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[[238年]]、蜀の[[廖化]]が守善羌侯の宕蕈を攻撃したため、王贇・游奕に廖化を挟撃させた。郭淮の上奏を受けた[[曹叡]]︵明帝︶は﹁軍隊の配置は分離を避けるもの﹂として急ぎ詔勅を下したが、それが届く前に王贇・游奕は廖化に敗れた︵﹁明帝紀﹂︶。 [[240年]]、蜀の姜維が隴西に侵攻してきたが、これを防いだ。羌族の[[迷当]]を攻撃し、さらに[[氐]]族3000余部を降参させ関中に強制移住させた。その功績で[[左将軍]]に昇進した。[[涼州]]の休屠胡である梁元碧が雍州に帰順したので、郭淮は[[安定郡]]高平に移住させることを要請し、彼らのために西州[[都尉]]の職を設置するよう取り計らった。後に[[前後左右将軍|前将軍]]へ転任となったが、州の宰領は元通り執り行なった。 [[244年]]、[[曹爽]]が蜀征伐の軍を起こすと、郭淮も[[夏侯玄]]の下で先鋒として従軍したが、形勢不利を覚った郭淮はいち早く味方の軍を脱出させたため、大敗させずに済んだ︵[[興勢の役]]︶。帰還後、'''仮節'''された。 61行目:
== 小説『三国志演義』での生涯 ==
﹃[[三国志演義]]﹄<ref>{{Cite book|title=三国志演義事典|date=2019年7月20日|year=|publisher=株式会社[[大修館書店]]}}</ref>では、[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]が領内に侵攻して来ると︵[[街亭の戦い]]︶、[[曹真]]に推挙されて副[[都督]]として祁山諸葛亮に対抗した。 郭淮は曹真の軍師である[[王朗 (曹魏)|王朗]]の死に乗じて蜀軍が[[夜襲]]をに来ることを予測するが、夜襲をして来た蜀軍に敗れた。そのため、態勢が立て直るまで[[西羌|羌族]]に蜀軍を背後を攻撃させることを進言した。 92行目:
{{DEFAULTSORT:かく わい}}
[[Category:魏の人物]]
[[Category:曹操軍の人物]]
[[Category:太原出身の人物]]
[[Category:生年不明]]
[[Category:255年没]]
▲[[Category:魏の人物]]
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