻璃』(1947年)
詩集(その他)
- 『空の羊』
- 『少女純情詩集』
- 『水色の夢』
訳詩集
- 『白孔雀』(1920年)
童謡
歌謡曲(流行歌)
●﹃東京行進曲﹄
●﹃女給の唄﹄
●﹃東京音頭﹄
●﹃侍ニッポン﹄
●﹃青い山脈﹄
●﹃白鷺三味線﹄
●﹃蘇州夜曲﹄
●﹃旅の夜風﹄
●﹃乙女はいつか星になる﹄
●西條八十の遺作に西田陽一が作曲した1985年発売の乙女隊のデビューシングル。1993年に﹁西条八十生誕100周年記念曲﹂として牧奈一慶が作曲し、飛鳥あおいが歌った別の楽曲もある。
●﹁天國に結ぶ戀﹂
●﹁ルンペン節﹂
の2作は、作詞者が柳水巴になっているが、西條八十の変名である。
小説
1924年︵大正13年)3月﹁少女倶楽部﹂読みきり﹃はかなき誓﹄から、1960年(昭和35年)11月﹁なかよし﹂連載﹃笛をふく影﹄まで、少女雑誌に多くの少女小説を連載し、単行本化され、大人気を博した。
※外部リンク﹁西条八十児童小説リスト﹂参照
校歌
西條八十全集 第10巻(歌謡・民謡3/社歌・校歌)収録の作品として
- 『早稲田中学校・高等学校第二校歌』(西條自身の母校の校歌である)
- 『横浜市立大学校歌』
- 『横浜市立鶴見工業高等学校校歌』
- 『藤沢市立藤沢小学校校歌』
- 『富山県立富山中部高等学校校歌』
- 『茨城県立下館第一高等学校校歌』
- 『富山県立桜井高校』
- 『日出学園(千葉県)園歌』
- 『姫路市立琴丘高等学校校歌』
- 『岡山県立倉敷工業高等学校校歌』
- 『高岡市国吉小学校校歌』
- 『北海道立北海道池田高等学校校歌』
- 『小松島市立小松島中学校校歌』
- 『滋賀県立近江八幡商業高等学校校歌』
- 『兵庫県立加古川西高等学校校歌』
未収録作品としては、
- 『明治大学校歌』(「児玉花外」作詞とされているが、西条の作である)
※外部リンク「西条八十 団体歌リスト」参照
軍歌
伝記
- 吉川潮『流行歌 西條八十物語』(新潮社、2004年) ISBN 4-10-411804-4 第18回尾崎秀樹記念・大衆文学賞(評論・伝記部門)受賞作
- 斎藤 憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝 西條八十 』(岩波書店、2004年) ISBN 4-00-023404-8
- 筒井清忠『西條八十』(中央公論新社中公叢書、2005年) ISBN 4-12-003623-5
- 筒井清忠『西條八十と昭和の時代』(ウェッジ、2005年) ISBN 4-900594-84-9
外部リンク