コーチシナ

ベトナム南部を指す歴史的呼称

: Cochinchine française/Nam K / Nam B / 


名称

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交趾は元来ベトナム北部の「交趾郡」に由来する古称であったが、フランスが恣意的に使用した名称である。ヨーロッパ各国からはコーチンシナ:Cochin China ないし Cochinchina [ˌkoʊtʃɨnˈtʃaɪnə], :la Cochinchine [la kɔʃɛ̃ʃin])と呼ばれた。

歴史

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コーチシナ戦争

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18581858-186218591861en:Battle of Ky Hoaen:Capture of My Tho

コーチシナ総督府

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61Côn ĐoPoulo Condor[1]18631867西

フランス保護領コーチシナ

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ベトナム宮廷は1874年第2次サイゴン条約でコーチシナ六省に対するフランスの完全な主権を承認し、直轄領としてのコーチシナ植民地が正式に成立する。また1883年癸未条約英語版(アルマン条約)によってアンナンよりビントゥアン省が割譲され、コーチシナに編入されている。

仏領インドシナ

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1887年には新設のインドシナ総督の下で直轄領コーチシナ、保護国アンナン、保護領トンキンを含む仏領インドシナ(インドシナ連邦)が成立した。

コーチシナ蜂起

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1916年コーチシナ蜂起英語版

コーチシナ共和国

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1945年ベトナム八月革命ベトナム民主共和国が成立すると、フランスはコーチシナの権益を維持するため、1946年コーチシナ共和国を樹立してベトナムからの分離を画策した。

だが、1948年ベトナム国樹立の動きが本格化すると、コーチシナ共和国は自治を前提としたベトナム国への統合を決定し、1949年にベトナム国へ併合された。

脚注

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  1. ^ en:Con Dao Prisonがあった。

関連項目

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