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[[251年]]、[[王凌|王淩]]が皇帝廃立を目論んでいたことで司馬懿に討伐され、自害に追い込まれた︵[[寿春三叛#王淩の乱|王淩の乱]]︶。郭淮の妻が王淩の妹であったため、妻は罪人として中央に赴くよう要請されてしまった。郭淮の配下や周辺の部族長が、挙って郭淮の下へ押し寄せ助命を嘆願したが、郭淮は聞き入れなかった。妻が雍州を離れることになった際、子供たちが額から血を流すほどに叩頭して請願したため、郭淮はそれを見過ごすに忍びず、妻を取り返した。また、この件を司馬懿に言上し﹁子供らは母親を哀んでおり、もし母親を失えば彼らも自害するでしょう。そして子供らが亡くなれば、私もまたいないことになります。故に妻を取り返してしまいました。これが法上許されないのであれば、私も然るべき罪に服す所存でございます﹂と述べた。司馬懿はその言を受け、彼らの罪を不問とした︵﹃世語﹄︶。 255年死去、享年不明。[[大将軍]]を追贈され、'''貞侯'''と[[諡]]された。子が跡を継いだ。郭淮の一族は、[[西晋|晋]]代にはそれぞれ高官に昇ったという。 == 小説﹃[[三国志演義]]﹄での生涯<ref>{{Cite book|title=三国志演義事典|date=2019年7月20日|year=|publisher=株式会社大修館書店}}</ref> ==<!-- 小説での創作のため、詳細情報が不足しています。 --> 73行目:
=== 討ち死に ===
255年、鉄籠山︵外部リンクなし︶で[[姜維]]に包囲された[[司馬昭]]を救うため出陣し、敵将を捕らえたが、姜維が射った矢に当たって討ち死にした == 参考文献 ==
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