シャーンタラクシタ
生涯
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ザホル国の王子として生まれ、ジュニャーナガルバについて出家した[1]。
761年に仏教の本格的導入を決めたティソン・デツェン王に招かれて吐蕃に入るが、ポン教徒の抵抗で一旦ネパールに戻る[2]。その後、771年頃に再び吐蕃に入り、パドマサンバヴァ︵蓮華生大師︶と協力して775年にサムイェー寺の定礎を作った[2]。
本堂が完成した779年には、インドのナーランダ僧院から説一切有部の僧を招いて、6人の僧に戒律を授けて教団︵僧伽‥サンガ︶を創設し、同時に訳経事業のためサンスクリット語を教え始めた[2]。また、787年にはサムイェー寺の落慶法要を営み、やがて来るべきサムイェー寺の宗論を予言して没した[2]。
著作
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b “寂護(じゃくご)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月11日閲覧。
- ^ a b c d e f “シャーンタラクシタ(シャーンタラクシタ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月11日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 中観荘厳論における二諦の意味(Internet Archive)