パ ン ド ル フ ォ 3 世 ・ マ ラ テ ス タ の 庶 子 と し て ブ レ シ ア に 生 ま れ る 。 母 は ア ン ト ニ ア ・ ダ ・ バ リ ニ ャ ー ニ で あ り 、 同 母 弟 に ﹁ マ ラ テ ス タ ・ ノ ヴ ェ ッ ロ ﹂ と し て 知 ら れ る ド メ ニ コ が い た 。 ま た 、 同 じ く 非 嫡 出 の 異 母 兄 に ガ レ ア ッ ツ ォ ・ ロ ベ ル ト が い た 。
父 の 死 後 、 一 族 の 伝 統 に 従 っ て マ ン ・ ア ッ ト ・ ア ー ム ズ ︵ e n : M a n - a t - a r m s ︶ と し て 13 歳 で 戦 場 に デ ビ ュ ー し 、 リ ミ ニ や チ ェ ゼ ー ナ 、 フ ァ ー ノ な ど の 領 地 を 狙 う ペ ー ザ ロ の 領 主 カ ル ロ 2 世 ・ マ ラ テ ス タ 、 そ し て そ の 同 盟 者 で あ る 教 皇 マ ル テ ィ ヌ ス 5 世 と 戦 っ た 。 こ れ に 勝 利 し た シ ジ ス モ ン ド は 兄 弟 た ち と 共 に 教 皇 の 代 官 に 任 命 さ れ た 。 1 4 3 1 年 に は 再 び ペ ー ザ ロ の マ ラ テ ス タ 家 が 攻 撃 を 仕 掛 け て き た が 、 寡 兵 で こ れ を 撃 退 し て い る 。 そ の 後 す ぐ 兄 が 退 位 し た た め 、 15 歳 で リ ミ ニ の 領 主 と な っ た 。
ガ レ ア ッ ツ ォ ・ マ リ ー ア ・ ス フ ォ ル ツ ァ ︵ 右 ︶ と 共 に 描 か れ た フ レ ス コ 画 ︵ ベ ノ ッ ツ ォ ・ ゴ ッ ツ ォ リ 作 ︶
1 4 3 2 年 に 教 皇 軍 の 指 揮 官 に 就 任 す る と 、 ス ペ イ ン 人 傭 兵 隊 長 S a n t e C i r i l l o を 破 り 、 ま た ア ン ト ニ オ 1 世 ・ オ ル デ ラ フ ィ に よ る フ ォ ル リ 攻 略 ︵ 1 4 3 5 - 3 6 年 ︶ を 阻 止 し た 。 翌 年 に は 教 皇 の 都 市 チ ェ ル ヴ ィ ア を 占 領 し て 破 門 さ れ た シ ジ ス モ ン ド で あ っ た が 、 す ぐ 赦 免 さ れ て 再 び 教 皇 の 軍 勢 を 率 い る こ と に な っ た 。 そ の 後 は フ ラ ン チ ェ ス コ ・ ス フ ォ ル ツ ァ と 共 に ロ マ ー ニ ャ 、 マ ル ケ で 戦 っ た 。
1 4 3 4 年 、 フ ェ ラ ー ラ 侯 ニ ッ コ ロ 3 世 と そ の 2 番 目 の 妻 パ リ シ ー ナ ・ マ ラ テ ス タ の 間 の 娘 で あ る ジ ネ ヴ ラ ・ デ ス テ と 結 婚 し た 。 2 人 の 間 に は 息 子 ガ レ ア ッ ツ ォ ・ ロ ベ ル ト ・ ノ ヴ ェ ッ ロ が 生 ま れ た も の の 1 4 3 8 年 に 夭 折 し 、 1 4 4 0 年 10 月 12 日 に は 妻 ジ ネ ヴ ラ も 没 し た 。 こ の 死 に 関 し て 、 彼 女 が シ ジ ス モ ン ド に よ っ て 毒 殺 さ れ た の で は な い か と い う 噂 が 立 っ て い る [ 1 ] 。 そ の 2 年 後 に フ ラ ン チ ェ ス コ ・ ス フ ォ ル ツ ァ の 非 嫡 出 の 娘 で あ る ポ リ ッ セ ナ と 結 婚 し 、 彼 女 と の 間 に 2 人 の 子 供 を 儲 け た 。 ま ず 1 4 4 2 年 に 息 子 ガ レ ア ッ ツ ォ が 生 ま れ た が 、 生 後 数 か 月 で 亡 く な っ た 。 1 4 4 4 年 に は 娘 ジ ョ ヴ ァ ン ナ が 生 ま れ た 。
こ の 時 期 、 シ ジ ス モ ン ド は 傭 兵 隊 長 ニ ッ コ ロ ・ ピ ッ チ ニ ー ノ と 複 数 回 に わ た っ て 対 戦 し て い る 。 ま ず 、 1 4 3 7 年 に ヴ ェ ネ ツ ィ ア 軍 の 指 揮 官 と し て C a l c i n a r a s u l l ' O g l i o で 対 峙 す る も 敗 北 し た 。 そ の 後 、 ピ ッ チ ニ ー ノ や フ ェ デ リ ー コ ・ ダ ・ モ ン テ フ ェ ル ト ロ 、 マ ラ テ ス タ ・ ノ ヴ ェ ッ ロ が 率 い る 教 皇 軍 と 戦 い 、 モ ン テ ル ロ で 彼 ら を 破 っ た 。 こ の 勝 利 で ペ ー ザ ロ の い く ら か の 領 土 を 得 る こ と に 成 功 し た が 、 の ち に 後 者 は フ ェ デ リ ー コ の 軍 勢 に 敗 れ て い る [ 2 ] 。 1 4 4 5 年 、 シ ジ ス モ ン ド が 自 領 へ の 併 合 を 狙 っ て い た ペ ー ザ ロ を ス フ ォ ル ツ ァ が 購 入 し た こ と で 、 2 人 は 決 定 的 な 敵 対 関 係 に な っ た [ 3 ] 。 そ こ で ス フ ォ ル ツ ァ に 対 抗 す る た め 、 彼 は 教 皇 エ ウ ゲ ニ ウ ス 4 世 、 ミ ラ ノ 公 と 同 盟 を 結 ん だ 。
1 4 4 9 年 、 2 番 目 の 妻 で あ る ポ リ ッ セ ナ が 不 審 死 す る 。 父 の フ ラ ン チ ェ ス コ ・ ス フ ォ ル ツ ァ は 夫 の 手 下 に よ っ て 彼 女 が 溺 死 さ せ ら れ た と 主 張 し た が 、 真 相 は 不 明 で あ る 。 シ ジ ス モ ン ド は 2 人 の 妻 が い た に も か か わ ら ず 、 多 く の 愛 妾 を 持 っ て い た 。 そ の う ち の 1 人 が ヴ ァ ネ ッ タ ・ デ イ ・ ト ス キ で あ り 、 1 4 4 1 年 に は 彼 女 と の 間 に 息 子 ロ ベ ル ト が 生 ま れ た 。 ま た 、 イ ソ ッ タ ・ デ リ ・ ア ッ テ ィ と の 間 に ジ ョ ヴ ァ ン ニ ︵ 夭 折 ︶ 、 マ ル ゲ リ ー タ ︵ カ ル ロ ・ デ ィ ・ フ ォ ル テ ブ ラ ッ チ ョ と 結 婚 ︶ 、 サ ル ス テ ィ オ 、 ア ン ト ニ ア ︵ カ ス テ ィ リ オ ー ネ 領 主 ロ ド ル フ ォ ・ ゴ ン ザ ー ガ と 結 婚 ︶ の 4 人 の 子 供 を 儲 け た 。
1 4 4 9 年 以 降 は ヴ ェ ネ ツ ィ ア 、 フ ィ レ ン ツ ェ 、 シ エ ナ 、 ナ ポ リ 、 ス フ ォ ル ツ ァ 家 な ど の 様 々 な 勢 力 に 仕 え た 。 し か し 、 シ ジ ス モ ン ド が 1 4 5 4 年 の ロ ー デ ィ の 和 か ら 排 除 さ れ る と イ タ リ ア の 列 強 諸 国 は 矛 先 を 彼 に 向 け る よ う に な り 、 そ の 領 地 は ア ラ ゴ ン や ヴ ェ ネ ツ ィ ア 、 教 皇 の 軍 勢 に よ る 侵 攻 を 繰 り 返 し 受 け る こ と に な っ た 。 そ の よ う な 状 況 の 中 、 1 4 5 6 年 に 彼 は 長 年 の 愛 人 で あ る イ ソ ッ タ ・ デ リ ・ ア ッ テ ィ と 結 婚 し 、 彼 女 と の 間 の 子 供 を 嫡 出 と 認 め た 。 こ れ に よ り サ ル ス テ ィ オ が 彼 の 後 継 者 に 定 め ら れ た 。
1 4 6 0 年 12 月 25 日 、 ロ ー マ で シ ジ ス モ ン ド に 対 す る 有 名 な 欠 席 裁 判 が 行 わ れ た 。 フ ェ デ リ ー コ ・ ダ ・ モ ン テ フ ェ ル ト ロ と の 長 き に わ た る 確 執 に 起 因 す る 、 シ エ ナ へ の 背 信 行 為 が そ の 原 因 に な っ た と さ れ る 。 こ の 裁 判 の 中 で 教 皇 ピ ウ ス 2 世 は 彼 を 破 門 し 、 異 教 の 信 者 で あ る と 宣 言 し た 。 ま た 、 息 子 ロ ベ ル ト な ど へ の 近 親 相 姦 、 男 色 の 罪 を 告 発 し た 。 こ れ に よ り 、 シ ジ ス モ ン ド の 名 声 は 以 後 数 世 紀 に わ た っ て 傷 つ け ら れ る こ と に な っ た 。 続 い て 、 彼 を 呪 詛 と 共 に 地 獄 へ c a n o n i z e す る と い う 珍 し い 儀 式 が 行 わ れ た 。
そ し て シ ジ ス モ ン ド の 肖 像 が ロ ー マ で 焼 か れ 、 彼 に 対 す る 事 実 上 の ﹁ 十 字 軍 ﹂ が 開 始 さ れ た 。 そ の 対 マ ラ テ ス タ 包 囲 網 に は 教 皇 、 ナ ポ リ 王 、 ミ ラ ノ 公 、 モ ン テ フ ェ ル ト ロ が 加 わ っ て い た 。 彼 は ナ ポ レ オ ー ネ ・ オ ル シ ー ニ 率 い る 最 初 の 討 伐 軍 を カ ス テ ッ レ オ ー ネ ・ デ ィ ・ ス ア ー ザ で 破 り 、 1 4 6 2 年 に は セ ニ ガ ッ リ ア を 占 領 す る こ と に 成 功 し た が 、 長 年 の ラ イ バ ル で あ る モ ン テ フ ェ ル ト ロ の 到 来 に よ り フ ァ ー ノ へ 退 く こ と を 強 い ら れ た 。 そ し て 1 4 6 2 年 8 月 12 日 、 セ ニ ガ ッ リ ア 近 く の チ ェ ザ ー ノ 川 河 口 で モ ン テ フ ェ ル ト ロ と 戦 っ て 大 敗 し た 。 ヴ ェ ネ ツ ィ ア の 介 入 で 戦 争 は 1 4 6 3 年 に 終 わ り [ 2 ] 、 シ ジ ス モ ン ド は リ ミ ニ と そ の 周 囲 約 8 キ ロ メ ー ト ル 以 外 の す べ て の 領 地 を 失 う こ と に な っ た 。 さ ら に 、 残 っ た 領 地 に つ い て も 彼 の 死 後 は 教 皇 領 に 戻 る と 定 め ら れ た 。
こ の 敗 戦 の 後 、 ヴ ェ ネ ツ ィ ア の 将 軍 と し て ペ ロ ポ ネ ソ ス 半 島 へ 赴 い て 1 4 6 4 年 か ら 1 4 6 6 年 に か け て オ ス マ ン 帝 国 と 戦 っ た 。 こ の 期 間 に ヴ ェ ネ ツ ィ ア は 1 5 0 人 の 兵 士 を リ ミ ニ へ 派 遣 し 、 領 主 不 在 の 土 地 を 守 っ て い た と い う [ 2 ] 。
の ち に 旧 領 の 回 復 を 図 っ て ピ ウ ス 2 世 の 後 継 者 で あ る パ ウ ル ス 2 世 の 暗 殺 を 1 4 6 8 年 に 計 画 し た が 、 怖 気 づ い て リ ミ ニ に 戻 っ た と さ れ る 。 そ し て そ の 数 か 月 後 、 シ ジ ス モ ン ド は 居 城 の カ ス テ ル ・ シ ス モ ン ド で 息 を 引 き 取 っ た 。
彼 の 死 後 、 母 イ ソ ッ タ の 後 見 の も と 嫡 男 サ ル ス テ ィ オ が 即 位 し た 。 し か し 1 年 後 の 1 4 6 9 年 に は 、 シ ジ ス モ ン ド の 庶 子 で 、 父 と 同 様 に 優 秀 な コ ン ド ッ テ ィ エ ー レ で あ っ た ロ ベ ル ト が リ ミ ニ を 掌 握 し た 。
フレスコ画に描かれたシジスモンド(ピエロ・デラ・フランチェスカ作)
1906年、エドワード・ハットンは彼を同情的に描いた歴史小説『シジスモンド・マラテスタ』を発表した。後にこの作品はわずかに修正され、1926年に『The Mastiff of Rimini』として再出版された。
ハットンの小説とCharles Emile Yriarteによる『Un condottiere au XV Siècle』(1882年)は、1923年に出版された詩人エズラ・パウンド の「マラテスタ・キャントウズ」(キャントウズ 8-11篇)の主な出典となった。その中では断片的であるものの、シジスモンドの軍人やパトロンとしてのキャリア、愛人遍歴が賞賛と共に紹介されている。
パウンドに大きく影響された評論家エイドリアン・ストークスは、彼の宮廷で生み出された芸術に関する『The Stones of Rimini』を1934年に発表した。
E・M・フォースター は初期にシジスモンドとプレトン に関する歴史小説の構想を練っていたが、途中で挫折したため出版されることはなかった。のちにフォスターはその原稿をナオミ・ミッチソン に見せている[6] 。
アンリ・ド・モンテルラン による戯曲『マラテスタ』(1946年)はシジスモンドの死とパウルス2世に対する陰謀を主題としている[7] 。
エドワード・ハットンの小説『The Mastiff of Rimini』は、シジスモンドが「リミニの狼」の異名で知られるようになった要因の一つであると考えられている。この渾名が彼の時代に使われた証拠はなく、またインターネットが登場する以前のどの主流な文献にも現れないとする意見もある[8] 。一方で、1969年に出版された美術史家ケネス・クラークの著書『Civilisation』には「リミニの狼」の記述がある[9] 。
(一) ^ こ の 後 も シ ジ ス モ ン ド は エ ス テ 家 ・ 教 皇 と 良 い 関 係 を 保 っ て い る た め 、 噂 は 事 実 無 根 で あ る と 考 え ら れ て い る 。
(二) ^ a b c “ M A L A T E S T A ( d e M a l a t e s t i s ) , S i g i s m o n d o P a n d o l f o ” . D i z i o n a r i o B i o g r a f i c o d e g l i I t a l i a n i . イ タ リ ア 百 科 事 典 . 2 0 1 1 年 4 月 27 日 閲 覧 。
(三) ^ “ ル ネ ッ サ ン ス 期 イ タ リ ア の 傭 兵 隊 長 そ の 実 像 ” . 2 0 2 2 年 8 月 19 日 閲 覧 。
(四) ^ C a t h o l i c E n c y c l o p e d i a N e w A d v e n t
(五) ^ R e n d i n a , p . 1 8 1
(六) ^ M e n t i o n e d i n a 1 9 2 5 l e t t e r t o M i t c h i s o n , q u o t e d i n h e r a u t o b i o g r a p h y Y o u M a y W e l l A s k : A M e m o i r 1 9 2 0 - 1 9 4 0 M i t c h i s o n , N a o m i ( 1 9 8 6 ) . “ 1 1 : M o r g a n C o m e s t o T e a ” . Y o u M a y W e l l A s k : A M e m o i r 1 9 2 0 - 1 9 4 0 . L o n d o n : F o n t a n a P a p e r b a c k s . I S B N 9 7 8 - 0 - 0 0 6 5 4 - 1 9 3 - 6 . https://books.google.com/books?id=Nas5AAAACAAJ&dq
(七) ^ N o r r i s h 1 9 8 8 , p p . 5 3 – 5 4
(八) ^ G . R i m o n d i n i , ' I l l u p o d i R i m i n i ' , i n M . M a s i n i ( e d . ) , S i g i s m o n d o P a n d o l f o M a l a t e s t a s i g n o r e d i R i m i n i ( R i m i n i : P a n d o z z o , 2 0 1 7 ) , p p . 9 9 - 1 0 0 .
(九) ^ " . . . i n t h e n e i g h b o u r i n g s t a t e w a s S i g i s m o n d o M a l a t e s t a , t h e w o l f o f R i m i n i , w h o d i d t h i n g s t h a t e v e n t h e m o s t a d v a n c e d t h e a t r i c a l p r o d u c e r w o u l d h e s i t a t e t o p u t o n t h e s t a g e . " C l a r k , 1 9 6 9 , p . 1 1 2