F・スコット・フィッツジェラルド
アメリカの小説家 (1896-1940)
フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド︵Francis Scott Key Fitzgerald, 1896年9月24日 - 1940年12月21日︶は、アメリカの小説家。一般には筆名のF・スコット・フィッツジェラルドとして知られる。1920年代の﹁失われた世代﹂の作家の一人とみなされ、狂騒の﹁ジャズ・エイジ﹂を描いたその作品は後世の多くの作家に影響を与えた。生前に発表した長編小説は4作品にすぎないものの、今日では20世紀のアメリカ文学を代表する小説家の一人としてその名を残している。
F・スコット・フィッツジェラルド F. Scott Fitzgerald | |
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1921年 | |
誕生 |
フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド Francis Scott Key Fitzgerald 1896年9月24日 アメリカ合衆国 ミネソタ州セントポール |
死没 |
1940年12月21日(44歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州ハリウッド |
職業 | 小説家、脚本家 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
活動期間 | 1920年 - 1940年 |
ジャンル | モダニズム文学 |
文学活動 | 失われた世代 |
代表作 | 『グレート・ギャツビー』(1925年) |
デビュー作 | 『楽園のこちら側』(1920年) |
配偶者 | ゼルダ・セイヤー |
パートナー | シーラ・グレアム( - 1940年) |
子供 | フランシス・スコット・フィッツジェラルド |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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署名 | |
ウィキポータル 文学 |
来歴 編集
誕生から 編集
フィッツジェラルドは1896年9月24日、北西部ミネソタ州のセントポール市ローレル街に生まれた。カトリックを信仰する両親は共にアイルランド系の家系であり、父エドワードはメリーランド州モンゴメリー郡ロックヴィルの出身で家具工場を経営していた。母メアリー︵通称モリー︶はセントポールの著名な実業家フィリップ・フランシス・マッキラン︵Philip Francis McQuillan︶の長女[1]であった。名前の由来となったアメリカ国歌の作詞者フランシス・スコット・キーは父方の遠縁にあたる。エドワードとメアリーはフィッツジェラルドが生まれる3か月前に二人の女児を流行病で失っていたため、フィッツジェラルドは一人息子として育てられることとなる。また、1900年に妹が出生するもすぐに死亡している[2]。
1898年に経営していた家具工場が倒産したため、エドワードはP&G社のセールスマンとなり、一家はニューヨーク州バッファローに移り住む。1901年、のちにクリフトン・スプレイグの妻となる妹アナベルが出生[2]。
1902年、ミス・グッドイヤーズ・スクールに入学するも、仕事の都合により一家がニューヨーク州の各地を転々としたため、1903年ホウリー・エンジェル・コンヴェント、1905年ミス・ナーディンズ・アカデミーと転校を繰り返した[2]。
1908年、P&G社を解雇されると、エドワードはセントポールで食料品卸のブローカーを始める。一家はミネソタ州へと戻り、祖母宅で同居を始めた。フィッツジェラルドは地元の学校セントポール・アカデミーに入学した。1909年から校内誌﹁ナウ・アンド・ゼン﹂に﹃レイモンド家証書の謎﹄﹃右ハーフバック補欠選手リード﹄﹃名誉の借り﹄﹃緑色のブラインドのある部屋﹄といった作品の発表を始め、1911年、15歳の時に書いた脚本﹃レイディJの女﹄がミス・エリザベス・マゴフィン主宰の演劇グループより公演された[3]。その後ニュージャージー州のプレップ・スクール、ニューマン・スクールへと入学し1913年、プリンストン大学を受験し、補欠入学した[3]。
大学では、終生の友人であり後に自身の編集者を務めることになるエドマンド・ウィルソンと出会っている。ウィルソンはフィッツジェラルドの1学年上級であった。フィッツジェラルドは大学で引き続き詩作や演劇の脚本を書くなどしていたが、アカデミックな雰囲気に居心地の悪さを感じていたといわれ、1915年には単位不足と病気のため一時大学を休学し、ミネソタへと帰省している。さらに1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると大学を中退し、陸軍へと入隊した。
ゼルダ・セイヤー︵1922年︶
キャンプ・シェリダンでの訓練中、フィッツジェラルドはモントゴメリー・カントリー・クラブにおいてゼルダ・セイヤーと出会った。フィッツジェラルド曰く、ゼルダは﹁アラバマ・ジョージアの2州に並ぶ者無き美女﹂で、2人はすぐに恋に落ちた。
1919年2月フィッツジェラルドが陸軍を除隊すると2人は婚約し、彼はニューヨークで広告代理店に務めコピーライターとして勤務した。しかし彼の生活力に疑問を抱いたゼルダは婚約を解消してしまい、フィツジェラルドは7月に勤務先を退職し、セントポールの両親の家へと戻ることになった。
セントポールでフィッツジェラルドは家の一室にこもり、﹃ロマンティック・エゴティスト﹄の推敲に心血を注いだ。書き上げられた作品は前回と同様にスクリブナーズへと送られ、その価値を認められた。翌1920年3月に﹃楽園のこちら側﹄と改題され出版されると、この作品は高く評価されると同時にベストセラー入りした。4月には再び婚約していたゼルダとニューヨークのセント・パトリック大聖堂で結婚した。1921年には娘のフランセス︵愛称スコティー︶が誕生した。
F・スコット・フィッツジェラルド著、ノーマン・ロックウェル絵﹃ バーニスボブス彼女の髪﹄の(1920年)登場人物がウィジャボードで遊ぶ様子
フラッパーのファッション女優クララ・ボウ
1920年代は間違いなくフィッツジェラルドが最も輝いたときだった。1922年に出版された2作目の長編小説﹃美しく呪われし者﹄は未熟な部分もあった前作に比べ格段の進歩を遂げていた。そして1925年には3作目の長編小説﹃グレート・ギャツビー﹄が出版されている。後世、この作品によってフィッツジェラルドは、1920年代アメリカのいわゆる﹁ジャズ・エイジ﹂や﹁フラッパー﹂の象徴としてのみならず、20世紀アメリカ文学全体を代表する作家の仲間入りを果たした。
しかし発表当時は、批評家の受けは良くても、流行作家が背伸びして書いた文学寄りの作品という程度の受け取られ方で、内容が明快で多くがハッピーエンドであったこれまでの短編と大きく違った重厚なストーリーは、支持層であった若い読者にはあまり歓迎されず、フィッツジェラルドが期待したほどの売上にはならず、彼は落ち込んだという。﹃グレート・ギャツビー﹄は、1930年代には絶版になった時期すらあり、名作として不動の評価を受けることになったのは、フィッツジェラルドの死後10年以上経ってからであった。この頃、執筆の合間をぬってヨーロッパへ旅行している。パリや南仏のリヴィエラでは、アメリカを抜け出してきたアーネスト・ヘミングウェイらと出会っている。
フィッツジェラルドは小説を書くことに関しては真面目な人間であったが、ニューヨークの社交界におけるゼルダとの奔放な生活を満たすほどの収入は得られなかった。そこで彼は、日刊紙や雑誌に短編小説を書きまくり、自身の小説の映画化権を売って生活費を稼ぎ出していた。彼は生涯にわたって金銭的なトラブルに悩まされており、しばしばマクスウェル・パーキンスなどの編集者から原稿料を前借りしていた。
ハリウッドにて︵1937年︶
1930年代後半のフィッツジェラルドは、借金の返済とスコティーの学費を稼ぐためにシナリオライターとして映画会社と契約し、ハリウッドに居住した。ただ、これは脚本書きとしての腕を見込まれたというより、ちょうど映画界が無声映画からトーキーへの移行期で脚本家を大量に必要としていたことに加え、ベストセラー作家としてのかつての名声を買われた部分が大きかったという。彼は仕事の合間をぬって短編小説そしてハリウッドを舞台とする長編小説を書きためていった。
東海岸の療法施設で生活するゼルダとはすでに疎遠になっており、フィッツジェラルドは愛人シーラ・グレアムと生活していた。この時期、彼は自身のことを﹁ハリウッドの雇われ脚本家だ﹂と自嘲していたという。一方ユダヤ系イギリス人のシーラは、名家育ちのゼルダと対照的に孤児院で育ちながらも、美貌と才能を武器にして無一文から成り上り、渡米後はハリウッドスターのゴシップを新聞に執筆していた売れっ子ゴシップコラムニストだった。ゆえにフィッツジェラルドの晩年は、かつてはアメリカの頂点にいたベストセラー作家が、金銭的には恵まれてはいるものの物書きとしてのポジションは底辺であるゴシップコラムニストの愛人シーラに経済的に養われるという情けない状況であった。
フィッツジェラルドと妻ゼルダの墓。手前には﹃グレート・ギャツビー ﹄の一節が刻まれている[4]。
アルコールが手放せず、健康状態が悪化していたフィッツジェラルドは心臓発作を何度か起こした。最後の小説を執筆中の1940年12月21日、再び心臓発作をおこし、グレアムのアパートで死亡した[5]。
その葬儀は少人数でおこなわれた。参列した詩人のドロシー・パーカーは﹃グレート・ギャツビー﹄中のセリフ﹁The poor son of a bitch︵かわいそうな奴だ︶﹂を泣きながら呟いていたといわれる。なおゼルダは参列することはなかった。
フィッツジェラルドの最後の長編は未完成のままに終わった。ウィルソンは彼が書きためていたプロットを整理し、1941年に﹃ラスト・タイクーン﹄として出版した。
ゼルダはノースカロライナ州アシュビルの療養施設に入所していたが、1948年に起きた施設の火事によって亡くなった。ふたりの遺体は現在メリーランド州ロックビルの墓地に埋葬されている。
娘スコティーは作家のほか、ジャーナリストとして﹃ワシントン・ポスト﹄や﹃ザ・ニューヨーカー﹄等で活動し、1986年に64歳で死去した。